冬の朝は清浄な空気に包まれていた。
東の空から昇る朝日が眩しい。同じ学校の生徒に交じって登校しながら、俺はふわぁと欠伸をした。
御子柴が倒れた一件から五日経っていた。御子柴はすっかり体調が戻り、いつも通り過ごしている。今、思えば俺が御子柴の違和感に不安を感じていたのだろう。息苦しさもいつの間にか消えていた。
とはいえ、あの日は本当に色々あって、それが今でも俺の頭にこびりついて離れない。俺の体に散らばった鬱血の跡は、まだうっすら残っているものもある。それを鏡で確認する度に、俺は頭を抱えていた。
——これから、俺達はどうなるんだろう。
そんな期待と不安が、ずっと胸の内で入り交じっている。
昇降口についた俺は妙な意識を退けるべく、ぶんぶんと首を振った。
そこへ、どんと肩口に軽い衝撃が走った。
「きゃっ……」
驚いて顔を上げると、小さな悲鳴が聞こえた。ぶつかった相手がよろけているのを見て、とっさにその腕を掴む。なんとか踏みとどまってこちらを見上げているのは、見知った顔だった。
「天野さん……?」
「あっ、み、水無瀬くん……!」
よほど慌てていたのだろうか、顔を真っ赤にしている。天野游那。同じクラスの女子だ。すらっとしたスタイルに、艶めくロングの黒髪。白くきめ細やかな肌に、常に濡れているような大きな黒い瞳。清純派若手女優と紹介されても信じてしまうような、紛うことなき美少女だ。
「お、おはよ。ごめんね、私、ぼーっとしてて」
「いや、俺の方こそごめん。前、ちゃんと見てなかった。大丈夫?」
「うん、全然平気」
照れたようにはにかんでいた天野さんは、俺の周りをきょろきょろと見回した。
「あれ、今日……御子柴くんは?」
「え? あぁ、たまに途中で会うってだけで、一緒に来てるわけじゃないけど……」
「あっ、そ、そうなんだ」
俺は密かに視線を落とした。
天野さんが御子柴に想いを寄せているのは周知の事実だ。何か用事があったのかもしれない。
下駄箱を確認するとまだ御子柴は登校していなかった。
「もうすぐ来るんじゃないかな。俺、先行くね」
「あ、ちょっと待って、水無瀬くん」
上履きに履き替えていると、思いがけず呼び止められる。天野さんは目元を染めたまま、困ったように眉を寄せていた。
「あの、よかったら教室まで一緒に行こ」
「え。でも、御子柴は……いいの?」
「別に用があるとかじゃないの。聞いただけだから」
断る理由はなく、連れ立って階段を昇る。段を上る度に揺れる長い髪からは、花のようないい香りがした。
「水無瀬くんとこうやって喋る機会、あまりなかったね」
「あぁ、うん。そうかも」
俺も男子だ、隣にこんな可愛い子がいると、緊張してしまう。そんなことは露知らず、天野さんは淡い笑みを浮かべた。
「もう二年生も終わりだから、ちょっと残念。うちのクラス、みんな良い人ばかりだもん」
「確かに平和だよな」
「三年生も同じメンバーだったらいいのになぁ。水無瀬くんは……御子柴くんと離れたら寂しくない?」
階段を昇り終えた瞬間そう聞かれて、思わず蹈鞴を踏みそうになった。
「な、なんで御子柴?」
「えっと……だって、ほら、すごく仲良しでしょ?」
「そう、かな。まぁ、そうかもだけど。あ、でも、天野さんこそ、御子柴と離れたら寂しいんじゃ……?」
失言は必ず口に出してから気づくものだ。天野さんは真っ赤になって俯いてしまった。
「わ、私は……一年の時も一緒だったから。連続で同じクラスなんて、運が良かったかな、なんて……。あ、ううん、そうじゃなくてその」
あたふたと手を振る仕草が可愛らしくて、思わず苦笑する。天野さんは怒ったように唇を尖らせた。
「笑わないでよ、もう」
「あ、ごめん」
馴れ馴れしかったかと思い眉を下げると、天野さんは一転、花咲くように微笑んだ。
「あのね、もし良かったらID教えてくれない?」
「えっ」
「その……水無瀬くんのこともっとよく知りたいなって。駄目かな?」
まったく他意のない様子で天野さんがそう言うのに、俺は面食らった。宝石のように輝く瞳が上目遣いで見つめてくる。これは……あれだ。天然人たらしの類だ。
「も、もちろん」
逆らえるわけもなく、スマホを取り出す。連絡先を交換し終えると、天野さんは弾むような足取りで教室へと入った。
「ありがとう。今日も一日頑張ろうね」
小さな踵が翻り、黒髪がなびく。先に着いていた友人の中に入っていく天野さんを、俺は呆然と見つめていた。
*
「——天野ちゃんの連絡先ゲットしたって、本当か? 返答次第では斬る」
一体、何で斬るというのだろう。高牧が朝から絡んでくるのに、俺はうんざりした表情を浮かべた。
俺の机に頬杖をついていた御子柴が首を傾げる。
「お前、天野と仲良かったっけ?」
「あー、いや。今朝、たまたま下駄箱で一緒になって。なんでか知らないけど、ID教えてって言われて……」
「天野ちゃんから言われたのかよ、自慢かテメェ」
高牧がずいっと顔を寄せてくる。小バエを払うように、御子柴がその額を叩いた。
「いてっ」
「教えて欲しいなら、天野に聞けよ」
「聞けねえから言ってんだろ。高牧くんのピュアピュアハートをナメんなよ!」
「知らねー。宇宙の果てまで知ったこっちゃねー」
「いいよな、すでにオトモダチな奴らは!」
すると、御子柴が眉を顰めた。
「いや、俺、知らないけど」
『えっ?』
期せずして俺と高牧の声が重なった。
「ハモんな」
「いや、だって……」
「なぁ」
高牧とどちらともなく顔を見合わせると、御子柴は心底嫌そうに眉間の皺を深めた。そして何故かまた高牧の額を叩く。
当然、抗議する高牧としれっと無視する御子柴をよそに、俺は手元のスマホをそっと見下ろした。
天野さんはもしかしたら俺を通じて、御子柴の連絡先が知りたいのかもしれない。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、じゃないけど……そういうことなのかと。
別にそうだとしても、一向に構わなかった。ま、そんなもんだよな、と思う。むしろ約二年間も連絡先を聞けなかった天野さんの慎ましさに、同情を覚えるくらいだ。
そんな天野さんを俺は欺いている。きっと、一番酷い方法で。
あの眩しい微笑みを思い出すと、じくっと胸が痛んだ。
