瀬尾くんの彼氏(偽装)の半年間

 瀬尾がはじめて教室に顔を出した日は大騒ぎだったものの、週に一、二度の頻度で顔を出す日々が続くこと、二ヶ月弱。
 どうにか日常風景と化したはずだった訪問は、朝に顔を出すというイレギュラーひとつであっさりと注目の的に舞い戻った。
「べつによかったのに」
 興味津々の視線を背中に感じつつ、俺は教室のドア付近で傘を受け取った。ひさしぶりに感じる居心地の悪さで、ついつい苦笑いになる。
「朝一で持ってきてくれなくても。っていうか、日向で本当によかったんだけど。それか次のバイトでも」
「まぁ、そうだけど」
「けど? もしかして、瀬尾、借りたもんずっと持ってんの苦手な人?」
 なにを隠そう、俺もそのタイプなので気持ちは大変よくわかる。ちなみにだけど、真逆のタイプの日向は常に借りパク一歩手前のチキンレースだ。「あれ、これ、兄ちゃんのだったっけ?」という台詞を、俺が何度聞いたことか。
 瀬尾相手にはしてないといいんだけど、と。少し不安を覚えていると、ぷはっと瀬尾が笑った。クールが代名詞の王子の笑顔に、わかりやすく背後がざわつく。
 わかる。基本が塩対応のやつがこういう笑い方をすると、くるものがあるよね。俺は最近大型犬と思うことで耐えているので、免疫をつけたい人は真似をしたらいいと思う。
「ううん、たまには朝にも先輩の顔見ようと思って」
「あー……、うん」
 そういう誤解を招く言い方はやめようね、と告げようとした台詞を、俺はもごもごと呑み込んだ。そういう誤解を招きたい関係だったと思い出したのである。取り繕うように、へらりとほほえむ。
「ありがとね」
「なに、その微妙な顔」
「いやぁ」
 わかってるでしょ。愛想笑いを維持する俺を見て、瀬尾はちらりと俺の背後――つまるところ教室内を見渡した。
「あの……、瀬尾?」
「ま、いいや。それ返しに来ただけだから」
「あ、……うん。ありがとね」
 ぎこちなく笑う以外の返し方がわからず、やんわりと手を振る。
 良くも悪くも瀬尾は慣れているのだろうけれど、複数の視線を背中に感じる状況は、どうにも落ち着かない。
 その俺に向かって控えめに目元を笑ませると、じゃあね、と瀬尾は踵を返した。なんだ、あのイケメン。俺がリアルに彼女だったら、心臓をぶち抜かれているに違いない。
 女子に話しかけられないよう、うつむきがちにそそくさと席に戻る。と、前の席の野井が振り返った。興味半分、呆れ半分といった顔で野井が口を開く。
「一颯、マジで懐かれてんのな、王子に。なんか、俺、睨まれた気がすんだけど」
「してない、してない」
 万に一くらいの確率で、コンビニまでからかいに来たことを根に持っている可能性はあるけれど。
 案外と瀬尾は根がおっとりとしているというのが、最近の俺の見立てなのだ。猪みたいな側面もあるものの、のんびりというか、いい子というか。なんか、そんな感じ。
 苦笑いを刻み、返してもらった折り畳み傘をリュックに片付ける。
「本当にいいやつだよ、瀬尾。傘も早く返さないと落ち着かなかったんじゃないかな。たぶんだけど。けっこう真面目なんだよね」
「真面目ねぇ」
 想像できないと首をひねった野井に、まぁ、そうは見えないよなぁと内心で同意を示す。瀬尾、ギャップの宝庫って感じあるし。
 冷たそうに見えるけど、空気が読めて、なんだかんだと言っても優しくて。それで、他人に悟らせないレベルの気遣いがうまい。
 誤解を招きたい関係であることを思い出した、という事実が正にそれで。高校での瀬尾は「自分の親友の兄貴で、自分も懐いている仲の良い先輩」というポジションに俺を置いてくれている。
 九月の最初。はじめて瀬尾とふたりで昼を食べたとき。「最悪、デートって言えば、しつこい女子も寄ってこないでしょ」との発言に、俺が内心で怯んだことに気がついたのだと思う。
 アルバイト中だけであればともかく、目立つことが苦手な俺にとって、校内で「あの王子の彼氏」という視線を浴びる立場はきついものがある。
 それが本音だったので、偽装彼氏の話を瀬尾が持ち出さない現状は正直とてもありがたい。ただ、同時に、瀬尾にとっての偽装彼氏のメリットはますますなくなってるんじゃないのかな、と少し疑っているのだけれど。
 ホームルームの時間が文化祭準備に充てられるようになり、放課後も有志で集まるようになると、学校全体がぐっと文化祭に染まり出す。
 クラスで一致団結して和気藹々と行事に取り組む、陽キャのハッピーシーズンというやつだ。
 ――陽キャだけじゃないかもしれないけど。でも、だって、野井も犀川も異常に生き生きしてんだもん。
 溜息を呑み、ちらりと教卓を窺う。学年一美少女と名高い櫻井さんを含む女子グループと、きゃっきゃと話し合う犀川たちは大変楽しそうだった。
 イベントの主導権を握るのは、一軍陽キャと相場は決まっているわけで。
 陽キャぶっているだけの俺に、「うちのクラス、BLカフェにしようよ」と盛り上がった一軍女子と追従した一軍男子――主に野井と犀川のことだ。本当にやめてほしかった――に対抗する術などあるわけがなく。ひっそりと気配を消して雑用に勤しんでいるのだった。
 というか、なんで彼氏持ちの一軍陽キャがBL好きなの。顔赤らめて「好きなんだよね」とか告白しなくていいから。おかげで、犀川が完全にその気になったじゃん。野井も野井で「最近流行ってんだってね、BLドラマ」じゃねぇよ。どうせ恋ちゃん――野井の中学生の妹のことだ。いい子でかわいい――情報なんだろうけど。
「あ、段ボール足りないかも。事務室にあるかな」
 同じグループで作業中だった原野さんの声に、鬱々とした思考を封印して、俺は立ち上がった。
「じゃあ、聞いてくるよ、俺」
「え? いいの? 一緒行く?」
「聞いてくるだけだから、大丈夫。なかったらスーパー行かなきゃになるし、そのときは誰かついてきてほしいけど」
 荷物持ち的な意味で。だよね、と笑った原野さんに、行ってくるね、と告げて、教室を出る。いつもの六時間目と違い、文化祭準期間中の校内は廊下を歩くだけでもにぎやかだ。
