「こっちは?」
「……これ、計算ミス」
「あ」
「……この途中のはここまであってる」
「これ途中なの?」
「そうだね。ここから求められてる範囲で適合するよう不等式を作るんだ」
「ふとうしき……?」
「ほら、大なり小なりとか」
「ああ。あれ、嫌い」
「俺もあんまり好きじゃないけど、図にしてみるとわかると思うよ」
「図って?」
「一直線を引いて、白丸が“より大きい”もしくは“より小さい”って意味ね」
「うん」
自分の、数年前に習った知識を掘り起こす。説明するのは難しくなくて、納得して、理解して身についていたことに安堵した。
辛城は頷いたり、質問したり、時々間違えたりしながらも、中途半端だった回答を完璧なものにしていった。
「ようやくわかった。ありがとう」
「どういたしまして」
昼間に間違えていた自分だが、これらは基礎の応用。基礎ができていれば間違えることはほとんどない。数式を解く序盤で躓いてしまっていた辛城は、もしかして勉強が苦手なのか。
学校は比較的レベルの高い方だ。文理別だが全員受験前提の大学進学クラス。失礼ながら、よく進学、むしろ入学できたな、と思ってしまった。
「えっと」
「ん?」
「誰、だっけ」
「え」
「ごめん、名前、知らなくて」
ショックを受けた。
けれどそういえば確かに、俺、名乗ってない。
「一石 宏人」
「一石……くん」
「うん。なんか、ごめん。失礼だった」
「え、いえいえ。むしろ私もごめんね。クラスメイトなのに」
「全然、俺は平気」
謎の、というか、不思議なやり取りに、どことなく気まずさを感じる。そうは言っても、名乗っていなかった俺自身のせいなんだけど。
残りの麦茶を流し込んだ。喉を鳴らして、どこかのおっさんのように息を吐きだした。
横を見れば、辛城は両手でコップを持っている。俺とは正反対に、少しだけ口に含んで、小さく喉を揺らした。
「一石くんに、お願いがあるんだけど」
黒い瞳が、俺を見つめる。吸い込まれそうに深い黒に、俺が映っている。沈んでいきそうになる……これは、恐怖か。
「なに?」
「勉強を、教えてほしい」
「……」
「数学だけでも教えてほしい。国語と社会は何とかなるんだけど、数学はどうしても……留年するわけにはいかないから……」
「学校の試験を乗り越えるための勉強ってこと? 大学受験のためじゃなくて?」
「そう……ね。私、大学にはいかないから」
「そうなんだ」
「珍しいよね。うちの学校、みんな進学予定だろうし」
「そう、だね」
「一石くんも受験すると思ってる。前期の期末だけ、助けてほしい。わざわざ沢山の時間を作ってほしいとは言わないから、少しだけ。わからない問題だけ。お礼もする」
初めて見る必死さだった。今までは、のらりくらりと、何にも興味なさそうだった辛城が、真に迫る目で訴えてきた。体を捻って俺の目を見つめる。全てを吸い込んでいきそうな目が、「目をそらすな」と言っているようだ。
正直、誰かの面倒を見る余裕はない。自分も受験に必死だ。必死にならなければならない。
でも。だけど。
俺は、逃げたかった。逃げて、逃げた先で、逃げられないようにしてほしいと思ってしまった。
「……いいよ」
四分の三の瞳が、半分になった。
自分に向けられた初めての表情に、体のどこかでズキンと音がした。
・♢・
数日が経った。
勉強会は辛城の家で。主に塾帰り、もしくは学校終わりにお邪魔することになった。
辛城は、正直言って頭が悪い。物覚えが悪いのだ。公式を覚えることも苦手で、その場ではできるものの、応用や、少し別の分野を学ぶと前のことができなくなってしまう。計算問題はできても、文章題になると手も思考も止まってしまう。ひたすら同じ分野をやっているわけにもいかないので、ひとまずの基礎を叩き込んだ。
「これ、あげる」
「なに?」
「……公式帳? 単語帳に公式書いただけだけど。昔使ってたやつがあったから」
「うわぁ、ありがとう。大事に使わせてもらうね」
お下がりのようなものを、実際に使いながら机に向かう。その姿勢はどこから見ても真剣で、決してやる気がないわけではないのがわかる。だからこそ不思議で、だからこそ付き合いたいと思う。
