その店は古い木の匂いに満ちていた。
 地元から電車で約四十分。池袋の町中にあるとは思えない、静かな場所だった。
 薄暗く、狭い店内に所狭しとピアノが並んでいる。艶めいた黒のピアノに、飴色になった木のピアノ、少しくすんでいるけど白いピアノもある。
 曲線を持った蓋が開いているタイプと四角くて蓋が開いてないタイプは、一体何が違うのだろう。なんとなく前者の方が高価なイメージがあるが。
 勝手知ったる足取りで先を行く御子柴に尋ねると、目の前の背中が振り返って、手近にある蓋の開いたピアノを指差した。
「こっちがグランドピアノ、音は広がるけどでかくて邪魔。蓋が閉まってるのがアップライトピアノ、音はこもるけどコンパクト」
「へえ……」
「分かってんの? つーか興味ある?」
 からかうように苦笑する御子柴に、むっと口を尖らせる。
 休日の御子柴を見るのは、今でも慣れなかった。ネイビーのステンカラーコートに白いセーター、グレーのチノパンに、足元は黒のスニーカーという出で立ちだ。正直、馬鹿みたいに似合っている。
 大人っぽいスタイルの御子柴を前にすると、トレーナーとかダウンとかデニムを着ている自分がひどく子供に見えて、恥ずかしい。御子柴にもらったマフラーが浮いているのではないかと、そればかりが気になった。
 古い木目の階段を降りて行くと、店の地下に辿り着いた。一階よりもっと狭い部屋の壁沿いに、天井まで高さのある本棚がずらりと並んでいる。書店とは違い、そのどれもが薄っぺらくて大きな本だった。
「涼馬くん、いらっしゃい」
 カウンターの奥から老年の男性が出てきた。赤いチェックのネルシャツにグレーのベストを着て、頭にはハンチングを被っている。皮膚の皺は深く、眉毛も真っ白に染まっている。
 御子柴は気安い仕草で手を挙げた。
「シマさん、ご無沙汰です。あ、こればーちゃんから」
 高級和菓子店の紙袋を手渡されると、シマさんと呼ばれた老人はにこにこと微笑んだ。
「花枝ちゃん、元気かい?」
「はい。ほんとは来たがってたんですけど、ばーちゃんも歳なもんで」
「東京は人が多いからねえ。若い頃はよく久真くんと顔を出してくれたもんだけど」
「じーちゃんと仲良かったっすからね。あ、ソフィア・コチェンコヴァの新譜入りました?」
「取り置きしてあるよ。確かDGデビュー録音が入ってるんだっけ?」
「そうそう。あとショパコンで優勝した時のマズルカも」
 御子柴とシマさんは楽しげに話し込んでいる。俺には訳の分からないことで。
 なんとなく置いてけぼりを食らった気分になっていると、奥からCDを持ってきたシマさんが俺に視線を送った。
「こんにちは、涼馬くんのお友達かい?」
「あっえと」
「同じクラスの水無瀬っす。遊びに行くついでに付き合ってもらいました」
 俺はぺこりと会釈する。シマさんはにこにこと相好を崩した。
「僕は島田、よろしくね。涼馬くんがお友達を連れてくるなんて初めてじゃないかい? よっぽど仲がいいんだねえ」
 なんと言っていいか分からず、俺はしきりに頭を下げた。御子柴もまたシマさんの言葉に微笑むばかりで、何かを返すことはなかった。
