――その日の晩――
ザザーッ……、ザザーッ……
私はおもむろに防波堤の上へ立って海を眺めていた。
防波堤から下を覗くと、結構高い。
かなり下の方で、水面が揺れている。
腕時計で時間を確認すると、夜の九時を回っていた。
セイが心配するかな。
そんなことを思って、少し可笑しくなった。
いつから心配してくれる人がいる前提で生きていたんだろう。
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
「何してるの?釣りでもする気?」
私はハッとして、声のした方を振り向いた。
セイが微笑みながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
近くにはいくつか街頭があり、その薄明りが私たちを程よく照らしていた。
「セイ……。よく、ここだって分かったね」
苦笑いしながら私はセイに尋ねた。
「たくさん探したんだよ。サエがスペアキーを作ってくれててよかった」
そう言いながらさらに歩みを進め、私の隣に並ぶ。
そう言えばそんなこともあったな、と私は思い出す。
モノが触れるなら自由に外出は出来ないだろうし、
気分転換も出来ないだろうから念のために作っておいたのだった。
今まで外出している気配が全くなかったため、すかっかり忘れていた。
「間に合って良かった」
セイはボソッと呟く。
「間に合うって、何に?」
セイは数秒、私の目を見つめてきた。
そして、視線を逸らさずこう言った。
「そこから飛び降りるつもり?」
私は僅かに目を見開いた。
数秒間思考が停止し、表情はピクリとも動かせなかった。
その後我に返り、慌てて言い返した。
「やだな、そんなことするわけないじゃない」
明らかにぎこちない。
上手く口角が上がらず、きっと歪な愛想笑いを浮かべていただろう。
そんな様子を見て、セイは落ち着いたトーンで尋ねた。
「どうしてこんな時間にここへ来たの?」
「急に海風に当たりたくなっちゃって!連絡しなくてごめんね!」
私は謝るように、顔の前で手のひらをパンッと合わせる。
「靴はどこ?」
一瞬、自身の肩が強張ったのが分かった。
私のヒール……。
自分自身の足元を見ながら答える。
「ここってさ……高いから危ないじゃない?だから、ヒールは脱いでおいた方が良いかなって思って。近くに置いといたんだけどね、風に吹かれて海に落ちちゃった!」
私はストッキングのまま、海を覗き込む。
石でも踏んで、破れたのだろうか。
ストッキングの片方が、足の裏からふくらはぎにかけて電線していた。
「二足とも?」
強い視線を感じる。
セイは何かを確信しているようだったが、
不思議と追い詰められているような感覚にはならなかった。
むしろ優しく包み込むような声色で、
気持ちを汲んでくれているかのようだった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
しかし、セイの視線を真正面から捉えることは出来なかった。
結局そのまま一言、
小さく「うん……」としか言えなかった。
「その鞄は?そんな雑に置いていたら、鞄の中身まで落ちちゃうよ」
鞄は自分の足元に放り出していた。
雑に置かれた鞄からは、中身が若干転がっている。
防波堤の縁から、口紅が一本転げ落ちそうになっていた。
「そうだね……!ごめん、ごめん」
そう言いながら、私は慌てて散らばっているものをかき集めた。
暫く沈黙が続いた。
セイはこれ以上何も言ってこなかった。
セイは、私の口から真実を聞くのを待っているようだった。
もう誤魔化せないことも分かっていた。
私は、重たい口を開く。
「もう帰らないつもりだった」
そう実際に言葉にすると、自然と涙が零れてきた。
そこからは、一気に言葉が溢れて止まらない。
「私、もう限界かも。ここから飛び込んだらさ、もう一度人生リセット出来るかなってちょっと思っちゃった。嫌なことも、嫌な自分も、何もかも。迷惑かけないように生きてきて、周りに合わせて努力して……なのに何一つ実らない。空回りして、時には罵倒されて。頑張っても、頑張らなくても苦しい。もう、どう生きていけば良いのか分からなくなっちゃった」
