――その日の晩――

ザザーッ……、ザザーッ……

私はおもむろに防波堤の上へ立って海を眺めていた。

防波堤から下を覗くと、結構高い。

かなり下の方で、水面が揺れている。

腕時計で時間を確認すると、夜の九時を回っていた。

セイが心配するかな。

そんなことを思って、少し可笑しくなった。

いつから心配してくれる人がいる前提で生きていたんだろう。

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「何してるの?釣りでもする気?」

私はハッとして、声のした方を振り向いた。

セイが微笑みながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

近くにはいくつか街頭があり、その薄明りが私たちを程よく照らしていた。

「セイ……。よく、ここだって分かったね」

苦笑いしながら私はセイに尋ねた。

「たくさん探したんだよ。サエがスペアキーを作ってくれててよかった」

そう言いながらさらに歩みを進め、私の隣に並ぶ。

そう言えばそんなこともあったな、と私は思い出す。

モノが触れるなら自由に外出は出来ないだろうし、
気分転換も出来ないだろうから念のために作っておいたのだった。

今まで外出している気配が全くなかったため、すかっかり忘れていた。

「間に合って良かった」
セイはボソッと呟く。

「間に合うって、何に?」

セイは数秒、私の目を見つめてきた。
そして、視線を逸らさずこう言った。

「そこから飛び降りるつもり?」

私は僅かに目を見開いた。

数秒間思考が停止し、表情はピクリとも動かせなかった。

その後我に返り、慌てて言い返した。

「やだな、そんなことするわけないじゃない」

明らかにぎこちない。
上手く口角が上がらず、きっと歪な愛想笑いを浮かべていただろう。

そんな様子を見て、セイは落ち着いたトーンで尋ねた。

「どうしてこんな時間にここへ来たの?」

「急に海風に当たりたくなっちゃって!連絡しなくてごめんね!」
私は謝るように、顔の前で手のひらをパンッと合わせる。

「靴はどこ?」

一瞬、自身の肩が強張ったのが分かった。

私のヒール……。

自分自身の足元を見ながら答える。

「ここってさ……高いから危ないじゃない?だから、ヒールは脱いでおいた方が良いかなって思って。近くに置いといたんだけどね、風に吹かれて海に落ちちゃった!」

私はストッキングのまま、海を覗き込む。

石でも踏んで、破れたのだろうか。
ストッキングの片方が、足の裏からふくらはぎにかけて電線していた。

「二足とも?」
強い視線を感じる。

セイは何かを確信しているようだったが、
不思議と追い詰められているような感覚にはならなかった。

むしろ優しく包み込むような声色で、
気持ちを汲んでくれているかのようだった。

私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

しかし、セイの視線を真正面から捉えることは出来なかった。

結局そのまま一言、
小さく「うん……」としか言えなかった。

「その鞄は?そんな雑に置いていたら、鞄の中身まで落ちちゃうよ」

鞄は自分の足元に放り出していた。

雑に置かれた鞄からは、中身が若干転がっている。

防波堤の縁から、口紅が一本転げ落ちそうになっていた。

「そうだね……!ごめん、ごめん」
そう言いながら、私は慌てて散らばっているものをかき集めた。

暫く沈黙が続いた。
セイはこれ以上何も言ってこなかった。

セイは、私の口から真実を聞くのを待っているようだった。

もう誤魔化せないことも分かっていた。

私は、重たい口を開く。

「もう帰らないつもりだった」

そう実際に言葉にすると、自然と涙が零れてきた。

そこからは、一気に言葉が溢れて止まらない。

「私、もう限界かも。ここから飛び込んだらさ、もう一度人生リセット出来るかなってちょっと思っちゃった。嫌なことも、嫌な自分も、何もかも。迷惑かけないように生きてきて、周りに合わせて努力して……なのに何一つ実らない。空回りして、時には罵倒されて。頑張っても、頑張らなくても苦しい。もう、どう生きていけば良いのか分からなくなっちゃった」