「ついでにユニコンとクロスもください」
「いつものだね、はいはい」
 血管の浮いた手が、紙袋にCDとそれからボトルに入った何かと大きい眼鏡拭きのような布を詰めた。御子柴は会計を済ませて、それを受け取る。
「じゃ、また来ます」
「いつでもおいで。ご家族にもよろしくね」
「っす」
 一階に上がり、店を出る。
 待ち構えていたように都会の喧噪が耳になだれ込んできた。絶え間ない川の流れのような人々の往来に溶け込むと、まるでシマさんの店が別世界だったのではと思えるほどだった。
「付き合ってくれてありがとな」
「いやいいよ、あれぐらい」
「二時半かー。これからどうする?」
 御子柴が手元の腕時計を見やる。高価な物を身につけててもおかしくない格好なのに、ごつごつとした形のスポーツウォッチなのがこれまたにくい。
「水無瀬はなんか買い物とかねーの?」
「え? あー、そうだな、うーん……」
 俺は眉を寄せて、慣れない池袋の街を見回した。いつもは横浜や桜木町でなんでも済ませてしまうため、東京まで出てくることが滅多にないのだ。
 どうしようかと思い悩んで、ふと視線を足元に落とす。使い古したハイカットスニーカーが目に入った。元が白いだけあって汚れと傷が目立つ。
「そういや、新しい靴、欲しいかも」
「おっ、行く?」
 御子柴の目がきらりと輝いた。こいつも大体スニーカーを履いているから、好きなのかもしれない。御子柴はちょっと身を屈めて、俺の足を覗き込んだ。
「同じとこのやつがいい?」
 俺もまた御子柴の足元をちらりと見た。ブラックの革素材に、縦に二本、横に一本白い線の入ったデザイン。それが妙に格好良く見える。
「御子柴のはどこのやつ?」
「えっ、これ?」
「あ、いや、かっけーなーって思って。でも、俺に似合うか分かんないけど」
 御子柴は一瞬考えるように黙りこんだ後、我に返ったように手を打った。
「ちょうどあそこに店入ってるけど行く?」
 長い指が差し示したのは、背の高いビルが特徴のショッピングモールだった。池袋のランドマークだけあって、多くの人が今も中に吸い込まれていっている。
「うん、行く」
 俺が大きく頷くと、御子柴は何故か途方に暮れたようにビルを見上げた。その憂えた表情に惹きつけられたのだろうか、すれ違った女性グループが御子柴を見て、きゃあきゃあとはしゃいだ声を上げた。
「え、そんな上にあんの?」
「んなわけねーじゃん。そうじゃなくて」
「あっ、もしかして真似されんの嫌とか?」
「じゃーなーくてー」
 御子柴は水に濡れた犬のように首を左右に振ると、半ば睨み付けるように俺を見た。
「——あのさ、水無瀬。全然、話違うんだけど」
「え? お、おう」
「その、なんだ……ええと……」
 こんなに口ごもる御子柴は珍しい。なんだか不安になり、固唾を呑んで見守っていると、不意に御子柴が脱力した。
「……ごめん、また後で言う」
「な、なんだよ、気になるだろ」
「まーまー、とりあえず靴見に行こうぜっ」
 ぐいぐいと背中を押され、思わず蹈鞴を踏みそうになる。
 なんだなんだ。もしかして服が後ろ前反対とか? 昼に食ったラーメンのノリが歯についてるとか?