 開いた窓から入り込む風も涼しくて、もうすっかり秋だなぁ、と。俺は少ししみじみとした気分になった。

「段ボール? ちょうどあとふたつ残ってるよ。大きいのはもうみんな売れちゃったんだけど。これで大丈夫かな?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
 サイズが足りない可能性があっても、ないよりはマシだろう。その判断で、俺は笑顔で事務員さんから段ボールを受け取った。
 段ボールを抱え、のんびりと渡り廊下を歩く。教室から事務室までは少し距離があるのだが、気分転換にはちょうどいい。まぁ、そんなことを言ったところで、俺はぐるぐると考えてしまうわけだけど。
 ――BLカフェなぁ。
 メイドカフェであれば、「好き勝手にメイド服着てよ、女子」で済んだ話だったのに。たまらずひとつ溜息をこぼしたところで、俺は立ち止まった。声には出さず、瀬尾じゃん、と呟く。
 渡り廊下の奥、中庭に続く方角に見えた背中に、ふらりと一歩を踏み出す。教室に戻る時間を伸ばすための、現実逃避。そのつもりだった足が、瀬尾がひとりではないことに気がついてぴたりと止まる。
 ……また、告白されてんのかな。
 そう思ったのもつかの間。ちらりと見えた横顔の柔らかさに、俺は違うと思い直した。よくわからないまま、ドクンと心臓が鳴る。
 瀬尾が女の子とふたりでいるところを見ることは、はじめてではない。むしろ、間々あることだ。俺が瀬尾を知ったのも、女の子に告白される場面を目撃したことがきっかけだったし、「瀬尾にがんばって話しかける女の子の図」を見かけたことは何度もある。
 ただ、そういうときの瀬尾は塩対応を徹底していて、だから。そこまで考えたところで、俺はふるりと首を振った。
 ――瀬尾が女の子とふつうに喋ってたからってショックはおかしいだろ。
 あるいは、俺にだけ都合が良くて、心地の良かった「偽装彼氏」が終わるかもしれないと気づいて動揺したのだろうか。瀬尾に彼女ができるまでの期間限定とわかっていたのに。
「なーに、サボってんだよ、一颯」
「お、わ!」
 唐突に肩に腕を置かれ、俺はぎょっとした声を上げた。
「なに、その反応」
 びくりと肩を揺らした過剰な反応に、野井が眉を寄せる。当然と言えば当然の態度に、俺はへらりとした笑みを取り繕った。
「や、びっくりして。急に現れんなよ」
「おまえが戻ってくんの遅いからじゃん」
「え? そんなに遅かった?」
 まぁ、たしかに、ちょっと戻るの面倒だなぁとは思っていたけれど。焦った俺に、「嘘」と野井が口角を引き上げる。
「探しに来た。一颯いないとつまんないから」
「……野井さぁ、それ、櫻井さんに頼まれたとかじゃないよね」
 嫌な予感に、俺の愛想笑いは引きつった。BLカフェをやりたいと言い出した諸悪の根源のめちゃかわ女子。その櫻井さんが、BLカフェなんだからさ、男子の店員同士でいちゃついてほしいよね、あと、チェキサービスとか。などという恐ろしい提案をし続けていることは知っている。完全に俺の今関わりたくない人ランキング一位。
「そう照れんなって。俺も犀川も一緒に店員やってやるから」
「いや、俺、本当に裏方でいいんだけど」
「一颯がいないと始まんないから駄目」
 逆になにが始まると言うのだ。ぐったりとした溜息を堪え、はは、と俺は愛想笑いを浮かべ直した。
 悪気なくきゃっきゃっと提案をする櫻井さんは、正直めちゃくちゃきついんだけど。固辞してクラスの雰囲気を悪くすることは、俺にとってはもっときついのだった。

 いったん瀬尾のことは意識から外し、野井と教室に向かう。
 道中、俺がいないあいだに盛り上がったという「マジ勘弁して」なアイデアを聞かされ、引きつりかけていた俺の表情筋は、教室で待ち構えていた櫻井さんに「店員、やってくれるよね」とほほえまれ(この顔で頼んだら男は断らないでしょと確信している顔だった。いや、まぁ、かわいいとは思うけど)、完膚なきまでに引きつる羽目になった。
 ――いや、いいんだけどさぁ、べつに。断れるなんて思ってなかったし。
 幾度目かの巨大な溜息を我慢して、原野さんたちのもとに戻る。貰った段ボールのサイズに問題はないという回答に安心し、やりかけだった作業を再開すべく、俺は輪の隅にしゃがみ込んだ。
 配属された小物班の主な作業は、原野さん作のめちゃうまイラストを拡大して段ボールに貼って看板にしたり、装飾品を作ったりすることだ。
 少女漫画っぽい男キャラがイチャつくイラストについて熱く語らう原野さんたちを横目に、段ボールを伸ばし、切断するラインをシャーペンで入れる。
 地味な作業は好きだし、本番もずっと裏方でいいんだけどなぁと諦めの悪いことを考えていると、ふっと頭上が陰った。
「あ、……」
 見上げた顔に、辻くん、と小さく呟く。
 二学期に入っても選択制ぼっちを貫く辻くんだが、文化祭の準備は平均以上に手伝っているのだ。そういうところが、クラスから浮かない所以なのだろうけれど。それはそうとして、辻くんから声をかけられることははじめてだ。
「どうかした?」
 その問いに、辻くんの眉間に短いしわが入る。
 鉄仮面に定評のある辻くんの表情の変化に「なんかしたかな」とドキリとしたのもつかの間。俺と目線を合わせるように、辻くんはしゃがみ込んだ。
「遠坂さ、いつもそうやって笑ってるけど、嫌だったりしないの?」
「あー……」
 心持ち小さな声で問われたそれに、曖昧な声を上げる。
 櫻井さんたちと話しているところを見られたとわかったからだ。圧倒的陽キャ集団に囲まれて、愛想笑いを引きつらせていただろう瞬間。気恥ずかしさを誤魔化すように、俺はへらりと笑った。
「いや、べつに、……櫻井さんとかもさ、悪気あるわけじゃないし」
 むしろ、めちゃくちゃ無邪気に楽しそうだし。なんでもないことだと主張する調子で、へらへらと続ける。
「せっかくクラスでやるって盛り上がってるんだし、そこに『え~!?』とか言って水差すのもあれじゃん」
