「一石です」
「来ていただきありがとうございます。緊急連絡先となっているおばあさんはなかなかこちらまで来ていただくことは難しかったので、あなたが来てくれて本当に良かった」
「えーっと、俺、何もできないですけど」
「そんなことはない。よろしければ辛城さんのことを教えてください。そして、彼女のことをお伝えさせてもらいたい」
「辛城の、こと」
「はい。彼女との約束なんです。「一石くんが来たら教えてあげてほしい」と」
「っ、辛城と話したんですか?」
慌ただしい音を立てて椅子が揺れる。立ち上がった俺を鎮まらせるよう、両手を出して制する。
「落ち着いてください。それに関してもご説明いたします。ご同行願えますか?」
辛城のことではあるが、本人を前にして話すのは控えると。モラルとデリカシーの範囲か。促されるのにもちろん拒否はない。彼女がいいと言っているのなら。
そうして案内されたのは、同じフロアの面談室。四人掛けのテーブルに、ホワイトボードとノートパソコン。パソコン側に先生が座り、その正面に俺が座る。ホワイトボードの裏の窓から風が入り込んでくる。開かれたパソコンを操作して、先生は語りだした。
「今からお話しする内容は、辛城さんご本人から了承を得てのことです。また、身元引受人である加藤さん、つまりは辛城さんのご親族の知人から委任状を得てご説明いたします」
説明と同意の一環になるのだろうか、念押ししたその内容に、俺は強く頷く。先生も同様に頷いてから、テーブルの上に組んだ手を乗せて、静かに始めた。
「彼女はご覧になったように眠っています。現時点で1カ月間は経過しています」
「いっかげつ、って、ずっとですか?」
「はい。ですがこれは、植物状態や一般的に言われる『寝たきり』とは少し違います。私たちは基本的に、夜に睡眠をとっていますが、彼女はそれが連続している状態です」
「連続、って」
「ずっと、です。脳波を測定しても睡眠期を示します。そして、覚醒していたとしても所謂それは『寝ぼけている』状態であり、ほとんどの場合はその間のことを覚えていません」
「な、ん……」
なんなんだ、それは。そんな状態がありえるのか。眠っているだけ? そんな、だって。 え? 寝ること自体は不思議じゃないけれど……。寝たきりとは違う?
「【クライネ・レビン症候群】と言います。難病にも指定されていないほど珍しい病気で、【眠り姫病】、【反復性過眠症】とも言われます」
クライネ・レビン? 眠り姫……?
困惑する。入ってきた言葉が頭の中でぐるぐると回る。理解が追い付かなかった。先生はそんな状態の俺を察してか、少しの間無言だった。
おもむろに立ち上がると、部屋の出入り口付近の受話器に手を取って、何やら話をしていた。席に戻ってきて数秒後、事務さんらしき人がペットボトルのお茶をテーブルに置いて行った。
「聞き覚えがない病気の症状だと思います。僕も初めて担当する病気です」
カチカチとペットボトルの蓋が開く音がする。率先して飲みだした。人が飲むのを見て、自分の喉の渇きを自覚する。
そういえば、アパートを出てから全く飲まず食わずだった。自分の目の前に置かれたペットボトルに手を伸ばし、開封する。喉を通り過ぎて落ちていく感覚。口を離して、止まっていた呼吸を再開した。
「一カ月前。辛城さんは突然目を覚ましました。その時に初めて、僕は彼女と会話しました。その時点で、病院に運び込まれてから一カ月ほど経過していました」
「一カ月……も」
寝続けている。その事実は言葉にするのが重かった。大学に落ちた時、ずっと眠ってしまいたい、起きたくないと思ったのは記憶に新しい。そう思っていたまさにその時、辛城が一カ月も寝続けていたとは夢にも思わなかった。起きたくないと言っても、もちろんそんな長い時間なんて考えていなかった。
「起きている時、今までどんな生活をしていたのかを彼女に聞いてみました。寝続けてしまっている症状を確認している時点で次に話ができるかわからなかったので、ご本人の了承を得たうえで録音しています」
パソコンを操作して、最初に聞こえたのはその証拠となる確認と了承のやり取り。そして約二か月ぶりの、辛城の声。
『眠くなるのは……いつからかは、わかりません。もともと寝ないようにしてたので、常に眠気は感じていました』
『なぜ寝ないようにしていたんですか?』
『おばあちゃんが認知症で、目が離せなかったんです。それと、寝ると嫌な夢を見てしまうので』
『嫌な夢、というのは?』
『両親が亡くなった時の、事故のことです』
『なるほど。それは確かに見たくないですね』
『はい。なので……街中で会った人に……その、抱いてもらってました』
『だい……え、それは、そういうことですか?』
『たぶんご想像の通りです。寝ないようにするには……私には、それしか思いつかなかったんです』
尻すぼみの声が、裏にある当時の葛藤を表しているように聞こえた。それを聞いた瞬間、初対面での彼女の頼みごとを思い出した。
―― 「助けて」
