「サエさん、こんにちは!」

「あぁ、こんにちは」

子供連れの親子。
いつも声をかけてきてくれる。
あぁ、いつも声をかけてくれるのに名前が思い出せない。
なんて情けないのかしら。

そんな様子を見かねてか、挨拶のようにさりげなく
「東雲です。いつもお世話になってます」
と笑顔でそう教えてくれた。

私はその気遣いがとっても嬉しかった。

「今日も日向ぼっこですか?」

「えぇ、ここは日当たりもよくて、何より色々な音が聞こえてくるのが良いねぇ」

「音……ですか?」

「公園で遊ぶ子供の声や鳥のさえずり、公園の外を通る車の音や人の足音。これら全てが、今を生きているって感じさせてくれるの。耳も若干遠くなってきたけれど、ここは安心する場所よ」

「大事な場所なんですね」

「えぇ、そうね」
私はゆっくりと頷いた。

⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

東雲さんとは、この公園で初めて出会った。

その時は赤ちゃんを抱かれていて、大声で泣くのを必死にあやしていた。

しかし、その目には生気がなかった。
長い髪は櫛でといた様子は無く、そのまま後ろに束ねた状態で、履物はヨレヨレのつっかけだった。

急いでお家から出て来たんだろうね。
きっとあのお母さんは疲れている。

こんなおばあちゃんが声をかけたら、迷惑になるだろうか。

その時、赤ちゃんを抱くお母さんの指先に物凄く力が入っているのが見えた。

このままじゃ良くない。

そう思って声をかけたのがきっかけだった。

「あの。赤ちゃんを抱っこしているお母さん、こちらへどうぞ。座ることは出来なくても、誰かと話しながらの方が気が紛れるんじゃないかしら」

最初は躊躇っていた東雲さんだったが、ゆっくりとこちらに歩みを進めてきた。

「あの、うるさくてごめんなさい」

か弱く、小さな声だった。

「いいえ!私はおばあちゃんで耳が遠いですから、丁度いいくらいですよ」
そう言って私は笑顔を向けた。

すると、当時の東雲さんはきっと限界だったのだ。
ブワッと涙が溢れ始め、赤ちゃんと一緒に泣いていた。

私はその光景を静かに見守った。

一人で泣くのと、傍に誰かがいるのでは全く違うことを私は知っている。

「片手間に聞いて欲しいんだけどね。私は後悔さえしなければ、大抵のことは良い思い出になると思ってるんだよ。だから、ちょっと肩の力を抜いたとしても、あなたの娘さんが元気でさえ居てくれれば、最終的には良い思い出になっていると思うよ」

その当時東雲さんは初めての育児で、精一杯頑張っていた。

しかし、お住まいが古いアパートということもあり、赤ちゃんの泣き声が迷惑になるのではないかといつも気を張り詰めていたそうだ。

無邪気に、自由に育って欲しいと願う一方で、周りの目を気にしてしまう性格とが板挟みとなってしまい、心が疲れ果ててしまったらしい。

「お声をかけて下さってありがとうございました。初対面なのに見っとも無い姿をお見せしてしまってすみません」

東雲さんはそう言って、はにかむように笑った。

「いえいえ。お互い様ですよ。私ももうこんな歳で忘れっぽくなっていますから、今後ご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。その時は、どうかよろしくお願い致します」

「そんな、もちろんです!こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」

少し元気が戻ったみたいでよかったわ。
その時には、赤ちゃんもスヤスヤと眠っていた。

東雲さんとの出会いはこんな感じだったかしら。
公園での姿も段々と活気が見えてきて、嬉しかったのを覚えてるわ。

それからは、色々なお話をさせてもらったわね。
そう言えば、何回かセイのことも話したわ。

あれからもう何十年。

若干気がかりなことがあって、ついつい忘れないように誰かに話してしまう。

写真を見せると「美人さんですねー」って言ってくれたわ。
私のことでは無いけど、何だか嬉しくなっちゃった。

⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

そんなことを思い出していると、一人の女の子が元気よく挨拶をしてくれた。
東雲さんに右手を引かれている。

「おばあちゃん、こんにちは!」

何を隠そう、この子が当時の赤ちゃんだ。
やはり時の流れは早いものね。

「まぁ、きちんと挨拶が出来るなんて素敵ね。こんにちは」

「アカネ、この前も挨拶したじゃん!覚えてないの?」

「もう、アカネ!そんな言い方しないの。すみません」

「いいえ。まぁ、そうかい。いつも挨拶をしてくれていたんだね。おばあちゃん、忘れっぽくてごめんね。ただね、素敵な事は何度でも素敵だと感じて良いと思うんだ。当たり前のことを当たり前に出来るなんて、簡単なことじゃないんだよ。立派な娘さんをもって、お母さんも幸せね」

「はい!ありがとうございます」
東雲さんは丁寧に頭を下げた。

その隣でアカネと呼ばれた小さな女の子は、何かモジモジとしていた。

そして、母親の手をギュッと強く握ったかと思うと勢いよく言った。

「おばあちゃん!謝らなくていいよ。アカネ、何度でもおばあちゃんに挨拶してあげるから!」

私は、ニコッと微笑んだ。
そして「ありがとうね」と柔らかい口調で言った。

「お母さん!あっちの砂場で遊んでも良い?」

そう言って女の子は、砂場を指差しながら母親に尋ねた。

「良いわよ。でも走っちゃだめよ、転ぶんだから……」

そう忠告した言葉は間に合わなかったのか、女の子は一直線に砂場へ走っていった。

すると案の定、途中で小さな段差に躓き女の子は転げた。

「わぁーん!」
女の子は大泣きし始める。

すぐに東雲さんは駆け寄り、しゃがみ込んだ。

「あぁ、言わんこっちゃない。どこが痛い?お膝?」

涙をポロポロ流しながら、女の子はコクンと頷く。

今日履いていたのは、オシャレなチェックのスカート。

この子に似合った可愛いらしいスカートだが、こんな日には裏目に出てしまった。

「血までは出ていないけど……確かにちょっと赤くなってるか。あっ、でもちゃんと先におててから付いたんだね。偉かったね!」

東雲さんは優しい声色で、娘の頭を撫でていた。
傍から見ていると、何とも微笑ましい光景だった。

「お母さん、いつものおまじないして」
女の子は涙目で縋るように、何かをおねだりしていた。

「はいはい!ほら、こっちおいで!」

東雲さんは「すみません」と小声で言いながら、私の隣に娘さんを座らせた。

私は「いつものおまじない」という言葉が、何故か心に引っかかっていた。

「昔のことなのかね。もう思い出すのは難しいかしら」

そう諦めていると、確実に記憶にある言葉が耳に届いた。
遥か昔の忘れもしない、かけがえのない大切な思い出の一部。

「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、パクパクパク!はい!もうこれで大丈夫でしょう!」
そう言っておまじないをかけた東雲さんの手は、キツネの形を作っていた。