「めちゃくちゃ疲れた……」
がらんとした空き教室で、机にうなだれて深々と溜息を吐いた俺に、「だろうね」と瀬尾はあっさりと笑った。
「先輩、ずっと愛想笑いだったもんね」
「え」
予想外の台詞に、ぱっと顔を上げる。机を挟んで座っていた瀬尾に向かい、俺は恐る恐る問いかけた。
「そんなにあからさまだった、俺?」
教室に入ってすぐに瀬尾が開けた窓からは、随分と涼しくなった風に乗ってグラウンドの声が入り込んでいる。
さざ波に似た笑い声に、そういえば、お笑いのステージをやってるんだっけと思い出す。見に行ったりしなくてよかったのかな、と。いまさらなことを考えていると、なにも気にしない調子で瀬尾が首を振った。
シフトが終わるなり、「ちょっと人が少ないとこで休憩したいかも」と泣き言をこぼした俺に、「じゃあ、ひさしぶりにあそこ行こうよ」と。よく昼休みを過ごした空き教室への移動を提案したときと同じそれ。
「俺はわかったけど。でも、べつに、いいんじゃない? あからさまでも」
「いや、だって、嫌々やってんの丸わかりって、さすがに感じ悪くない? ラストもシフト入ってんのに」
「そういうことばっかり気にしてるから、愛想笑いになるんでしょ」
「それは、……まぁ、そうなんだけど」
でも、だって、気になるし。もごもごと言い募った俺に、瀬尾がまたひとつ笑った。
「なんていうか、人が良いよね、先輩は」
いつも瀬尾が座る、教室の後ろから二番目の窓際。その前が、俺。秋の風が揺らす瀬尾の横顔から、俺はなんとなく視線を外した。
呆れたようでいて、しかたないと言わんばかりの甘さがにじんでいたせいかもしれない。瀬尾にとってはふつうの態度だったとしても、慣れないなと思う。
「……そんなことはないと思うけど」
膝を見つめたまま呟けば、また少し瀬尾が笑う気配がした。
「まぁ、でも、あんな空間にいたら疲れると思うよ。五分くらい目ぇ閉じて休んだら?」
「うん」
「寝たかったら寝てもいいけど。ここにいるし、俺」
いや、それ、どう考えても、人が良いのはおまえだろ。呆れたものの、言葉にする気は起きなくて。代わりに、俺は苦笑を落とした。
「ありがと。さすがに寝はしないけど、でも、じゃあ、五分」
「うん」
「それで、そうしたら回ろっか」
「大丈夫?」
「うん」
うつむいたままでも、飄々とした問いかけの裏側で、言葉のとおり心配しているとわかった。だって、瀬尾はそういうやつだ。人が良くて、面倒見が良くて、優しいいいやつ。
「俺も回りたいし」
うん、という相槌を最後に声が途切れる。目を閉じると、グラウンドから届く声がいっそう大きくなった気がした。
気持ちの良い季節だよなぁと心地良さに浸った正にそのとき。耳に飛び込んだ聞き覚えのありすぎる声に、俺はぎょっと窓を振り返った。
「え、なに、今の」
日向と羽純ちゃんじゃん、絶対。窓から身を乗り出して半ば呆然とひとりごちた俺に、ああ、と瀬尾が首肯する。まったく頓着しない様子だった。
「なんか出るって言ってたよ。お笑いコンテスト」
「……マジで?」
「マジだから聞こえてるんだと思うけど。見に行く?」
とんでもない提案に、ふるふると首を横に振り、窓枠から腕を離す。共感性羞恥で死ぬ未来しか予想できないと俺は座り直した。
「無理。いい。っつか、なにやってんの、あいつ。べつにいいけど」
べつにいいけど、恐ろしい度胸ではある。ドン引いた俺の反応と裏腹に、瀬尾はどこか楽しげだった。「いいじゃん」と目を細める。
「なんか楽しそうで」
「ええ、……まぁ、楽しそうかもしれないけど」
「前はぜんぜん思わなかったけど、最近、たまに、日向と多野見てると、ああいうのもいいかなって思うんだよね、俺」
「ああいうのって、瀬尾もああいうことしたいってこと?」
「じゃないけど。ふつうに好きと好きで楽しそうじゃん」
窓の向こう――ステージのふたりは豆粒みたいな大きさだし、声は聞こえても、なにを言っているのかまでは聞き取れないんだけど――を、瀬尾はほほえましそうに見つめている。
その横顔から視線を外し、誤魔化すように俺もグラウンドを見た。盛り上がっているらしい空気を感じながら、ふぅん、と呟く。
でも、そっか。やっぱり、瀬尾も彼女欲しいんだ。いらないって言っていたくせに。思ったものの、俺はすぐに思い直した。