夜、風呂から上がって髪を拭いていると、洗面台の上に放り出してあったスマホが震えた。濡れ髪のままちらっと見やれば、天野さんからのメッセージだった。
『今朝はごめんね。ID教えてくれてありがとう』
ドライヤーを吹かしながら、画面の上に指を滑らせる。
『こっちこそぶつかってごめん』
『ううん』『今日の持久走、しんどかったね』
『女子は十周だったっけ』
『そう。男子は十五周だったよね。そういえば御子柴くん速かったね』
突然出てきた字面にどきりとする。俺はドライヤーのスイッチを切った。
『あいつマジでなんでもできるよな』
『ちょっとズルいと思う』
『確かに』
会話が途切れる。俺はいたたまれなくなって『御子柴の』と打ち、そこでやめた。
言われてもないのに、あいつに取り次ごうか、なんて大きなお世話もいいところだ。
それに……御子柴だっていい顔しないだろう。俺は人の感情の機微に聡い方ではないけど、それぐらいは分かる。
『でも病み上がりなのに走ったりして大丈夫だったのかな?』
俺はとっさに洗面所の鏡を見た。上半身にうっすら残る鬱血の跡を凝視する。
なんと返していいか悩んでいるうちに、洗面所のドアがどんどんと叩かれた。
「ハルくん、まだー? 美海もお風呂入りたいんだけどー」
「あ、あぁ、今出る」
手早くトレーナーを着て、洗面所を出る。すれ違いに入ってきた美海はぷりぷり怒りながらドアを閉めた。
そういえば台所に洗い物がまだ残っている。俺はこれ幸いに『用事があるから、ごめん。また明日』とだけ返し、リビングのローテーブルにスマホを裏返して置いた。
今日は二月とは思えないほど暖かかった。燦々と太陽の光が降り注ぐ屋上で、いつものように御子柴と昼飯を食べる。というか、御子柴はすでに食べ終わっていて、珍しくスマホを眺めていた。
俺はコッペパンをかじりながら、その様子をちらりと見やった。
もしかして昨日の今日で天野さんと連絡先交換したとか……? 妙な勘ぐりをとっさにカフェオレで流し込む。
すると、御子柴が急にむすっと口を曲げた。
「えー、なんだよ。つまんねー」
「は、何?」
御子柴はこちらに体を寄せて、スマホの画面を見せてくる。
「ほらこれ。十八歳以上でも高校生はラブホ行けねーんだって」
「ぶッ——!」
カフェオレが思いっきり気管に入った。げほごほ咽せている俺を意にも介さず、御子柴は続ける。
「つっても、俺らまだ十七だけどさ」
「バッ……げほっ、バカなのか、お前は!」
「え、なんで?」
とぼけたような表情が一転、意地の悪い笑みを浮かべる。俺は腹の底から叫んだ。
「うるさい、ほんとムカつく!」
怒りを口元のコッペパンにぶつける。特に腹も空いてないのに、餓えた獣のようにパンを噛み千切った。
ポケットの中で携帯が震える。取り出して見ると、天野さんからだった。
『五時間目と六時間目入れ替わったって。次、選択授業だから気をつけてね』
その親切なメッセージにささくれ立った心が洗われる。
『教えてくれてありがとう』
『うん、御子柴くんにも伝えておいてね』
天野さんからその名前が出る度に、鼓動が変な音になる気がした。俺は『分かった』とだけ返信する。天野さんからくまのキャラクターのスタンプが送られてきて、会話は終わった。
「普通のホテルだったらいいのかなぁ……?」
スマホの画面を睨みながら、御子柴は首を捻っている。俺は密かに溜息をついた。
今週は掃除当番だった。掃除の担当は自教室と特別教室に分かれている。うちのクラスの担当である音楽室の床にモップをかけていると、同じ班である女子の一人が声をかけてきた。
「水無瀬、水無瀬。ちょっといい?」
篠山朝霞。気の強そうな太い眉が特徴的な女子だ。実際、その小柄な体格からは想像も付かないほど、はっきり物を言うタイプである。正直ちょっと苦手だ。
篠山は肩につくぐらいの髪を揺らして、ちょいちょいと俺を音楽室の端に手招きした。気が進まないながらも、仕方なくついていく。
「何?」
「あんた最近、游那とよく喋ってるってほんと?」
またそれか。篠山は天野さんとグループが一緒だ。小学生からの付き合いらしい。
「別に。ケータイで時々やりとりするだけ」
「あの子から聞いてきたんだよね、連絡先」
「そうだけど、それが?」
「いや、すっごい珍しいことだからさ。気になって」
篠山は他の班員の手前、雑巾で窓を拭きながら、続けた。
「游那に聞いても『なんでもないよ〜』の一点張りだし。ねえ、ひょっとしてあんたのこと好きなのかな?」
「それはない」
「ま、だよね。とすると、ついに動いたか、あの子」
「……御子柴目当て?」
「言い方気をつけろ。ずっと一途だったんだからね」
篠山の顔が引きつるのに、俺は思わずたじろいだ。友達思いなんだろうけど、やっぱりちょっと怖い。
「余計なおせっかいかもしれないけど、協力してやってよ。あんたも見たいでしょ、学校一の美男美女カップル」
別に見たくはない。……色んな意味で。俺がいまいちピンときてないことを察したか、篠山は畳みかける。
「澄ました顔してるけどさ、御子柴も絶対游那のこと好きだと思うんだよな〜。ね、なんかあいつから聞いてない?」
「聞いてないし、聞いてても言わない」
「なによ、ケチ。あたしたち、同志じゃん」
「何のだよ」
モップをバケツにつけ、ローラーで水を絞る。床掃除を再開しても、篠山は尚も執拗に俺を追いかけてきた。
「ねえ、游那のこと応援してよね」
俺は答えず、一心不乱に床を拭いた。その一言一言が俺の肩に重くのしかかることを、篠山は知らない。
掃除道具を片付けて音楽室を出る頃には、とっぷり日が暮れていた。
じゃんけんで負けた俺は焼却炉までゴミを運ぶ羽目になり、とぼとぼと校舎の外周を歩いていた。
煤塗れの焼却炉にゴミ袋を放り込み、なんとか任務を終える。
一人きりの校舎裏は静かだった。雑音がないここにいると、ひどく心が安らぐ。俺は両腕をあげて体を伸ばすと、深呼吸をして、空を仰いだ。
頭上には夕暮れ空が広がっていた。その下に屋上のフェンスが見える。ふとフェンス際に人影を見つけ、俺は驚きに目を見開いた。
「え……天野さん?」
長い髪が屋上の風になびいている。天野さんはフェンス越しにじっと街並みを見つめていた。
一人きりで、こんな時間に屋上で——何を?