 俺はしきりに首を捻りながら、人の流れに乗ってショッピングモールへと足を踏み入れた。


 もしここで置き去りにされたら、多分、遭難するな、と思った。
 ショッピングモール内は、それぐらい広くて複雑だった。
 エスカレーターで降りたかと思ったら、階段で上ったり。水族館や展望台へ行く方の入り口に間違って入りそうになったりした。
 シマさんのお店に行くついでによく来るのだろうか、御子柴は地図も見ずにすいすいとモール内を歩いて行く。どこをどう行ったか俺にはさっぱりだったが、十分もしないうちに目的の店に辿り着いた。
 名前だけは聞いたことがあるスニーカーブランドだった。
 黒地に白の看板に、トラの置物が俺達を出迎える。ガラス棚に飾られたスニーカーを明るい照明が浮かび上がらせている。試着のために使う椅子は、革張りの立派なものだ。なんだか場違いなところに来てしまった予感がひしひしとしていた。
 入り口付近で、手元の書類と商品とをチェックしていた女性店員が振り返る。
「あ、ピアノのお兄さんじゃないですか。お久しぶりでーす」
「お前、常連さんなの?」
「ちげーよ。ここは三回くらいしか来たことない。ただあの店員さんがめっちゃクセ強なだけ」
「聞こえてますよー? 人なつっこくて記憶力いいって言ってくれません?」
「な?」
「はぁ」
 店員さんはポニーテールを揺らして、俺に笑顔を向けた。
「はじめまして、私、高遠です。サイズ出すんで、バンバン履いてってくださいね!」
「は、はい」
「じゃ、用があったら言ってくださーい」
 そう言って高遠さんはまた仕事に戻っていった。押し売りされるかと思ったけど(そういう店員さんが俺はこの世で一番苦手だ)声をかけられない限りは放っておくスタンスのようでほっとした。
 俺は人ん家に初めて来た時のように、そろそろと店内を歩き回った。
 カラーものもあるけれど、わりと白とか黒とか落ち着いた色が多い。形も奇抜なデザインは少なかった。その代わり、よく見ると素材にこだわっている感じがする。レザーからスウェード、中には冬用のボア素材なんて変わったものもあった。
 ……どうしよう。どれがいいのかさっぱり分からない。
 俺は助けを求めるように、御子柴を振り返る。
「なぁ、見立ててくんね?」
「えっ。あー、うん、いいけど」
「見立て? 高遠さんのこと呼びました?」
「呼んでませーん」
 御子柴にしっしっと追い払われ、高遠さんは渋々仕事に戻っていった。
「サイズっていくつ?」
「二五・五センチ」
「りょーかい。ちょっとここ座っといて」
 言われたとおり、椅子に腰掛ける。
 御子柴は顎に手を当てて考えこみながら、店内をぐるりと回った。そして一足選んだ見本を手に、高遠さんへ何事かを相談する。
 やがて高遠さんが持ってきた箱を、御子柴が受け取ってこっちに持ってくる。箱からスニーカーをがさごそ取り出しながら、御子柴が言った。
「ここのやつちょっと細身だから、ハーフサイズアップがいいって。だから二六な」
「へえ」
 スニーカーの中から詰め物を抜くと、御子柴がその場に膝を着いた。俺が目を瞬かせているうちに、足首を掴まれた。
「えっ、いや、ちょっ? 何してんの?」
「何って試着」
「いやいやいや、自分でするし!」
「いいじゃん、一日店員してみてーの」
「ぶー、それどうみても私の仕事じゃありません?」
 カウンターの奥から高遠さんがじとっと見てくるのを、御子柴は背中で完全に無視した。
 大きな手が俺の踵を掴み、薄汚れたスニーカーを脱がせる。
「お前、これ可愛いけど、ちょっと似合いすぎなんだよな。こういうのどう?」
 スウェード素材の真っ黒なスニーカーだった。ラバーだけが白く、モノトーンのシンプルだが洗練されたデザインである。
 御子柴は俺にそれを履かせると、無言で黒い靴紐を結び始めた。
 こちらから見下ろした表情は至って真剣だ。伏し目がちの瞼に長い睫が生えそろっているのが見えて、俺はうろうろと視線を彷徨わせた。