「来ていただきありがとうございます。緊急連絡先となっているおばあさんはなかなかこちらまで来ていただくことは難しかったので、あなたが来てくれて本当に良かった」
「えーっと、俺、何もできないですけど」
「そんなことはない。よろしければ辛城さんのことを教えてください。そして、彼女のことをお伝えさせてもらいたい」
「辛城の、こと」
「はい。彼女との約束なんです。「一石くんが来たら教えてあげてほしい」と」
「っ、辛城と話したんですか?」
慌ただしい音を立てて椅子が揺れる。立ち上がった俺を鎮まらせるよう、両手を出して制する。
「落ち着いてください。それに関してもご説明いたします。ご同行願えますか?」
辛城のことではあるが、本人を前にして話すのは控えると。モラルとデリカシーの範囲か。促されるのにもちろん拒否はない。彼女がいいと言っているのなら。
そうして案内されたのは、同じフロアの面談室。四人掛けのテーブルに、ホワイトボードとノートパソコン。パソコン側に先生が座り、その正面に俺が座る。ホワイトボードの裏の窓から風が入り込んでくる。開かれたパソコンを操作して、先生は語りだした。
「今からお話しする内容は、辛城さんご本人から了承を得てのことです。また、身元引受人である加藤さん、つまりは辛城さんのご親族の知人から委任状を得てご説明いたします」
説明と同意の一環になるのだろうか、念押ししたその内容に、俺は強く頷く。先生も同様に頷いてから、テーブルの上に組んだ手を乗せて、静かに始めた。
「彼女はご覧になったように眠っています。現時点で1カ月間は経過しています」
「いっかげつ、って、ずっとですか?」
「はい。ですがこれは、植物状態や一般的に言われる『寝たきり』とは少し違います。私たちは基本的に、夜に睡眠をとっていますが、彼女はそれが連続している状態です」
「連続、って」
「ずっと、です。脳波を測定しても睡眠期を示します。そして、覚醒していたとしても所謂それは『寝ぼけている』状態であり、ほとんどの場合はその間のことを覚えていません」
「な、ん……」
なんなんだ、それは。そんな状態がありえるのか。眠っているだけ? そんな、だって。 え? 寝ること自体は不思議じゃないけれど……。寝たきりとは違う?
「【クライネ・レビン症候群】と言います。難病にも指定されていないほど珍しい病気で、【眠り姫病】、【反復性過眠症】とも言われます」
クライネ・レビン? 眠り姫……?
困惑する。入ってきた言葉が頭の中でぐるぐると回る。理解が追い付かなかった。先生はそんな状態の俺を察してか、少しの間無言だった。
おもむろに立ち上がると、部屋の出入り口付近の受話器に手を取って、何やら話をしていた。席に戻ってきて数秒後、事務さんらしき人がペットボトルのお茶をテーブルに置いて行った。
「聞き覚えがない病気の症状だと思います。僕も初めて担当する病気です」
カチカチとペットボトルの蓋が開く音がする。率先して飲みだした。人が飲むのを見て、自分の喉の渇きを自覚する。
そういえば、アパートを出てから全く飲まず食わずだった。自分の目の前に置かれたペットボトルに手を伸ばし、開封する。喉を通り過ぎて落ちていく感覚。口を離して、止まっていた呼吸を再開した。
「一カ月前。辛城さんは突然目を覚ましました。その時に初めて、僕は彼女と会話しました。その時点で、病院に運び込まれてから一カ月ほど経過していました」
「一カ月……も」
寝続けている。その事実は言葉にするのが重かった。大学に落ちた時、ずっと眠ってしまいたい、起きたくないと思ったのは記憶に新しい。そう思っていたまさにその時、辛城が一カ月も寝続けていたとは夢にも思わなかった。起きたくないと言っても、もちろんそんな長い時間なんて考えていなかった。
「起きている時、今までどんな生活をしていたのかを彼女に聞いてみました。寝続けてしまっている症状を確認している時点で次に話ができるかわからなかったので、ご本人の了承を得たうえで録音しています」
パソコンを操作して、最初に聞こえたのはその証拠となる確認と了承のやり取り。そして約二か月ぶりの、辛城の声。
『眠くなるのは……いつからかは、わかりません。もともと寝ないようにしてたので、常に眠気は感じていました』
『なぜ寝ないようにしていたんですか?』
『おばあちゃんが認知症で、目が離せなかったんです。それと、寝ると嫌な夢を見てしまうので』
『嫌な夢、というのは?』
『両親が亡くなった時の、事故のことです』
『なるほど。それは確かに見たくないですね』
『はい。なので……街中で会った人に……その、抱いてもらってました』
『だい……え、それは、そういうことですか?』
『たぶんご想像の通りです。寝ないようにするには……私には、それしか思いつかなかったんです』
尻すぼみの声が、裏にある当時の葛藤を表しているように聞こえた。それを聞いた瞬間、初対面での彼女の頼みごとを思い出した。
―― 「助けて」