そんなことあり得ないはずなのに、恐ろしい想像がよぎる。俺は急いで、スマホを取り出した。
メッセージアプリの音声通話ボタンを押す。屋上の影が何かに気づいたように、手元を見た。
『あ……もしもし? 水無瀬くん?』
「ご、ごめん、急に。天野さん、もしかして今、屋上にいる?」
『えっ、どうして分かるの?』
「下見て。焼却炉のあたり」
天野さんはフェンス越しに眼下を覗いた。そして俺を見つけ、ひらひらと手を振った。
『わ、偶然。そっか、掃除当番だっけ』
明るい声に安堵の息を吐く。どうやら俺が心配していたようなことはなさそうだ。
「そんなところで何してるの?」
『えっと……ちょっと黄昏れてた。あはは』
口調に空元気が混じっている。俺はついに見て見ぬ振りができなくなり、思い切って言った。
「あの、的外れだったら、あれなんだけど。天野さん、何か悩んでる?」
『え?』
「それって……俺が聞けること?」
しばしの沈黙が流れた。そして天野さんは小さく呟いた。
『あのね』
電話越しにも、躊躇いが感じられる。
『水無瀬くん、あのね……』
天野さんはそれきり喋らなくなってしまう。それでも俺は辛抱強く次の言葉を待った。
すん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。天野さんはやがて絞り出すように言った。
『もし良かったら、今から教室で会えないかな。聞いて欲しいことがあるの……』
「分かった、すぐ行く」
『ごめんね、水無瀬くん。ごめんなさい……』
消え入りそうな声を残して、通話は途切れた。俺は掃除の疲労も忘れて、昇降口へと駆け出した。
誰もいない教室は、空虚な音で満ちていた。差し込む夕日は傾きが強く、もうすぐやってくる夜の予兆を感じさせる。
天野さんは教室の真ん中でぽつんと佇んでいた。俺は荒い息を整えながら、まるで薄氷を踏むように、教室へ足を踏み入れた。
足音に気づいた天野さんが俯きがちだった顔を上げる。夕日に照らされた表情は今にも泣き出しそうだった。
ちょうど机二つ分の間を開けて立ち止まる。何か言わなければと思い、口を開く。
「天野さん、あの……」
続く言葉が出てこない。すると俺が戸惑っているのを察した天野さんが、精一杯の微笑みを浮かべた。
「ありがとう、水無瀬くん……。迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて、そんな」
気まずい空白が俺と天野さんの間に横たわる。何も言わなくても天野さんの迷いが手に取るように感じられる。
これから天野さんが何を語るのか、怖くないと言えば嘘になる。けれど俺には聞く義務がある。こうして彼女に頼られた以上は。
伏し目がちだった視線を天野さんに戻す。天野さんもまた俺を真っ直ぐ見つめていた。
「……これから言うこと、気を悪くしたらごめんなさい」
その一言でなんとなく想像がついた。
やっぱり天野さんが俺に親しくした理由は……。俺は気づかれないよう、拳を握りしめる。
「本当に、ごめんなさい。許してなんて言わないけど、謝らせてほしいの」
固唾を呑み込むと、喉が酷く痛んだ。呼吸が浅く早くなるのを止められない。馬鹿野郎、と俺は自分を叱咤した。天野さんの方が辛い。きっとそうなる。だからせめてその気持ちだけは受け止めないと。
天野さんはぎゅっと目を瞑った。そして開いた瞳には何かを覚悟したような光が灯っていた。ひたむきで真剣な表情は見惚れるほど美しい。
やがて自分の心臓の音が強く響きだした頃、天野さんは言った。
「水無瀬くんは、御子柴くんと付き合ってるんだよね……?」
——不意に、夕日が翳った。
暗く閉ざされた視界が、ぐらりと揺らぐ。
この世の終わりのような強い耳鳴りが聴覚を遮った。けれど、耳を塞ぐことを許さないと言わんばかりに、一瞬にして通り過ぎる。
どくどくと脈打つ鼓動。遠くから響く運動部員の声。天野さんの言葉。
そして、自分の血がさあっと引いていく音を聞く。
「え……?」
やっと絞り出したのはそれだけだった。
天野さんは自分自身を奮い立たせるように、胸の前で手を握り合わせた。
「ごめんなさい、私、あの日——御子柴くんが倒れた日、どうしても気になって……御子柴くんのことが心配で、みんなが帰っても待ってたの。みんないなくなってから、一人だけなら、お見舞い、できるかなって……思って……」
息を吸って吐く。そんな簡単なことすら、今の俺は忘れてしまっている。
「日が暮れてから、保健室に行ったの。明かりがついてて、まだ誰かいるんだって思って……でも学校医の先生に怒られたらどうしようって、しばらく扉の前で、迷ってて……」
聞きたくない、聞きたくない。できればこの場から今すぐにでも逃げ出したい。けど、足どころか全身が動かない。
「聞いてしまったの、二人の言葉……」
好きだ、と俺は何度も言った気がする。御子柴は俺もだよ、と返事した。
「本当に、そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい、水無瀬くん、本当にごめんなさい」
俺の脳裏に、あの日の記憶がまざまざと甦る。
保健室を一旦出たとき、確かに何かの音を聞いた。
あれは、あれは——
「私、秘密にするつもりだった。自分一人の心に留めておこうって……。でも、でもね、私、辛くて。どうしても堪えきれなくて。二人に悪いことしてるのが、耐えられなかった。この一週間ずっと悩んでて……。言わなきゃいいって分かってたのに、どうしても。それにね、私……私っ……」
