それで、俺は、正解に早くたどり着くことができてよかったと思っている。そっか、適当に流せばいいんだって。対処法がわかって、ほっとした。
「俺もべつに想像させたくないし」
 心配をされたいわけでも、憐れまれたいわけでもない。男の俺が頻繁に不審者に遭うことは恥ずかしいとも思う。同じ男なのに怖がるそぶりを見せることもそうだ。
 ――だから、誰にも知られたくなかったんだけどな、本当。
 それなのになぁという気分で、俺は眉を垂らした。
「瀬尾にはなんか言っちゃったんだけど。タイミング良すぎて、パニクったのかな」
「笑う必要ないだろ。笑いごとじゃないんだから」
 不満そうな言い方に、慌てて「いや、でも」と取り繕う。
「そういうもんだし。それに、前も言ったと思うけど、本当にたいしたことないっていうか」
「あんたのそういう態度にも問題はあると思うけど。だから、日向も心配しないんだろ」
「いや、……」
 まぁ、そうなんだけど。まともに指摘をされると対応に困ってしまう。手持無沙汰に視線をさまよわせたものの、こういうときに限って店は暇だった。まぁ、暇な時間帯だから、野井たちも好き勝手に喋って帰ったわけだけど。
 そっと台にもたれ、瀬尾くんの表情を窺う。
 俺が言ったことで誰かが気を悪くするというシチュエーション、苦手なんだよな。なにが余計だったかなぁと省みていると、瀬尾くんが小さく息を吐いた。俺と並んで後ろの台にもたれた瀬尾くんに視線を向け、もう一度声をかける。
「あの……」
「まぁ、でも、ちょっと気持ちはわかるけど」
 目の合った瞳が、にこりとほほえむ。
「自分で笑い話にしないとやってられないときってあるし」
「え……。あぁ、まぁ、瀬尾くんもそうだよね」
 あ、また、瀬尾くんって呼んじゃった。慣れないな。そんなことを考えながら、俺は髪を掻きやった。
「言ってたもんね。女の子に絡まれて困ってても、モテ自慢になるって」
 モテ自慢と言いたくなる気持ちもわからなくはないものの、好きではない相手に迫られるという体験は、男女関係なくけっこうなストレスだと思う。
 もっとも、俺のあれは、モテ自慢にすらならないわけだけど。
「そう、そう」
 瀬尾くんは、あっさりと首肯した。
「でも、先輩はモテ自慢とは思わなかったでしょ」
「まぁ、それは……」
「だから、先輩も、俺の前では笑い話にしなくていいよ。ちゃんと聞くから」
「……え」
「それに、ほら。彼氏なんだし、俺」
 台に置いていた指に、瀬尾くんの指が触れる。距離が近くてたまたま触れたわけではない、意図を持った接触。驚いて振り向くと、瀬尾くんが目元を笑ませた。顔が赤くなった気がして、とっさにうつむく。
 なに、本当。なんでこういうことに慣れてるわけ。なんか、めっちゃ照れるじゃん。
「俺の彼氏がイケメンすぎる」
 腹いせに言ったはずの台詞も、瀬尾くんはさらりと笑い飛ばした。
「よかったね、先輩。先輩にだけだよ。俺がこんなことするの」
「やめろって、そういうの」
「なんで」
「心臓ちょっと変だから」 
 ぱしりと瀬尾くんの瞳が瞬く。覚えた居た堪れなさに、俺は小声で言い募った。「心臓が変」だと、ときめいたみたいに聞こえた可能性がある。
「童貞からかって遊ぶなって言ってんの」
「童貞っていうかさぁ、え……じゃあ、先輩」
 ひそめられた声に思わず「ん?」と顔を寄せ、――俺は後悔した。
「処女?」
「――っ、馬、鹿」
 じゃねぇの、と叫びかけた台詞が、自動ドアの開閉音で立ち消える。こちらを見たお客さんに軽い愛想笑いを返し、俺は深く息を吸った。なんなんだ、本当に。
