勘違いだよね?瀬尾くん。

 二十時を過ぎて客の入りも落ち着き、背後の台にもたれてレジ内で一息を吐こうとした瞬間。瀬尾くんが小姑のようなことを言った。
「先輩。チルドの品出しでもしてきてよ」
「おまえ、先輩を顎で使いすぎだろ」
 いや、べつにいいんだけど。そもそも、瀬尾くんの呼ぶ「先輩」って、記号っぽいし。名前を覚える代わりです、みたいな。そんなことを考えていると、淡々と瀬尾くんが続けた。
「そうじゃなくて」
「うん?」
「このあいだのパパ活じゃん、あれ。違うの?」
 瀬尾くんの視線と指が店の外に動く。自動ドア越しの大通り、なにを指しているのかを悟り、俺は顔を青くした。ただの通勤経路という可能性もあるものの、入ってくる可能性も否めない。
「ウオークイン行ってきまーす」
 違わない、と認める代わりに、俺はそそくさとバックヤードに向かった。もしかしなくても、これも偽装彼氏の特権なのだろうか。
 ふつうにいいやつだな、瀬尾くん。この時間帯は川又さんは帰宅済みなので、バックヤードは無人だ。バックヤードからドリンク類が並ぶ冷蔵庫――ウオークインに入って、ドリンクを補充しながら、まぁ、でも、と俺は自分に言い聞かせた。
 帰り道に立ち寄るコンビニは定まってることが多い。それを「俺が嫌だ」で拒絶をすることは横暴というやつだ。それに、接触を回避すれば双方問題はないわけで、瀬尾くんの配慮に大変感謝である。
 対価になるとは思えないが、瀬尾くん目当ての女の子が来店した際には、空気の読めないそぶりで間に入るくらいのことはしてあげよう。
 すっかり持ち直した気分でそう決めて、ウオークインのドアを閉める。冷えた腕をさすりながら店内に戻ったところで、俺は「ん?」と首をひねった。
 なんか、今、いやに慌てた様子でおっさんが退店したような。
 ――いや、でも、声もなにも聞こえなかった……よな?
 だから、揉めたりとかはしていないと思うんだけど。というか、そう願いたいんだけど。
 そそっとレジに戻り、しれっとした顔の瀬尾くんに話しかける。幸いと言うべきか、ほかに客の姿はない。
「あの」
「ん?」
「瀬尾くん、なんかした?」
「べつに、なにも」
「ならいいんだけど……」
 その答えに、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、しれっとした顔のまま、瀬尾くんがとんでもないことを言った。
「俺の彼氏に手ぇ出さないでくれます? とは言ったけど」
「いや、してんじゃん!?」
 レジカウンターの中で大声を出した俺に、瀬尾くんがぱちぱちと睫を瞬かせる。
「迷惑でした?」
「違うって、迷惑とかじゃなくて。その、……なんかあったらどうすんの」
「なんかあったこと、あるんです?」
「いや、ないけど! ないけどさぁ、九回なくても十回目にあるかもしれないじゃん」
 言い募ったものの、瀬尾くんはどこかきょとんとした顔のままだ。妙に幼いそれに、俺はたまらず溜息を吐いた。
 力が抜けたというか、思い出したというか。落ち着いているし、大人っぽく見えるから、すっかり抜け落ちていたけれど。瀬尾くんは日向の同級生なのだった。
 配慮ありがとうじゃねぇよ、俺も。自身にも呆れた気分になったものの、これ以上叫ぶと、またしてもヒスっていると評されかねない。気分を鎮め、俺はぽつりと呟いた。
「ああ、もう、マジ瀬尾くん猪」
「はじめて言われたんだけど、そんなこと」
 ……そりゃ、そんな顔面持ってたら、誰も言わないだろうね。
 内心で俺は言い返した。だって、やっぱり、めちゃくちゃきれいな顔してると思うもん。あだ名が王子で笑われないやつって希少だと思うよ、俺。
 だが、問題はそこではないのだった。さらなる溜息は呑み、瀬尾くんに言い聞かせる。
「あのね、瀬尾くん。そういうことはしてくれなくていいから」
「なんで?」
「なんでって……、さすがに弟の友達にそこまでさせられねぇわ」
「俺、あんなおっさんに負けないけど」
 いや、わかんねぇだろ、そんなこと。どうすんだよ、ガチのヤバい人で刃物とか持ってたら。俺もそこまでヤバいおっさんを引いたことはないけど。でも、そんなことわかんないじゃん。との懸念が駆け巡ったものの、とにかく、と俺は語気を強めた。
「俺が心配だから。やらないで」
「はーい、はい。わかりました。了解です」
 ちらっと俺を見たあと、それ以上の説教はいりませんとばかりに瀬尾くんはホットスナックの準備に取りかかった。つんとした横顔に、隠さない溜息を吐く。
 いや、かわいくねぇな。
「先輩、一緒に帰ろ。送ってってあげる」
 シャツを脱ぎ、さぁ帰ろうとしたタイミングでのお誘いに、俺は胡乱な顔を向けた。その視線を受け、瀬尾くんがことりと首を傾げる。
「なに、嫌?」
「いや、嫌じゃないけどさぁ」
 瀬尾くんの顔でお願いされて、断ることのできるやつはいないんじゃないかな、とも思うけどさ。
 スマホを取り出そうと尻ポケットに突っ込んでいた手を抜き、瀬尾くんに問いかける。
「あのさ、この恋人ごっこ、どこまで有効なの」
「どこまでって、どこまでやれるかって話?」
「じゃ、なくて」
 なんだ、どこまでやれるって。モテる男の言うこと、違いすぎるだろ。内心でドン引きしつつも、俺はへにょりと眉を下げた。
「バイト中だけだと思ってたから」
「いや、外に俺のこと待ってるっぽい女いたんすよね」
「ああ、……そういう」
「先輩のこと助けてあげたでしょ? だから先輩も俺のこと助けてよ」
「いっそ清々しいな、瀬尾くん」
 べつに、まぁ、いいんだけど。なにせ、いろいろと恩はある。呆れ半分で了承し、俺はバックヤードの扉を押した。
 
「あ、瀬尾くん。これ、あげるよ」
 外に出たところで、店を出る前に思い立って購入したジュースを渡すと、瀬尾くんは不思議そうに瞬いた。夏の夜の蒸し暑い空気が、さらりと瀬尾くんの髪を揺らしていく。
「なんすか、これ」
「いや、お礼言ってなかったなと思って」
 瀬尾くんの斜め上の行動力には、大声が出たわけだけど。「女の子を引き受けてもらうため」の等価交換だったとしても、俺のために動いてくれたことは事実だ。その点を無視するわけにはいかないだろう。
「危ないことはやめてほしいけど、でも、ありがと」
 不審げな顔でもう一度瞬いたあと、ふっと瀬尾くんが笑った。気のせいか、ちょっと小馬鹿にした感じのそれ。