そうじゃなくて、あのショートカットの子と仲良くなったから、感じ方が変わったってことだよな。ぎこちなくならないように意識して、問いかける。
「あの、さ」
「ん? なに?」
「あ、……えっと。日向と羽純ちゃんの声で目ぇ覚めたし、休憩もういいよ。ありがとね。どっか回りたいとこある?」
瀬尾と目が合った瞬間、「ほかに一緒に回りたい子いたんじゃないの」という質問は喉の奥に立ち消えてしまった。
明るい声を出してみたものの、女々しくなったかもしれない。「クラスの子と仲良く準備をして時間をつぶしたら」というアドバイスも、本音のつもりだったのに。
バレないといいなぁとひっそりと願っていると、瀬尾が問い返した。
「先輩は行きたいとこあるの?」
「んー……、去年も適当にぶらぶらしてただけだし。行きたいとこがあるわけじゃないんだけど」
ポケットに突っ込んでいたパンフレットを取り出して机に広げると、ごく当然と瀬尾が覗き込む。至近距離でうつむいた顔に、俺の目はおのずと吸いついた。
――美形って、ガチで睫が影つくるんだ。
しかも、ぜんぜんケバくなくて、シンプルに美しいっていう。ヤバいな。じっと凝視していると、目線を上げた瀬尾と再びばちりと目が合った。
「なに、さっきから?」
「ぇ、いや、えー……と」
怪訝な瞳に盛大にどもったあと、取り繕うようにへらりと笑い、「そうだな」とパンフレットに視線を落とす。
「どこがいいかな。とくに希望ないなら、近いとこから順々に回る?」
「ん。じゃあ、そうする」
「え、いや、したいことあったら言ってね? ほら、瀬尾、はじめてなんだし。ないの? 楽しみにしてたとことか」
「してたよ」
「え、じゃあ、それ……」
「だから、今。先輩とデート満喫してる」
それは、もう、にっこりと。きれいにほほえんだ瀬尾の顔面に負け、俺の視線は三度パンフレットに舞い戻った。消え入りそうな声でどうにからしいことを口にする。
「いや、それ、ふたりきりのときに言う必要ないんじゃない?」
フリなんだから。当然のはずの俺の指摘に、「そうかな」と飄々とした態度で瀬尾が首を傾げる。たったそれだけの仕草でさえ、漫画のワンシーンみたいに様になるのだから、美形ってマジで怖いな、と俺は思った。
がらんとした空き教室で、机にうなだれて深々と溜息を吐いた俺に、「だろうね」と瀬尾はあっさりと笑った。
「先輩、ずっと愛想笑いだったもんね」
「え」
予想外の台詞に、ぱっと顔を上げる。机を挟んで座っていた瀬尾に向かい、俺は恐る恐る問いかけた。
「そんなにあからさまだった、俺?」
教室に入ってすぐに瀬尾が開けた窓からは、随分と涼しくなった風に乗ってグラウンドの声が入り込んでいる。
さざ波に似た笑い声に、そういえば、お笑いのステージをやってるんだっけと思い出す。見に行ったりしなくてよかったのかな、と。いまさらなことを考えていると、なにも気にしない調子で瀬尾が首を振った。
シフトが終わるなり、「ちょっと人が少ないとこで休憩したいかも」と泣き言をこぼした俺に、「じゃあ、ひさしぶりにあそこ行こうよ」と。よく昼休みを過ごした空き教室への移動を提案したときと同じそれ。
「俺はわかったけど。でも、べつに、いいんじゃない? あからさまでも」
「いや、だって、嫌々やってんの丸わかりって、さすがに感じ悪くない? ラストもシフト入ってんのに」
「そういうことばっかり気にしてるから、愛想笑いになるんでしょ」
「それは、……まぁ、そうなんだけど」
でも、だって、気になるし。もごもごと言い募った俺に、瀬尾がまたひとつ笑った。
「なんていうか、人が良いよね、先輩は」
いつも瀬尾が座る、教室の後ろから二番目の窓際。その前が、俺。秋の風が揺らす瀬尾の横顔から、俺はなんとなく視線を外した。
呆れたようでいて、しかたないと言わんばかりの甘さがにじんでいたせいかもしれない。瀬尾にとってはふつうの態度だったとしても、慣れないなと思う。
「……そんなことはないと思うけど」
膝を見つめたまま呟けば、また少し瀬尾が笑う気配がした。
「まぁ、でも、あんな空間にいたら疲れると思うよ。五分くらい目ぇ閉じて休んだら?」
「うん」
「寝たかったら寝てもいいけど。ここにいるし、俺」
いや、それ、どう考えても、人が良いのはおまえだろ。呆れたものの、言葉にする気は起きなくて。代わりに、俺は苦笑を落とした。
「ありがと。さすがに寝はしないけど、でも、じゃあ、五分」
