涙を流し、喜ぶいじめっ子集団に吐き気がする。そう思っている何もしなかった自分にも嫌気がさす。なぜ、こうも邪険にされているのか。
卒業の日に考えるには不適切だろう。あっという間に式は終わり、卒業生は思い思いに散り散りになった。
「母さんは帰るけど、どうする?」
「……ちょっと行くところがあるから、先に帰ってて」
「そう? わかった。夕飯用意してるからね」
「うん」
母の背を見てから、別方向に進む。
現在時刻、十一時。
『久しぶり。突然なんだけど、今日会えない?』
三十分前の送信。返事はない。見てもいない。これは拒否だろうか。……いや、以前の様に、体調を崩しているのか。
辛城は一人暮らしだ。元々は誰かと住んでいたのかもしれないが、俺が滞在していた時間的にも、家財的にも一人。もしまた体調を崩していたのなら。
「心配だから行く、のは」
セーフだろうか。とりあえず近くまでは行こう。コンビニに寄って。好きそうなものを買って。食べやすいもの買って。水分を買って。重くも軽くもない荷物と足を運ぶ。
見慣れたアパート。そういえば昼間に来たことってなかったな。それなりに年季の入った二階建て。駅から近くて、川より少し高い所にある。周りには新し目の家がある中で、少し異質な佇まい。ここの一階奥。表札には何も書かれていない。扉にかけられたビニール傘と、何も植えられていない鉢植え。建物の外側から玄関を見るが、やはり人の気配はない。
それは辛城の部屋だけでなく、他の部屋も。
「もし、そこの彼」
「はいっ」
しゃがれた声に肩が跳ねた。死角にいた声の主である見慣れないお婆さんは、買い物袋を提げて俺をまっすぐ見ている。
「もしかして、玲良(れいら)ちゃんのお友達?」
「れいらちゃん?」
「そう。辛城 玲良ちゃん」
「あ、そう、です」
「よかった。初対面で申し訳ないのだけれど、お願いがあるの」
「なんですか?」
「今買ってきたこれらを、彼女に届けてほしいの」
「はぁ」
軽く持ち上げられた袋の中を覗けば、それは日用品のようなものが多かった。タオルや、髪留めや、スリッパや、歯ブラシ。彼女がこれを必要としているのか? わざわざ買ってもらって?
「あの、辛城は今どこに……」
「……そう、知らなかったのね」
「え、あの……?」
「玲良ちゃんはね、今この家にはいないの。もう数カ月前からね」
「……え」
―― 大学病院の療養病棟に、入院している……?
・♢・
「お茶しかなくてごめんなさいね」
「いえ……お構いなく」
お婆さん、もとい大家さんは、自分が住んでいるというアパートの一室に招いてくれた。
薄い陶器の器に、薄緑色の液体。湯気が揺らいでいる。
「あんまり詳しくは話せないのだけどね」
「もちろんです。辛城のプライベートなことなので」
詳しくは知らない辛城について、知っていることを教えてくれるという。雑用を頼む分、最低限は知っておいて欲しいと。
皺々の手で湯呑みを包む。音を立てないように一口飲含んだ。こくり、としっかりとした音を立てる。お茶を見ているように伏せられた瞼が、少しだけ持ち上がった。
「ちょうど……八年ぐらい前かしらね。彼女が十二歳の時。玲良ちゃんは玲良ちゃんのおばあちゃんと一緒に住んでたの。私の友人。認知症になっちゃってね。最初は少しのお世話で良かったのだけれど、だんだん進行していってね。玲良ちゃん、苦労していたと思うわ。部屋こそ離れているけれど様子はわかるもの。夜中に出かけようとしたり。出かけてしまったり。排泄のトラブルがあったり。大声を出してしまうことも。見知らぬ人を招いてしまうこともあったわね。日頃から誰かがいないといけない状況で、学校もあまり通えなかったのかも。平日に昼間に玲良ちゃんの声を聞いたことがあったわ。おばあちゃんが亡くなるまでそんな生活だったそうよ。だから……玲良ちゃんが中学三年生の時までになるわね」