「……これ、計算ミス」
「あ」
「……この途中のはここまであってる」
「これ途中なの?」
「そうだね。ここから求められてる範囲で適合するよう不等式を作るんだ」
「ふとうしき……?」
「ほら、大なり小なりとか」
「ああ。あれ、嫌い」
「俺もあんまり好きじゃないけど、図にしてみるとわかると思うよ」
「図って?」
「一直線を引いて、白丸が“より大きい”もしくは“より小さい”って意味ね」
「うん」
自分の、数年前に習った知識を掘り起こす。説明するのは難しくなくて、納得して、理解して身についていたことに安堵した。
辛城は頷いたり、質問したり、時々間違えたりしながらも、中途半端だった回答を完璧なものにしていった。
「ようやくわかった。ありがとう」
「どういたしまして」
昼間に間違えていた自分だが、これらは基礎の応用。基礎ができていれば間違えることはほとんどない。数式を解く序盤で躓いてしまっていた辛城は、もしかして勉強が苦手なのか。
学校は比較的レベルの高い方だ。文理別だが全員受験前提の大学進学クラス。失礼ながら、よく進学、むしろ入学できたな、と思ってしまった。
「えっと」
「ん?」
「誰、だっけ」
「え」
「ごめん、名前、知らなくて」
ショックを受けた。
けれどそういえば確かに、俺、名乗ってない。
「一石 宏人」
「一石……くん」
「うん。なんか、ごめん。失礼だった」
「え、いえいえ。むしろ私もごめんね。クラスメイトなのに」
「全然、俺は平気」
謎の、というか、不思議なやり取りに、どことなく気まずさを感じる。そうは言っても、名乗っていなかった俺自身のせいなんだけど。
残りの麦茶を流し込んだ。喉を鳴らして、どこかのおっさんのように息を吐きだした。
横を見れば、辛城は両手でコップを持っている。俺とは正反対に、少しだけ口に含んで、小さく喉を揺らした。
「一石くんに、お願いがあるんだけど」
黒い瞳が、俺を見つめる。吸い込まれそうに深い黒に、俺が映っている。沈んでいきそうになる……これは、恐怖か。
「なに?」
「勉強を、教えてほしい」
「……」
「数学だけでも教えてほしい。国語と社会は何とかなるんだけど、数学はどうしても……留年するわけにはいかないから……」
「学校の試験を乗り越えるための勉強ってこと? 大学受験のためじゃなくて?」
「そう……ね。私、大学にはいかないから」
「そうなんだ」
「珍しいよね。うちの学校、みんな進学予定だろうし」
「そう、だね」
「一石くんも受験すると思ってる。前期の期末だけ、助けてほしい。わざわざ沢山の時間を作ってほしいとは言わないから、少しだけ。わからない問題だけ。お礼もする」
初めて見る必死さだった。今までは、のらりくらりと、何にも興味なさそうだった辛城が、真に迫る目で訴えてきた。体を捻って俺の目を見つめる。全てを吸い込んでいきそうな目が、「目をそらすな」と言っているようだ。
正直、誰かの面倒を見る余裕はない。自分も受験に必死だ。必死にならなければならない。
でも。だけど。
俺は、逃げたかった。逃げて、逃げた先で、逃げられないようにしてほしいと思ってしまった。
「……いいよ」
四分の三の瞳が、半分になった。
自分に向けられた初めての表情に、体のどこかでズキンと音がした。
・♢・
数日が経った。
勉強会は辛城の家で。主に塾帰り、もしくは学校終わりにお邪魔することになった。
辛城は、正直言って頭が悪い。物覚えが悪いのだ。公式を覚えることも苦手で、その場ではできるものの、応用や、少し別の分野を学ぶと前のことができなくなってしまう。計算問題はできても、文章題になると手も思考も止まってしまう。ひたすら同じ分野をやっているわけにもいかないので、ひとまずの基礎を叩き込んだ。
「これ、あげる」
「なに?」
「……公式帳? 単語帳に公式書いただけだけど。昔使ってたやつがあったから」
「うわぁ、ありがとう。大事に使わせてもらうね」
お下がりのようなものを、実際に使いながら机に向かう。その姿勢はどこから見ても真剣で、決してやる気がないわけではないのがわかる。だからこそ不思議で、だからこそ付き合いたいと思う。