「マジ素直」
「お礼言わないほうがよかったかな、これ」
「まさか。助かってますよ、彼氏」
 平然と応じた直後、瀬尾くんはなぜか俺の手を握った。意味がわからない。正しく困惑する俺の背後で、ぎょっとした声が響いた。
「え!?」
「は……?」
 なに、今の。振り向いた先にいたのは、同い年くらいの女の子だった。驚愕の表情で固まっていた女の子が俺を見て、瀬尾くんを見る。次に手元、そうして、最後。ぎこちなく動いた視線は、ぴたりと瀬尾くんで留まった。
「か、彼氏」
 呆然自失とした呟きに、「そう」と瀬尾くんがほほえむ。正直ちょっと似非くさい笑顔だな、と俺は思った。
「ごめんね」
 駄目押しの謝罪に、女の子がふらりと歩き出す。背中からはとんでもない哀愁が漂っていて、なんとも言えず気の毒だ。
「……あれ?」
「そう。あれ。よかった、面倒なことになんなくて」
 満足そうに笑った瀬尾くんが手を離す。その顔を見上げ、俺は小さく溜息を吐いた。
「いや、いいけど」
 いいけどさぁ、せめて、事前になにか言ってくれないかな。あの女の子の中で、完全に瀬尾くんの彼氏になってるじゃん、俺。
 恨みがましい視線を送ったものの、なんのその。楽しそうに喉を鳴らし、瀬尾くんは歩き始めた。俺の家の方角だったので、しかたなく隣に並ぶ。
「あの子が待ってるのが嫌だっただけなら、まっすぐ帰ったら? こっちだと遠回りでしょ」
「いいよ、ついで」
「ええ、なんのついで……。まぁ、いいけど」
 もごもごと呟くことで自分を納得させて、口を噤む。ちょっと、気まずい。
 ……いや、本当に、まぁ、いいんだけど。
 魔法の言葉を胸の内で繰り返し、心持ち歩幅を大きくする。
 いいんだけど。それにしても、わけわかんねぇな、瀬尾くん。はっきり断ったほうが楽だったんじゃないの。変な誤解もされないしさ。
 そう言ってあげるべきなのだろうか。悩んでそっと窺った横顔は、予想外に機嫌が良さそうで。まぁ、いいか、と俺はもう一度思い直した。
 だって、そもそもの話だけど、こんなお遊び、瀬尾くんに本物の彼女ができたら終わるわけだし。それで、瀬尾くんに彼女ができるのも、そう遠い未来の話ではないのだろうし。
 だったら、そのあいだくらい構わないだろう。少なくとも、俺にメリットはあるのだから。会話乏しく夜道を歩きながら、俺はそう思うことに決めた。
「っつか、いまさらだけど、なんでコンビニ? 瀬尾くんみたいな子ってさ、もっとおしゃれなとこでバイトするじゃん」
 駅前のスタバとか。カフェとか。あと居酒屋とか。バイトしてる人たち、みんな陽キャみたいな感じの。そういうところ、似合いそうなのに。
 恒例になりつつあるバイト終わりの帰り道。尋ねた俺に、瀬尾くんはあっさりと実情を明かした。
「ああいうとこ、客もバイト仲間も寄ってきそうじゃないっすか。コンビニくらいでいいっつうか」
「ああ」
 簡単についた想像に、いかにも気の毒にといった相槌になってしまった。だが、かわいそうにと感じたことは事実である。
 ――なんか、本当にけっこう変わったんだよな、瀬尾くんのイメージ。この夏休みで。
 同情されるキャラではないだろうと勝手に判断をしていたものの、ふつうにかわいそうに思うこともある。イラッとする場面もあるけれど、ありがたいと感じる瞬間も多い。それで、これはあたりまえなんだけど、日向の同級生なんだよな。
 どれだけ格好良くて、大人っぽくても。そんなことを考えていたら、ふっと瀬尾くんが笑った。
 俺をからかうときの顔だとわかったが、無視をするという選択肢はない。ちらりと瀬尾くんに視線を向ける。
「なに?」
「いや、先輩はコンビニでも言い寄られてたなーって思って。俺も気をつけよ」
「おまえ……いや、でも、大変だよな。好きでモテてるわけじゃないもんな」
「先輩って……」
「なんだよ」
「いや、なんか気が抜けるなと思って。こういうこと言うと、モテ自慢って思われて、誰も心配してくれねぇもん。女なんだからどうにでもできるだろって」
 わかるよ、と言う代わりに、俺は笑って頷いた。実際には少し異なっているのだろうけれど、それでも、その悩みだけはわりとわかるつもりでいる。
 モテたくない相手にモテたところで、なにもうれしくないということと、どうにでもできたとしても、対応すると疲れるということ。
 日向も言っていたことだけど、野井たちの言うところの「夏休み前の告白ラッシュ」の最中だっただろうあのときの瀬尾くんは、けっこう疲れていたんじゃないかなと思う。
 ほとんど初対面の俺に「彼氏やってあげようか?」と提案をするくらいには。
「それにさぁ、俺はなにもしてないのに、ちょっと一緒にいただけですぐに好きとか言ってくるから。本当面倒で」
「瀬尾くんにしか言えない台詞じゃん」
「はぁ、まぁ、俺、イケメンなんで」
 いや、知ってるし。笑った俺を一瞥し、飄々と瀬尾くんは続けた。
「だから、ちょうどいいんすよね」
「それって、俺とのこれのこと?」
「そう、そう。あ、先輩も安心していいよ。俺、絶対、そういう意味で先輩のこと好きにならないから」
「誰もそんな心配してないけど!」
 なんか、それ、おっさんにモテるからって、すげぇ自意識過剰みたいじゃん。モテると言ったところで、瀬尾くんみたいな意味でモテているわけではないのに。
「でも、まぁ、……助かってるから。そこはありがと」
 はは、と馬鹿にしているのか、なになのか。わからない調子で瀬尾くんが笑う。
「先輩って、なんていうか人が良いよね」
「人が良いって」
「ちょろいでもいいけど」
「おい」
「だから、ちょうどいいって思われるんじゃないっすか。おっさんに」
 手軽にオッケーが貰えそう。なにかしても、そこまで騒ぐこともなさそう。俺が絡まれる理由の九割はこれで、早い話が舐められているのだとわかっている。
 正論に閉口したものの、でも、と俺は思った。
 俺もちょうどいいかもしれないけど、おまえも、たいがい、ちょうどいい感じになってるんだからなって。
 だって、知っている。なんだかんだと理由をつけて、途中までこうやって一緒に帰ってくれることも。おっさんのレジを代わってくれることも。
 俺が瀬尾くんにしてあげていることなんて、本当に些細すぎて申し訳ないようなことばかりだ。
 ……こういうさりげない気遣いができるから、モテるんだろうな。