ぽろぽろと。天野さんのすべらかな頬から、大粒の涙が零れる。深く俯いた顔を、小さな両手が覆う。
「御子柴くんのこと、ずっと好きだったから……!」
——ああ、俺は。
何を、どこで間違えたのだろう。
どうすればこんなにも人を傷つけずに済んだのだろう。
何度も何度も、謝らせて。彼女は何も悪くないのに。
ただ無垢で、心優しいこの人を欺いた。
それは、まるで——
やめろ、と自分の中の誰かが叫ぶ。ここで立ち止まるな、逃げるな。自分勝手な言葉を吐くな。それだけは、絶対に。
「……このこと、御子柴には……」
戦慄く唇で尋ねる。天野さんが首を振る度に、ぱっと輝く雫が宙を舞った。
「言ってない。もちろん他の誰にも。水無瀬くん、あのね、お願いがあるの。最低なのは分かってるんだけど——」
天野さんは子供のように手の甲でしきりに涙を拭った。
「私、御子柴くんに想いを伝えたい。結果は分かってるし、それ以上は何も望んでない。けど、せめて、自分の気持ちに自分で決着をつけたい。もちろん水無瀬くんが嫌なら絶対にしない。でも、でも……もし、少しでも考えて、くれるなら」
つやつやとした黒髪がさらりと下に流れる。
「許して、くれませんか——」
俺は一瞬だけ目を閉じた。きつい西日が瞼に透ける。
ゆっくり視界を開き、無理矢理口の形を笑みに歪めた。
「……頭を上げて、天野さん」
しばらくそのままだった天野さんがようやく顔を上げてくれる。そこには泣き腫らして真っ赤に染まった双眸がある。半ばそれを見ていられなくて、俺は深々と頭を下げた。
「俺の方こそ、嫌な思いさせて本当にごめん」
「そんな、あれは私が——」
「いや、俺達が悪いんだ。許して欲しい」
天野さんはただしゃくりあげている。俺は気力を振り絞って、笑顔を浮かべる。
「さっきのお願い、もちろん聞くよ。俺は全然構わないから」
「水無瀬くん……」
「結果さ、どうなっても受け止めるよ。っていうかそれしかできないし。それと、こんなこと言う資格ないのかもしれないけど——」
痛いほど握っていた拳をほどく。不思議と体の強張りがなくなっていた。
「とても勇気の要ることだと思う。その……頑張って」
天野さんの目から再び涙が溢れた。何度も頷く彼女を、俺は黙って見守るしかなかった。
帰宅した途端、胃が引き絞られるように痛み出した。
ああ、よくないな、と思っているうちに痛みは増し、俺はベッドで蹲ることしかできなくなっていた。
「ハルくん、ゆたんぽだよ」
美海がレンジで温めるタイプの湯たんぽを持ってきてくれた。俺が受け取る前に、美海は布団をまくり、慣れた手つきで俺に湯たんぽを抱かせた。
「あとこれ、いつものお薬ね。お水も置いとくよ」
「ごめん、美海、今日のご飯……」
「うん、レトルトカレー食べとくね」
「悪い」
「なんで? 美海、カレー好きだし」
美海はにっこり笑って、俺の部屋を後にした。幼い妹の気遣いに自分が情けなくなる。俺は一度起き上がって胃薬を水で飲み下すと、再び横になり、あたたかい湯たんぽを抱きしめた。
それからどれぐらい経ったのだろうか。薬が効いて少しうとうととしていた。暗い部屋に細い灯りが刺して、人影がベッドのそばに膝をつく。
「晴希、大丈夫?」
「母さん……うん」
母さんはスーツ姿のままだった。横になった俺の肩を優しくさする。
「今日は何も食べられないかな。ちょっと久しぶりだから辛いね」
「慣れてるから、平気」
「そっか。何かあったら言ってね」
そっと俺の頭を撫でて、母さんは出て行った。幼な子のように扱われると、遠い昔の記憶が蘇りそうになり、俺は暗闇の中で目を瞑る。
脳裏には御子柴と天野さんの姿が映っていた。二人は互いに向かい合って、何かを話している。会話の内容までは聞こえない。でもどちらとも真剣な顔つきだった。
暗がりでスマホのディスプレイが光った。メッセージの送り主は御子柴だった。
『今から会えない?』
どうなったんだろうか、天野さんの告白は。そう思い当たった途端、胃壁をつねられたような痛みが走った。
脂汗を流しながら、俺はのろのろと指を動かした。
『ごめん、ちょっと腹壊して、寝てる』
ややあって、返事が来た。
『大丈夫か?』
『よくあるから。一晩寝れば治る』
『明日、学校来る?』
『多分、行ける』
『じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて』
了解の旨を送り、そこで力尽きる。
またしばらくうつらうつらして、起きた頃には、大分腹痛は治まっていた。
部屋の照明をリモコンでつける。闇に慣れた目に光が痛い。ベットサイドの目覚まし時計を確認すると、時刻は夜十時を回っていた。
ベッドの上で半身を起こし、コップに残っていた水を飲み干す。せめて風呂には入らないと、とベッドを抜け出ようとした時、スマホが鳴り出した。
天野游那——その名前にどきりとする。
でも出ないわけにはいかない。俺はまた痛み出した鳩尾をさすりながら、スマホを耳に当てた。
「もしもし」
『あ……ごめんね、水無瀬くん。こんな時間に』
天野さんの声はどこか気の抜けたように聞こえた。俺は事態の成り行きを計り損ねたまま、答える。
「いや、いいよ。気にしないで」
『今、少しだけいい?』
「うん」
わずかな沈黙の後、天野さんは堪えきれなかったように笑った。
『ふふ、あのね、綺麗にフラれてきたよ』
どこか吹っ切れた口調だった。
途端、胃の痛みが嘘のように消え、全身を安堵感が包んだ。告白の結果になのか、天野さんが晴れ晴れした様子だからなのか、分からなかったが。
