休憩するには丁度いい午後三時を迎えた頃、私は喉が渇いたため給湯室に向かった。

扉を開けるとそこには、三人の先輩がコーヒーを啜りながら立ち話をしていた。

残念ながら、コソコソしている話に巻き込まれて良かった試しがない。

私も間が悪いな……。

扉を開ける前に、少し耳を澄ませておくんだった。

「声かけられませんように」と心の中で願いながら、「お疲れ様です」と一言挨拶をして、お茶をマグカップに注ぐ。

すると、こういう時に限ってやはり声を掛けられるのだった。

声をかけて来たのは、私の配属があった島で一番長く働いている、お局様的立ち位置の上司だ。

香水はいつも上品なものを身に付け、腕時計も良いところのブランド品らしい。ブランドものに詳しくない私は、「高そう」ということしか分からなかった。
ネイルも、会社の規定に反しない範囲で綺麗にされている。

「ねぇねぇ、松川さん。お疲れー」

「あっ、お疲れ様です」

「松川さん、ここに入職してどれくらい経ったっけ?」

「お陰様で、四ヶ月程経ちました」

「おお!頑張ってるね!だって最初の三ヶ月が肝って言うじゃない?」
ねぇー、と他二人にも同意を求めている。

「じゃあ、だいぶここにも慣れて来たかな?そう言えば、松川さんのプリセプターって、佐原だっけ?」

「ええ、佐原先輩です」

「どお?指導がきつ過ぎたりしない?」

「全然そんなこと無いですよ。私のペースに合わせて優しく教えて頂いてます」

「ふーん。なんかあったらいつでも相談してね。コーヒーでも飲みながら、ゆっくりお話しでもしましょうよ!」

ふーん、の声色が怖かったのはここだけの話だ。

「そう言えばさ、最近あの人付き合い悪くない?彼氏でも出来たのかな?だったら教えてくれても良くない?」

今度は同僚のお二人に話を振っているようだった。

それぞれのお方が、「ねぇー」と相槌を打っている。

ここまでで数分時間は経っているが、同僚の方々のコーヒーが全く減っていない様子から、少しだけ同情してしまった。

しかし、この同情している時間が命取りだった。

先程の会話が終わり次第サッと部屋を出れば良かったものの、人の心配をしている間に再び私に会話が回ってきてしまった。

「松川さんもそう思うよねぇ?」

私は冷や汗を掻きながら
「そうですね。普段から、お世話になっていますので。教えて下されば、恩返しのチャンスだと思って、私も嬉しいのですが」
と少し微笑みながら、当たり障りのない言葉を選ぶ。

角が立たないように振舞い、勝手に気疲れする自分が情けなかった。

「だよねー!松川さんは、本当に良い子だねー!」

肩の力を抜く。生きた心地がしなかった。

私はその後「まだ仕事が溜まってますので、私はここで失礼します」と挨拶をし、その場を立ち去った。

扉を閉め、席に戻るつもりで踵を返すと、向かいから歩いてくる同僚がいた。

私は軽くお辞儀をし、その人とすれ違う。その瞬間、私はその方の小さな声を耳にした。

「このご機嫌取り。うざ」

「……」

背筋が凍る。
喉の奥が、焼けるように痛い。
胃の辺りが重くなるのを感じつつ、私は静かに自分のデスクに戻った。

マグカップをソッと置く。

すると行き場を無くした私の手は細かく震えていた。

心には恐怖と悲しみの感情だけが渦巻く。

グラッ……

あぁこの感覚、もう嫌だ。血の気が引く感覚は何度経験しても慣れない。

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私の言動は、時に人を不快にさせるらしい。

「らしい」というのは、「私の見立てでは」ということだ。

これまでの経験上、学生時代を振り返っても似たようなことは何度かあった。

大抵こういった場合、私は今日のように何も言えない。

子供の頃からそうだった。

友達に嫌な事をされても、何も言えなかった。

大人から「なんで反論しないの」と言われたこともあったが、私はただ怖かっただけなのだ。

文句を言われて自分の価値がゼロになりかけている時に歯向かうような勇気はどこにもなかった。

「当時」と言って笑って話せれば良かったが、今現在も何一つ変わっていない。

分かっていた。

自分の行動が八方美人に見えることも、何も言い返さないのが逆にムカつくことも。

でも、変われない……。

私はただ、悲しいと思う気持ちに蓋をし続けた。

しかし、年齢を重ねるにつれて得る傷は増えていく。

蓄積した痛みは、気づかぬうちに私の心を蝕んでいた。