 ただ、その気遣いで勘違いされることも多かったのかもしれない。だから、女の子に冷たく接するようになったのかも。
 勝手な想像だったものの、あまり外れていない気がした。
 この夏休み、俺が一番よく関わった他人は瀬尾くんで、それで、瀬尾くんと喋る時間はけっこう楽しかった。だからというわけではないし、これも、たぶん、なのだけど。意図的に冷たくすることはあっても、瀬尾くんは本質的に優しいのだと思う。人当たりだけは良いと評される、俺の真逆。
 ふつうでなくなったり、ひとりになることが嫌だから、俺は他人にすり寄って合わせている。瀬尾くんは、そうじゃない。
「瀬尾くんは、たらしだよね」
「はぁ? 俺がなに」
「いや、女の子をどうのこうのっていう話じゃなくてね? その、なんていうか、人をたらすよなぁって。……ええと、その、つまり、居心地が良いっていう話なんだけど」
「居心地が良い」
 信じられないと言いたげにぼやいた瀬尾くんは、だが、結局、ふっと相好を崩した。はじめて見る、高校一年生っぽい笑顔。
「なんか、日向の兄ちゃんって気がしてきた」
「どういう意味、それ。俺、あいつよりはデリカシーあると思うんだけど」
「デリカシーもヒステリーもどうでもいいけど」
「ちょっと、瀬尾くん」
「俺を俺として扱ってくれるなら、それでいいよ」
 どこか噛みしめるように、瀬尾くんが繰り返す。
「それでいい」
 その表情の受け取め方がわからなくて。悩んだ末に、俺は瀬尾くんの横顔から視線を外した。地面を見つめたまま、「あっそ」と呟く。
 そっけない照れ隠しのようなそれを瀬尾くんは笑い、それ以上はなにも言わなかった。
 瀬尾くんとシフトが一緒になった最初の日。数分でも辛かったはずの沈黙は、今はまったく気にならなくて。なんだかそれがどうしようもなく不思議だった。
 夏休み明け、新学期。爆弾は、通常授業に切り替わった日の昼休みに落ちてきた。
「先輩。一緒に昼食べよ」
 瀬尾くんの登場に、一瞬で教室がざわめく。
 そうか、そういえば、王子だったな、瀬尾くん。現実逃避気味にそんなことを考えているあいだに、瀬尾くんは俺の机の前で立ち止まった。
「ね。遠坂先輩」
「あ、……うん。そだね」
 駄目押しとばかりの笑みに、ぎこちなく頷く。べつにいいけど、なんで、瀬尾くん、そんなに満面の笑顔なの。
 野井を筆頭とする興味津々の視線から逃れるべく、「約束はしてなかったと思うんだけどね」なんて。もごもごと呟きつつ、俺は弁当片手に立ち上がった。
 だが、しかし。瀬尾くんに続いて廊下に出ても、注目の多さに変わりはない。女子とすれ違うたびに注がれる視線に辟易としながら、瀬尾くんに問いかける。
「ところで、どこ行くの。これ」
 食堂は悪目立ちしそうだから嫌だなぁ、との内心がにじんだそれに、瀬尾くんは意味深長にほほえんだ。
「俺の秘密の場所」
 行き合った女子の顔が漫画みたいに赤くなる。いや、言い方よ。
 うっかり瀬尾くんの背中を叩いてしまったわけだが、このくらいの暴挙は許されてもいいと思う。


「秘密の場所って、空き教室じゃん」
 食堂と違ってほかに人はいないから、穴場ではあるのだろうけれど。でも、それなら、俺に声をかけなくてもよかったんじゃないだろうか。ひっそりと疑っているうちに、瀬尾くんはガラリと扉を引いた。
「中庭も屋上も人多いじゃん。それに外で食べんの暑いし。クーラーついてなくても、こっちのほうがマシ」
「いや、まぁ、それはそうだけど」
 慣れた様子で教室に入った瀬尾くんが、奥の窓を開ける。そのまま窓の近くの席に座ったので、俺も前の椅子を引いて横向きに座ることにした。
 入り込んだぬるい風が、カーテンを軽くはためかせている。涼しいとは言わないが、密集率も低いからギリセーフという感じだ。
 持ち出した弁当の蓋を開きながら、先ほどからの疑問を口にする。
「あのさ、べつにいいんだけど。瀬尾くん、日向と食べたりしないの?」
「だって、あいつ、昼は絶対多野と抜けるから」
 多野というのは、羽純ちゃんのことだ。意気揚々と抜けるふたりの姿の想像の容易さに、思わず眉が下がる。
「あー……、そっか。ごめんな、なんか」
「なんで先輩が謝んの」
 ふっと笑い、瀬尾くんはペットボトルのキャップをひねった。
「それに、ふつうに一緒に食うって誘ってくれるし、たまに一緒に食うこともあるけど、毎日だと胸焼けするっていうか」
「ああ……」
 瀬尾くんを無視しているわけではないと思うのだが。隙あらばふたりの世界に入ろうとする日向と羽純ちゃんの図も、やはり想像に易かった。
「いや、なんか、ごめんな。本当」
 兄の俺が言うのもなんだが、日向にはもろもろを愛嬌で許容されている節がある。
 デリカシーがないというあれもそのひとつなわけだけど、それなりに性格に問題があるということで。それで、それは羽純ちゃんも一緒なのだった。
 いい子ではあるし、だからこそ、日向とうまくいっているのだろうけれど、瀬尾くんは振り回されているんじゃないかな、と思う。
「いや、だから、それはいいんだけど。でも、教室でひとりで食べようとすると、寄ってくるんだよ。女子が」
 蠅かなにかみたいな言い方するね、きみ。はは、と卵焼きに手をつけながら、俺は笑った。
「こういうとこ見つけてもさ、こっちがひとりだと勝手に入ってくるし。先輩がいたら、最悪デートっつったら諦めるでしょ」
「ちょっと」
「なに、駄目なの?」
「いや、……駄目ってわけじゃない、けど」
 いや、本当、ずるい、この顔。おまけに、この一ヶ月。バイト先で偽装彼氏瀬尾くんの恩恵を受けたことは事実なために、非常に断りづらいものがある。
 正直、変なおっさんに好かれるというだけなので、高校の構内で俺が困ることはほとんどない。でも、瀬尾くんが高校の構内で被害を被っていることは確実だ。
 ……高校で妙な噂になるのが嫌っていう保身で却下すんのは、さすがにひどいよな。
 言い聞かせ、「いいけど」と俺は了承を示した。「好きでもなんでもない女にゲイと思われようとどうでもいい」と言い切った瀬尾くんのメンタルと、俺の弱弱メンタルを同一視してほしくはないのだが、しかたがない。
「まぁ、瀬尾くんがいいなら、べつに」
「先輩、よくそれ言うよね」
「え?」
「べつにいいけど、みたいな。なんか、ちょっと投げやりな感じ」
「え、……ああ、うん」