「そっ、か……」
『水無瀬くん、本当にありがとうね』
「そんな、俺は」
『ううん、だって水無瀬くんが許してくれたから、私、きっぱり諦めることができたんだよ』
辛くないはずがない。御子柴の連絡から時間差があったのは、きっと気持ちの整理をつけていたからに違いなかった。けれど天野さんは気丈に続けた。
『あ、そうそう。御子柴くんにも打ち明けたの。保健室のこと、立ち聞きしてごめんなさいって。そしたら私の告白も冷静に聞いてたのに、急に怖い顔されて』
「……は? 御子柴が?」
『そう。水無瀬にも言ったのか? って聞かれたから、うんって言ったらすっごい目で睨まれた。あんな御子柴くん初めて見たよ』
俺は呆れて物が言えなかった。御子柴がここにいたらぶん殴っていただろう。
「なんだそれ……あいつに怒る資格ないだろ。天野さん、本当にごめん」
『あはは、まぁ、ちょっと怖かったけど。でも……水無瀬くんのことが本当に大事なんだなぁって思ったよ』
「いや、関係ない。絶対、土下座させるから」
『ええ? いいよぉ』
天野さんはころころと笑っている。そのあまりの人の良さに、彼女の行く末を勝手に心配してしまうほどだ。
『私ね、水無瀬くんと友達になりたい』
「え、俺と?」
『うん、最初はね、こんな話、急にできないなって思って……もう少し仲良くなってからって、そういう打算? みたいなのがあったんだ。ごめんね』
突然、連絡先を聞いてきたのはそういう理由だったのか。俺は首を振った。
「いや、そんな」
『共通の話題もないから御子柴くんの話ばっかりしてたよね。……でも、実際の水無瀬くんってとても優しい人だったから。話を聞いてもらった時もすごく心が安らぐっていうか。御子柴くんももしかしたらそういうところが好きになったのかな?』
「そ、それはどうだろう」
『どこが好きとか聞いたことないの? って、ごめんなさい、突っ込んだ話はもっと仲良くなってからだね』
照れたように笑い、天野さんは続けた。
『水無瀬くんといろんな話したいな。私と……友達になってくれる?』
「……もちろん。天野さんがいいなら」
電話口から軽やかな微笑が聞こえた。きっと今、天野さんは花が綻ぶように笑っているのだろうと思った。
翌朝にはすっかり胃の調子が戻っていた。
俺はいつものようにトーストを食べ、紅茶を飲んだ。最初に母さんを、その後に美海を送り出して戸締りを確認していると、インターホンが鳴った。画面には昨日言っていた通り、御子柴の姿が映っていた。
エントランスまで降りると、所在なさげに立っている御子柴がいた。
「あー、おはよ、水無瀬」
声もどことなく覇気がない。俺は適当に挨拶を返すと、先にマンションの自動ドアをくぐった。
朝の住宅街は冷え込んでいた。やにわに吹いた寒風に肩を竦めていると、御子柴が不意に口を開いた。
「その……怒ってるよな、ごめん」
俺は隣をちらりと横目で一瞥し、すぐ前に向き直った。
「何が?」
「こないだの保健室のこと。あ、てか、昨日、天野にさ、なんていうか……」
「知ってるよ、全部本人から聞いてるし」
「あぁ、そっか。水無瀬に許可取ったって言ってたな」
一向に気付く気配がないので、俺は御子柴を睨みつけた。
「保健室のことはいいよ。俺も悪いんだから。けど、お前なんで天野さんにキレたわけ? 女の子ビビらすとか最低だ」
御子柴はきょとんと目を瞬かせた。
「キレた? 俺が? え、何のこと?」
「天野さんがすごい顔して睨まれたって言ってた」
「い、いやいや、んなことしてねーよ。第一、天野は被害者なんだし、悪いのは全面的に俺だし、睨むなんてそんなこと」
「天野さんがそう感じたんだから、そうなんだよ」
「待てって、水無瀬」
「言い訳無用。今日、絶対謝れ」
尚も何か言いたげな御子柴に、俺はきっぱり宣言した。
「謝らないなら、金輪際、一緒に昼メシ食わない」
「謝ります」
「土下座だぞ」
「マジかー……」
御子柴は額に手を添えて、がっくりと肩を落としている。俺はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。
東の空から昇る朝日が眩しい。同じ学校の生徒に交じって登校しながら、俺はふわぁと欠伸をした。
御子柴が倒れた一件から五日経っていた。御子柴はすっかり体調が戻り、いつも通り過ごしている。今、思えば俺が御子柴の違和感に不安を感じていたのだろう。息苦しさもいつの間にか消えていた。
とはいえ、あの日は本当に色々あって、それが今でも俺の頭にこびりついて離れない。俺の体に散らばった鬱血の跡は、まだうっすら残っているものもある。それを鏡で確認する度に、俺は頭を抱えていた。
——これから、俺達はどうなるんだろう。
そんな期待と不安が、ずっと胸の内で入り交じっている。
昇降口についた俺は妙な意識を退けるべく、ぶんぶんと首を振った。
そこへ、どんと肩口に軽い衝撃が走った。
「きゃっ……」
驚いて顔を上げると、小さな悲鳴が聞こえた。ぶつかった相手がよろけているのを見て、とっさにその腕を掴む。なんとか踏みとどまってこちらを見上げているのは、見知った顔だった。
「天野さん……?」
「あっ、み、水無瀬くん……!」
よほど慌てていたのだろうか、顔を真っ赤にしている。天野游那。同じクラスの女子だ。すらっとしたスタイルに、艶めくロングの黒髪。白くきめ細やかな肌に、常に濡れているような大きな黒い瞳。清純派若手女優と紹介されても信じてしまうような、紛うことなき美少女だ。