 それに本気で拒否をすることも、なんだか少し恥ずかしかった。
 後半は口にしなかったものの、バレていたのかもしれないなと思った。その証拠に、辻くんの眉間のしわが二本に増える。
「えー……っと」
 三度の愛想笑いに、辻くんは、「なら、いいけど」と呟いた。
「べつに、ちょっと気になっただけだし」
「……うん。その、ありがと」
 悩んだ末に、そう告げて笑う。自意識過剰かもしれないけれど、辻くんが俺のことを気にかけてくれたことはたしかで。心配される態度を取ったらしい事実は恥ずかしいものの、それは俺の問題だ。
 ――瀬尾もだけど、辻くんも、はっきりしててかっこいいな。
 自分の意見をしっかりと主張できる人。たぶん、春に、辻くんをかっこいいと感じた理由。
 それで、愛想笑いで誤魔化すことしかできない俺は、かっこわるくて、やっぱり、少し恥ずかしい。立ち上がった辻くんを見送って、俺はそっと溜息を吐いた。
 あ、またあの子と喋ってる。窓の外。いや、まぁ、なんでいつも盗み見してるんだって話なんだけど。自分自身に呆れながら、俺は瀬尾と女の子を見下ろした。
 瀬尾を認識した日と同じ、教室の前の廊下から。あの日と違うのは、開いた窓から吹き込む風が少し冷たくなったことと、眼下のふたりが楽しそうに通り過ぎていったこと。
 なんだ、やっぱり、仲良いんじゃん。誰に言うでもなく胸の内で呟く。校則違反ギリギリの明るめの髪をショートカットにした、クラスの中心で笑っているタイプの女の子。
 ふぅん、瀬尾、ああいうのが好みなんだ。べつにいいけど。俺には関係ないんだし。
「一颯ー、ちょっと。こっちこっち」
「あ、ごめん。戻る」
 教室の入口から顔を出した犀川に呼ばれ、俺は慌てて窓際を離れた。文化祭の準備もそろそろ終盤で、クラスの雰囲気は楽しげであるものの、同時になかなか慌ただしい。
「あ、遠坂くん。当日なんだけどさぁ」
 満面の笑みの櫻井さんから逃げ出したい欲求を抑え「うん、当日」と俺は必死に笑い返した。
 本番が近づいた本日も、櫻井さんのアイデアが留まる気配はない。むしろ、ますます絶好調。たぶんだけど、犀川がよいしょしてるんだろうな。
 衣装は制服にするからお金かかんないしぃ、はともかくとして、だからぁ、高校生BLを全面に出そうと思ってぇ、は、マジでやめてほしいのだが愛想笑いにしかならない。なんだ、高校生BLって。
 遠坂くんは瀬尾くんと仲良いっしょ、あんな感じで大丈夫、じゃねぇんだわ。


「なんか、兄ちゃん、日に日にぐったりしてるけど、大丈夫?」
 文化祭、喫茶なんだろ、楽しくねぇの? あ、陽キャの皮被るのに疲れたの?
 羽純ちゃんとの通話を終えた日向から届いた流れるような悪口に、はは、と俺は乾いた笑みを浮かべた。
 ダイニングテーブルにあごひじをついたまま、疲労回復剤のはずの文庫本も閉じたまま。それは、まぁ、さすがの日向も多少は心配を――いや、心配か、これ。いや、心配ということにしておこう――するというものだ。
 ……でも、日向は元気だな、あいかわらず。
 クラスの準備もあるだろうに、夜はかかさず羽純ちゃんと通話をして、なにやらいつも大爆笑。
 呆れ半分に感心をしたところで、まぁ、でも、と俺は思い直した。櫻井さんも犀川も野井もみんなキラキラ楽しそうなので、真の陽キャとはそういうものなのかもしれない。
「いや、大変でさぁ、準備。日向は元気そうだね」
「元気っつか、うん、まぁ。それに、みんなで一緒に準備すんの楽しいじゃん」
「うわ、リア充」
「羽純ともクラス一緒だし」
 二発目の「うわ、リア充」はどうにか呑み込む。だって、僻みっぽくなったら嫌だし。楽しそうにしていることはいいことだと思うし。
「あと、瀬尾も楽しそうにしてるけど。ようやくちょっとクラスに馴染んだみたいな」
「へぇ」
 よかったじゃん、と俺はおざなりに応じた。だから、最近、昼休みに来ないんだな、とは少し思ったけど。でも、べつに、それだけ。
 瀬尾に仲が良い同級生が増えたらいい、と。謎の兄貴目線で願ったとおりになっているのだから、喜ぶべきだとわかっている。
 ――でも、そういや、最近、コンビニでも会ってないな。
 文化祭の準備優先で、シフトを減らしているのかもしれない。
 どこまでも人が良い川又さんは、「シフト調整は店長の仕事だからね」が口癖で、「代わりを見つけてから休め」なんてことは絶対に言わないし、テスト前に休んでも嫌な顔を見せることはない。野井や犀川のバイト話を聞くたびに、ホワイトの極みなんだろうなと拝みたくなるほどだ。
 そんないいバイトなんて、たぶん、なかなかないわけで。だから、瀬尾も長く続けたらいいと思う。
 土曜日の昼下がり。控えめなノック音とほぼ同時に自室の扉が開き、瀬尾がひょっこりと顔を出した。
「入っていい?」
 声かけとドア開ける順番、逆じゃない? なんて思ったものの、ひさしぶりに会ううれしさが先に出た。向かっていた勉強机から、ぱっと身体ごと振り返る。
「瀬尾も来てたんだ」
「うん、まぁ」
 瀬尾がドアを閉めると、階下から響く和気あいあいとした声が遠くなった。代わりに近づいた声が問う。
「勉強?」
「ううん、本読んでた」
 ぱたんと文庫本を閉じて、苦笑を向け直す。
「日向の友達が集団で来る話は聞いてたから、図書館でも行こうって思ってたんだけど、ちょっと寝すぎちゃって」
「へぇ、じゃあ、ちょうどよかった」
「なにが?」
「だって、先輩いなかったら、会えなかったじゃん」
 さも当然という雰囲気にまじまじと見上げてみたものの、瀬尾の表情は変わらない。
「いや、……それは、まぁ、そうなんだけど」
 というか、おまえ、日向に会いに来たんじゃないの。居た堪れない気持ちでしどろもどろに呟くと、瀬尾は少し困ったふうに眉を下げた。こちらの困惑を察知したらしい。
「ちょっと人数多すぎ。疲れた」
「ああ、そういう」
 体のいい言い訳だったと納得して、「座る?」と俺はベッドを勧めた。