 まぁ、ともごもごと頷く。そこまでのつもりはなかったにせよ、「ちょっと投げやり」と評されてしまえば、返す言葉はない。誤魔化すように、俺は話を変えた。
「瀬尾くんはお弁当、パン派なんだ」
「パン派っていうか、親が作ってくれるときは弁当のときもあるけど、自分で適当に買うときもあるっていうだけ」
「あ、なるほど。……日向もたまには買ったりしたいのかな」
 こぼれた懸念に、ああ、と瀬尾くんは相槌を打った。
「先輩が作ってるんだっけ」
「なんで知ってんの」
 野井たちにも言ったことないから知らないと思うんだけど。
「え、日向」
「ああ」
 だよね、と苦笑する。あいつはなにをぺらぺらと友達に喋ってるんだ、と。ほんの少し呆れたものの、日向の口の軽さは昔からだ。この程度であれば、かわいいものだとも言える。
「小遣いアップと引き換えに引き受けただけ。つっても弁当しか作ってないし」
 ちなみに、風呂掃除は日向の担当。そう明かすと、小学生のお手伝いじゃん、と楽しそうに瀬尾くんは表情をゆるめた。
 まぁ、たしかに、夏休みのお手伝いって感じだよな。俺もたいしたもんは作ってないけど。
「あいつ、けっこう、先輩のこと話すから。だから、バイトの前から知ってたは知ってたんだよね。日向の話で、だけど」
「ええ、どうせ、あいつオタクだとしか言ってないでしょ」
「オタクのわりに友達が陽キャで謎って言ってた」
「本当ほっとけって言っといて」
「でも、あの人ら、先輩と感じ違わない? 楽しいの?」
「……悪かったな、根暗が無理して陽キャとつるんでて」
「そういうわけじゃないけど」
 と言ったところで、瀬尾くんは黙り込んだ。言い過ぎたと気にしたのかと思うと、少しかわいい。
 ――まぁ、野井と喋ってるより、瀬尾くんと喋ってるほうが楽なのは事実だけど。
 日向の言っていた「合う」が事実だったのか、純粋に話す時間が増えたせいなのかはわからないけれど。「間が合う」というやつなのかもしれない。
 改めて考えると、ちょっと不思議だ。根暗のオタクの発想で申し訳ないのだが、俺はわりと息を吸うように他人に合わせて生きている。だから、自然と合う相手がいるなんて、想像もしなかった。
 べつに、合わせること自体は苦でもないから、どうでもよかったんだけど。
 ……あ、これか。「べつにいいんだけど」。
 浮かんだそれに苦笑いを呑み込んだところで、瀬尾くんが口を開いた。
「っつか、その『瀬尾くん』って呼び方やめない? 彼氏なんだし」
「ええ、……べつによくない? 誰も聞いてないでしょ、そこまで。っていうか、瀬尾くん下の名前なんだっけ」
海成(かいせい)
「へぇ、海成」
 名前までかっこいいな。すごいな、イケメン。謎に頷いて、顔を上げた瞬間。なぜか、俺は「いや、無理」と口走っていた。
「は?」
 怪訝に眉を寄せた瀬尾くんに、箸を持ったまま、ぶんぶんと主張する。
「無理。なんか、それはすごく恥ずかしい気がしてきた」
 ホモとかそういうことでなくとも、この顔面は規格外だということだ。
 きれいなものはきれいだし、かっこいいものはかっこいい。とにかくこれは駄目だ。無理。呼び慣れる前に俺が死ぬ。結論付け、俺は繰り返した。
「瀬尾くんが疑われないようにしたい気持ちはわかるけど、でも、ごめん。うん。これは無理だな」
「なにそれ、なにが照れんの」
「いや、わかんないけど!」
 うっかり大きくなった声に、俺は慌てて息を吸った。吐く。
 超マイペースの日向や、強心臓の瀬尾くんとは違うので、すぐにパニックになるようにできているのだ。その結果のヒス。かわいそうだな。
「じゃあ、瀬尾で」
「それ、彼氏なの」
「いいんだよ」
 というか、そもそも、偽装だし。おまえこそ、俺のこと「先輩」としか呼んでないじゃん。思ったものの、後半はすべて呑み込むことにした。
 まだ少し不服そうな瀬尾くんを見やり、だって、と内心で呟く。瀬尾くんに「一颯」とか言われたら、心臓がおかしくなりそうな気がしたんだよ。それはまずいだろ。契約的にも。
 いや、本当に。誓ってホモとかそういう話ではないのだけれど。
「一颯。おまえ、いつ王子と仲良くなったんだよ」
「呼び方」
 教室に戻った途端に絡んできた野井にへらりと笑い、俺は少しずれた返しを選んだ。
 瀬尾くんが高校でも偽装彼氏設定を利用する気があることは納得したものの、俺から積極的に広める予定はない。早い話が自己保身である。
「べつに、そこまで王子って感じでもないけど」
「だから、『そこまで王子って感じでもない』って言えるくらい、いつ仲良くなったって聞いてんの」
「バイト一緒なんだよ」
「バイトって、コンビニの?」
「そ。それと、あと、ふつうに日向の友達で。家で会ったりもするから」
 夏休み中に瀬尾くんが遊びに来たこともあったので、嘘ではない。そのくらいの交流がある感じじゃないと、昼休みに誘いに来る距離感にはならないよなと踏んで、話を盛ったというだけだ。
 へぇ、と相槌を打った野井が、にんまりと口角を吊り上げる。
「夏休み、バイトバイトで付き合い悪いって思ってたら。そっか、そっか。王子かぁ」
「いや、だから」
「しかもコンビニって。あそこだよな、あの大通りの」
「……そうだけど。見に来んなよ。瀬尾、そういうの嫌がるから」
「なに、そういうのって」
 そういうのは、そういうのだろ。俺だって、自分をからかう目的で上級生がバイト先に顔を出したら嫌だよ。ふつうに。
 即座に言葉は浮かんだものの、訴えても余計に面白がるに違いない。簡単についた想像に、俺は曖昧な苦笑に留めた。
 小学校からの付き合いだし、悪いやつではないのだけれど。野井の言動はたまに度を過ぎることがあると思う。
 ――俺が根暗だから、そう感じるだけなのかもしれないけど。
 瀬尾くんの、というか、日向の言うところの「オタクのくせに友達が陽キャで謎」というやつだ。野井もだけど、犀川も完全に一軍の陽キャだからな。この「一軍」という表現が、すでにオタクな気もするけど。
 チャイムが鳴ったことをいいことに、俺は誤魔化し笑いで会話を切り上げた。
 時間経過で興味が薄れてくれたらいいんだけど、なんて。楽観的だった俺の目論見は、数日後。バイト先に現れた野井と犀川によって、ぶち壊されることになる。


「あの、……ごめんね」
 野井と犀川が嵐のように現れ、嵐のように帰った直後。不機嫌そうな塩顔で黙々とレジ周りの雑事をこなす瀬尾くんに、俺は取り成す調子で謝った。