「お、おはよ。ごめんね、私、ぼーっとしてて」
「いや、俺の方こそごめん。前、ちゃんと見てなかった。大丈夫?」
「うん、全然平気」
照れたようにはにかんでいた天野さんは、俺の周りをきょろきょろと見回した。
「あれ、今日……御子柴くんは?」
「え? あぁ、たまに途中で会うってだけで、一緒に来てるわけじゃないけど……」
「あっ、そ、そうなんだ」
俺は密かに視線を落とした。
天野さんが御子柴に想いを寄せているのは周知の事実だ。何か用事があったのかもしれない。
下駄箱を確認するとまだ御子柴は登校していなかった。
「もうすぐ来るんじゃないかな。俺、先行くね」
「あ、ちょっと待って、水無瀬くん」
上履きに履き替えていると、思いがけず呼び止められる。天野さんは目元を染めたまま、困ったように眉を寄せていた。
「あの、よかったら教室まで一緒に行こ」
「え。でも、御子柴は……いいの?」
「別に用があるとかじゃないの。聞いただけだから」
断る理由はなく、連れ立って階段を昇る。段を上る度に揺れる長い髪からは、花のようないい香りがした。
「水無瀬くんとこうやって喋る機会、あまりなかったね」
「あぁ、うん。そうかも」
俺も男子だ、隣にこんな可愛い子がいると、緊張してしまう。そんなことは露知らず、天野さんは淡い笑みを浮かべた。
「もう二年生も終わりだから、ちょっと残念。うちのクラス、みんな良い人ばかりだもん」
「確かに平和だよな」
「三年生も同じメンバーだったらいいのになぁ。水無瀬くんは……御子柴くんと離れたら寂しくない?」
階段を昇り終えた瞬間そう聞かれて、思わず蹈鞴を踏みそうになった。
「な、なんで御子柴?」
「えっと……だって、ほら、すごく仲良しでしょ?」
「そう、かな。まぁ、そうかもだけど。あ、でも、天野さんこそ、御子柴と離れたら寂しいんじゃ……?」
失言は必ず口に出してから気づくものだ。天野さんは真っ赤になって俯いてしまった。
「わ、私は……一年の時も一緒だったから。連続で同じクラスなんて、運が良かったかな、なんて……。あ、ううん、そうじゃなくてその」
あたふたと手を振る仕草が可愛らしくて、思わず苦笑する。天野さんは怒ったように唇を尖らせた。
「笑わないでよ、もう」
「あ、ごめん」
馴れ馴れしかったかと思い眉を下げると、天野さんは一転、花咲くように微笑んだ。
「あのね、もし良かったらID教えてくれない?」
「えっ」
「その……水無瀬くんのこともっとよく知りたいなって。駄目かな?」
まったく他意のない様子で天野さんがそう言うのに、俺は面食らった。宝石のように輝く瞳が上目遣いで見つめてくる。これは……あれだ。天然人たらしの類だ。
「も、もちろん」
逆らえるわけもなく、スマホを取り出す。連絡先を交換し終えると、天野さんは弾むような足取りで教室へと入った。
「ありがとう。今日も一日頑張ろうね」
小さな踵が翻り、黒髪がなびく。先に着いていた友人の中に入っていく天野さんを、俺は呆然と見つめていた。
*
「——天野ちゃんの連絡先ゲットしたって、本当か? 返答次第では斬る」
一体、何で斬るというのだろう。高牧が朝から絡んでくるのに、俺はうんざりした表情を浮かべた。
俺の机に頬杖をついていた御子柴が首を傾げる。
「お前、天野と仲良かったっけ?」
「あー、いや。今朝、たまたま下駄箱で一緒になって。なんでか知らないけど、ID教えてって言われて……」
「天野ちゃんから言われたのかよ、自慢かテメェ」
高牧がずいっと顔を寄せてくる。小バエを払うように、御子柴がその額を叩いた。
「いてっ」
「教えて欲しいなら、天野に聞けよ」
「聞けねえから言ってんだろ。高牧くんのピュアピュアハートをナメんなよ!」
「知らねー。宇宙の果てまで知ったこっちゃねー」
「いいよな、すでにオトモダチな奴らは!」
すると、御子柴が眉を顰めた。
「いや、俺、知らないけど」
『えっ?』
期せずして俺と高牧の声が重なった。
「ハモんな」
「いや、だって……」
「なぁ」
高牧とどちらともなく顔を見合わせると、御子柴は心底嫌そうに眉間の皺を深めた。そして何故かまた高牧の額を叩く。
当然、抗議する高牧としれっと無視する御子柴をよそに、俺は手元のスマホをそっと見下ろした。
天野さんはもしかしたら俺を通じて、御子柴の連絡先が知りたいのかもしれない。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、じゃないけど……そういうことなのかと。
別にそうだとしても、一向に構わなかった。ま、そんなもんだよな、と思う。むしろ約二年間も連絡先を聞けなかった天野さんの慎ましさに、同情を覚えるくらいだ。
そんな天野さんを俺は欺いている。きっと、一番酷い方法で。
あの眩しい微笑みを思い出すと、じくっと胸が痛んだ。
夜、風呂から上がって髪を拭いていると、洗面台の上に放り出してあったスマホが震えた。濡れ髪のままちらっと見やれば、天野さんからのメッセージだった。
『今朝はごめんね。ID教えてくれてありがとう』
ドライヤーを吹かしながら、画面の上に指を滑らせる。
『こっちこそぶつかってごめん』
『ううん』『今日の持久走、しんどかったね』
『女子は十周だったっけ』
『そう。男子は十五周だったよね。そういえば御子柴くん速かったね』
突然出てきた字面にどきりとする。俺はドライヤーのスイッチを切った。
『あいつマジでなんでもできるよな』
『ちょっとズルいと思う』
『確かに』
会話が途切れる。俺はいたたまれなくなって『御子柴の』と打ち、そこでやめた。