 日向と違い友達を家に呼ぶキャラではないので、勉強机と本棚のほかはベッドくらいしかないのである。
「え、いいの?」
「いい、いい。あ、じゃあ、なんか布かけよかっか。たしかあった気がする」
 母さんが。日向に買い与えたときに、「あんたも友達呼んでいいんだからね」と若干の憐みの目を向けながら、ベッドカバーをくれた気がする。
 ほとんど新品のそれをクローゼットから取り出してベッドにかけると、安心した態度で瀬尾が腰を下ろした。なんとも言えず、行儀が良い。こういうところも、昼間シフトのおばさま方に大人気の要因なんだろうな。
 隣に座ると距離が近すぎる気がして、勉強机の椅子に腰をかける。ベッドのすぐ隣に机があるから、まぁ、結局、近いんだけど。
「すげ。本当に本いっぱいある。図書館行こうと思ってたって言ってたもんね」
 控えめながらしっかりと部屋を見渡した瀬尾の視線が本棚で止まる。物珍しげに眺めながらの感想に、「うん、まぁ」と俺は曖昧に頷いた。
「借りていい? なんかおすすめとかある?」
 どうせオタクだって思ってるんだろうな、と。被害妄想を極めていたところだったので、きょとんとした顔を返してしまった。
「瀬尾、本読む人だった?」
「ううん、ぜんぜん」
「えっと、ネット小説とか。それか、小さいころ、実は児童書が好きだったとか」
「ううん」
「ええ、じゃあ、なんで」
「先輩が好きなら読んでみようかなって思ったんだけど、変?」
「変、ではないけど」
 たらしだわ、完全に。もごもごと口にしながらも、すくりと立ち上がる。本好きのオタクというものは、他人に自分のおすすめを貸すことが好きなのだ。
 張り切って本棚の前に移動して、なにがいいかな、と思考を巡らせる。あまり本を読まないのであれば、読みやすい文体のものがいいだろうか。それとも、ドラマ化になった話題作のほうがとっつきが易いだろうか。
 うーんとひとりで唸って、背表紙を眺めたまま瀬尾に問いかける。
「瀬尾さぁ、どんなのが読みたいとかある?」
「どんなの」
「うん。たとえば、ミステリーがいいとか、映画になったやつがいいとか」
「先輩が一番好きな本ってあるの?」
「一番か」
 一番と言われると、正直すごく悩んでしまう。そのときの気分で「今はこれが一番」みたいになることもあるし、それに、目立つところに並べている本は気に入っているものばかりだ。
 ――でも、そうだな。一番か。
 上から二段目の一番左端。長らく定位置になっている場所から、目当ての文庫本を抜き出す。めちゃくちゃ流行った本ではないけれど、めちゃくちゃ無名の本でもない。いわゆる「ふつう」の本。
 特別なことはなにも起こらない柔らかな文体の小説で、退屈だという評価もあるものの、俺はなにも起こらない感じと、文体からにじむ柔らかい空気が好き。この数年の一押し。
 文庫本を手に振り返って説明をすると、瀬尾はあっさりと手を伸ばした。
「じゃ、それがいい。貸して」
「え、……本当に? 俺は好きだけど、けっこう地味な話だと思うよ? あ、文章は読みやすいほうだと思うけど」
「だから、いいって」
 ちょっとびっくりするくらいの柔らかい苦笑に、おっかなびっくりで一歩進んで本を渡す。ありがと、と受け取った瀬尾は、立ったままの俺を見上げ、不思議そうに瞳を揺らした。
「っつか、こっち座ったら?」
「あ、じゃあ」
 そうしようかな、ともごもごと呟いて隣に腰を下ろす。もしかしなくても、挙動不審だったに違いない。ヤバい、恥ずいな。そっと息を吐いて、俺は右隣を見やった。
 ぱらぱらと渡した本をめくる瀬尾の横顔は、テレビから飛び出してきたんじゃないかなと思うくらい整っている。それで性格も良いとか、改めてめちゃくちゃレアな生き物だ。
 そんな生き物が、俺の部屋に存在していいのだろうか。むずむずと据わりの悪さを覚え始めたところで、瀬尾がこちらを向いた。
「なに? あ、大丈夫だよ、これ。ちゃんと読めそう。しっかり読むのは家でにするけど」
「あ、よかった」
 変に意識しないように気をつけて、首を縦に振る。そういう意味で見ていたわけでは、たぶん、なかったのだけれど。「読めそう」という感想にほっとして、「しっかり読むのは家」という台詞をうれしく思ったことは本当だ。
 日向は俺の本に興味はないし、学校でも読書が趣味という友達はいない。だから、余計に。俺が好きだというものに興味を示して、建前だけでなくきちんと読もうとしてくれる瀬尾の姿勢がうれしかった。
 ――いいやつなんだよな、本当。
「あのさ」
「ん?」
「文化祭の準備、楽しいんだって?」
 よかったじゃん、と言うと嫌味に聞こえそうな気がしたので、そちらは呑み込む。きょとんとした瀬尾は「あー……」と迷うような声を上げ、本を閉じた。
「楽しいっていうか、まったく参加しないはさすがにまずいでしょ」
「でも、日向、瀬尾も楽しそうって言ってたよ」
 だから、最近は昼休みも来ないんだろ、とは。もっと言えるわけがない。楽しいのならなによりだというふうに笑えば、一拍置いて、まぁ、と瀬尾は認めた。
「春のころよりはそうかも。なんか、ようやくちょっと普通になったっていうか」
 バイト先からの帰り道が、まだ蒸し暑かったころ。「俺を俺として扱ってくれるならそれでいい」と瀬尾が言ったことを、俺はしっかりと覚えている。
 瀬尾の顔がうれしそうで、同時に、「ああ、こいつ、本当に顔で苦労したんだろうなぁ」と気がついて、なにを言えばいいのかわからなくなったからだ。
 あのときの対象は俺だったけれど、今はクラスメイトがそうなりつつあるということ。もちろん、全員ではないだろうけれど。
「よかったじゃん」
 だから、なんでもないふうに俺は言った。嫌味に聞こえることはないと信じて。だって、なんでもないことであるべきだ。
 いつか大型犬みたいと評したとおりで、心を開いた人間に瀬尾はわりと懐くから。それで、本質は素直ないいやつだから、歯車が合いさえすれば、クラスでもうまくいくのだろう。よかったじゃん、と。俺は内心で繰り返した。
