「うわ、雨」
コンビニを出た瞬間にぽつりと落ちたしずくに、瀬尾が夜の空を見上げた。十月も半ばになると、さすがに夜は少し冷えるようになる。
雨が降ると、さらにちょっと寒いよな、と。俺はリュックを探った。今日は学校から直接バイト先に来たので、予備の折り畳み傘が入っている。取り出したそれを、はい、と瀬尾に手渡す。
「使っていいよ、それ。俺、ふつうの傘も持ってるから」
「助かるけど、なんでダブル?」
「日向がぜんぜん持ち歩かないから、なんか習慣になってんの。最悪」
「おかんじゃん」
からかうように、というよりも、どこかほほえましい調子で笑って、瀬尾が折り畳み傘を開く。「今日、自転車なんでしょ」という問いに頷けば、ごく当然と瀬尾の足は駐輪場に向かった。
新学期が始まって、学校帰りに自転車で来る機会が増えても、瀬尾は一緒に帰ることをやめなくて。おかげで、自転車を押しながら帰る日々も、すっかりあたりまえになってしまった。
たぶんだけど、瀬尾のほうこそ面倒見が良いのだと思う。甘ったれ弟気質の日向が懐いてる現状も、納得という感じ。
片手に傘、もう片方の手で自転車を押しながら、細かい雨の中を歩くさなか、でも、と瀬尾が少し前の話題を引っ張り出した。
「なんか、わかった。あいつが無駄にのびのびしてんの、先輩がそうやって甘やかしてかわいがってたからなんでしょ」
「そうかな」
謙遜ではなく首をひねる。頭上では、ビニール傘が雨をはじく音が響いていた。
「あいつ、昔から要領良くてさ。あと、なんか、年上にかわいがられるタイプっていうか。だからだと思う」
「ふぅん。……あ、そういえばさ」
さらりと話を変える調子に、少しだけドキリとする。日向の話を嫌がっていると思ったのかもしれない。
「来月さ、文化祭じゃん」
「ああ、うん。だね」
「公立のわりに派手って聞いたんだけど。そんな感じなの?」
「たしかにそうかも。私立みたいな規模じゃないけど、わりとにぎやかっていうか。クラスで店したり、出し物したり。けっこう楽しいんじゃないかな」
目立つ弟をねたんでいると思われたくなくて、俺はことさら明るい声を出した。それに、実際、ねたんではいないつもりだ。たまにいいなと思うことはあるけれど、その程度は誰にだってあるだろう。
「先輩は去年なにしたの?」
「去年は展示だった。飲食はできる件数が限られてるから、どうしても上級生が有利なんだよね」
「へぇ、じゃあ、うちも今年は展示なのかな」
「どうだろうな。ステージで劇とかやるクラスもあるけど」
「へぇ」
少しの沈黙が落ちて、雨の音が大きくなる。明日の朝はやんでるといいんだけど、と雨の音に意識を向ける。雨がひどいとバス通学になるが、あまり好きではないのだ。
「あのさ、先輩」
「ん?」
「文化祭、一緒に回んない?」
唐突な誘いに瞳を瞬かせた直後。瀬尾の目論見に気がついて、俺は半目になった。
「瀬尾さぁ、それ、女子断るの面倒なだけだろ」
「ばれた?」
「ばれるよ。というか、すごいな。そんなに誘われるんだ」
「まぁ、あと、日向も絶対多野と回るって言うし」
「ああ」
納得して苦笑した俺に、「嘘」と瀬尾が瞳をゆるめる。
「俺が先輩と回りたいんだけど、駄目?」
いや、その言い方、ずるすぎるだろ。なんで、そう甘えるのがうまいかな。赤くなりかけた顔を誤魔化すように軽くうつむき、再びそっと顔を上げる。
「瀬尾って上に兄弟いたりする?」
「いないけど、なんで?」
「いや、甘えんのうまいなと思って」
「そんなことはじめて言われたんだけど」
はじめて言われること多いな。今までどんな交友関係結んできたんだよ。自分のことを棚に上げて呆れ半分で思ったものの、すぐに少し腑に落ちた。
これは本当に少しなんだけど。瀬尾は俺と似ているんじゃないかなと思う瞬間がある。たとえば、心の底から親しい友達をつくることができなくて、まとわりつく誰かに辟易としているところ、とか。