黙って聞いていた。聞く情報が、俺の知る彼女とは初めから少し違ったから。家族構成や。過ごし方や。年齢も。
中学生の俺が何気なく過ごしていた裏で、辛城は……こう言っては失礼に当たるだろうが、まともな学生生活ではなかったのだ。
普通に過ごせているものが普通ではない。どこかで聞いたその言葉を思い出す。普通に過ごしている人間はそれが特別だとは思わない。特別(ふつう)でない人がいると知って、ようやくだ。
『自分より不幸だ』『自分より苦労している』『自分より大変な状況で生きている』『自分より』『自分より』『自分より』
結局それは、優越感や安心感などの差を感じてこその自覚。テレビでの一幕を見聞きしているだけ。現実ではないのなら、それはつまり夢、もしくは創作でしかない。
俺も、その一人だった。
「学校にほとんど行っていなかったから、高校に入るのも時間がかかったみたい。でも、新しい制服を着ているのを見て安心したわ。ようやくあの子にも、ちゃんとした学校生活が送れるんだなって。そう思っていたのに……」
涙ぐむ大家さんにとって、辛城の現実は身近なものだったのだろう。彼女にもここまで親身に思ってくれる人がいたことに少なからずの安堵を覚えた。
大家さんは慌てたように手を伸ばし、お茶を流し込む。勢いがあったためか、むせこんでしまった。ハンカチで口元を押さえ、咳を繰り返し、流れかけた何かを誤魔化すように拭う。
「ごめんなさいね。アタシが話せるのはここまで」
「ありがとうございました。今日、これから行ってきます」
「足が悪くて、もう遠くまでは行けなくてね。電話では状態は安定しているらしいの。病院にはアタシから連絡しておくわね」
「よろしくお願いします」
持ち込みの荷物を持って、アパートを出た。足の進みは早く、電車に乗る頃には息が上がっていた。電車は各駅停車かと思ったが特急だった。車窓はこんなにもゆっくりなのに。
卒業の日に考えるには不適切だろう。あっという間に式は終わり、卒業生は思い思いに散り散りになった。
「母さんは帰るけど、どうする?」
「……ちょっと行くところがあるから、先に帰ってて」
「そう? わかった。夕飯用意してるからね」
「うん」
母の背を見てから、別方向に進む。
現在時刻、十一時。
『久しぶり。突然なんだけど、今日会えない?』
三十分前の送信。返事はない。見てもいない。これは拒否だろうか。……いや、以前の様に、体調を崩しているのか。
辛城は一人暮らしだ。元々は誰かと住んでいたのかもしれないが、俺が滞在していた時間的にも、家財的にも一人。もしまた体調を崩していたのなら。
「心配だから行く、のは」
セーフだろうか。とりあえず近くまでは行こう。コンビニに寄って。好きそうなものを買って。食べやすいもの買って。水分を買って。重くも軽くもない荷物と足を運ぶ。
見慣れたアパート。そういえば昼間に来たことってなかったな。それなりに年季の入った二階建て。駅から近くて、川より少し高い所にある。周りには新し目の家がある中で、少し異質な佇まい。ここの一階奥。表札には何も書かれていない。扉にかけられたビニール傘と、何も植えられていない鉢植え。建物の外側から玄関を見るが、やはり人の気配はない。
それは辛城の部屋だけでなく、他の部屋も。
「もし、そこの彼」
「はいっ」
しゃがれた声に肩が跳ねた。死角にいた声の主である見慣れないお婆さんは、買い物袋を提げて俺をまっすぐ見ている。
「もしかして、玲良(れいら)ちゃんのお友達?」
「れいらちゃん?」
「そう。辛城 玲良ちゃん」
「あ、そう、です」
「よかった。初対面で申し訳ないのだけれど、お願いがあるの」
「なんですか?」
「今買ってきたこれらを、彼女に届けてほしいの」
「はぁ」
軽く持ち上げられた袋の中を覗けば、それは日用品のようなものが多かった。タオルや、髪留めや、スリッパや、歯ブラシ。彼女がこれを必要としているのか? わざわざ買ってもらって?