「っていうか、先輩こそ楽しいんじゃないの? 俺と違って友達も多いし」
「俺のはべつに」
 おまえや日向みたいなんじゃないし、とこぼしそうになった台詞を慌てて留める。
 俺が心を開ききっていないだけなのに、被害者ぶった言い分になりそうだったからだ。野井や犀川にとっては風評被害がひどすぎる。苦笑を浮かべ、俺は言葉を継いだ。
「ってか、ふつうに忙しくてさ。こないだも顔死んでるって日向にめっちゃ馬鹿にされた」
「馬鹿になんだ」
 心配じゃないんだという雰囲気に、もう一度笑う。
「ない、ない。あいつ、俺はなんでも平気だと思ってるから」
「なんでも平気って」
「あ、いや、言葉の綾っていうか。心配もしてくれてるとは思うけど。ほら、日向、言い方軽いじゃん?」
「まぁ、それは、そうかもだけど」
「瀬尾のクラスはなにすんの? 展示って言ってたけど」
 不服そうな顔を見かね、俺は話題を変えた。冷たいやつと認定したみたいに思ったのかもしれないな、と気がついたからである。
 まぁ、実際、デリカシーがないだけで、冷たいわけではないけれど。兄から見た日向と友達から見た日向では違う部分もあるだろうな、とは思う。
「お化け屋敷。それ展示なのって感じだったんだけど」
「ああ、……まぁ、飲食物は出さないし。展示なんじゃない?」
 この一、二年で、以前は禁止だったお化け屋敷にゴーサインが出るようになったと聞いた覚えがある。
「最近は治安が良いからオッケーってなったらしいよ。治安が悪いお化け屋敷も謎だけど」
「ふつうに暗がりでいちゃつくやつがいたんじゃない?」
「ああ」
 納得して、俺は頷いた。なるほど、イケメンの発想。
「お化けを殴るやつがいたのかなって思ってた。そっち」
「まぁ、それもあるかもだけど。てか、先輩のクラスは? なにやんの?」
「……BLカフェ」
「なんて?」
 ものすごく不審げに聞き返され、思わず唇が尖る。
「ゴリ押したの、女子が。クラスの中心的な子だったから、犀川とかも――あ、これは男なんだけど、が、いいじゃんって乗り気になって」
 そうなったら、陰キャには否を唱える権利なんてないってわけ。いや、オタクっぽい女子もうれしそうにしてたけどさ。
 早口になった説明に、「ええ」と瀬尾は引いた声を出した。その反応はわかるけど、俺が決めたわけではないと主張したい。
「っつか、なにすんの? 先輩は。その、BLカフェで」
「…………店員」
「店員? え、ふつうに飲み物出したりする?」
「ふつうに飲み物出したり、女子考案の絡みをしたりする」
 ちなみに、店員は男子オンリーだ。BLカフェなので。ぼそぼそと告げた俺に、「ええ」と瀬尾はさらにドン引きした声を出した。いや、わかる。わかるけどさ。俺が好きでやりたいわけじゃないんだって、本当に。
 ――あ、でも、そういや、瀬尾、嫌なら自衛すればいいのにって言ってたな。
 ほぼほぼ初対面だったころの、夏の記憶だ。正論だとわかっているし、瀬尾はきっと断るのだろうなぁとわかるものの、俺にはかなりレベルが高い。
 情けないと呆れられることを防ぐために、俺は明るい声を出した。
「いや、でも、まぁ、みんなでやるし、仲良いやつも多いから」
「嫌じゃないの?」
「え……」
「だって、先輩、おっさんと距離近いの苦手でしょ。先輩に迫ってくるやつじゃなくても、ふつうに」
 まっとうに心配してくれていたらしい事実に、曖昧に笑う。「おっさんがちょっと苦手」と打ち明けたことを覚えてくれていた気持ちはうれしいのだが、同時に少し恥ずかしい。
「それとも、おっさんじゃなかったら大丈夫なわけ? 友達とかだったら」
「あー……、そうだな」
 正直なところ、身体接触は苦手だ。悪気はないとわかっていても、距離の近い野井や犀川に触られて嫌だなと感じることもある。
 まぁ、なぜか、このくらいの距離で座っていても、瀬尾に対しては思わないんだけど。そんなことを考えつつ、「まぁ、そうかも」と改めて笑う。
「なら、べつに、まぁ」
 不機嫌と不納得の混ざった横顔を少し見つめ、俺はひとついまさらなことを問いかけた。
「もしかして、その、……けっこうずっと気にしてくれたりした? 俺が、おっさん苦手って言ったこと」
 代わることができるときは、おっさんのレジは代わる、とは。偽装彼氏を始めるときに、メリットのように瀬尾が提案をしたことだけど、たしかにわりとマメに代わってくれていたなぁと思う。
 真面目で律儀なところのあるやつだから、約束を守っていると解釈をしていたわけだけど、もしかすると純粋に心配していたのかもしれない。
 俺は、「しつこい女が出たときに、彼氏ですって顔してくれたらいいし」と言われたそれさえ、あまりできていなかったのに。
「……まぁ、彼氏だし」
 親切がばれたことが気恥ずかしかったのか、瀬尾の耳が赤い。
「いいやつだよな、おまえ」
 いや、本当に。しみじみと呟いた直後、階下から瀬尾を呼ぶ日向の声が響いた。その声に反応して、瀬尾が立ち上がる。片手には貸した文庫本。
「じゃあ、俺戻るわ。上がってこられても嫌でしょ」
「え、……っと、まぁ」
「好きな本あるといいね、図書館」
「あ、うん。……その、ありがと」
 瀬尾がたらしすぎて、なんだかぎこちない声になってしまった。その俺にもう一度笑って、瀬尾が背を向ける。
 ぱたんと閉まったドアを見つめ、俺はたまらず息を吐いた。たらしだけど、でも、おまえさぁ、と。言えなかったことを、心のうちでひとりごちる。
 ――いつまでこれ続けてくれるつもりなわけ? いや、いいんだよ。俺はいつまででも。
 でも、おまえはさ。彼女欲しくなったりしてるんじゃないのって。そんなことも考えちゃうわけじゃん。なんか見ちゃったからさ。
 みっともない感情がどんどんと胸の中に渦巻いて、さすがにちょっと自己嫌悪だ。それでも思考は止まらなかった。
 ――彼女とか面倒くさいって言ってたけど、ショートカットの子と仲良さそうにしてたじゃん。だから、昼休みも、俺のところに逃げる必要なくなったんだろ?