 どうしても人目が気になり、カウンターを見やる。高遠さんはさっきの不機嫌をどこかに置いてきたように、鼻歌交じりで棚にはたきをかけている。俺はこの人が今日のシフトで良かったと心底思った。
「できた」
 背中をぽんと叩かれて、立ち上がる。
 鏡に映る自分の姿は、足元のみならず全身が引き締まって見えた。靴一つでこれだけ違うのか……
「どう?」
「うん、めちゃくちゃいい。これにする」
 満足感と共にそう言うと、御子柴が目を丸くした。後ろで高遠さんがカウンターから身を乗り出す。
「他にもいっぱいありますよ?」
「ありがとうございます。でも、これすごい気に入ったんで」
 隣で長い長い溜息が聞こえた。御子柴が額を抑えて、俯いている。
「なんだよ」
「……なんでもねーよ」
 急になんだ、疲れたんだろうか。
 レジに靴を持って行くと、高遠さんがほくほく顔で言った。
「最初ので決めちゃうとか、ちょろくて助かります〜。お買い上げ、ありがとうございま〜す」
 ほんとこの人、好き勝手言うな……。まぁ、こっちも気を遣わなくていいけど。
「あ、このまま履いてってもいいですか」
「おおー、かしこまりです。値札切っときますね。うちの靴、気に入ってくださって嬉しいな。良かったですね、ピアノのお兄さん!」
 俺が靴を履き替えると、高遠さんが古い方のスニーカーを紙袋に入れてくれた。何故か御子柴は振り向きもせず、ずっと項垂れていた。
 俺は最後、高遠さんに「猫っぽいけど犬っぽい子」という謎の呼び名をつけられ、店を後にした。
 歩く度に足元を見る。足がぴったり包み込まれている感覚が気持ちいい。ラバーが分厚いおかげか、かかとの負担も減った気がする。
「これ、ほんといいな。そうだ、服もお前に見立ててもらおっか」
 そうしたら御子柴のようにはいかないにしろ、もう少しお洒落になれるかもしれない。いいアイディアだと思ったが、御子柴の顔は浮かない。
「それってさ……あのさ、もはや全身……」
「何だよ、面倒かよ」
「もー、そうじゃない……」
 どことなく声に覇気がない。少し困ってるようにも見える。これ以上、御子柴に負担をかけるのは本意ではないので、俺はさっさと踵を返した。
「まぁ、また今度な」
 来た道を戻ろうとすると、御子柴に呼び止められた。
「もう帰んの?」
「え、うん。だってお前、疲れてんだろ」
「疲れてねーよ、なんで?」
「だって、なんか……」
 さっきから様子が変だから。そう言おうとしたものの、今の御子柴はけろっとしている。あれ……俺の勘違いか?
「まだ三時だし。せっかく来たのにさー」
 と言われても、俺としては特に用事はない。あとは……映画とかカラオケとか? でもそれにはちょっと時間が足りない気もする。そもそもここでしかできないことじゃない。
 どうしたものかと考え込んでいると、ふと壁にかかっている施設の案内板が目に入った。
 フロアごとに案内が分かれている。どうやら俺達が今いるのは地下一階から地上一階に渡る専門店街だ。……何階にいるのかはちょっと分からない。
 二階には屋内型テーマパーク、四階や五階には展示室やパスポートセンターなどが入っているらしい。
 そして最上階にはさっき間違って行きそうになった水族館、そして——
「うわ」
 フロアガイドの隣にあったポスターに思わず見入る。
 どこかの離島の上に、満天の星空が輝いていた。
「——プラネタリウム?」
 御子柴もまた俺の後ろからポスターを覗き込んだ。
「あー、そういや水族館の隣にあるな。昔、行ったことあるわー」
「へー……」
「何、行きてぇの?」
 俺は肩越しに振り返ったものの、少し返答に困った。
 行ったことがないから、観てみたくはある。けど、男二人でプラネタリウムってどうなのかな……。映画みたいなもんだからいいのか? 上映時間も四十分ぐらいって書いてあるし、ちょうどいい長さではあるけど。