声が震えるのを隠そうとすると、だいぶ早口になってしまった。
「いつ頃からだったんだろう。自分が自分でありたいって思えなくなったのは」
海風になびく髪。
なびいたって綺麗でも何でもない。
最近は手入れなんてしている余裕は無く、毛先を指で触ってみるとキシキシとしていた。
枝毛酷いな……。心の中で自嘲する。
綺麗なのは波の音だけ。
いつもと変わらず、一定の間隔でザザーッと響いていた。
「前にも話したと思うけど、私は祖父母に育てて貰ったんだ。何不自由なく育てて貰った。だけど、私はどうしても怖かった。いつか見捨てられちゃうんじゃないかって。だから昔から人の顔色ばかり窺って過ごしてきたの。良い子で居れば、このまま変わらぬ生活でいられると思ったから」
「何かきつく怒られたり、酷いこととかされたの?」
恐らく何かきっかけがあったのではないか、という話だろう。
しかし、私はもちろん首を横に振る。
「全然。愛情たっぷりに育てて貰ったよ」
「じゃあなんで……!なんでそんなに、怖がって生きなきゃいけなかったの?」
「分からない。だからこそ、誰にも理解されなかった」
セイは口をつぐむ。
そんな様子を見て、私は微笑んでこう言った。
「みんなと違う感覚は、昔から多かったの。自分が馬鹿にされても反発出来なかったり、八つ当たりされてもそのまま受け入れたりね」
「悲しくは無いの?」
セイが不思議そうに聞いてくる。
「悲しいよ。悲しいから……そういった積み重ねが、私の存在意義をグチャグチャにさせていったの」
私は自分の視界がぼやけていくのを感じた。
「居てもいなくても良いような存在に思えてきて、ずっと虚しかった。だから、何かしら誰かのためになるように振舞い、必死に生きてきた。でも、そうするとね、自分の価値を他人の物差しでしか測れなくなっていくの。結局自ずと、他人の一挙手一投足に振り回されて生きていく。いつのまにかこんな負のループに巻き込まれて、抜け出せなくなってた」
子どもみたいに、目からボロボロと涙が零れる。
手のひらで涙を拭いながら、視線を上空へ向けた。
見上げた空には、わずかに光を放つ数多の星が散らばっていた。
そして私は、ポツリと呟いた。
「だから私は、この負の連鎖を終わらせるためにここへ来たの」
頭上には広い、ひろい空。
足元には深い、ふかい海がある。
死んだらこの広大な空に飛んで行けるのだろうか。
はたまた暗くて深い海の底に連れていかれるのだろうか。
私はそんなことを思いながら海風を浴びていた。
「いつまで、こんな私で生きていれば良いんだろうね。自分の価値は他人任せで、ゼロから百まで行ったり来たり。その振れ幅に、日々怯えながら過ごす日々。自分のことを、自分で守ってやれないから、恐怖に苛まれることだけが増えていった。自業自得だけど、こんな自分になりたかった訳じゃないんだよ」
「信じて」とセイの方に目を向けた時、セイは優しい眼差しでこちらを見ていた。
そしてゆっくり頷き受け入れてくれた。
何も口を挟まない。
一瞬セイが居なくなったのではないかと錯覚するほど、この時セイは静かに見守ってくれていた。
「脈こそ止まってはいないけれど、目に見えない心は、見えない所で何度も殺されたわ。息が詰まる感覚や恐怖に苛まれる日々も、もう限界だった。だから、この身を投げて全てをリセットさせてやろうって思ったの。この身体が……。この身体がいけないのよ。不良品は交換してもらわなきゃ、でしょ……?」
私は必死に声を絞り出していた。
涙は止まる様子を見せず、ボタボタと地面を濡らしていた。
仕事に行く前に化粧で整えた顔は、涙と鼻水でグシャグシャだった。
「なのに……。いざ死のうとしたら、足が震えるんだよ……。どんなに足を叩いても、震えは収まらないし、動きもしないの。感情って身勝手だね。身体だけは、一丁前に守ろうとする。恐怖や不安で自分の心は殺そうとするのにね」
そう言い切った瞬間、私はガクッと膝から崩れ落ちた。
もうこの時、見てくれなんてどうでもよかった。
どうせ今ここで見ているのは、セイしかいない。
私は両手で顔を覆って、大声で泣いた。
