車庫に自転車を止め、家の鍵を回す。
 屋内のあたたかい空気にほっとして、ドアを見つめたまま俺は深く息を吸った。
 ――大丈夫、大丈夫。だって、よくあることだし。
 ただ、最近は頻度が減っていたから。ひさしぶりで、少しびっくりしただけ。念じる調子で言い聞かせていると、背後で予想外の声がした。
「あ、先輩。おかえり」
「……瀬尾」
 来てたんだ、と呟く。振り返った俺を見て、瀬尾は不思議そうに首を傾げた。
「どうかした? なんか、顔、白いけど」
「あ、……や、ちょっと寒くてさぁ」
 へらりと笑い、いつもどおりを心がけてスニーカーを脱ぐ。
 実は、また変な人に会っちゃってさぁ。なにされたってわけでもないんだけど、ひさしぶりだったから、なんかぞわっときちゃって。
 そうやって笑い話にしたほうがいいのかな、なんて。思考を巡らせるうち、俺は「あれ」とひとつの可能性に気がついた。
 俺に本屋で声をかけた人はおっさんではなかった。同年代の男の人。それでも、好意を感じて気持ち悪く思ったということは――。
 ……瀬尾も気持ち悪いって思うんじゃないかな。
 もし、だけど。最近の俺の思考がバレたら。男の俺が勝手に異常に意識をしている、この感じ。改めて考えると、ふつうにきもいんじゃないだろうか。
 急速に冷えた頭で、本を買ったりする前でよかったと思った。後輩に本をプレゼントすることはふつうでも、渡すときの感情が、きっとふつうにカテゴライズされていない。
 誰だよ、好きにならないことは保証できるって言ったやつ。いや、半年ほど前の俺だけど。
 ぐるぐると考えたまま自分自身に突っ込んで、同時に、もはや瀬尾にはデメリットしかないんじゃないかな、という事実にも気がついた。
 絶対に俺が自分を好きになることはないという安心優先で、周囲にゲイと思われるデメリットを呑んでまで「偽装彼氏しない?」と提案したのだろうに。好きになられちゃってるじゃん、という。
 ――あ、駄目だ、これ。ふつうにめちゃくちゃ恥ずかしい。
「先輩?」
 すぐそばで聞こえた呼びかけに、俺ははっとして顔を上げた。思った以上に近くで視線が合ったことに驚いて、半歩ほど足を引く。
 瀬尾は優しいから。心配して顔を覗き込んだだけだとわかるけど、でも、俺が駄目だ。笑うことができる自信がなくて、隠すように前髪を引っ張る。
「ごめ、なんでも……」
「瀬尾、なにしてんの――って、なんだ。兄ちゃん、帰ってたんだ」
「日向」
 瀬尾の目をまっすぐに見る自信もなくて、居間から出てきた日向に、ちょうどいいと俺は顔を向けた。けれど、理由どおりの情けない表情をしていたのだと思う。目が合った日向が、呆れたように顔をしかめた。
「なに、また、変なおっさんに絡まれたの?」
「いや、べつに、そういうわけじゃ……」
「隠さなくても、顔見たらわかるし。つか、俺もいいかげん恥ずかしいんだけど、それ。どうにかなんないの?」
 いや、その言い方、さすがにきついんだけど。苦笑まじりに首をひねったものの、言い返すことはできなかった。
 だって、友達の前で、兄貴がこんなふうだったら恥ずかしいという気持ちはよくわかる。誤魔化すために、友達の前で強く出たいという気持ちも。
 ――まぁ、でも、俺のほうがもっと恥ずかしいけどな。
 あえて茶化すように、内心で反論をする。
 恥ずかしいに決まってるだろ。ずっと、ずっと、恥ずかしかったから。だから、なんでもない顔で笑って流そうとしてるんだろうが。できてなかったかもしれないけど、それでも。それが「どうにかする」手段だと思っていたから。
「うん。ごめん、ごめん」
 ヒートアップしそうになった胸中に蓋をし、「そうだよな、恥ずかしいよな」と同調するように眉を下げる。
 日向に心配をされたわけでもないから、これが最適。いつもどおりのやりとり。案の定というべきか、日向も苦笑いを浮かべ直した。
「まぁ、いいけど。いつものことだし」
 そう言って、瀬尾に説明するていで日向が続ける。
「瀬尾も気にしなくていいよ、本当。兄ちゃん、昔から変なおっさんに好かれやすくてさ。でも、それだけだから」
 それは、まぁ、その事実を共有した上で、瀬尾が偽装彼氏をしているなんて思わないよな。
 そんなふうに俺も笑って、「ごめん」と瀬尾の横を通り抜け、二階に向かおうとした瞬間。それまで黙っていた瀬尾が口を開いた。
「それだけって。なんで、弟のおまえがその態度なんだよ」
 淡々とした塩対応の声ではない、明確な怒りをはらんだ静かな声に、ぴたりと足が止まる。
「昔からって、この人がもっと小さかったころの話だろ。今も怖いに決まってるけど、そのときなんてもっと怖かったに決まってるだろ、なんで想像できないんだよ」
「いや、……でも」
 そんなに真剣になる話じゃないよねと言わんばかりの戸惑った瞳が、同意を求めるように俺を見る。
 なんでこんな反応なんだろうという戸惑いと、今まで考えたこともなかったことを指摘されたという驚き。読み取ってしまって、俺は場違いに明るい声を出した。居た堪れなかったのだ。
「いいって。俺がそうさせただけだから」
「先輩」
「本当、本当。瀬尾もごめんな」
 それで、事実だ。率先して笑い話に変えていたのは俺で、日向に心配をされないことで自尊心を保っていた。それだけのことで、だから、日向は悪くない。
 咎める意図を持った瀬尾の呼びかけには気がつかないふりで、俺は言い切った。
「大丈夫だから」
 俺に気を使ってくれていることはわかるけど、でも、どうしても恥ずかしいと思ってしまう。おまえにそういうことを言わせている現状も、せっかく心配して言ってくれているのに、恥ずかしいと思う俺自身も。
「本当に気にしなくていいから」
 ふたりに向けて告げて、階段を上る。階下からそれ以上なにかを話す声が聞こえなかったことに安堵して、俺は自室のドアを閉めた。
 リュックを下ろして、深々と溜息を吐く。誰に対する八つ当たりなのかもわからないまま、なんなんだよ、と思った。
 恋って、もっとキラキラしてるものなんじゃないの。
 キラキラとしていて、羨ましくて、俺には縁の遠いもの。あるいは、俺には縁の遠いものに手を伸ばそうとしてしまったから、こんなにも恥ずかしいのだろうか。
 恥ずかしくて、苦しくて。この感情が恋だというのなら、好きなのかもしれないなんて気づかなければよかった。
 脱いだブレザーをハンガーにかけながら、俺はまたひとつ溜息を吐いた。
 これが恋ならヤバすぎる。なんで、みんな、こんなにしんどい思いをしてまで恋をしようとするのだろう。
 初心者すぎるせいなのか、俺には皆目見当がつかなかった。