 などと悩んでいる間に、御子柴はスマホを素早く操作していた。かと思ったら、急に肩を強く揺すられる。
「やばいやばい、もうすぐ始まるやつある。急ごうぜ」
「えっ、マジで行くの?」
「他にやることないし、いいじゃん」
 俺は半ば御子柴に引きずられるようにして、最上階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。その間にも御子柴は真剣な顔つきでスマホに向かっていた。
「よし、チケット取れた」
「早ッ」
 御子柴が得意気に、オンラインチケットの画面を見せてくる。その手際の良さに、俺は思わず苦笑した。

 最上階に着くと、ビルの上にある有名な水族館の入り口が出迎えた。
 そちらに行く人達とは分かれ、長い通路を進んだ奥に、プラネタリウムの受付があった。御子柴がチケットを見せると「上映時間が迫っております」と急かされた。
 映画館にあるような分厚い防音扉をくぐる。薄暗いドーム状の会場内に、それなりの人数が座っていた。御子柴が取ったのは入り口に一番近い端の席だったので、懸念していた客層はよくわからなかった。
 リクライニングされた座席に腰を沈めるなり、背後の扉が閉じられる。照明も落とされて、周囲が完全に闇に包まれた。
 携帯電話の電源を切ってくださいとか(忘れてたので慌てて切った)、上映中は会話禁止とか、そういった注意事項のアナウンスが流れる中、隣から不意に小声で耳打ちされた。
「……な、手繋いでいい?」
 俺はぎょっとして振り返った。
 鼻先が触れるほど近くに御子柴の顔がある。暗闇の中でも分かる端整な顔立ちと、じっと見つめてくる深い色の眼差しが、俺をじわじわと追い詰めていく。
 最後列の一番端、隣の人からは五席ほど離れている。それにみんなきっと、今から映し出される星空に夢中になる。どうせ誰も見てない、見えない。どうしよう、と目を伏せる。どうしよう、どうしよう。だって、
 どうしよう——俺も、そうしたいんだ。
「ん……」
 小さく頷くと、御子柴の瞳がいっそう輝きを増した。
 御子柴は席の間にある肘掛けをゆっくり上げると、静かにコートを脱いだ。そうして俺の左手を取り、その上からコートを被せる。
「完璧」
 いたずらっぽく御子柴が笑うのに、俺も小さく肩を揺らす。共犯者同士、俺達は密かに手を結んだ。
 ゆったりとした音楽と共に、無垢な星々が頭上に広がる。
 耳触りのいいナレーションが星空の解説を始めた。冬は一年で一番、星が綺麗な季節です。明るい一等星がとても多く、また様々な色の星があります。一番有名なのはオリオン座です。南の空をご覧ください、同じ明るさの三つの星が見えますでしょうか——
 繋いだ手から御子柴の体温が伝わってくる。ピアノの鍵盤の上を自由自在に泳ぐ長い五本の指、少し厚みのある皮膚。ああ——俺がすきなひとの、ぬくもり。
 段々と自分の体が宙に浮いているような感覚になる。時間の流れを早めて、ゆっくりと回転する星空。柔らかい男性の声はどこか御子柴に似ている気がする。
 長い瞬きをすると、体の力が抜け、ふと優しい香りが鼻腔をくすぐった。屋上に吹く風の匂い、自分の席の目の前にある匂い、すぐ隣の匂い。少し意地悪で、でもいつも優しい——そんな泣きたくなるような。
 いつの間にか星空も声も遠くなり、そばにある存在だけが俺の全てになる。
 宇宙のような途方もない暗闇に覆われていく空間。つめたくあたたかく凍りついた時間。
 死んでしまった人はこんな風になるんだろうか。そうだとしても、何も怖くない。
 このまま。
 せかいがおわればいいのに——
「——せ、みなせ。おい、水無瀬ってば……」
 ぱちっと目を開けると、星空がどこかに消えていた。
 隣の席から御子柴が眉間に皺を寄せて、俺を覗き込んでいる。コートを着ていて、手は離れていて、肘掛けが元に戻っていた。
 ……え? もしかして、全部、夢? プラネタリウムは今から?