言われてもないのに、あいつに取り次ごうか、なんて大きなお世話もいいところだ。
それに……御子柴だっていい顔しないだろう。俺は人の感情の機微に聡い方ではないけど、それぐらいは分かる。
『でも病み上がりなのに走ったりして大丈夫だったのかな?』
俺はとっさに洗面所の鏡を見た。上半身にうっすら残る鬱血の跡を凝視する。
なんと返していいか悩んでいるうちに、洗面所のドアがどんどんと叩かれた。
「ハルくん、まだー? 美海もお風呂入りたいんだけどー」
「あ、あぁ、今出る」
手早くトレーナーを着て、洗面所を出る。すれ違いに入ってきた美海はぷりぷり怒りながらドアを閉めた。
そういえば台所に洗い物がまだ残っている。俺はこれ幸いに『用事があるから、ごめん。また明日』とだけ返し、リビングのローテーブルにスマホを裏返して置いた。
今日は二月とは思えないほど暖かかった。燦々と太陽の光が降り注ぐ屋上で、いつものように御子柴と昼飯を食べる。というか、御子柴はすでに食べ終わっていて、珍しくスマホを眺めていた。
俺はコッペパンをかじりながら、その様子をちらりと見やった。
もしかして昨日の今日で天野さんと連絡先交換したとか……? 妙な勘ぐりをとっさにカフェオレで流し込む。
すると、御子柴が急にむすっと口を曲げた。
「えー、なんだよ。つまんねー」
「は、何?」
御子柴はこちらに体を寄せて、スマホの画面を見せてくる。
「ほらこれ。十八歳以上でも高校生はラブホ行けねーんだって」
「ぶッ——!」
カフェオレが思いっきり気管に入った。げほごほ咽せている俺を意にも介さず、御子柴は続ける。
「つっても、俺らまだ十七だけどさ」
「バッ……げほっ、バカなのか、お前は!」
「え、なんで?」
とぼけたような表情が一転、意地の悪い笑みを浮かべる。俺は腹の底から叫んだ。
「うるさい、ほんとムカつく!」
怒りを口元のコッペパンにぶつける。特に腹も空いてないのに、餓えた獣のようにパンを噛み千切った。
ポケットの中で携帯が震える。取り出して見ると、天野さんからだった。
『五時間目と六時間目入れ替わったって。次、選択授業だから気をつけてね』
その親切なメッセージにささくれ立った心が洗われる。
『教えてくれてありがとう』
『うん、御子柴くんにも伝えておいてね』
天野さんからその名前が出る度に、鼓動が変な音になる気がした。俺は『分かった』とだけ返信する。天野さんからくまのキャラクターのスタンプが送られてきて、会話は終わった。
「普通のホテルだったらいいのかなぁ……?」
スマホの画面を睨みながら、御子柴は首を捻っている。俺は密かに溜息をついた。
今週は掃除当番だった。掃除の担当は自教室と特別教室に分かれている。うちのクラスの担当である音楽室の床にモップをかけていると、同じ班である女子の一人が声をかけてきた。
「水無瀬、水無瀬。ちょっといい?」
篠山朝霞。気の強そうな太い眉が特徴的な女子だ。実際、その小柄な体格からは想像も付かないほど、はっきり物を言うタイプである。正直ちょっと苦手だ。
篠山は肩につくぐらいの髪を揺らして、ちょいちょいと俺を音楽室の端に手招きした。気が進まないながらも、仕方なくついていく。
「何?」
「あんた最近、游那とよく喋ってるってほんと?」
またそれか。篠山は天野さんとグループが一緒だ。小学生からの付き合いらしい。
「別に。ケータイで時々やりとりするだけ」
「あの子から聞いてきたんだよね、連絡先」
「そうだけど、それが?」
「いや、すっごい珍しいことだからさ。気になって」
篠山は他の班員の手前、雑巾で窓を拭きながら、続けた。
「游那に聞いても『なんでもないよ〜』の一点張りだし。ねえ、ひょっとしてあんたのこと好きなのかな?」
「それはない」
「ま、だよね。とすると、ついに動いたか、あの子」
「……御子柴目当て?」
「言い方気をつけろ。ずっと一途だったんだからね」
篠山の顔が引きつるのに、俺は思わずたじろいだ。友達思いなんだろうけど、やっぱりちょっと怖い。
「余計なおせっかいかもしれないけど、協力してやってよ。あんたも見たいでしょ、学校一の美男美女カップル」
別に見たくはない。……色んな意味で。俺がいまいちピンときてないことを察したか、篠山は畳みかける。
「澄ました顔してるけどさ、御子柴も絶対游那のこと好きだと思うんだよな〜。ね、なんかあいつから聞いてない?」
「聞いてないし、聞いてても言わない」
「なによ、ケチ。あたしたち、同志じゃん」
「何のだよ」
モップをバケツにつけ、ローラーで水を絞る。床掃除を再開しても、篠山は尚も執拗に俺を追いかけてきた。
「ねえ、游那のこと応援してよね」
俺は答えず、一心不乱に床を拭いた。その一言一言が俺の肩に重くのしかかることを、篠山は知らない。
掃除道具を片付けて音楽室を出る頃には、とっぷり日が暮れていた。
じゃんけんで負けた俺は焼却炉までゴミを運ぶ羽目になり、とぼとぼと校舎の外周を歩いていた。
煤塗れの焼却炉にゴミ袋を放り込み、なんとか任務を終える。
一人きりの校舎裏は静かだった。雑音がないここにいると、ひどく心が安らぐ。俺は両腕をあげて体を伸ばすと、深呼吸をして、空を仰いだ。
頭上には夕暮れ空が広がっていた。その下に屋上のフェンスが見える。ふとフェンス際に人影を見つけ、俺は驚きに目を見開いた。
「え……天野さん?」
長い髪が屋上の風になびいている。天野さんはフェンス越しにじっと街並みを見つめていた。
一人きりで、こんな時間に屋上で——何を?