そう考えると、覗くなと言って怒った瀬尾の気持ちもよくわかる気がした。おっさんに絡まれている場面を誰にも見られたくないと感じることと、たぶん、同じ。
結果論で言えば、瀬尾が見かけてくれたから、この関係になったわけだけど。お互いにとって利用価値がある、恋愛契約。でも、これ、本当に瀬尾にメリットはあるのかな。ひそかに悩んでいると、たぶん、と瀬尾が口を開いた。
「先輩だからだと思う」
「あー……、日向の兄貴だからってこと?」
「じゃ、なくて」
「なくて?」
珍しく言い淀んだ瀬尾を見上げると、さらに珍しいことに瀬尾が目を逸らした。
「いや、それもあるかもだけど。……いや、それでいいや、もう」
「なに、それ」
反応がかわいかったことも含め、堪えきれずに笑みをこぼれる。俺が言うことではないと思うけど、なんか、たまに本当にかわいいんだよな。
笑っているうちに別れる角に差し掛かり、じゃあ、と俺は手を振った。
「瀬尾も気をつけてな」
「うん。ありがと、傘」
「ぜんぜん。次のバイトのときにでも返してくれたらいいし」
昼休みに瀬尾が現れることはあるものの、毎日一緒に食べる約束をしているわけではない。瀬尾も日向や羽純ちゃんと食べる日があるし、俺も野井たちと食べることがある。
個人的には、瀬尾と食べる時間は落ち着くから好きなんだけど。そのあたりの選択は瀬尾に任せようと決めていた。
これも俺に言える台詞ではないし、兄貴ぶっていると言われると返す言葉はないのだが。クラスに仲の良い友達ができたらいいな、という思いはあるのだ。
……だって、誤解されやすいだけで、いいやつなんだよな、本当。
その事実を、俺はもうよくよく思い知っている。
「わかった。じゃ、先輩も気をつけて」
またね、とほほえんで踵を返した瀬尾を見送り、俺もあと少しを自転車を押した。
コンビニを出た瞬間にぽつりと落ちたしずくに、瀬尾が夜の空を見上げた。十月も半ばになると、さすがに夜は少し冷えるようになる。
雨が降ると、さらにちょっと寒いよな、と。俺はリュックを探った。今日は学校から直接バイト先に来たので、予備の折り畳み傘が入っている。取り出したそれを、はい、と瀬尾に手渡す。
「使っていいよ、それ。俺、ふつうの傘も持ってるから」
「助かるけど、なんでダブル?」
「日向がぜんぜん持ち歩かないから、なんか習慣になってんの。最悪」
「おかんじゃん」
からかうように、というよりも、どこかほほえましい調子で笑って、瀬尾が折り畳み傘を開く。「今日、自転車なんでしょ」という問いに頷けば、ごく当然と瀬尾の足は駐輪場に向かった。
新学期が始まって、学校帰りに自転車で来る機会が増えても、瀬尾は一緒に帰ることをやめなくて。おかげで、自転車を押しながら帰る日々も、すっかりあたりまえになってしまった。
たぶんだけど、瀬尾のほうこそ面倒見が良いのだと思う。甘ったれ弟気質の日向が懐いてる現状も、納得という感じ。
片手に傘、もう片方の手で自転車を押しながら、細かい雨の中を歩くさなか、でも、と瀬尾が少し前の話題を引っ張り出した。
「なんか、わかった。あいつが無駄にのびのびしてんの、先輩がそうやって甘やかしてかわいがってたからなんでしょ」
「そうかな」
謙遜ではなく首をひねる。頭上では、ビニール傘が雨をはじく音が響いていた。
「あいつ、昔から要領良くてさ。あと、なんか、年上にかわいがられるタイプっていうか。だからだと思う」
「ふぅん。……あ、そういえばさ」
さらりと話を変える調子に、少しだけドキリとする。日向の話を嫌がっていると思ったのかもしれない。
「来月さ、文化祭じゃん」
「ああ、うん。だね」
「公立のわりに派手って聞いたんだけど。そんな感じなの?」