声が震えるのを隠そうとすると、だいぶ早口になってしまった。

「いつ頃からだったんだろう。自分が自分でありたいって思えなくなったのは」

海風になびく髪。

なびいたって綺麗でも何でもない。

最近は手入れなんてしている余裕は無く、毛先を指で触ってみるとキシキシとしていた。

枝毛酷いな……。心の中で自嘲する。

綺麗なのは波の音だけ。

いつもと変わらず、一定の間隔でザザーッと響いていた。

「前にも話したと思うけど、私は祖父母に育てて貰ったんだ。何不自由なく育てて貰った。だけど、私はどうしても怖かった。いつか見捨てられちゃうんじゃないかって。だから昔から人の顔色ばかり窺って過ごしてきたの。良い子で居れば、このまま変わらぬ生活でいられると思ったから」

「何かきつく怒られたり、酷いこととかされたの?」

恐らく何かきっかけがあったのではないか、という話だろう。

しかし、私はもちろん首を横に振る。

「全然。愛情たっぷりに育てて貰ったよ」

「じゃあなんで……!なんでそんなに、怖がって生きなきゃいけなかったの?」

「分からない。だからこそ、誰にも理解されなかった」

セイは口をつぐむ。
そんな様子を見て、私は微笑んでこう言った。

「みんなと違う感覚は、昔から多かったの。自分が馬鹿にされても反発出来なかったり、八つ当たりされてもそのまま受け入れたりね」

「悲しくは無いの?」
セイが不思議そうに聞いてくる。

「悲しいよ。悲しいから……そういった積み重ねが、私の存在意義をグチャグチャにさせていったの」

私は自分の視界がぼやけていくのを感じた。

「居てもいなくても良いような存在に思えてきて、ずっと虚しかった。だから、何かしら誰かのためになるように振舞い、必死に生きてきた。でも、そうするとね、自分の価値を他人の物差しでしか測れなくなっていくの。結局自ずと、他人の一挙手一投足に振り回されて生きていく。いつのまにかこんな負のループに巻き込まれて、抜け出せなくなってた」

子どもみたいに、目からボロボロと涙が零れる。

手のひらで涙を拭いながら、視線を上空へ向けた。

見上げた空には、わずかに光を放つ数多の星が散らばっていた。

そして私は、ポツリと呟いた。
「だから私は、この負の連鎖を終わらせるためにここへ来たの」

頭上には広い、ひろい空。
足元には深い、ふかい海がある。
死んだらこの広大な空に飛んで行けるのだろうか。
はたまた暗くて深い海の底に連れていかれるのだろうか。

私はそんなことを思いながら海風を浴びていた。

「いつまで、こんな私で生きていれば良いんだろうね。自分の価値は他人任せで、ゼロから百まで行ったり来たり。その振れ幅に、日々怯えながら過ごす日々。自分のことを、自分で守ってやれないから、恐怖に苛まれることだけが増えていった。自業自得だけど、こんな自分になりたかった訳じゃないんだよ」

「信じて」とセイの方に目を向けた時、セイは優しい眼差しでこちらを見ていた。

そしてゆっくり頷き受け入れてくれた。

何も口を挟まない。

一瞬セイが居なくなったのではないかと錯覚するほど、この時セイは静かに見守ってくれていた。

「脈こそ止まってはいないけれど、目に見えない心は、見えない所で何度も殺されたわ。息が詰まる感覚や恐怖に苛まれる日々も、もう限界だった。だから、この身を投げて全てをリセットさせてやろうって思ったの。この身体が……。この身体がいけないのよ。不良品は交換してもらわなきゃ、でしょ……?」

私は必死に声を絞り出していた。

涙は止まる様子を見せず、ボタボタと地面を濡らしていた。

仕事に行く前に化粧で整えた顔は、涙と鼻水でグシャグシャだった。

「なのに……。いざ死のうとしたら、足が震えるんだよ……。どんなに足を叩いても、震えは収まらないし、動きもしないの。感情って身勝手だね。身体だけは、一丁前に守ろうとする。恐怖や不安で自分の心は殺そうとするのにね」

そう言い切った瞬間、私はガクッと膝から崩れ落ちた。

もうこの時、見てくれなんてどうでもよかった。

どうせ今ここで見ているのは、セイしかいない。

私は両手で顔を覆って、大声で泣いた。