「あ、遠坂くん。この前ちょっと言ったと思うんだけど。今日の相手の子、新人さんだから。優しくしてあげてね」
 アルバイト先のコンビニエンスストアのバックヤードに入るなり、にこにこと店長の川又さんに伝えられ、俺は「はぁ」と曖昧に首を振った。
 そう言われると、新しい子が入るという話を聞いた覚えがあるような。
「遠坂くんの一個下だったかな。高校生の男の子でね。遠坂くんと一緒で十七時二十一時のシフトで入ってもらうことになるから。仲良くしてあげてね」
 小学校の先生のような言い草はどうかと思うが、俺は川又さんが嫌いじゃない。むしろ、わりと好きだ。
 長年培われた俺のヤバいおっさんセンサーが反応しないし、奥さん大好き幼稚園児の娘さん大好き――たまに遊びに来るけど、愛想が良くてめちゃくちゃかわいい――の無害おじさんだし。人生初のアルバイトはここにしようと決めた理由のひとつである。
 まぁ、とんでもないクレーム客の対応を引き受けたあとのしょぼしょぼとした背中はかわいそうなんだけど。
 従業員共用のロッカーから取り出した制服のシャツを被りながら、「はぁ」と無難な相槌を繰り返す。
 ――でも、やっぱり、高校生の初バイトってこのくらいの時期が多いんだな。
 俺も去年の夏休み前に始めたし、なんて。ちょうど一年前の日々を懐かしみつつ、素直でおとなしい子だといいなぁと想像する。あと、ついでに、コミュニケーションがふつうにできるタイプ。
「おつかれさまーっす」
「噂をすれば。瀬尾くん、どうも。おつかれさま。今日もよろしくね」
「あ、ども……」
 と、入口に顔を向けて挨拶をしようとしたところで、俺は固まった。いや、王子じゃん。
 その俺と怪訝な顔の王子を見比べ、川又さんはことりと首を傾げた。川又さんはただのおじさん(推定三十代後半)なのに、異常に仕草がかわいい。
 昼間シフトのおばさま方が「癒しだ」と噂していることも俺は知っている。
「あれ? もしかして知り合いだった? そういや、ふたり、同じ高校だったかな」
 王子はなにも言わない。俺はやむなく川又さんにぎこちない愛想笑いを向けた。
「えっと、弟の友達で」
 数日前にほんの数分喋っただけだが、嘘ではない。
「ああ、なんだ。じゃあ。瀬尾くんも安心だね。よかった、よかった」
「はは、……ですかね」
 王子がなにも言わないので、またしても俺が愛想笑いを返すことになってしまった。
「じゃあ、そういう縁もあるということで。遠坂くん、しっかり面倒見てあげてね。まだ新人さんだから。瀬尾くんも。遠坂くん面倒見良いから。安心してなんでも聞いて教えてもらってね」
「っす。よろしくお願いします」
 川又さんに言われたのでしかたなくとばかりに王子、改め瀬尾くんがぺこりと頭を下げる。
「いや、こちらこそ。……よろしくお願い、します」
 なに敬語で喋ってんだ、俺。内心で自分に突っ込んで、バックヤードにかかっている時計を見上げる。十七時二分前。
「じゃ、俺、レジ代わってきまーす」
「はぁい、よろしくねぇ」
 愛想の良い川又さんの声を背にバックヤードを出れば、ピロンと間抜けな電子音が鳴り響く。
 客のいない店内を通り抜けレジカウンターに近づくと、昼間シフトのおばさまたちがにっこりとほほえんだ。いつもに増して愛想が良い。
 なんかこわと思いつつ、「おつかれさまです」と俺もにこりと笑い返した。おばさまたちに逆らうべからず。かわいがられたほうがもろもろお得。一年間のアルバイトで得た経験則である。
「遠坂くん。もう挨拶した? 新しいバイトの子、すっごくきれいな子よねぇ」
「はは、……ねぇ」
「テレビに出てるアイドルの子みたいじゃない? すっごく愛想も良いし。このあいだ研修で昼間に入ってくれたんだけどね、呑み込みも早いし素直だし、もうかわいくって」
「え?」
「あら、やだ。遠坂くんもかわいいわよ」
 いや、そうじゃなくて。なに、愛想が良いって。なに素直って。俺、今日含めた三回の遭遇で、笑顔とか一回も見てないんですけど。
 混乱しているあいだにピロンと音が鳴り、のしのしと歩いてきた瀬尾くんが「っす」とおばさまたちに頭を下げた。
 ……いや、愛想良いか、これ。