ザザーッ……、ザザーッ……
私はおもむろに防波堤の上へ立って海を眺めていた。
防波堤から下を覗くと、結構高い。
かなり下の方で、水面が揺れている。
腕時計で時間を確認すると、夜の九時を回っていた。
セイが心配するかな。
そんなことを思って、少し可笑しくなった。
いつから心配してくれる人がいる前提で生きていたんだろう。
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
「何してるの?釣りでもする気?」
私はハッとして、声のした方を振り向いた。
セイが微笑みながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
近くにはいくつか街頭があり、その薄明りが私たちを程よく照らしていた。
「セイ……。よく、ここだって分かったね」
苦笑いしながら私はセイに尋ねた。
「たくさん探したんだよ。サエがスペアキーを作ってくれててよかった」
そう言いながらさらに歩みを進め、私の隣に並ぶ。
そう言えばそんなこともあったな、と私は思い出す。
モノが触れるなら自由に外出は出来ないだろうし、
気分転換も出来ないだろうから念のために作っておいたのだった。
今まで外出している気配が全くなかったため、すかっかり忘れていた。
「間に合って良かった」
セイはボソッと呟く。
「間に合うって、何に?」
セイは数秒、私の目を見つめてきた。
そして、視線を逸らさずこう言った。
「そこから飛び降りるつもり?」
私は僅かに目を見開いた。
数秒間思考が停止し、表情はピクリとも動かせなかった。
その後我に返り、慌てて言い返した。
「やだな、そんなことするわけないじゃない」
明らかにぎこちない。
上手く口角が上がらず、きっと歪な愛想笑いを浮かべていただろう。
そんな様子を見て、セイは落ち着いたトーンで尋ねた。
「どうしてこんな時間にここへ来たの?」
「急に海風に当たりたくなっちゃって!連絡しなくてごめんね!」
私は謝るように、顔の前で手のひらをパンッと合わせる。
「靴はどこ?」
一瞬、自身の肩が強張ったのが分かった。
私のヒール……。
自分自身の足元を見ながら答える。
「ここってさ……高いから危ないじゃない?だから、ヒールは脱いでおいた方が良いかなって思って。近くに置いといたんだけどね、風に吹かれて海に落ちちゃった!」
私はストッキングのまま、海を覗き込む。
石でも踏んで、破れたのだろうか。
ストッキングの片方が、足の裏からふくらはぎにかけて電線していた。
「二足とも?」
強い視線を感じる。
セイは何かを確信しているようだったが、
不思議と追い詰められているような感覚にはならなかった。
むしろ優しく包み込むような声色で、
気持ちを汲んでくれているかのようだった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
しかし、セイの視線を真正面から捉えることは出来なかった。
結局そのまま一言、
小さく「うん……」としか言えなかった。
「その鞄は?そんな雑に置いていたら、鞄の中身まで落ちちゃうよ」
鞄は自分の足元に放り出していた。
雑に置かれた鞄からは、中身が若干転がっている。
防波堤の縁から、口紅が一本転げ落ちそうになっていた。
「そうだね……!ごめん、ごめん」
そう言いながら、私は慌てて散らばっているものをかき集めた。
暫く沈黙が続いた。
セイはこれ以上何も言ってこなかった。
セイは、私の口から真実を聞くのを待っているようだった。
もう誤魔化せないことも分かっていた。
私は、重たい口を開く。
「もう帰らないつもりだった」
そう実際に言葉にすると、自然と涙が零れてきた。
そこからは、一気に言葉が溢れて止まらない。
「私、もう限界かも。ここから飛び込んだらさ、もう一度人生リセット出来るかなってちょっと思っちゃった。嫌なことも、嫌な自分も、何もかも。迷惑かけないように生きてきて、周りに合わせて努力して……なのに何一つ実らない。空回りして、時には罵倒されて。頑張っても、頑張らなくても苦しい。もう、どう生きていけば良いのか分からなくなっちゃった」