 我ながら絶対に口にできない台詞のオンパレード。嫉妬だと思われて、面倒だと距離を取られかねないものばかり。
「あーあ」
 言葉にして呟いて、俺は仰向けにベッドに寝転んだ。本当になにをやっているのだろうなと嫌になる。
 俺には関係のないはずのことでうじうじと悩んだり、ひさしぶりに話せたと喜んでみたり。こんなの、初恋に浮かれてる小学生女子みたいじゃん。
「肉まんって冬の食べ物だよね。ふつうに暑いときから売ってるけど」
「ああ」
 人の少ない店内で交わすとりとめのない話に、俺は笑って頷いた。瀬尾とふたりでシフトに入るのはひさしぶりだったけど、やっぱり好きだなと思う。
 真矢さんや木内さんが楽だと思っていたのに、いつのまにか、瀬尾と入る時間が圧倒的に楽になってしまった。これも相性というのだろうか。
 ちなみに、これもやっぱりなんだけど、バイトのシフトを減らした理由は、文化祭の準備がヤバかったかららしい。
 BLカフェの衣装は学校の制服にエプロンだから簡単だけど、お化け屋敷はそうはいかないだろうし。小道具とか、まぁ、大変そうだよな。
「なんか、前に川又さん言ってたよ。川又さんが学生のころは寒いときしか売ってなかったのに、今はぜんぜん暑いのに九月から発注してるって」
 だからって、やっぱり暑いと売れないんだけどねぇ、と笑ってもいたけれど。川又さんの弱り笑顔を思い出して肩を揺らした俺に、「仲良いよね」と瀬尾が言う。少し拗ねたような口調だった。
「仲良い?」
「え。先輩と店長が。おっさんなのに」
「おっさんて、あんな無害なおっさんいなくない?」
 しかも、一応、店長なんだけど。まぁ、もうこの時間はいないけど。ちらりと壁にかかる時計を見上げ、取り成すように俺は続けた。勤務終了の二十一時まであと四十分。
「家族思いだし、俺らにも優しいし。世の中のおっさん、みんなああだったら平和だと思うよ、俺」
「先輩は、ああいうおっさんがタイプだっていう話?」
「タ……、うーん」
 ないと断言をすると、推しの川又さんを全否定した気分になる。
 タイプとかそういう話ではなかった気がするんだけどなぁと悩んだ末、俺はもごもごと首をひねった。
 ……いや、でも、なんか、似たようなこと聞いたな、俺。
 瀬尾とはじめて一緒のシフトになった夜のことだ。沈黙怖さに「どういう子がタイプ?」と適当な話題を振った結果、とんでもなく嫌そうな顔をされている。
 だが、たしかにこの質問は答えづらい。内心で反省をしていると、瀬尾が問いを重ねた。
「じゃあ、どういうのが好きなの?」
「なに、それ。世間話?」
「うん。半分は本気の興味だけど」
「ええ……、どうだろうな」
 好きなタイプと言われても、ぱっと思い浮かぶものはない。というか、これ、やり返されてるのかな、もしかしなくても。そう疑いながらも、思考を巡らせる。
 本当のことを言うと、女の子にそういう目を向けることが俺は少し苦手だった。たぶんだけど、おっさんの視線の気持ち悪さを痛感しているせいだと思う。誰にも言えない、謎の罪悪感。
 野井や犀川が、あの子がどうのああのと話す内容もしんどいなと思う瞬間があるのだから、我ながら相当だ。
 もちろん、質問されたときのための無難な回答は用意しているわけだけど。話しやすくて、素直な子。そのはずだったのに、俺の頭をよぎったのは、なぜか瀬尾の顔だった。
「先輩?」
「え? あ、えーと……、うん、話しやすい子かな」
「なにそれ。ほとんど誰でもいいじゃん」
「そんなことないって。ほら、話が合うって大事じゃん」
 間が合うというか、価値観が合うというか。つまるところ、一緒にいて楽しいというか。隣にいることを自然と感じる相手。
 そういう相手と巡り会って、いつか、俺も恋愛できたらいいなって思う。
 ……あれ、俺、恋愛したい気持ちあったんだ。
 恋愛なんて、一生できる気がしないと思っていたのに。
 知らないうちに生じていたらしい変化に驚いていると、「まぁ、そうだよね」と瀬尾が同意を示した。
「話が合うのはたしかに大事。合わないとけっこうストレスだし」
「だよな」
 頷いたタイミングで開いた自動ドアに目を向け、――俺は声を呑み込んだ。まだ来てたんだ。
 レジのほうをちらちらと見ながら雑誌コーナーに進む、大学生くらいの女の人。見た目はふつうなんだけど、無意味に三十分は居座って、必ず瀬尾のレジでなにかを買うというルーチンを一ヶ月以上続けている猛者なのだ。
 無言で隣を見上げると、瀬尾の眉間にくっきりとしたしわが寄る。
「いっそのことなんか言ってくれたら、はっきり断るのに」
 うんざりとしたそれに、はは、と俺は力なく笑った。そうなんだよなぁと心底気の毒になる。
 たとえば、これが、なにも買わずに二時間居座る、だとか。業務中に話しかけてくる、だとか。わかりやすい迷惑行為だと「困ります」で終わるんだろうけど。
 なんか、あの人、節度のあるストーカーみたいになってるんだよな。本人は「恋する乙女」のつもりでしかないんだろうけど。
 おまけに、俺がレジを代わろうとしても絶対に動かないときた。性別が逆だったら「ストーカーこわ」案件のはずなのに、女の人ってなんで自分はセーフだと思うんだろうな。
「瀬尾さぁ、川又さんに言う?」
「いいよ。なんか言われたらそのときに断るから。だから、早くなんか言ってくれないかな。マジ面倒なんだけど」
 俺が先に言ったら勘違い野郎みたいじゃん、と続いた愚痴に、苦笑いになる。
 ――まぁ、その気持ちはわかるけど。
