「駄目だ。やっぱりちょっとふつうに恥ずい」
 空き教室に入って扉を閉めたタイミングで、俺は大袈裟な仕草で顔を覆った。そのままずるずるとしゃがみ込む。
 どんな顔をすればいいのかわからなかったこともそうだけど、笑い話にしたい気持ちが、たぶん、めちゃくちゃ強かった。
 笑い飛ばしてくれないかなぁとの魂胆で、情けない言葉を選ぶ。まぁ、半分以上、本音ではあったんだけど。
「なんか、どんどん恥ずかしいんだけど。どうしようかな、これ」
「いや、だから、恥ずいっていうかさぁ」
 不満そうに反論したくせに、瀬尾はそこで言葉を切った。
「あー……、サボる? なんだったら、俺もサボるけど」
 一転した窺う調子に、笑い飛ばしてもらうことを諦めた心地で笑う。
 教室に戻らなくて済むように気を回してくれたとわかるからだ。本当にいいやつだよなと心底思う。茶化そうと苦心する自分が馬鹿に見えるくらい。
 顔から手を外し、しゃがんだまま瀬尾を見上げる。
「さすがにサボんのはちょっと。それに瀬尾もシフトあるだろ」
「べつにいいよ、日向に頼むから」
「や、でも、本当……」
「行ってくるよ、先輩のクラス。体調悪いって言ったら、さすがに誰も文句言わないと思うけど」
 大丈夫だからという俺の台詞を遮った瀬尾の表情は、やっぱりどこか不機嫌そうで。本気で心配をしているのだと嫌でも理解ができてしまう。
 ……でも、そこまで気にされると、逆にちょっとみじめなんだけどな。
 苦笑いで口を噤む。流れた沈黙をどう受け取ったのか、呆れたような声が言い放った。
「それで文句言うやつなんて、もともと先輩嫌いなんじゃん。気にすることないって」
「ええ……。さすがにちょっとひどくない?」
 そんな踏み絵みたいな。性懲りもなく笑った俺を、瀬尾が一蹴する。
「自分のこと嫌いなやつにまでいい顔する必要ないって言ってんの。なにやってもなんか言われんだから。……まぁ、経験談ってやつだけど」
 ぽそりと付け足されたそれに、俺は少しだけはっとした。どことなく気まずそうな顔を、改めてそっと見つめる。
 本人にその気がなくても、瀬尾は目立つから。野井が王子だなんだとからかうように、あることもないことも言われたことがあるに違いない。
 陰口とか、噂とか、そういうもの。でも、きっと、笑って逃げることは選ばなかったんだろうなと想像する。俺とは違って。うん、と俺は頷いた。
「そうだよな」
「そうだよ。それに、べつに、誰もそんなに気にしてないって」
「……うん」
 それもわかってはいるんだけどなぁ、との本音を呑み込んで、そうしよかっな、と笑う。
 返した了承に、瀬尾はようやくほっとした顔をした。本当に、なんで、そんな顔するかな。呆れ半分で見上げていると、目元が和らいだ。
「じゃあ、行ってくるね」
 気を使っているとわかる、優しい声。気がつかないふりで頷けば、ドアが閉まる。遠ざかる足音は、いつもの瀬尾の足音より、たぶん、少しだけ速い。
 ひとりになった教室で、俺は「あーあ」と声に出して呟いた。すぐ後ろの壁に背中を預け、しゃがんだまま天井を見上げる。
「なにやってんだろ、俺」
 べつに、そこまでの悪気はないのだから。俺が聞いたと知ったところで、「悪い、悪い」と軽いノリで済ませるに違いないのだから。
 俺が傷つく必要はどこにもないはずなのに、瀬尾に無駄な気を使わせてしまった。溜息を吐いて、もう一度ひとりごちる。
「なにやってんだろ、俺」
 なんだか、本当に馬鹿みたいだ。


「べつに、誰もなにも言ってなかったよ」
 空き教室に戻り隣にしゃがんだ瀬尾の第一声に、「そっか」と俺は苦笑まじりに頷いた。
 瀬尾だったからなにも言わなかっただけじゃないかなと疑う気持ちはあったものの、言葉にしたらひがみになりそうだったし、そもそもとして、瀬尾はなにも悪くない。八つ当たりはかわいそうだ。
 まぁ、それはそれとして、櫻井さんは怒ってる気がするけど。クラスの様子を想像していると、瀬尾が思い出した調子で口を開いた。
「あ、でも」
「なに?」
「……や、なんでもない」
「ちょっとやめんなって、そこで。気になるじゃん」
「悪い話じゃないよ、べつに。『えー』って騒いでた連中に、なんか背の高い……、わりとかっこいい人が、そもそもが先輩の好意に甘えすぎって言ってて。いいこと言うじゃんって俺が思っただけ」
「なんで言うのやめんの、それ。っていうか、誰だ。背の高いかっこいいって」
 どう考えても犀川でも野井でもないので――かっこ悪いという意味ではなく、あいつらがそんなことを真面目に言うわけがないという意味だ――、もしかして、辻くんだろうか。
 思い当たったクールな顔に、俺はうつむいた。有難いとは思うけれど、同時にめちゃくちゃ恥ずかしい。
 事前に忠告してくれていたにもかかわらず、大丈夫、大丈夫と軽く流した挙句の当日バックレとか。どう考えてもかっこ悪くないか。
「誰でもいいじゃん」
 拗ねたように響いたそれに、顔を上げる。
「なに、妬いてんの?」
「悪い?」
「え」
「俺、先輩の彼氏だよ」