「うん」
「それで、そうしたら回ろっか」
「大丈夫?」
「うん」
うつむいたままでも、飄々とした問いかけの裏側で、言葉のとおり心配しているとわかった。だって、瀬尾はそういうやつだ。人が良くて、面倒見が良くて、優しいいいやつ。
「俺も回りたいし」
うん、という相槌を最後に声が途切れる。目を閉じると、グラウンドから届く声がいっそう大きくなった気がした。
気持ちの良い季節だよなぁと心地良さに浸った正にそのとき。耳に飛び込んだ聞き覚えのありすぎる声に、俺はぎょっと窓を振り返った。
「え、なに、今の」
日向と羽純ちゃんじゃん、絶対。窓から身を乗り出して半ば呆然とひとりごちた俺に、ああ、と瀬尾が首肯する。まったく頓着しない様子だった。
「なんか出るって言ってたよ。お笑いコンテスト」
「……マジで?」
「マジだから聞こえてるんだと思うけど。見に行く?」
とんでもない提案に、ふるふると首を横に振り、窓枠から腕を離す。共感性羞恥で死ぬ未来しか予想できないと俺は座り直した。
「無理。いい。っつか、なにやってんの、あいつ。べつにいいけど」
べつにいいけど、恐ろしい度胸ではある。ドン引いた俺の反応と裏腹に、瀬尾はどこか楽しげだった。「いいじゃん」と目を細める。
「なんか楽しそうで」
「ええ、……まぁ、楽しそうかもしれないけど」
「前はぜんぜん思わなかったけど、最近、たまに、日向と多野見てると、ああいうのもいいかなって思うんだよね、俺」
「ああいうのって、瀬尾もああいうことしたいってこと?」
「じゃないけど。ふつうに好きと好きで楽しそうじゃん」
窓の向こう――ステージのふたりは豆粒みたいな大きさだし、声は聞こえても、なにを言っているのかまでは聞き取れないんだけど――を、瀬尾はほほえましそうに見つめている。
その横顔から視線を外し、誤魔化すように俺もグラウンドを見た。盛り上がっているらしい空気を感じながら、ふぅん、と呟く。
でも、そっか。やっぱり、瀬尾も彼女欲しいんだ。いらないって言っていたくせに。思ったものの、俺はすぐに思い直した。
そうじゃなくて、あのショートカットの子と仲良くなったから、感じ方が変わったってことだよな。ぎこちなくならないように意識して、問いかける。
「あの、さ」
「ん? なに?」
「あ、……えっと。日向と羽純ちゃんの声で目ぇ覚めたし、休憩もういいよ。ありがとね。どっか回りたいとこある?」
瀬尾と目が合った瞬間、「ほかに一緒に回りたい子いたんじゃないの」という質問は喉の奥に立ち消えてしまった。
明るい声を出してみたものの、女々しくなったかもしれない。「クラスの子と仲良く準備をして時間をつぶしたら」というアドバイスも、本音のつもりだったのに。
バレないといいなぁとひっそりと願っていると、瀬尾が問い返した。
「先輩は行きたいとこあるの?」
「んー……、去年も適当にぶらぶらしてただけだし。行きたいとこがあるわけじゃないんだけど」
ポケットに突っ込んでいたパンフレットを取り出して机に広げると、ごく当然と瀬尾が覗き込む。至近距離でうつむいた顔に、俺の目はおのずと吸いついた。
――美形って、ガチで睫が影つくるんだ。
しかも、ぜんぜんケバくなくて、シンプルに美しいっていう。ヤバいな。じっと凝視していると、目線を上げた瀬尾と再びばちりと目が合った。
「なに、さっきから?」
「ぇ、いや、えー……と」
怪訝な瞳に盛大にどもったあと、取り繕うようにへらりと笑い、「そうだな」とパンフレットに視線を落とす。
「どこがいいかな。とくに希望ないなら、近いとこから順々に回る?」
「ん。じゃあ、そうする」
「え、いや、したいことあったら言ってね? ほら、瀬尾、はじめてなんだし。ないの? 楽しみにしてたとことか」
「してたよ」
「え、じゃあ、それ……」
「だから、今。先輩とデート満喫してる」
それは、もう、にっこりと。きれいにほほえんだ瀬尾の顔面に負け、俺の視線は三度パンフレットに舞い戻った。消え入りそうな声でどうにからしいことを口にする。
「いや、それ、ふたりきりのときに言う必要ないんじゃない?」
フリなんだから。当然のはずの俺の指摘に、「そうかな」と飄々とした態度で瀬尾が首を傾げる。たったそれだけの仕草でさえ、漫画のワンシーンみたいに様になるのだから、美形ってマジで怖いな、と俺は思った。