 野井が俺の保護者ぶって――瀬尾くんに絡む方法がそれしかなかったんだろうけど――「こいつ、ちょっととろいと思うけど、よろしくね」と言った瞬間が、最高潮に瀬尾くんの纏う空気が怖かった。たぶんだけど、喋りかけられたことが嫌だったんだろうな。
 だが、しかし。めちゃくちゃテンションの低い声だったものの、「はぁ」と答えただけ愛想を振った可能性もある。だって、俺とのバイト初日の瀬尾くんもかなりの塩だったし。
 最近の瀬尾くんは懐いてくれている感じがあるので、今となっては懐かしいくらいの塩。そんなことを思い返しつつ、そっと言い添える。
「ほら、たまにお昼誘いに来てくれるでしょ。それはぜんぜんいいんだけどさ、気になったみたいで。なんで、俺が瀬尾く……、瀬尾と仲良いのかなってことなんだけど」
「いや、べつに、先輩が謝ることじゃないと思うけど」
 瀬尾くんが王子ってことじゃなくて、と。続けるつもりだった言い訳を遮るように口を開き、瀬尾くんはちらりと俺を見た。
「このあいだも聞いたけど。本当に仲良いの? あれ」
「いや、べつに。その、ふつう」
 じとりとした雰囲気に、はは、と眉を下げる。もしかしなくても、俺たち全員で告白を覗いてネタにしていたと疑っているのかもしれない。
 否定しづらい部分はあるし、悪ノリやべぇなと思ったことも何度もあるのだけど、でも、悪いやつではないんだよな、本当に。
 説明しがたく、うーん、と俺は曖昧に唸った。
「まぁ、野井……瀬尾に話しかけてたほうは、小中一緒で、付き合い長くて」
「へぇ」
「幼馴染みってほどではないけど、それなりに昔から遊んでたし。まぁ、だから、今も一緒なのかも。属性違うだろって思うことはあるんだけど、あいつはあんまり思わないみたいで」
 そういうところは、公平というやつなのだろうか。オタクを見下す陽キャも多いわけだし。はは、と。もう一度苦笑をこぼした俺から視線を外し、瀬尾くんは言った。
「じゃあ、頼めばよかったのに」
「え? なにを」
「なんとかしてって」
「なんとか……。ああ」
 変なおっさんに絡まれがちという、俺の謎特性。偽装彼氏のきっかけ。悟った意味に、俺はまた少し笑った。その発想はなかったなぁと思いながら。
「できないだろ」
 それで、する気もない。あたりまえのことだったのだが、瀬尾くんは不思議に感じたようだった。俺に視線を戻して、「なんで?」と問う。
 クールな印象と反して、瀬尾くんは存外と素直にできている。きちんと目を合わせる意識があるところもそうだし、友達を頼ればいいと考えているところもそうだ。
 かわいくて、少し眩しい。だから、なんでもないように俺は続けた。
「男に迫られて困ってるとか。良くて笑い話で、最悪きもがられて終わりじゃん。そうじゃなくても、反応に困るだろ。想像もできないんじゃないかなって思うし」
 小学校の低学年くらいだったとき。不審者に遭ったことをぽろりと話したときの野井の引いた顔を俺はよく覚えている。
 そんな顔を見たら、笑うしかなくなるだろ。俺が笑ったら、「なんだ、笑えばよかったのか」という顔であいつも安心して笑ったし。だから、それが正解なんだと知った。
 それで、俺は、正解に早くたどり着くことができてよかったと思っている。そっか、適当に流せばいいんだって。対処法がわかって、ほっとした。
「俺もべつに想像させたくないし」
 心配をされたいわけでも、憐れまれたいわけでもない。男の俺が頻繁に不審者に遭うことは恥ずかしいとも思う。同じ男なのに怖がるそぶりを見せることもそうだ。
 ――だから、誰にも知られたくなかったんだけどな、本当。
 それなのになぁという気分で、俺は眉を垂らした。
「瀬尾にはなんか言っちゃったんだけど。タイミング良すぎて、パニクったのかな」
「笑う必要ないだろ。笑いごとじゃないんだから」
 不満そうな言い方に、慌てて「いや、でも」と取り繕う。
「そういうもんだし。それに、前も言ったと思うけど、本当にたいしたことないっていうか」
「あんたのそういう態度にも問題はあると思うけど。だから、日向も心配しないんだろ」
「いや、……」
 まぁ、そうなんだけど。まともに指摘をされると対応に困ってしまう。手持無沙汰に視線をさまよわせたものの、こういうときに限って店は暇だった。まぁ、暇な時間帯だから、野井たちも好き勝手に喋って帰ったわけだけど。
 そっと台にもたれ、瀬尾くんの表情を窺う。
 俺が言ったことで誰かが気を悪くするというシチュエーション、苦手なんだよな。なにが余計だったかなぁと省みていると、瀬尾くんが小さく息を吐いた。俺と並んで後ろの台にもたれた瀬尾くんに視線を向け、もう一度声をかける。
「あの……」
「まぁ、でも、ちょっと気持ちはわかるけど」
 目の合った瞳が、にこりとほほえむ。
「自分で笑い話にしないとやってられないときってあるし」
「え……。あぁ、まぁ、瀬尾くんもそうだよね」
 あ、また、瀬尾くんって呼んじゃった。慣れないな。そんなことを考えながら、俺は髪を掻きやった。
「言ってたもんね。女の子に絡まれて困ってても、モテ自慢になるって」
 モテ自慢と言いたくなる気持ちもわからなくはないものの、好きではない相手に迫られるという体験は、男女関係なくけっこうなストレスだと思う。
 もっとも、俺のあれは、モテ自慢にすらならないわけだけど。
「そう、そう」
 瀬尾くんは、あっさりと首肯した。
「でも、先輩はモテ自慢とは思わなかったでしょ」
「まぁ、それは……」
「だから、先輩も、俺の前では笑い話にしなくていいよ。ちゃんと聞くから」
「……え」
「それに、ほら。彼氏なんだし、俺」
 台に置いていた指に、瀬尾くんの指が触れる。距離が近くてたまたま触れたわけではない、意図を持った接触。驚いて振り向くと、瀬尾くんが目元を笑ませた。顔が赤くなった気がして、とっさにうつむく。
 なに、本当。なんでこういうことに慣れてるわけ。なんか、めっちゃ照れるじゃん。
「俺の彼氏がイケメンすぎる」
 腹いせに言ったはずの台詞も、瀬尾くんはさらりと笑い飛ばした。
「よかったね、先輩。先輩にだけだよ。俺がこんなことするの」
「やめろって、そういうの」
「なんで」
「心臓ちょっと変だから」 
 ぱしりと瀬尾くんの瞳が瞬く。覚えた居た堪れなさに、俺は小声で言い募った。「心臓が変」だと、ときめいたみたいに聞こえた可能性がある。
