「クレヨン・テンさんの冒険ってお話。知ってる?」
私は左右に首を振る。

「テンさんって名前のクレヨンが主人公の絵本なんだけどね、テンさんは体がクレヨンだから、移動する時はピョンピョン飛ぶの。物語はね、テンさんの旅がメインなんだけど、少しずつしか進めないから、本当にゆっくりで道のりは果てしない。でもテンさんは、少しも辛そうじゃないんだよ。ゆっくり歩むからこそ、そこで色々な人に出会って、テンさんには沢山の仲間が出来るんだ」

セイは楽しそうに話す。

きっとこの絵本を読んでもらった楽しい思い出があるのだろう。

「テンさんはね、ある時ふと自分の後ろを振り返ってみたの。すると、テンさんの後ろにはクレヨンの痕が点になってずーっと残っていた。テンさんは笑ったわ。こんな目印を残しちゃ、逃げも隠れもできやしないってね!」

セイも私も、クスクスと一緒に笑う。

「この話には続きがあってね。ある時、失恋して落ち込んだ若鳥がいてね、尊敬する長老に相談しに行くの。すると、その長老は一緒に散歩でもするかって言って、二羽は一緒に空へ羽ばたいた。そしたら、なんと上空からテンさんを見つけるわけ。テンさんを見つけた長老は、テンさんの後ろに出来た「点の道」を見て若鳥に言うの」

私はこの時、続きが気になって仕方が無かった。

少し前のめりにもなっていた気がする。

そんな様子をみて、セイはニヤッとした。

私は誤魔化すように軽い咳払いをした。

「次は長老のセリフだから、ちょっと長いよ。こんな感じだったかな……」

セイは何度か「あっあー」と発生練習をして、話の続きを語り出した。

「おまえは、あの方が作られた道が見えるかね?あれは、私たち人生そのものですよ。私たちは点を刻んで生きているのです。おまえは落ち込んでいる『今』をもっと細かい時間で見てみなさい。例え大きく落ち込んでいたとしても、ある一瞬を切り抜けば違うことを考えている時だってあるでしょう。例えば、羽を開き飛び立つ瞬間。どんなに慣れたことでも、一瞬足の方に気を取られたりするものです。だから、急いで解決を求めてはならない。長生きをするコツは、気がまぎれた瞬間を楽しみ続けることですよ。ホッホー」

セイは「はぁー」と息を吐いた。

私的には可愛い長老だった気がする。

それにしても、こんな深いことを語る絵本があるんだな。

「これってさ、今のサエにも当てはまることじゃない?」

「えっ」

「例えば……今!こうやって私と話している瞬間、どお?この海に飛び込んでやるーって思う?」

「いや、今は思わないけど……」

「それで良いんだよ」

私の頭の上には疑問符が浮かんだ。
「どういうこと?」

「サエは、この一瞬を切り抜いたら、例えずーっと死にたい気持ちがあったとしても、行動するのは『今』じゃなくても良いと思えたって事だよね?」

私は無意識に「あっ」と口にしていた。

その様子を見て、セイはニコッと笑った。

「ほとんどが受け売りだけどさ、過去も未来も見なくて良いんだよ。一度死にたい衝動にかられると、一寸先も考える余裕なんて無いと思うの。どうせ、考えたって良い事無いしね。その人にとっては、闇だったり地獄だったり、絶望的な景色しか広がっていないんだから。『生きていれば、いつか良いことがあるよ』って言葉もあるけど、私は言えないかな。『いつか』なんて待てないから、今ここに居るのにね」

セイは「ねー?」と私の気持ちを汲むかのように、
優しい眼差しでこちらを向いた。

私はセイの胸に飛び込みたくなった。

触れない。
血も通っていない。
けれど「絶対に温かい」と、私はそう思うのだった。

「私はサエに、『今』を噛みしめて欲しい。今地面に足を付いている自分と、対話をして欲しい」

セイはゆっくり話を続ける。

「よく『人間の寿命は限られているから』とか『人っていうのはいつか死ぬんだから』って人任せならぬ、『時任せ』しているけどさ。人生終わらせるのって簡単ではないけど、しようと思えば出来るんだよね」

もう既にこの時、深夜の二時を回っていた。

辺りはより静けさを増し、この場にはセイの声と波の音だけが響いていた。

「難しいのは、寿命まで自分を信じて、生きさせてあげることなんだよ」

セイは、フッと天を見上げる。

「サエは今恐らく、自分ってものがフワフワしているから、自分の何を信じたら良いのか分からないんだと思う。だからと言って、他人の物差しで自分を見ようとしなくて良いんだよ。連鎖っていうのは、どこか一ヶ所でも断ち切っちゃえば止めることが出来る。全部をリセットする必要は無いんだよ。サエのしてきた事が、全て無駄だったとも思えない。サエの気遣いに優しさを感じた人だって、絶対にいるはずなんだよ。でも、サエ自身の心を犠牲にしてまで頑張る必要は無い。ねぇ、一緒に考えよう?サエがサエとして、生きれる道を」

そしてセイは力強く言った。
「サエはもう一人じゃない。サエの味方に私がいる」

触れられないはずのセイの手。

しかし、この瞬間だけ、自分の背中をソッと押してくれたような……そんな気がした。

私は膝をギュッと抱えながら、しきりに頷いていた。

その様子を見届けて、穏やかにセイは言う。

「心は複雑で、とても厄介だけど、誰かの言葉が救いになることだってある。だけど、この脈打つ鼓動を一度止めてしまったら、誰の言葉も届かないんだよ」

セイは月を見上げながら、切なそうな表情を浮かべていた。

私は、先程とは違う涙を流していた。

溢れ出る涙ではなく、綺麗に真っすぐと頬を伝う涙。
ツーと頬を伝い、ポタポタと零れ落ちる。

涙の温かさが、否が応でも自分の身に分からせた。

「生きている」と。

私はセイと視線を交わす。

今日は満月なのだろうか。

遠くに浮かぶ大きくて丸い月が、セイの瞳に写り込んでいる。

光を宿したセイの瞳は、濁りが無く真っすぐな瞳だった。