「今度は、父と母の話になるんだけど……」

静かな部屋で、換気扇の音だけが妙に響いていた。

「妹が死んでから、変わってしまったのは私だけじゃなかった。父は、仕事にこそ行ってはいたものの、一緒に食卓を囲むことはしなくなった。帰ってくるのは、いつも夜の十一時頃。朝もろくに会話をしないから、実質寝に帰って来ているようなものだった。休日は、パチンコ屋に入り浸っていたみたい。帰って来てからも、お酒だけ飲んで泥酔して一日を潰していた」

元々セイの父親は、家族にとって立派な大黒柱で、責任感の強い人だったらしい。
明るい性格で、休日にはよくキャンプや旅行に誘ってくるのがお決まりだったそうだ。
きっとそんなセイの父親も、食卓を囲むと家族団欒の日々を思い出すのだろう。
四人で普段囲んでいた机に一つ空席が出来るというものは、かなり寂しいものである。
もしかしたら、サナさんとの思い出が散らばるその家に住んでいることさえ、父親にとっては苦痛だったのかもしれない。

「父はそんな感じで、ほとんど家に居なかった。母の方は、精神的により不安定になったって感じだったかな」

セイはため息をつきながら苦笑いしている。

元々それ程活気があるタイプではなかったそうだが、
サナさんが居なくなってからはネジが外れたみたいにおかしくなったらしい。

「ボーッとしていると思ったら、急に笑い出したり、泣き出したり。私には、感情の切り替わるスイッチが分からなかった。時には、普段の母に戻ったように感じる時もあって、その時はなんだか嬉しかったな」

そう懐かしそうに話す姿からは、子供らしい雰囲気が感じられた。

「でも時には、一日中私のことをサナって呼ぶ時もあって……。何事も無かったかのように私に向かって、『サナ!朝ご飯出来たよ!』って言ってくるの。そういう日は大抵一日機嫌が良いからさ、その茶番に付き合ってあげてた訳。あはは」

無理に口角を上げたせいか、若干表情が引きつっている。

私にはセイがその当時、どんな感情を抱いていたのか想像出来なかった。

切なかったのか、悲しかったのか、はたまた腹立たしかったのか。

過去に陶酔する母親を相手に、セイはどれだけ自分を殺す必要があったのだろう。

年齢を考えると、まだ家族に甘えて良い年頃だ。

一人の女子高生が背負う過去にしては余りにも辛すぎる話だった。

私は、セイの背中をさすりたかった。
しかし、背中に伸ばした手はセイの身体をすり抜ける。
労わることすら出来なかった。

「病院……。精神科とか、心療内科とかには連れて行ったの?」

「ううん、本人が行きたがらなくて。調子が悪い時は『外に出たくない』って言うし、調子が良い時に誘えば『何とも無いから大丈夫よ!』って言うし。連れて行くのは無理だった」

「そっか。大変だったね」

「うん。でも家族だからね……」

セイは、何か含みのある言い方をした。

私が若干気になっていると、その様子を見てセイは勢いをつけて話し始めた。

「ある時ね!学校から帰ったら、家の前に車を停めて父と母が玄関先で待っていたの!」

急なテンションの上がり具合に、私は一瞬目を丸くする。

そんな私の様子にもお構いなしでセイは話しを続けた。

「私びっくりしちゃって、『どうしたの⁉』って駆け寄ったの。そうしたら『これから温泉行くぞ!』って父が言うわけ。今までの荒れた様子は幻だったかのように、普段の父と母の姿がそこにはあったの」

セイは両親を思い浮かべ懐かしむように、ゆっくりと目を閉じた。

セイは少し不気味にも感じたそうだが、
その時は何より普段の父親と母親の笑顔が嬉しかったそうだ。

久しぶりの一家団欒。
家族が集まって過ごすのは、何ヶ月ぶりだったのだろう。

セイは制服のまま車に乗って、有名な温泉地に向かったらしい。

父親が運転し、母親が助手席に座る。

そんな後ろ姿をみて、
「目頭が熱くなった」とセイは言った。

「それでさ、宿についたらまず温泉に母親と入りに行ったの!気持ちよかったなー。露天風呂でさ、外の空気は若干冷たかったけど、それもまた良いんだよね!身体はポカポカだけど、頭は冴えていて……。湯煙が立ち昇って、夜空に消えていく様子をただひたすら眺めていた」