「童貞からかって遊ぶなって言ってんの」
「童貞っていうかさぁ、え……じゃあ、先輩」
 ひそめられた声に思わず「ん?」と顔を寄せ、――俺は後悔した。
「処女?」
「――っ、馬、鹿」
 じゃねぇの、と叫びかけた台詞が、自動ドアの開閉音で立ち消える。こちらを見たお客さんに軽い愛想笑いを返し、俺は深く息を吸った。なんなんだ、本当に。
 男相手に処女もなにもあったものじゃないし、いや、女の子に聞いた場合も完全にアウトなセクハラだと思うけど、そうじゃなくて。堪え損ねたふうにくすくすと笑う珍しい横顔にじとりとした視線を送る。
 ……なんていうか、すげぇ、日向の友達って感じ。
「なに、怒った?」
 小声で話しかけられ、「べつに」と溜息まじりに応じる。
 変なおっさんに絡まれやすいという事実を承知の上での発言としては、ちょっと、おい、デリカシーという感じはするし、マジで日向の友達だよなとも思うけど、怒りが持続しなかったのだ。たぶんだけど、雄弁な瞳のせいだと思う。
 クールなようでいて、瀬尾くんはけっこうわかりやすい。今だって、そうだ。なんでもないふうに確認を取ったくせに、瞳の奥には隠し切れない不安を飼っている。日向みたいというより、もはや大型犬。
 ……それで、それをちょっとかわいいと思ってるんだよな、俺。
 心臓もだけど、俺の目もどうかしているのかもしれない。意味のわからないことに、すべて瀬尾くん限定の不具合なんだけど。
「怒ってないよ」
 ぽつりと言い足したタイミングで、また自動ドアが開いた。ぬるい風と一緒にお客さんがふたり入店する。見上げた時計は、十八時六分を指していた。そろそろ忙しくなる時間帯だ、と。気分を切り替えて、俺は台から背を離した。
 

「じゃ、おつかれさまでーす」
 バックヤードを出て、自動ドアを通る前、レジカウンターを振り返って声をかける。
「仲良しだねぇ、遠坂くんたち」
 珍しく夜に店にいた川又さんは――急に休みを取った深夜シフトの人の代わりが見つからなかったらしい――俺たちを見て、にこにことほほえんだ。
 あいかわらずの先生みたいな言いように、はは、と笑い返し、瀬尾くんとコンビニを出る。
 夏休みも含めて瀬尾くんと一緒に入ることは多かったし、その流れで一緒に帰ることも多かった。たしかに、仲良しかもしれない。苦笑気味に川又さんの台詞を思い返したところで、俺は首をひねった。
 ……そういや、俺、瀬尾くんに触られても大丈夫だったな。
 めちゃくちゃドキッとしたので、そういう意味では大丈夫ではなかったわけだけど、気持ち悪いとは少しも思わなかった。
「なに?」
「あ、……えっと」
 気遣うような声に、慌てて頭を振る。
「なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
「ぼーっとしてたって、家帰ってからぼーっとしてくださいよ、危ないな」
「危なくは……ないだろ」
 だって、瀬尾くんが……瀬尾が隣にいるんだし。偽装だけど、今はこうして一緒に帰ってくれている。あたりまえみたいな顔で。
「あ、そうだ。今日、ちょっと先輩ん家寄ってくんで」
「え、なに。日向?」
「そ。あいつ、明日提出のプリントなくしたんだって」
 気づくの遅すぎ、と笑った瀬尾に、ありがとね、と俺は言った。
「え? プリント? べつにいいよ」
「それもだけど、なんかいろいろ」
「なに、いろいろって」
 その問いに、曖昧に笑う。自分でも明確な説明をできる気がしなかったからだ。変なの、と呟いた瀬尾に、俺はもう一度笑みをこぼした。夜の道を歩きながら、改めて考える。
 日向と友達でいてくれてありがとう、とか、俺と同じバイト先に来てくれてありがとう、とか。こうやって喋ってくれてありがとう、とか。
 瀬尾に対するありがとうは、たぶん、いっぱいあるんだけど。なんだかんだと言ったところで、俺は今がけっこう楽しくて。瀬尾に彼女ができて偽装彼氏()が不要になる日はまだ先でもいいと思い始めている。
 なんてことは、さすがに言えないんだけど。苦笑ひとつで思考を留め、俺は「ただいま」と瀬尾と一緒に家に入った。
「うわ、雨」
 コンビニを出た瞬間にぽつりと落ちたしずくに、瀬尾が夜の空を見上げた。十月も半ばになると、さすがに夜は少し冷えるようになる。
 雨が降ると、さらにちょっと寒いよな、と。俺はリュックを探った。今日は学校から直接バイト先に来たので、予備の折り畳み傘が入っている。取り出したそれを、はい、と瀬尾に手渡す。
「使っていいよ、それ。俺、ふつうの傘も持ってるから」
「助かるけど、なんでダブル?」
「日向がぜんぜん持ち歩かないから、なんか習慣になってんの。最悪」
「おかんじゃん」
 からかうように、というよりも、どこかほほえましい調子で笑って、瀬尾が折り畳み傘を開く。「今日、自転車なんでしょ」という問いに頷けば、ごく当然と瀬尾の足は駐輪場に向かった。
 新学期が始まって、学校帰りに自転車で来る機会が増えても、瀬尾は一緒に帰ることをやめなくて。おかげで、自転車を押しながら帰る日々も、すっかりあたりまえになってしまった。
 たぶんだけど、瀬尾のほうこそ面倒見が良いのだと思う。甘ったれ弟気質の日向が懐いてる現状も、納得という感じ。
 片手に傘、もう片方の手で自転車を押しながら、細かい雨の中を歩くさなか、でも、と瀬尾が少し前の話題を引っ張り出した。
「なんか、わかった。あいつが無駄にのびのびしてんの、先輩がそうやって甘やかしてかわいがってたからなんでしょ」
「そうかな」
 謙遜ではなく首をひねる。頭上では、ビニール傘が雨をはじく音が響いていた。
「あいつ、昔から要領良くてさ。あと、なんか、年上にかわいがられるタイプっていうか。だからだと思う」
「ふぅん。……あ、そういえばさ」
 さらりと話を変える調子に、少しだけドキリとする。日向の話を嫌がっていると思ったのかもしれない。
「来月さ、文化祭じゃん」
「ああ、うん。だね」
「公立のわりに派手って聞いたんだけど。そんな感じなの?」
「たしかにそうかも。私立みたいな規模じゃないけど、わりとにぎやかっていうか。クラスで店したり、出し物したり。けっこう楽しいんじゃないかな」
 目立つ弟をねたんでいると思われたくなくて、俺はことさら明るい声を出した。それに、実際、ねたんではいないつもりだ。たまにいいなと思うことはあるけれど、その程度は誰にだってあるだろう。
