夏休み明け、新学期。爆弾は、通常授業に切り替わった日の昼休みに落ちてきた。
「先輩。一緒に昼食べよ」
 瀬尾くんの登場に、一瞬で教室がざわめく。
 そうか、そういえば、王子だったな、瀬尾くん。現実逃避気味にそんなことを考えているあいだに、瀬尾くんは俺の机の前で立ち止まった。
「ね。遠坂先輩」
「あ、……うん。そだね」
 駄目押しとばかりの笑みに、ぎこちなく頷く。べつにいいけど、なんで、瀬尾くん、そんなに満面の笑顔なの。
 野井を筆頭とする興味津々の視線から逃れるべく、「約束はしてなかったと思うんだけどね」なんて。もごもごと呟きつつ、俺は弁当片手に立ち上がった。
 だが、しかし。瀬尾くんに続いて廊下に出ても、注目の多さに変わりはない。女子とすれ違うたびに注がれる視線に辟易としながら、瀬尾くんに問いかける。
「ところで、どこ行くの。これ」
 食堂は悪目立ちしそうだから嫌だなぁ、との内心がにじんだそれに、瀬尾くんは意味深長にほほえんだ。
「俺の秘密の場所」
 行き合った女子の顔が漫画みたいに赤くなる。いや、言い方よ。
 うっかり瀬尾くんの背中を叩いてしまったわけだが、このくらいの暴挙は許されてもいいと思う。


「秘密の場所って、空き教室じゃん」
 食堂と違ってほかに人はいないから、穴場ではあるのだろうけれど。でも、それなら、俺に声をかけなくてもよかったんじゃないだろうか。ひっそりと疑っているうちに、瀬尾くんはガラリと扉を引いた。
「中庭も屋上も人多いじゃん。それに外で食べんの暑いし。クーラーついてなくても、こっちのほうがマシ」
「いや、まぁ、それはそうだけど」
 慣れた様子で教室に入った瀬尾くんが、奥の窓を開ける。そのまま窓の近くの席に座ったので、俺も前の椅子を引いて横向きに座ることにした。
 入り込んだぬるい風が、カーテンを軽くはためかせている。涼しいとは言わないが、密集率も低いからギリセーフという感じだ。
 持ち出した弁当の蓋を開きながら、先ほどからの疑問を口にする。
「あのさ、べつにいいんだけど。瀬尾くん、日向と食べたりしないの?」
「だって、あいつ、昼は絶対多野と抜けるから」
 多野というのは、羽純ちゃんのことだ。意気揚々と抜けるふたりの姿の想像の容易さに、思わず眉が下がる。
「あー……、そっか。ごめんな、なんか」
「なんで先輩が謝んの」
 ふっと笑い、瀬尾くんはペットボトルのキャップをひねった。
「それに、ふつうに一緒に食うって誘ってくれるし、たまに一緒に食うこともあるけど、毎日だと胸焼けするっていうか」
「ああ……」
 瀬尾くんを無視しているわけではないと思うのだが。隙あらばふたりの世界に入ろうとする日向と羽純ちゃんの図も、やはり想像に易かった。
「いや、なんか、ごめんな。本当」
 兄の俺が言うのもなんだが、日向にはもろもろを愛嬌で許容されている節がある。
 デリカシーがないというあれもそのひとつなわけだけど、それなりに性格に問題があるということで。それで、それは羽純ちゃんも一緒なのだった。
 いい子ではあるし、だからこそ、日向とうまくいっているのだろうけれど、瀬尾くんは振り回されているんじゃないかな、と思う。
「いや、だから、それはいいんだけど。でも、教室でひとりで食べようとすると、寄ってくるんだよ。女子が」
 蠅かなにかみたいな言い方するね、きみ。はは、と卵焼きに手をつけながら、俺は笑った。
「こういうとこ見つけてもさ、こっちがひとりだと勝手に入ってくるし。先輩がいたら、最悪デートっつったら諦めるでしょ」
「ちょっと」
「なに、駄目なの?」
「いや、……駄目ってわけじゃない、けど」
 いや、本当、ずるい、この顔。おまけに、この一ヶ月。バイト先で偽装彼氏瀬尾くんの恩恵を受けたことは事実なために、非常に断りづらいものがある。
 正直、変なおっさんに好かれるというだけなので、高校の構内で俺が困ることはほとんどない。でも、瀬尾くんが高校の構内で被害を被っていることは確実だ。
 ……高校で妙な噂になるのが嫌っていう保身で却下すんのは、さすがにひどいよな。
 言い聞かせ、「いいけど」と俺は了承を示した。「好きでもなんでもない女にゲイと思われようとどうでもいい」と言い切った瀬尾くんのメンタルと、俺の弱弱メンタルを同一視してほしくはないのだが、しかたがない。
