「松川さーん!」

急に後ろから声をかけられた。

三年上の先輩、営業部の清水先輩だ。年上だが、目はクリクリとしていてとても可愛らしい。

綺麗に切り揃えられた、栗色のボブがとても似合っている。

私は心の中で、犬に例えるならプードル一択だなと密に思っていた。

そんな清水先輩は女性だが、営業成績は一位・二位を争う強者なんだとか。

男性陣がライバル視している話をよく耳にするが、ご本人が意識しているのかどうかはかなり怪しい。

なぜなら、清水先輩は「ド」が付く程の「天然さん」だからだ。

例えば、この前新入社員歓迎会があった際、営業部の男性がこんなことを言っているのを耳にした。

「おい、清水~。今月も営業トップだったらしいな。相手の社長は女好きだったらしいし、色目でも使ったんじゃないのかぁ」
と酔った勢いで急に言い始めたのだ。

余りにも質の悪いセクハラ発言に、私たち新人はハラハラしていると清水先輩はこう答えた。

「えっ。色気あります⁉最近ちょっと自信無くしてたんですよ。私童顔だから、お酒買う時なんてまだ年確されるんですよ⁉もうほんと、信じられない!」と。

何故か別な論点で怒り出してしまったのだった。

そして勢い余ってビールジョッキをダンッと机に置くが、表情はいつものフニャフニャとした優しい表情のままだったので微塵も迫力を感じなかった。

そんな先輩は、この場でなんと女性陣の株まで上げてしまった。

「ねぇ、先輩可愛くない⁉」
「これで仕事も出来るとか、超尊敬しちゃう!」
などといった黄色い歓声が上がっていた。

いつか密にファンクラブでも出来てしまうのではないだろうか。

そんな様子を見て、先程の男性はバツが悪くなったのか静かにまたお酒を飲み直していた。

その後清水先輩は、新しく来た後輩たちに
「どお?大人の女性って感じする?」
と子どものように屈託のない笑顔で話しかけていた。

それからというもの、清水先輩には何を言っても暖簾に腕押しということで、変な絡みやセクハラ発言は無くなっていったそうだ。

かく言う私も清水先輩は人として、そして同じ女性として憧れた人物だった。

こんな風になれたらな……。

しかし自分でも分かっていた。

清水先輩はやはり光。強い光は時に己の陰を色濃くするのだ。

「おはようございます!どうされたんですか?」

「朝からごめんね!この前頼んでいた売り上げの一覧表、来週末でお願いしていたんだけど、今週中の締め切りに変更出来るかな?」

顔の前で拝むように手を合わせて、必死にお願いされた。

進捗状況的にも今のところ問題は無かったため
「分かりました。大丈夫ですよ」
と私は笑顔で先輩にそう伝えた。

「ありがとー!本当に助かる!」
先輩はペコッと頭下げて、パタパタと走って行った。

忙しそうだな、と見送ったのも束の間、先輩はクルッと振り返りパタパタと戻ってくる。

そして私の目の前に立ち、耳打ちするかのように小声でこう言った。
「大丈夫?ちょっと痩せた?」
「え……」

一瞬口角の表情筋が絶妙な角度で、引っぱりあげられた気がした。

しかしその時、ほぼ同じタイミングで廊下の方から上司の声が響いた。
「誰かお茶を用意してー!」

室内に向かって叫んでいる。

午前の間に来客があったようだ。

私はその声に意識を呼び戻され
「恐れ入ります、大丈夫です!すみません、お茶の用意行って来ます!」

私は深く礼をし、給湯室に向かって走った。

何となく、こういう時に動かなければならないのは新人の務めのような気がして反射的に動いてしまう。

ひと段落すると、いつもの症状が現れた。

息が苦しい……。
みぞおちの辺りにロープが巻かれ、胸を圧迫するような感覚だった。

足取りは至って普通装い、一直線にトイレへ向かう。

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職場では仕事の繁忙に関わらず、肩には常にグッと力が入っていた。

仲の良い同僚との世間話でさえ、話しているうちに段々と肩が強張り、呼吸がしにくくなる。

大抵の会話でひと段落済むと、決まってトイレに駆け込んだ。

息を吸うことは出来るが、吐き出すことが難しい。
私は息を吐くことに集中し、何度か呼吸をする。

五回程である程度落ち着いてくるため、深呼吸に切り替える。

その後、力の入った肩をゆっくりと回す。鏡に映る動きは錆びた歯車のように、ぎこちなかった。

我ながら苦笑する。これが私にとっての日常だった。

疲れた……。

これは何かの病気なのだろうか。

職場に着いて数時間で、この状態だ。

友人にも相談したことはあったが、心配や慰めの言葉はあっても、「わかるー!」といった共感の声は得られなかった。

いつしか自分が変な事を言っているのではないかと思い、自ずと相談すらもしなくなっていった。