「あの、辛城は今どこに……」
「……そう、知らなかったのね」
「え、あの……?」
「玲良ちゃんはね、今この家にはいないの。もう数カ月前からね」
「……え」
―― 大学病院の療養病棟に、入院している……?
・♢・
「お茶しかなくてごめんなさいね」
「いえ……お構いなく」
お婆さん、もとい大家さんは、自分が住んでいるというアパートの一室に招いてくれた。
薄い陶器の器に、薄緑色の液体。湯気が揺らいでいる。
「あんまり詳しくは話せないのだけどね」
「もちろんです。辛城のプライベートなことなので」
詳しくは知らない辛城について、知っていることを教えてくれるという。雑用を頼む分、最低限は知っておいて欲しいと。
皺々の手で湯呑みを包む。音を立てないように一口飲含んだ。こくり、としっかりとした音を立てる。お茶を見ているように伏せられた瞼が、少しだけ持ち上がった。
「ちょうど……八年ぐらい前かしらね。彼女が十二歳の時。玲良ちゃんは玲良ちゃんのおばあちゃんと一緒に住んでたの。私の友人。認知症になっちゃってね。最初は少しのお世話で良かったのだけれど、だんだん進行していってね。玲良ちゃん、苦労していたと思うわ。部屋こそ離れているけれど様子はわかるもの。夜中に出かけようとしたり。出かけてしまったり。排泄のトラブルがあったり。大声を出してしまうことも。見知らぬ人を招いてしまうこともあったわね。日頃から誰かがいないといけない状況で、学校もあまり通えなかったのかも。平日に昼間に玲良ちゃんの声を聞いたことがあったわ。おばあちゃんが亡くなるまでそんな生活だったそうよ。だから……玲良ちゃんが中学三年生の時までになるわね」
黙って聞いていた。聞く情報が、俺の知る彼女とは初めから少し違ったから。家族構成や。過ごし方や。年齢も。
中学生の俺が何気なく過ごしていた裏で、辛城は……こう言っては失礼に当たるだろうが、まともな学生生活ではなかったのだ。
普通に過ごせているものが普通ではない。どこかで聞いたその言葉を思い出す。普通に過ごしている人間はそれが特別だとは思わない。特別(ふつう)でない人がいると知って、ようやくだ。
『自分より不幸だ』『自分より苦労している』『自分より大変な状況で生きている』『自分より』『自分より』『自分より』
結局それは、優越感や安心感などの差を感じてこその自覚。テレビでの一幕を見聞きしているだけ。現実ではないのなら、それはつまり夢、もしくは創作でしかない。
俺も、その一人だった。
「学校にほとんど行っていなかったから、高校に入るのも時間がかかったみたい。でも、新しい制服を着ているのを見て安心したわ。ようやくあの子にも、ちゃんとした学校生活が送れるんだなって。そう思っていたのに……」
涙ぐむ大家さんにとって、辛城の現実は身近なものだったのだろう。彼女にもここまで親身に思ってくれる人がいたことに少なからずの安堵を覚えた。
大家さんは慌てたように手を伸ばし、お茶を流し込む。勢いがあったためか、むせこんでしまった。ハンカチで口元を押さえ、咳を繰り返し、流れかけた何かを誤魔化すように拭う。
「ごめんなさいね。アタシが話せるのはここまで」
「ありがとうございました。今日、これから行ってきます」
「足が悪くて、もう遠くまでは行けなくてね。電話では状態は安定しているらしいの。病院にはアタシから連絡しておくわね」
「よろしくお願いします」
持ち込みの荷物を持って、アパートを出た。足の進みは早く、電車に乗る頃には息が上がっていた。電車は各駅停車かと思ったが特急だった。車窓はこんなにもゆっくりなのに。