「先輩は去年なにしたの?」
「去年は展示だった。飲食はできる件数が限られてるから、どうしても上級生が有利なんだよね」
「へぇ、じゃあ、うちも今年は展示なのかな」
「どうだろうな。ステージで劇とかやるクラスもあるけど」
「へぇ」
 少しの沈黙が落ちて、雨の音が大きくなる。明日の朝はやんでるといいんだけど、と雨の音に意識を向ける。雨がひどいとバス通学になるが、あまり好きではないのだ。
「あのさ、先輩」
「ん?」
「文化祭、一緒に回んない?」
 唐突な誘いに瞳を瞬かせた直後。瀬尾の目論見に気がついて、俺は半目になった。
「瀬尾さぁ、それ、女子断るの面倒なだけだろ」
「ばれた?」
「ばれるよ。というか、すごいな。そんなに誘われるんだ」
「まぁ、あと、日向も絶対多野と回るって言うし」
「ああ」
 納得して苦笑した俺に、「嘘」と瀬尾が瞳をゆるめる。
「俺が先輩と回りたいんだけど、駄目?」
 いや、その言い方、ずるすぎるだろ。なんで、そう甘えるのがうまいかな。赤くなりかけた顔を誤魔化すように軽くうつむき、再びそっと顔を上げる。
「瀬尾って上に兄弟いたりする?」
「いないけど、なんで?」
「いや、甘えんのうまいなと思って」
「そんなことはじめて言われたんだけど」
 はじめて言われること多いな。今までどんな交友関係結んできたんだよ。自分のことを棚に上げて呆れ半分で思ったものの、すぐに少し腑に落ちた。
 これは本当に少しなんだけど。瀬尾は俺と似ているんじゃないかなと思う瞬間がある。たとえば、心の底から親しい友達をつくることができなくて、まとわりつく誰かに辟易としているところ、とか。
 そう考えると、覗くなと言って怒った瀬尾の気持ちもよくわかる気がした。おっさんに絡まれている場面を誰にも見られたくないと感じることと、たぶん、同じ。
 結果論で言えば、瀬尾が見かけてくれたから、この関係になったわけだけど。お互いにとって利用価値がある、恋愛契約。でも、これ、本当に瀬尾にメリットはあるのかな。ひそかに悩んでいると、たぶん、と瀬尾が口を開いた。
「先輩だからだと思う」
「あー……、日向の兄貴だからってこと?」
「じゃ、なくて」
「なくて?」
 珍しく言い淀んだ瀬尾を見上げると、さらに珍しいことに瀬尾が目を逸らした。
「いや、それもあるかもだけど。……いや、それでいいや、もう」
「なに、それ」
 反応がかわいかったことも含め、堪えきれずに笑みをこぼれる。俺が言うことではないと思うけど、なんか、たまに本当にかわいいんだよな。
 笑っているうちに別れる角に差し掛かり、じゃあ、と俺は手を振った。
「瀬尾も気をつけてな」
「うん。ありがと、傘」
「ぜんぜん。次のバイトのときにでも返してくれたらいいし」
 昼休みに瀬尾が現れることはあるものの、毎日一緒に食べる約束をしているわけではない。瀬尾も日向や羽純ちゃんと食べる日があるし、俺も野井たちと食べることがある。
 個人的には、瀬尾と食べる時間は落ち着くから好きなんだけど。そのあたりの選択は瀬尾に任せようと決めていた。
 これも俺に言える台詞ではないし、兄貴ぶっていると言われると返す言葉はないのだが。クラスに仲の良い友達ができたらいいな、という思いはあるのだ。
 ……だって、誤解されやすいだけで、いいやつなんだよな、本当。
 その事実を、俺はもうよくよく思い知っている。
「わかった。じゃ、先輩も気をつけて」
 またね、とほほえんで踵を返した瀬尾を見送り、俺もあと少しを自転車を押した。
 瀬尾がはじめて教室に顔を出した日は大騒ぎだったものの、週に一、二度の頻度で顔を出す日々が続くこと、二ヶ月弱。
 どうにか日常風景と化したはずだった訪問は、朝に顔を出すというイレギュラーひとつであっさりと注目の的に舞い戻った。
「べつによかったのに」
 興味津々の視線を背中に感じつつ、俺は教室のドア付近で傘を受け取った。ひさしぶりに感じる居心地の悪さで、ついつい苦笑いになる。
「朝一で持ってきてくれなくても。っていうか、日向で本当によかったんだけど。それか次のバイトでも」
「まぁ、そうだけど」
「けど? もしかして、瀬尾、借りたもんずっと持ってんの苦手な人?」
 なにを隠そう、俺もそのタイプなので気持ちは大変よくわかる。ちなみにだけど、真逆のタイプの日向は常に借りパク一歩手前のチキンレースだ。「あれ、これ、兄ちゃんのだったっけ?」という台詞を、俺が何度聞いたことか。
 瀬尾相手にはしてないといいんだけど、と。少し不安を覚えていると、ぷはっと瀬尾が笑った。クールが代名詞の王子の笑顔に、わかりやすく背後がざわつく。
 わかる。基本が塩対応のやつがこういう笑い方をすると、くるものがあるよね。俺は最近大型犬と思うことで耐えているので、免疫をつけたい人は真似をしたらいいと思う。
「ううん、たまには朝にも先輩の顔見ようと思って」
「あー……、うん」
 そういう誤解を招く言い方はやめようね、と告げようとした台詞を、俺はもごもごと呑み込んだ。そういう誤解を招きたい関係だったと思い出したのである。取り繕うように、へらりとほほえむ。
「ありがとね」
「なに、その微妙な顔」
「いやぁ」
 わかってるでしょ。愛想笑いを維持する俺を見て、瀬尾はちらりと俺の背後――つまるところ教室内を見渡した。
「あの……、瀬尾?」
「ま、いいや。それ返しに来ただけだから」
「あ、……うん。ありがとね」
 ぎこちなく笑う以外の返し方がわからず、やんわりと手を振る。
 良くも悪くも瀬尾は慣れているのだろうけれど、複数の視線を背中に感じる状況は、どうにも落ち着かない。
 その俺に向かって控えめに目元を笑ませると、じゃあね、と瀬尾は踵を返した。なんだ、あのイケメン。俺がリアルに彼女だったら、心臓をぶち抜かれているに違いない。
 女子に話しかけられないよう、うつむきがちにそそくさと席に戻る。と、前の席の野井が振り返った。興味半分、呆れ半分といった顔で野井が口を開く。
「一颯、マジで懐かれてんのな、王子に。なんか、俺、睨まれた気がすんだけど」
「してない、してない」
 万に一くらいの確率で、コンビニまでからかいに来たことを根に持っている可能性はあるけれど。