「たしかにそうかも。私立みたいな規模じゃないけど、わりとにぎやかっていうか。クラスで店したり、出し物したり。けっこう楽しいんじゃないかな」
目立つ弟をねたんでいると思われたくなくて、俺はことさら明るい声を出した。それに、実際、ねたんではいないつもりだ。たまにいいなと思うことはあるけれど、その程度は誰にだってあるだろう。
「先輩は去年なにしたの?」
「去年は展示だった。飲食はできる件数が限られてるから、どうしても上級生が有利なんだよね」
「へぇ、じゃあ、うちも今年は展示なのかな」
「どうだろうな。ステージで劇とかやるクラスもあるけど」
「へぇ」
少しの沈黙が落ちて、雨の音が大きくなる。明日の朝はやんでるといいんだけど、と雨の音に意識を向ける。雨がひどいとバス通学になるが、あまり好きではないのだ。
「あのさ、先輩」
「ん?」
「文化祭、一緒に回んない?」
唐突な誘いに瞳を瞬かせた直後。瀬尾の目論見に気がついて、俺は半目になった。
「瀬尾さぁ、それ、女子断るの面倒なだけだろ」
「ばれた?」
「ばれるよ。というか、すごいな。そんなに誘われるんだ」
「まぁ、あと、日向も絶対多野と回るって言うし」
「ああ」
納得して苦笑した俺に、「嘘」と瀬尾が瞳をゆるめる。
「俺が先輩と回りたいんだけど、駄目?」
いや、その言い方、ずるすぎるだろ。なんで、そう甘えるのがうまいかな。赤くなりかけた顔を誤魔化すように軽くうつむき、再びそっと顔を上げる。
「瀬尾って上に兄弟いたりする?」
「いないけど、なんで?」
「いや、甘えんのうまいなと思って」
「そんなことはじめて言われたんだけど」
はじめて言われること多いな。今までどんな交友関係結んできたんだよ。自分のことを棚に上げて呆れ半分で思ったものの、すぐに少し腑に落ちた。
これは本当に少しなんだけど。瀬尾は俺と似ているんじゃないかなと思う瞬間がある。たとえば、心の底から親しい友達をつくることができなくて、まとわりつく誰かに辟易としているところ、とか。
そう考えると、覗くなと言って怒った瀬尾の気持ちもよくわかる気がした。おっさんに絡まれている場面を誰にも見られたくないと感じることと、たぶん、同じ。
結果論で言えば、瀬尾が見かけてくれたから、この関係になったわけだけど。お互いにとって利用価値がある、恋愛契約。でも、これ、本当に瀬尾にメリットはあるのかな。ひそかに悩んでいると、たぶん、と瀬尾が口を開いた。
「先輩だからだと思う」
「あー……、日向の兄貴だからってこと?」
「じゃ、なくて」
「なくて?」
珍しく言い淀んだ瀬尾を見上げると、さらに珍しいことに瀬尾が目を逸らした。
「いや、それもあるかもだけど。……いや、それでいいや、もう」
「なに、それ」
反応がかわいかったことも含め、堪えきれずに笑みをこぼれる。俺が言うことではないと思うけど、なんか、たまに本当にかわいいんだよな。
笑っているうちに別れる角に差し掛かり、じゃあ、と俺は手を振った。
「瀬尾も気をつけてな」
「うん。ありがと、傘」
「ぜんぜん。次のバイトのときにでも返してくれたらいいし」
昼休みに瀬尾が現れることはあるものの、毎日一緒に食べる約束をしているわけではない。瀬尾も日向や羽純ちゃんと食べる日があるし、俺も野井たちと食べることがある。
個人的には、瀬尾と食べる時間は落ち着くから好きなんだけど。そのあたりの選択は瀬尾に任せようと決めていた。
これも俺に言える台詞ではないし、兄貴ぶっていると言われると返す言葉はないのだが。クラスに仲の良い友達ができたらいいな、という思いはあるのだ。
……だって、誤解されやすいだけで、いいやつなんだよな、本当。
その事実を、俺はもうよくよく思い知っている。
「わかった。じゃ、先輩も気をつけて」
またね、とほほえんで踵を返した瀬尾を見送り、俺もあと少しを自転車を押した。