「まぁ、瀬尾くんがいいなら、べつに」
「先輩、よくそれ言うよね」
「え?」
「べつにいいけど、みたいな。なんか、ちょっと投げやりな感じ」
「え、……ああ、うん」
 まぁ、ともごもごと頷く。そこまでのつもりはなかったにせよ、「ちょっと投げやり」と評されてしまえば、返す言葉はない。誤魔化すように、俺は話を変えた。
「瀬尾くんはお弁当、パン派なんだ」
「パン派っていうか、親が作ってくれるときは弁当のときもあるけど、自分で適当に買うときもあるっていうだけ」
「あ、なるほど。……日向もたまには買ったりしたいのかな」
 こぼれた懸念に、ああ、と瀬尾くんは相槌を打った。
「先輩が作ってるんだっけ」
「なんで知ってんの」
 野井たちにも言ったことないから知らないと思うんだけど。
「え、日向」
「ああ」
 だよね、と苦笑する。あいつはなにをぺらぺらと友達に喋ってるんだ、と。ほんの少し呆れたものの、日向の口の軽さは昔からだ。この程度であれば、かわいいものだとも言える。
「小遣いアップと引き換えに引き受けただけ。つっても弁当しか作ってないし」
 ちなみに、風呂掃除は日向の担当。そう明かすと、小学生のお手伝いじゃん、と楽しそうに瀬尾くんは表情をゆるめた。
 まぁ、たしかに、夏休みのお手伝いって感じだよな。俺もたいしたもんは作ってないけど。
「あいつ、けっこう、先輩のこと話すから。だから、バイトの前から知ってたは知ってたんだよね。日向の話で、だけど」
「ええ、どうせ、あいつオタクだとしか言ってないでしょ」
「オタクのわりに友達が陽キャで謎って言ってた」
「本当ほっとけって言っといて」
「でも、あの人ら、先輩と感じ違わない? 楽しいの?」
「……悪かったな、根暗が無理して陽キャとつるんでて」
「そういうわけじゃないけど」
 と言ったところで、瀬尾くんは黙り込んだ。言い過ぎたと気にしたのかと思うと、少しかわいい。
 ――まぁ、野井と喋ってるより、瀬尾くんと喋ってるほうが楽なのは事実だけど。
 日向の言っていた「合う」が事実だったのか、純粋に話す時間が増えたせいなのかはわからないけれど。「間が合う」というやつなのかもしれない。
 改めて考えると、ちょっと不思議だ。根暗のオタクの発想で申し訳ないのだが、俺はわりと息を吸うように他人に合わせて生きている。だから、自然と合う相手がいるなんて、想像もしなかった。
 べつに、合わせること自体は苦でもないから、どうでもよかったんだけど。
 ……あ、これか。「べつにいいんだけど」。
 浮かんだそれに苦笑いを呑み込んだところで、瀬尾くんが口を開いた。
「っつか、その『瀬尾くん』って呼び方やめない? 彼氏なんだし」
「ええ、……べつによくない? 誰も聞いてないでしょ、そこまで。っていうか、瀬尾くん下の名前なんだっけ」
海成(かいせい)
「へぇ、海成」
 名前までかっこいいな。すごいな、イケメン。謎に頷いて、顔を上げた瞬間。なぜか、俺は「いや、無理」と口走っていた。
「は?」
 怪訝に眉を寄せた瀬尾くんに、箸を持ったまま、ぶんぶんと主張する。
「無理。なんか、それはすごく恥ずかしい気がしてきた」
 ホモとかそういうことでなくとも、この顔面は規格外だということだ。
 きれいなものはきれいだし、かっこいいものはかっこいい。とにかくこれは駄目だ。無理。呼び慣れる前に俺が死ぬ。結論付け、俺は繰り返した。
「瀬尾くんが疑われないようにしたい気持ちはわかるけど、でも、ごめん。うん。これは無理だな」
「なにそれ、なにが照れんの」
「いや、わかんないけど!」
 うっかり大きくなった声に、俺は慌てて息を吸った。吐く。
 超マイペースの日向や、強心臓の瀬尾くんとは違うので、すぐにパニックになるようにできているのだ。その結果のヒス。かわいそうだな。
「じゃあ、瀬尾で」
「それ、彼氏なの」
「いいんだよ」
 というか、そもそも、偽装だし。おまえこそ、俺のこと「先輩」としか呼んでないじゃん。思ったものの、後半はすべて呑み込むことにした。
 まだ少し不服そうな瀬尾くんを見やり、だって、と内心で呟く。瀬尾くんに「一颯」とか言われたら、心臓がおかしくなりそうな気がしたんだよ。それはまずいだろ。契約的にも。
 いや、本当に。誓ってホモとかそういう話ではないのだけれど。