 俺自身、おっさんに絡まれることは嫌だけど、大事にはしたくないと思っている。俺の「恥ずかしい」と瀬尾の「面倒」で意味合いは違っていたとしても、困っているという点ではきっと同じだ。
「まぁ、今日は、俺がレジにいるようにするからさ。瀬尾は品出しとかレジ点検とかやっててよ」
 品出し中に話しかけてくることは、今まで一度もなかったはずだし。俺が困っているときに瀬尾がしてくれたことを提案すれば、「そうする」と瀬尾は少し疲れた顔で頷いた。


 ――うわ、絡まれてんじゃん、結局。
 ピロンという間抜けな音がしたわりに、なかなかバックヤードから戻らないなぁと心配をしていたら、ものの見事に絡まれている。身を乗り出したレジから確認した光景に、俺は「げ」と呟いた。どうやら引き留められている真っ最中だったらしい。
 宣言通りぱっと断って振り切ればいいのにと呆れた反面、瀬尾がなんだかんだと冷酷な態度を取り切れないことも知っている。塩対応に「ごめん、無理」は言うことができても、必死に思いを伝える相手を遮ることはできない、みたいな。そういうやつ。
 ……っていうか、こういうときこそ「あれ、彼氏」って言えばいいのに。
 なんのための偽装彼氏だよ、本当に。悶々とした気分のまま、数を数えること五秒。わざとらしく息を吐いて、俺はレジを離れた。
「あの、そういうのやめてください」
 できるだけ事務的にかけた声に、驚いた顔で女の人が振り返る。けれど、俺を見て、すぐにほっとした表情に変わった。
「あ、ごめんね、バイト中だったよね」
 年下のアルバイトの学生だと決めてかかって、言い方は悪いけれど、舐めているそれ。
 べつに年下のアルバイトの学生なのは事実だし、それはいいんだけど。「バイト中に声をかけた」こと以外、なにも悪いと思ってないんだろうな。そう思ったら、自分でも意外なほど機嫌の悪い声が出た。
「バイト中もそうですけど。やたら居座ってこいつのこと見てんのも、やめてもらえませんか」
「え……、なに。べつに見てないんだけど」
「見てるじゃないですか、一ヶ月も店通って。迷惑なんで」
 言いすぎてるよなぁとわかっていたし、絶対、これ、瀬尾も引いてるよなぁとわかったから、顔を見ることはできなくて。半ばやけくそで俺は言い募った。
「知らないおっさんに何回もじっと見られたら気持ち悪いでしょ。それと同じだと思うんですけど」
「見てないって言ってんのに! っていうか、見てたとしても、同じなわけないじゃん。なに言ってんの?」
 赤い顔の反論に、本当になんでなんだろうなと首をひねる。
「同じなわけないって、女の人だからですか? 知らない人間にじっと見られたら、男でもふつうに気持ち悪いし、怖いですよ」
「だから、なに言って……」
「怖いですよ」
 憮然と繰り返した直後。なんか、これ、瀬尾にかこつけて八つ当たりしてるみたいだな、と思い至った。その事実に少し恥ずかしくなる。半分は正解だとわかったからだ。
 今までずっと心の奥底で思っていたことと、それと――。
「……べつに、ただのナンパじゃん」
 吐き捨てる細い声に、俺ははっとした。恥ずかしさを誤魔化す調子のまま、「本当、ストーカーとかじゃないから」と言って、女の人が背を向ける。
 ――絶対、やらかした、これ。
 間違いなく言いすぎてるし、え、あれ、泣きそうじゃなかった、と。自動ドアの開閉音を聞きながら青くなった俺に、「なんか、ごめん」と瀬尾がおずおずと口を開いた。
「一緒になって責めてもまずいかなって思って。でも、あいだに入っても、先輩が悪者になりそうだったから。……その、結局、なんも言えなくて」
「いや、うん……ぜんぜん」
 もごもごと呟きながら、のそりとレジに戻る。というか、もう十分悪者よ、俺は。やめてほしかったけど、傷つけたかったわけじゃないんだけどなぁ、本当。たぶん。
 徐々に増す自己嫌悪に、レジカウンターの中で俺は顔を覆った。なにをひとりで切れていたのか、と自分に心底呆れた気分。羞恥を絞り出すように溜息を吐き、隣に立つ瀬尾にひとりごと半分で話しかける。
「川又さんに報告したほうがいいのかなぁ、これ」
「いいんじゃないすか。クレーム来たらで。べつに、間違ったこと言ってないし」
「かなぁ」
「ぜんぜんキョドんないですらすら喋るから、逆にびっくりしたけど」
「瀬尾?」
 くすくすと笑ういつもの調子に、覆っていた手を外す。目が合うと、瀬尾は少し困ったふうにほほえんだ。
「適当に『俺の彼氏です』って言ってくれたんで、よかったのに」
「え……」
「そう言っとけば、そこまでみんな切れないし」
 バツの悪い表情で言い足した瀬尾に、本当に体のいい断り文句だったんだな、といまさらながら気がついた。
 本気の子はショックを受けるかもしれないし、逆切れをする子もいるかもしれない。けれど、興味本位で声をかけただけの子であれば、笑い話で終わる。つまり、俺の行動は本当に余計なお世話だったということ。
 でも、なんか、腹が立ったんだよ。内心で俺は答えた。
 腹が立って、俺の事情を重ねて、それで。「まだ使えるでしょ、偽装彼氏」なんて、自分のメリットを証明したい気持ちも、たしかにあった。そうしたら、瀬尾がまだ続けたいと考えると思ったから。ずるい感情に蓋をして、「いいんだよ」と開き直ったように告げる。
「俺が言いたかっただけだから」
「なに、それ」
 瀬尾が呆れ半分に笑ったタイミングで、深夜帯シフトの沢辺さんが入ってきた。「おつかれ」とバックヤードに向かう背中に「おつかれさまです」と応じて、視線を戻す。再び目が合い、またひとつ瀬尾が笑った。労わるみたいに。