「露天風呂良いね。お母さんとゆっくりお話出来た?」

「うん!『一度はこういう豪華なところにも来てみたかったよねー!』って」

セイは胡坐をかいたまま上半身を左右に揺らし、心なしか少しテンションが上がっているようだった。

「私たちが部屋に戻ってきた頃にはね、もう既に父は上機嫌でビールを飲んでた。母は呆れたように『乾杯するまで、待っててくれても良いじゃない!』って若干怒っていたけれど、目の前に広がる豪華な料理を目にして、すぐに機嫌は直ったよ。むしろルンルンだった」

セイはクスッと笑う。
並んだ料理は、セイの大好きな海鮮料理だったらしい。

「カニのしゃぶしゃぶが一番美味しかった!」と言いながら、
セイは両手でピースの形を作ってカニの真似をして見せた。

その様子があまりにも可愛くて、笑みがこぼれる。

これまで楽しく話していたセイだが、表情は段々と雲行きを怪しくしていった。

「次の日、何故か物凄く早くに起こされたの。まだ、霧も晴れていない時間帯にね。『何でこんなに早く帰るの?』って聞くと、母は『お父さんの仕事が早まっちゃって』としか言わなかった。起きても母は優しい姿のままだった。でも……。これが、私の目を見て話してくれた最後の瞬間だった」

セイは唇を噛みしめ、表情も強張っていた。

「父も帰る準備に没頭していて、何も口聞いてくれなかった。父に関しては、昨夜の陽気な面影はもう何処にも無かった」

そう告げるセイの様子は先程までと打って変わって、とても寂しそうだった。

「それから私は、連れられるがまま車に乗ったの。山道をどんどん上って行って、霧もだいぶ濃かった気がする。私は『行きにこんな道通ったっけ?』と疑問に思った時があったんだけど、『お前は来るとき、寝ていたからな』って父に言われて、何となく納得しちゃったんだよね」

セイは淡々と話しを続ける。

「暫くして、『減速!この先急カーブ!』みたいな看板が視界に過ったの。丁度そこが峠の一番高いところだったみたいで、先はずっと下り坂って感じだったから事故が多かったんだろうね。当然父も分かっていると思っていたんだけど、何故か車はどんどん加速するわけ。私は怖くなって『お父さん、この先急カーブあるって』って伝えてみたんだけど、全く聞く耳を持ってくれなかった。むしろ下りなのに、どんどんアクセルのペダルを踏んでいくの。これから起こる未来は容易に想像出来たわ。私は膨れ上がる恐怖を、初めて身に染みて感じた。私は金切り声で何度も『ねぇ!お母さん!』って、必死に肩を揺さぶった。でも、振り向いてくれなかった。私の声は、想いは、届かなかった」

セイはぎこちなく、そして切なそうな笑みを浮かべた。

最終的に車は曲がる様子を見せず、急カーブを前に異常なスピードのままでガードレールに突っ込んだらしい。
案の定ガードレールは破壊され、そのまま車体は谷底に放り出されたそうだ。

「衝撃でシートベルトが食い込む激痛と、変な浮遊感は本当に地獄だった。だけど、落ちた後の記憶は無いんだよね。途中で意識を失ったか、即死だったのか。私には分からない」

セイは、「あはは」と力なく笑っている。

私は信じられない展開に、頭が追い付いていなかった。

全身は強張り全てを聞き終わっても尚、体の力は抜けなかった。

緊張感が故に、手足も冷たくなっている。

口の中の水分も、全て持っていかれていた。

「サエ?大丈夫?」
情けないことに、セイの方が声をかけてくる始末だ。

「ごめん、あまりの衝撃に驚いちゃって。ちょっと、お水取ってくる!」

「行ってらっしゃーい!」
セイは呑気に大きく手を振った。

私はバタバタと台所まで走って行き、お水を蛇口から勢いよく汲んだ。

そして暫くシンクの淵に手を付いて考える。

おばちゃんが言っていたあの言葉を。

心の鎖。

確かに今なら私でも分かる。
ハッキリとでは無いが、セイの心には何か影を感じる。

でもその正体は一体何?

恨み、後悔、怒り。

これまでの話を聞く限り、色々な要素があって絞り切れない。

私は一旦考えるのをやめて、リビングへ戻った。