 王子の顔面フィルターが補強効果を生んでいるとしか思えなかったわけだが、おばさまたちはにっこにこなのだった。なにも言えないとはこのことよ。
 もう操作覚えた? わからないことある? 大丈夫? など、など。
 交代時間を五分過ぎてもちやほやと世話を焼いていたおばさま方だったが、川又さんの「新しい子困らせないでよぉ」の泣き声でバックヤードに引き上げてしまった。
 ふたりになった途端に訪れた沈黙に、俺は無意味にカウンター内の整理を始めた。完全に手持無沙汰だし、落ち着かない。どうしたらいいんだ、これ。
「じゃ、おつかれさまー。がんばってねぇ」
 レジの前を通るおばさまたちに愛想笑いを返し、ちらりと瀬尾くんを窺う。
 暇そうに立っているだけなのに妙な雰囲気があるのだから、イケメンとはとんでもない生き物だ。
 あと、背が高い。四階から見たときも思ったけど、本当に高い。日向も無駄に高いけど、瀬尾くんも百八十超えてるんじゃないかな。
 五センチくらい分けてくれないかなと勝手なことを考えていると、めちゃくちゃ面倒くさそうに「なんすか」と瀬尾くんが言った。ちなみに、視線はいっさいこちらを向いていない。
 これのどこが愛想が良いというんだ。愛想が良いというのは、川又さんとか川又さんの奥さんとかなるちゃんのことだろう。衝撃を受けたものの、俺は愛想笑いを刻んだ。
 まぁ、見てたのは事実だし。
「ごめん、なんでも」
「そっすか」
 またしても、視線は一度も動かなかった。
 ……なに、こいつ。
 いや、本当に。愛想笑いの状態で固まりかけたものの、ひっそりと息を吐くことで俺は持ち直した。落ち着け。
 かわいくない。びっくりするくらいかわいくないけど、だが、新人だ。川又さんにも頼まれている。気持ちを切り替え、俺は改めて話しかけた。
「ええと、この時間帯ははじめてなんだよね。レジとかもう大丈夫?」
「研修で教えてもらったんで」
「あ、そう」 
「わかんないことあったら聞くんで、べつに大丈夫っす。気にかけてもらわなくても」
「……あ、そう」
「急にヒスんないでくれたら、それで」
 数日前のやらかしを持ち出され、俺は今度こそ黙り込んだ。
 いや、本当にかわいくないな。日向もかわいくないけど、それでももう少しマシだよ。兄ちゃんって纏わりついてくるだけ。機嫌の良いとき限定だけど。
「あとさぁ」
 ちら、と絶対零度の視線が俺を射る。
「覗き見してたでしょ。俺、そういうのマジ嫌なんで」
「……」
「お友達に余計なこと言われても嫌なんで。俺がバイト入ってきたとか言わないでくださいよ」
「……言わねぇよ」
 かわいくないを通り越して、なんかちょっと腹立ってきたな。愛想笑いが完全に固まったことを自覚する。
 いや、俺も悪かったかもしれないけど。たまたま目に入っただけだし。王子って馬鹿にしたのは野井と犀川だし。……いや、さすがに聞こえてないと思うけど。
「ならいいんすけど。じゃ、俺、チルド出してきまーす」
 するりとレジを離れた背中に、俺は深々と溜息を吐いた。うなだれるようにレジカウンターに両手をつく。
 たしかに、瀬尾くんが女の子に告白されるシーンを見て、いいなと思ったよ。ふつうに生きてるだけで、イケメンには少女漫画展開が待ってるんだなって羨んだよ。認めます。
 でもね、俺が羨ましかったのは、かわいい女の子に夏休み前に告白されるシチュエーションであって、弟の友達が王子とか、その王子とバイト先が被るとか。そういう「なにそれマジでどんな確率の偶然になってんの?」を詰め込んだケータイ小説のヒロインになりたかったわけじゃないんだわ。
 ちなみに、少女漫画、ケータイ小説云々は、日向の彼女の羽純ちゃんから聞いた話だ。夢見がちなところもあるものの、素直な羽純ちゃんはすこぶるかわいい。こいつはこれっぽっちもかわいくないけど。
 ……いや、べつに、どうでもいい。どうでもいいよ、本当に。
 かわいかろうが、かわいくなかろうが。たかだか四時間、バイトが一緒というだけの関係だ。呪文のごとく、自分に言い聞かせる。
 そう、べつに。気にしなければ、人生なんて「どうでもいい」で済むことばかり。
 母さんに、「なんで、あんた、変なところばっかり醒めてんの」と言われる思考回路でもって、俺はどうにか心の平穏を取り戻した。