 案外と瀬尾は根がおっとりとしているというのが、最近の俺の見立てなのだ。猪みたいな側面もあるものの、のんびりというか、いい子というか。なんか、そんな感じ。
 苦笑いを刻み、返してもらった折り畳み傘をリュックに片付ける。
「本当にいいやつだよ、瀬尾。傘も早く返さないと落ち着かなかったんじゃないかな。たぶんだけど。けっこう真面目なんだよね」
「真面目ねぇ」
 想像できないと首をひねった野井に、まぁ、そうは見えないよなぁと内心で同意を示す。瀬尾、ギャップの宝庫って感じあるし。
 冷たそうに見えるけど、空気が読めて、なんだかんだと言っても優しくて。それで、他人に悟らせないレベルの気遣いがうまい。
 誤解を招きたい関係であることを思い出した、という事実が正にそれで。高校での瀬尾は「自分の親友の兄貴で、自分も懐いている仲の良い先輩」というポジションに俺を置いてくれている。
 九月の最初。はじめて瀬尾とふたりで昼を食べたとき。「最悪、デートって言えば、しつこい女子も寄ってこないでしょ」との発言に、俺が内心で怯んだことに気がついたのだと思う。
 アルバイト中だけであればともかく、目立つことが苦手な俺にとって、校内で「あの王子の彼氏」という視線を浴びる立場はきついものがある。
 それが本音だったので、偽装彼氏の話を瀬尾が持ち出さない現状は正直とてもありがたい。ただ、同時に、瀬尾にとっての偽装彼氏のメリットはますますなくなってるんじゃないのかな、と少し疑っているのだけれど。
 ホームルームの時間が文化祭準備に充てられるようになり、放課後も有志で集まるようになると、学校全体がぐっと文化祭に染まり出す。
 クラスで一致団結して和気藹々と行事に取り組む、陽キャのハッピーシーズンというやつだ。
 ――陽キャだけじゃないかもしれないけど。でも、だって、野井も犀川も異常に生き生きしてんだもん。
 溜息を呑み、ちらりと教卓を窺う。学年一美少女と名高い櫻井さんを含む女子グループと、きゃっきゃと話し合う犀川たちは大変楽しそうだった。
 イベントの主導権を握るのは、一軍陽キャと相場は決まっているわけで。
 陽キャぶっているだけの俺に、「うちのクラス、BLカフェにしようよ」と盛り上がった一軍女子と追従した一軍男子――主に野井と犀川のことだ。本当にやめてほしかった――に対抗する術などあるわけがなく。ひっそりと気配を消して雑用に勤しんでいるのだった。
 というか、なんで彼氏持ちの一軍陽キャがBL好きなの。顔赤らめて「好きなんだよね」とか告白しなくていいから。おかげで、犀川が完全にその気になったじゃん。野井も野井で「最近流行ってんだってね、BLドラマ」じゃねぇよ。どうせ恋ちゃん――野井の中学生の妹のことだ。いい子でかわいい――情報なんだろうけど。
「あ、段ボール足りないかも。事務室にあるかな」
 同じグループで作業中だった原野さんの声に、鬱々とした思考を封印して、俺は立ち上がった。
「じゃあ、聞いてくるよ、俺」
「え? いいの? 一緒行く?」
「聞いてくるだけだから、大丈夫。なかったらスーパー行かなきゃになるし、そのときは誰かついてきてほしいけど」
 荷物持ち的な意味で。だよね、と笑った原野さんに、行ってくるね、と告げて、教室を出る。いつもの六時間目と違い、文化祭準期間中の校内は廊下を歩くだけでもにぎやかだ。
 開いた窓から入り込む風も涼しくて、もうすっかり秋だなぁ、と。俺は少ししみじみとした気分になった。

「段ボール? ちょうどあとふたつ残ってるよ。大きいのはもうみんな売れちゃったんだけど。これで大丈夫かな?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
 サイズが足りない可能性があっても、ないよりはマシだろう。その判断で、俺は笑顔で事務員さんから段ボールを受け取った。
 段ボールを抱え、のんびりと渡り廊下を歩く。教室から事務室までは少し距離があるのだが、気分転換にはちょうどいい。まぁ、そんなことを言ったところで、俺はぐるぐると考えてしまうわけだけど。
 ――BLカフェなぁ。
 メイドカフェであれば、「好き勝手にメイド服着てよ、女子」で済んだ話だったのに。たまらずひとつ溜息をこぼしたところで、俺は立ち止まった。声には出さず、瀬尾じゃん、と呟く。
 渡り廊下の奥、中庭に続く方角に見えた背中に、ふらりと一歩を踏み出す。教室に戻る時間を伸ばすための、現実逃避。そのつもりだった足が、瀬尾がひとりではないことに気がついてぴたりと止まる。
 ……また、告白されてんのかな。
 そう思ったのもつかの間。ちらりと見えた横顔の柔らかさに、俺は違うと思い直した。よくわからないまま、ドクンと心臓が鳴る。
 瀬尾が女の子とふたりでいるところを見ることは、はじめてではない。むしろ、間々あることだ。俺が瀬尾を知ったのも、女の子に告白される場面を目撃したことがきっかけだったし、「瀬尾にがんばって話しかける女の子の図」を見かけたことは何度もある。
 ただ、そういうときの瀬尾は塩対応を徹底していて、だから。そこまで考えたところで、俺はふるりと首を振った。
 ――瀬尾が女の子とふつうに喋ってたからってショックはおかしいだろ。
 あるいは、俺にだけ都合が良くて、心地の良かった「偽装彼氏」が終わるかもしれないと気づいて動揺したのだろうか。瀬尾に彼女ができるまでの期間限定とわかっていたのに。
「なーに、サボってんだよ、一颯」
「お、わ!」
 唐突に肩に腕を置かれ、俺はぎょっとした声を上げた。
「なに、その反応」
 びくりと肩を揺らした過剰な反応に、野井が眉を寄せる。当然と言えば当然の態度に、俺はへらりとした笑みを取り繕った。
「や、びっくりして。急に現れんなよ」
「おまえが戻ってくんの遅いからじゃん」
「え? そんなに遅かった?」
 まぁ、たしかに、ちょっと戻るの面倒だなぁとは思っていたけれど。焦った俺に、「嘘」と野井が口角を引き上げる。
「探しに来た。一颯いないとつまんないから」
「……野井さぁ、それ、櫻井さんに頼まれたとかじゃないよね」
 嫌な予感に、俺の愛想笑いは引きつった。BLカフェをやりたいと言い出した諸悪の根源のめちゃかわ女子。その櫻井さんが、BLカフェなんだからさ、男子の店員同士でいちゃついてほしいよね、あと、チェキサービスとか。などという恐ろしい提案をし続けていることは知っている。完全に俺の今関わりたくない人ランキング一位。