 男相手に処女もなにもあったものじゃないし、いや、女の子に聞いた場合も完全にアウトなセクハラだと思うけど、そうじゃなくて。堪え損ねたふうにくすくすと笑う珍しい横顔にじとりとした視線を送る。
 ……なんていうか、すげぇ、日向の友達って感じ。
「なに、怒った?」
 小声で話しかけられ、「べつに」と溜息まじりに応じる。
 変なおっさんに絡まれやすいという事実を承知の上での発言としては、ちょっと、おい、デリカシーという感じはするし、マジで日向の友達だよなとも思うけど、怒りが持続しなかったのだ。たぶんだけど、雄弁な瞳のせいだと思う。
 クールなようでいて、瀬尾くんはけっこうわかりやすい。今だって、そうだ。なんでもないふうに確認を取ったくせに、瞳の奥には隠し切れない不安を飼っている。日向みたいというより、もはや大型犬。
 ……それで、それをちょっとかわいいと思ってるんだよな、俺。
 心臓もだけど、俺の目もどうかしているのかもしれない。意味のわからないことに、すべて瀬尾くん限定の不具合なんだけど。
「怒ってないよ」
 ぽつりと言い足したタイミングで、また自動ドアが開いた。ぬるい風と一緒にお客さんがふたり入店する。見上げた時計は、十八時六分を指していた。そろそろ忙しくなる時間帯だ、と。気分を切り替えて、俺は台から背を離した。
 

「じゃ、おつかれさまでーす」
 バックヤードを出て、自動ドアを通る前、レジカウンターを振り返って声をかける。
「仲良しだねぇ、遠坂くんたち」
 珍しく夜に店にいた川又さんは――急に休みを取った深夜シフトの人の代わりが見つからなかったらしい――俺たちを見て、にこにことほほえんだ。
 あいかわらずの先生みたいな言いように、はは、と笑い返し、瀬尾くんとコンビニを出る。
 夏休みも含めて瀬尾くんと一緒に入ることは多かったし、その流れで一緒に帰ることも多かった。たしかに、仲良しかもしれない。苦笑気味に川又さんの台詞を思い返したところで、俺は首をひねった。
 ……そういや、俺、瀬尾くんに触られても大丈夫だったな。
 めちゃくちゃドキッとしたので、そういう意味では大丈夫ではなかったわけだけど、気持ち悪いとは少しも思わなかった。
「なに?」
「あ、……えっと」
 気遣うような声に、慌てて頭を振る。
「なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
「ぼーっとしてたって、家帰ってからぼーっとしてくださいよ、危ないな」
「危なくは……ないだろ」
 だって、瀬尾くんが……瀬尾が隣にいるんだし。偽装だけど、今はこうして一緒に帰ってくれている。あたりまえみたいな顔で。
「あ、そうだ。今日、ちょっと先輩ん家寄ってくんで」
「え、なに。日向?」
「そ。あいつ、明日提出のプリントなくしたんだって」
 気づくの遅すぎ、と笑った瀬尾に、ありがとね、と俺は言った。
「え? プリント? べつにいいよ」
「それもだけど、なんかいろいろ」
「なに、いろいろって」
 その問いに、曖昧に笑う。自分でも明確な説明をできる気がしなかったからだ。変なの、と呟いた瀬尾に、俺はもう一度笑みをこぼした。夜の道を歩きながら、改めて考える。
 日向と友達でいてくれてありがとう、とか、俺と同じバイト先に来てくれてありがとう、とか。こうやって喋ってくれてありがとう、とか。
 瀬尾に対するありがとうは、たぶん、いっぱいあるんだけど。なんだかんだと言ったところで、俺は今がけっこう楽しくて。瀬尾に彼女ができて偽装彼氏()が不要になる日はまだ先でもいいと思い始めている。
 なんてことは、さすがに言えないんだけど。苦笑ひとつで思考を留め、俺は「ただいま」と瀬尾と一緒に家に入った。