 きょろきょろと左右を見渡すと、他の客は一人もいなかった。御子柴が急かすように俺の腕を引っ張る。緩慢な動作で立ち上がる俺に、呆れた声が降ってきた。
「お前、始まってすぐ爆睡したんだけど」
「え!」
 視線を感じて、出入り口を見やると、係員の女性が凄みのある笑顔を浮かべていた。俺は御子柴に腕を引っ張られつつ、すみやかにその場を後にした。
「見たいって言ったのお前じゃん、もー」
 手を離すなり、御子柴は腕を組んで文句を言った。返す言葉もなく、俺はしょんぼりと肩を落とした。
「ごめんって。でも起こしてくれれば良かったのに」
「あんだけ気持ちよさそうに寝られたら、起こせねーよ」
 はぁ……。なんだかすごくもったいないことをした。初めてのプラネタリウムだったのに、星空もろくに見られなかった。それに、せっかく……手も繋いでたのに。本当にもったいない。
「あ、そうだ。チケット代、いくら?」
「いいよ、別に。お前、見てないんだし」
「い、いやいや、払うって」
「じゃ、今度また来た時に出して。んで、寝るな」
「う……はい」
 エレベーターで地下まで降りて、そこからエスカレーターで地上に登る。池袋の街はすっかり茜色に染まっていた。
 電車に乗って、横浜まで帰る。そこから私鉄に乗り換えれば、すぐ最寄り駅だった。
 冬の日は短く、地元に着くとすっかり暗くなっていた。東京がそんなに遠いわけではないけど、見慣れた道を歩くと、帰ってきたという気分がしてほっとする。
「あのさ、来週……」
 御子柴がぽつりと呟くのに、耳を傾ける。形のいい眉が困ったようにしかめられていた。
「って、もう三月だよなー」
「あぁ……うん、そうだな」
 二月は少し短くて、あっという間だった。来週半ばからはもう三月。……二年生、最後の月だ。
 来年も同じクラスメートがいい、と天野さんが言っていたのを思い出す。俺も賛成だった。それが叶ったら、どんなにいいことか。
 長い道の向こうに俺ん家のマンションが見えてきた。なんとなく目を伏せると、御子柴が柔らかく苦笑した。
「何? 帰るの寂しい?」
 うるさいばか、といつものように言ってやるつもりだった。
 でも自分の意に反して、俺の足は立ち止まった。御子柴が数歩先でそれに気づき、振り返ってくる。
「水無瀬?」
「……寂しいよ」
 手を伸ばし、御子柴のコートの袖を指で掴む。
「離れたくない」
 ——耳に痛いほどの静けさが訪れる。
 俺は俯いたまま顔を上げられない。ばかだ、言わなきゃ良かった。こんなことしたって、御子柴が困るだけなのに。
 そっと指を離す。なんて謝ろうか考えていると、御子柴が固い声音で言った。
「……キスしたい」
「えっ、い、いや、ここでは」
「だろうな。じゃあ、なんでそんなこと言うんだよ」
 体の横で、御子柴の拳が震えるほど強く握られている。怒らせたのかと思い、ぎくりと背筋を強張らせる。御子柴は長い溜息と共に、続きを吐き出した。
「っていうか、今日ずっと思ってたよ、俺は。同じとこの靴欲しいとか言い出すし、それと服見立てろとかさ……。マフラーも靴も俺が選んだんだぞ。んなことしたら頭からつま先まで、ってなるけどいいのかよ」
 ……え。あれ。なんでこいつこんなに怒ってんだろう。あとそれの何が悪いのか、まったく分からない。
「妙に楽しそうだし、やけに素直だし。プラネタリウム見たいって。そんですぐ寝るって。可愛いのかよ、お前は」
「いや、可愛くはない……」
「手も繋いだし、暗いからワンチャンあると踏んでたわ。いやもう寝ててもいっそしてやろうかとも思ったし。でも肩に頭乗っけられたらできねえだろ、ふざけんな」
 俺、そんなことしてたのか。つーかさっきから、一体何を聞かされてる? 頭がこんがらがってきたところで、御子柴はまた聞こえよがしに嘆息した。
「もういい。今日言いそびれてたこと、この勢いで言いますけど」
 そういえば昼間、やけに口ごもっていた時のことを思い出す。俺が身構える間もなく、御子柴は強い語気で告げた。

「——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?」

 ぽかん、と呆気に取られていたのは一瞬だった。
 御子柴の言わんとしているところが全て分かった瞬間、ぶわっと全身の血が顔に集まる。夜の住宅街に俺の素っ頓狂な声が響き渡った。

「——へっ!?」