声が震えるのを隠そうとすると、だいぶ早口になってしまった。
「いつ頃からだったんだろう。自分が自分でありたいって思えなくなったのは」
海風になびく髪。
なびいたって綺麗でも何でもない。
最近は手入れなんてしている余裕は無く、毛先を指で触ってみるとキシキシとしていた。
枝毛酷いな……。心の中で自嘲する。
綺麗なのは波の音だけ。
いつもと変わらず、一定の間隔でザザーッと響いていた。
「前にも話したと思うけど、私は祖父母に育てて貰ったんだ。何不自由なく育てて貰った。だけど、私はどうしても怖かった。いつか見捨てられちゃうんじゃないかって。だから昔から人の顔色ばかり窺って過ごしてきたの。良い子で居れば、このまま変わらぬ生活でいられると思ったから」
「何かきつく怒られたり、酷いこととかされたの?」
恐らく何かきっかけがあったのではないか、という話だろう。
しかし、私はもちろん首を横に振る。
「全然。愛情たっぷりに育てて貰ったよ」
「じゃあなんで……!なんでそんなに、怖がって生きなきゃいけなかったの?」
「分からない。だからこそ、誰にも理解されなかった」
セイは口をつぐむ。
そんな様子を見て、私は微笑んでこう言った。
「みんなと違う感覚は、昔から多かったの。自分が馬鹿にされても反発出来なかったり、八つ当たりされてもそのまま受け入れたりね」
「悲しくは無いの?」
セイが不思議そうに聞いてくる。
「悲しいよ。悲しいから……そういった積み重ねが、私の存在意義をグチャグチャにさせていったの」
私は自分の視界がぼやけていくのを感じた。
「居てもいなくても良いような存在に思えてきて、ずっと虚しかった。だから、何かしら誰かのためになるように振舞い、必死に生きてきた。でも、そうするとね、自分の価値を他人の物差しでしか測れなくなっていくの。結局自ずと、他人の一挙手一投足に振り回されて生きていく。いつのまにかこんな負のループに巻き込まれて、抜け出せなくなってた」
子どもみたいに、目からボロボロと涙が零れる。
手のひらで涙を拭いながら、視線を上空へ向けた。
見上げた空には、わずかに光を放つ数多の星が散らばっていた。
そして私は、ポツリと呟いた。
「だから私は、この負の連鎖を終わらせるためにここへ来たの」
頭上には広い、ひろい空。
足元には深い、ふかい海がある。
死んだらこの広大な空に飛んで行けるのだろうか。
はたまた暗くて深い海の底に連れていかれるのだろうか。
私はそんなことを思いながら海風を浴びていた。
「いつまで、こんな私で生きていれば良いんだろうね。自分の価値は他人任せで、ゼロから百まで行ったり来たり。その振れ幅に、日々怯えながら過ごす日々。自分のことを、自分で守ってやれないから、恐怖に苛まれることだけが増えていった。自業自得だけど、こんな自分になりたかった訳じゃないんだよ」
「信じて」とセイの方に目を向けた時、セイは優しい眼差しでこちらを見ていた。
そしてゆっくり頷き受け入れてくれた。
何も口を挟まない。
一瞬セイが居なくなったのではないかと錯覚するほど、この時セイは静かに見守ってくれていた。
「脈こそ止まってはいないけれど、目に見えない心は、見えない所で何度も殺されたわ。息が詰まる感覚や恐怖に苛まれる日々も、もう限界だった。だから、この身を投げて全てをリセットさせてやろうって思ったの。この身体が……。この身体がいけないのよ。不良品は交換してもらわなきゃ、でしょ……?」
私は必死に声を絞り出していた。
涙は止まる様子を見せず、ボタボタと地面を濡らしていた。
仕事に行く前に化粧で整えた顔は、涙と鼻水でグシャグシャだった。
「なのに……。いざ死のうとしたら、足が震えるんだよ……。どんなに足を叩いても、震えは収まらないし、動きもしないの。感情って身勝手だね。身体だけは、一丁前に守ろうとする。恐怖や不安で自分の心は殺そうとするのにね」
そう言い切った瞬間、私はガクッと膝から崩れ落ちた。
もうこの時、見てくれなんてどうでもよかった。
どうせ今ここで見ているのは、セイしかいない。
私は両手で顔を覆って、大声で泣いた。