 真顔で返され、俺はぎこちなく膝に視線を戻した。ちょっと場の雰囲気を変えたくて、からかっただけのつもりだったのに。完全に失敗した感じになっている。
 ……っていうか、これ、からかい返されたってことなのかな。
 でも、それだったら、「そんなわけないじゃん、冗談」ってそろそろ笑ってほしいな。
 そんなことを考えながら、頭の中で、一秒、二秒とカウントをする。五秒になっても瀬尾はなにも言わなくて、俺はうつむいたまま絞り出した。
「恥ずかしい」 
 へらへら笑ってBLカフェの店員をやっていたことも、野井や犀川が馬鹿にしているとわかっても、聞かないふりしか選択できないことも。
 櫻井さんが知っていたこともそうだし、櫻井さんが呼んだ櫻井さんの友達も知っていて、そういう目で見ていたかもしれないこともそうだ。
 それで、今。後始末をぜんぶ瀬尾に押しつけて、縮こまっていることも、もうぜんぶ。ぎゅっと指先を握り、平常を取り繕う。そうするやり方しか知らなかった。
「瀬尾ってさ、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいって、なにが」
「いや、最初にも言ったけど。俺と付き合ってる真似みたいなの。ホモとかそういうふうに誤解されて嫌じゃないのかなーって」
「俺も言ったじゃん。どうでもいいやつにどう思われても、べつにいいって」
「すご」
 なんで瀬尾は割り切ることができるんだろう。俺なんて、わりと常に恥ずかしいのに。……瀬尾と付き合っていると思われることが、ではないけれど。
 誤魔化すように、はは、と笑い、隣に視線を向ける。眉間に刻まれたしわに首を傾げると、瀬尾が溜息を吐いた。その反応に、少しドキリとする。けれど、続いた瀬尾の声は、呆れていただけで優しかった。
「笑い話にしなくていいって言っただろ」
「言ってたね」
 認めて、俺は頷いた。
 彼氏だから、笑い話にしなくていいよ。ちゃんと聞くから。偽装だってわかっていたのに、うれしくて。だから、しっかりと覚えている。
 あ、そっか。瀬尾は、俺の困りごとを正面から受け止めようとしてくれているんだって。
 心配されたいわけではないと思っていたから、そんなふうに感じた自分に驚いたわけだけど、それでも。
「それに、先輩だってさ、このあいだ、助けてくれたじゃん」
 コンビニで、とぽつりとした声が言う。
「あれは……」
 そう言いかけたところで、俺は口を閉ざした。
 あれさ、本当は、瀬尾みたいな純粋な好意じゃなかったんだよ。瀬尾のことも考えてたけど、でも、もっと利己的なことも考えた。俺の過去を勝手に重ねて、おまけに「役に立つでしょ」と証明したい意図もあった。ほら、偽装彼氏のメリットあるよって。
 ――言えるわけないよな、そんなこと。
 冷たくなった指先を、さらにぎゅっと握り込む。知って、嫌われたくなかった。
 誰にも嫌われたくない思いが強いことは、自覚している。だから、必死に空気を読んで、俺はへらへらと振る舞う。それでどうにかなってくれと願っている。でも、瀬尾に嫌われることは、誰にもの誰よりも一番に怖い気がした。
「ねぇ」
 呼びかけに、ぎこちなく顔を上げる。
「先輩にとっての俺って、弟の友達?」
「……え」
「それとも、バイト先の後輩?」
 頭がパンクしたみたいになって、なにも言葉にならなかった。
 なんでそんなことを聞くのだろうという疑問を押しのけ、どうにかゆっくりと瀬尾のことを考える。瀬尾は、弟の友達で、バイト先の後輩で、それで、すごくいいやつだ。
 俺と似ているところもあると思っていたけれど、ぜんぜん違う。思い浮かんだそれに、心の中で少しだけ自嘲する。でも、事実だった。どれほど他人の好意の押し付けにうんざりとしていても、瀬尾は逃げない。向き合おうとする心を持っている。
 まっすぐに誰かを心配することができるし、純粋な好意で助けることもできる。自分をしっかりと持っている強さ。言葉にできるやさしさ。そういったひとつひとつが、すごく、すごく、俺には眩しかった。
 そりゃ、モテるよ。かっこよくて、優しくて、自分だけ特別みたいな顔を向けられたら、勘違いしたくなる。
 ぎこちないだろう表情を隠すために前髪を引っ張って、俺は答えた。なんでもない声になっていたらいいな、と思う。俺のために。
「バイト先の後輩で、友達だったらいいなって思ってる」
「ふぅん」
 よくわからない調子で頷いた瀬尾が、「そっか」と呟いた。
「それだけ?」
 少しの間を置いて繰り返された質問に、なんとかほほえむ。心の中はぐちゃぐちゃだったけれど。だから、笑えていたらいいと願う。切実に。
「それだけだよ」
 でも、なんだよ、それだけって。俺は胸中で瀬尾をなじった。
 バイト先の後輩で、日向の友達で、契約した偽装彼氏で。俺自身の友達でもあったらいいなと思うようなやつで、でも、それだけだろ。それ以外って、なにがあるんだよ。
 本当に頼むから、勘違いさせるようなことを言わないでほしい。こんなの、おまえがが嫌だって言った、「ちょっと一緒にいたら、すぐ好きになる女子」そのものじゃん。