「ありがと。さすが彼氏」
「……うん」
「でも、そこまで怒ってくれなくていいよ、本当。夏に先輩が『余計なことしなくていい』って言ったの、ちょっとわかった」
 ごめん、と謝る代わりに、もう一度「うん」と俺は頷いた。
 俺だって、できれば二度としたくないと思っている。自分が正しいと思うことでも、誰かに意見をすることは苦手だ。むやみに傷つけることも言いたくない。嫌われることも嫌だ。
 そのはずなのに、同じ場面に遭遇したら繰り返しそうだと疑っている。これはいったい、どういう感情なのだろう。
 慣れないことをしたせいか、その日一日。俺の胸はずっとドキドキとしていた。
 チケット制ではあるものの、開催日が土曜日で、保護者や他校生も来場することのできるうちの高校の文化祭は、毎年それなりのにぎわいを見せている。
 ――だから、今年も多いだろうなって覚悟はしてたんだけど。 
 してたんだけど、多いんだよなぁ、と。繁盛中のBLカフェと化した教室を見渡す。お客さんのほとんどは、同年代の女の子だ。
 たぶん、というか、絶対に、櫻井さん案件だと思うんだけど。「SNSでも宣伝がんばったよ~」と笑っていたし、フォロワー数がヤバいとの噂もあるので、まず間違いはないと踏んでいる。現に今も、他校の友達と楽しそうにお喋り中。べつにいいけど、仕事はよ。
 少々うんざりとしながらも、隅の席を陣取る瀬尾に近づいて、俺はそっと声をかけた。
「あの、瀬尾さぁ」
「ん?」
「いまさらだけど、本当に俺と回るでよかったの? っつか、休憩まであともうちょっとかかるんだけど」
「うん」
 俺のシフトは、今入っている朝一の回と、二時からの回だ。
 瀬尾のシフトは二時からだと聞いていたし、「じゃ、どうしよかったな、それまで」と言っていたことも知っているけれど。うちの教室で客として時間をつぶすという選択は、ちょっと想定外だった。
 ……っていうか、俺、言ったじゃん。仲良い子ができたんだったら、シフトじゃなくてもクラスの手伝いして暇つぶしたらって。
 先輩らしいことをアドバイスしたつもりだったんだけどなぁと思い返していると、瀬尾はあっさりと言い足した。
「先輩がいいの。楽だし」
「はぁ、楽」
「先輩も言ってたじゃん。話が合うと楽だって」
「ええ、……いや、まぁ、うん」
「なに、その返事」
 楽しそうな瀬尾の笑顔を前に、「話が合うと楽って、好みのタイプの話じゃなかったっけ」との疑問を呑み込む。なけなしのお兄ちゃん心をくすぐられるせいなのか、年相応の瀬尾の顔に俺は大変弱いのだ。
 なんというか、もう、べつに、ある程度、なんでも好きにしてという感じ。
「あ、そうだ。先輩、本ありがと」
「え? もう読んだの?」
「うん。けっこう読みやすくて楽しかった。次のバイトのとき返すね」
「あ、本当? じゃあ、良かったらほかのも……」
「一颯」
 嬉々として話を膨らませようとした瞬間、不機嫌そうな声とともに野井の腕が肩に回った。ぎくりと振り返る。
「おまえ、まだシフト中だろ。王子以外の客も相手しろよ」
「あ、ごめん」
 呼び方はあれなものの、まったくもって正当な注意だった。即座に謝って、瀬尾に視線を向け直す。
「瀬尾もごめんな? あと十五分くらいだから」
「いいっすけど」
「じゃあ、また、あとで。――ちょっと、野井。待って、待って」
 やると言っているのに、問答無用で引っ張られてしまった。チェキリクエストで客が呼んでいるらしい。嫌だなぁと内心で溜息を吐いていると、櫻井さんが瀬尾に近寄っていくのが見えた。
 ひとりになった後輩に対する親切心の可能性は否定しないものの、まぁ、構いたいだけだろうな、と判断する。だって、「かっこいいよね、瀬尾くん」って言ってたし。
「瀬尾くんも、こういうの好きなの?」
「こういうのって?」
「BL。最近、男の子も好きな子いるんでしょ?」
「あー……」
 背中に届いた反応に悩む調子に、まぁ、そうだよなぁと同情をしていると、再び瀬尾の声が響いた。淡々とした、一歩間違ったらぶっきらぼうなそれ。
 べつにいいんだけど、うちのクラスで櫻井さんにそんな態度を取る男子は皆無だと思う。
「べつに、好きでも嫌いでもないすけど。今日、先輩と回る約束してたんで」
「ねー、瀬尾くん、遠坂くんと仲良いよね。なんで?」
「なんでって、……バ先一緒だし、日向の兄ちゃんなんで」
「あ、そっか。遠坂くん、弟いるんだっけ。っていうか、いいな。一緒。バイトなにやってんの? え、コンビニ? 似合わなくない?」
 遠坂くんは似合うけど、と続きそうな雰囲気に、聞き耳を立てていた俺は、はい、はい、という気分に陥った。
 俺と瀬尾が仲が良いことが不思議なことはわかるけど、櫻井さん、けっこう態度あからさま。いや、それも、べつにいいんだけど。
 ……でも、よかった。瀬尾が面倒がって「彼氏」とか言わなくて。
 ある程度なんでも好きにしてと言ったところで、限度というものはあるのだった。
 心の底からほっとしつつ、「じゃあ、二番の人と六番の人でハートつくってください」というチェキの謎リクエストの消化にかかる。
 これ、BLカフェというよりも、メイドカフェとかアイドルのサイン会みたいなノリなんじゃないのかな。
 むくむくと沸き起こった疑問に蓋をして、俺は必死に愛想笑いをつくった。メイドカフェもアイドルのサイン会も行ったことないから、まぁ、知らないんだけど。