そんなことあり得ないはずなのに、恐ろしい想像がよぎる。俺は急いで、スマホを取り出した。
メッセージアプリの音声通話ボタンを押す。屋上の影が何かに気づいたように、手元を見た。
『あ……もしもし? 水無瀬くん?』
「ご、ごめん、急に。天野さん、もしかして今、屋上にいる?」
『えっ、どうして分かるの?』
「下見て。焼却炉のあたり」
天野さんはフェンス越しに眼下を覗いた。そして俺を見つけ、ひらひらと手を振った。
『わ、偶然。そっか、掃除当番だっけ』
明るい声に安堵の息を吐く。どうやら俺が心配していたようなことはなさそうだ。
「そんなところで何してるの?」
『えっと……ちょっと黄昏れてた。あはは』
口調に空元気が混じっている。俺はついに見て見ぬ振りができなくなり、思い切って言った。
「あの、的外れだったら、あれなんだけど。天野さん、何か悩んでる?」
『え?』
「それって……俺が聞けること?」
しばしの沈黙が流れた。そして天野さんは小さく呟いた。
『あのね』
電話越しにも、躊躇いが感じられる。
『水無瀬くん、あのね……』
天野さんはそれきり喋らなくなってしまう。それでも俺は辛抱強く次の言葉を待った。
すん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。天野さんはやがて絞り出すように言った。
『もし良かったら、今から教室で会えないかな。聞いて欲しいことがあるの……』
「分かった、すぐ行く」
『ごめんね、水無瀬くん。ごめんなさい……』
消え入りそうな声を残して、通話は途切れた。俺は掃除の疲労も忘れて、昇降口へと駆け出した。
誰もいない教室は、空虚な音で満ちていた。差し込む夕日は傾きが強く、もうすぐやってくる夜の予兆を感じさせる。
天野さんは教室の真ん中でぽつんと佇んでいた。俺は荒い息を整えながら、まるで薄氷を踏むように、教室へ足を踏み入れた。
足音に気づいた天野さんが俯きがちだった顔を上げる。夕日に照らされた表情は今にも泣き出しそうだった。
ちょうど机二つ分の間を開けて立ち止まる。何か言わなければと思い、口を開く。
「天野さん、あの……」
続く言葉が出てこない。すると俺が戸惑っているのを察した天野さんが、精一杯の微笑みを浮かべた。
「ありがとう、水無瀬くん……。迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて、そんな」
気まずい空白が俺と天野さんの間に横たわる。何も言わなくても天野さんの迷いが手に取るように感じられる。
これから天野さんが何を語るのか、怖くないと言えば嘘になる。けれど俺には聞く義務がある。こうして彼女に頼られた以上は。
伏し目がちだった視線を天野さんに戻す。天野さんもまた俺を真っ直ぐ見つめていた。
「……これから言うこと、気を悪くしたらごめんなさい」
その一言でなんとなく想像がついた。
やっぱり天野さんが俺に親しくした理由は……。俺は気づかれないよう、拳を握りしめる。
「本当に、ごめんなさい。許してなんて言わないけど、謝らせてほしいの」
固唾を呑み込むと、喉が酷く痛んだ。呼吸が浅く早くなるのを止められない。馬鹿野郎、と俺は自分を叱咤した。天野さんの方が辛い。きっとそうなる。だからせめてその気持ちだけは受け止めないと。
天野さんはぎゅっと目を瞑った。そして開いた瞳には何かを覚悟したような光が灯っていた。ひたむきで真剣な表情は見惚れるほど美しい。
やがて自分の心臓の音が強く響きだした頃、天野さんは言った。
「水無瀬くんは、御子柴くんと付き合ってるんだよね……?」
——不意に、夕日が翳った。
暗く閉ざされた視界が、ぐらりと揺らぐ。
この世の終わりのような強い耳鳴りが聴覚を遮った。けれど、耳を塞ぐことを許さないと言わんばかりに、一瞬にして通り過ぎる。
どくどくと脈打つ鼓動。遠くから響く運動部員の声。天野さんの言葉。
そして、自分の血がさあっと引いていく音を聞く。
「え……?」
やっと絞り出したのはそれだけだった。
天野さんは自分自身を奮い立たせるように、胸の前で手を握り合わせた。
「ごめんなさい、私、あの日——御子柴くんが倒れた日、どうしても気になって……御子柴くんのことが心配で、みんなが帰っても待ってたの。みんないなくなってから、一人だけなら、お見舞い、できるかなって……思って……」
息を吸って吐く。そんな簡単なことすら、今の俺は忘れてしまっている。
「日が暮れてから、保健室に行ったの。明かりがついてて、まだ誰かいるんだって思って……でも学校医の先生に怒られたらどうしようって、しばらく扉の前で、迷ってて……」
聞きたくない、聞きたくない。できればこの場から今すぐにでも逃げ出したい。けど、足どころか全身が動かない。
「聞いてしまったの、二人の言葉……」
好きだ、と俺は何度も言った気がする。御子柴は俺もだよ、と返事した。
「本当に、そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい、水無瀬くん、本当にごめんなさい」
俺の脳裏に、あの日の記憶がまざまざと甦る。
保健室を一旦出たとき、確かに何かの音を聞いた。
あれは、あれは——
「私、秘密にするつもりだった。自分一人の心に留めておこうって……。でも、でもね、私、辛くて。どうしても堪えきれなくて。二人に悪いことしてるのが、耐えられなかった。この一週間ずっと悩んでて……。言わなきゃいいって分かってたのに、どうしても。それにね、私……私っ……」
ぽろぽろと。天野さんのすべらかな頬から、大粒の涙が零れる。深く俯いた顔を、小さな両手が覆う。
「御子柴くんのこと、ずっと好きだったから……!」
——ああ、俺は。
何を、どこで間違えたのだろう。
どうすればこんなにも人を傷つけずに済んだのだろう。
何度も何度も、謝らせて。彼女は何も悪くないのに。
ただ無垢で、心優しいこの人を欺いた。
それは、まるで——
やめろ、と自分の中の誰かが叫ぶ。ここで立ち止まるな、逃げるな。自分勝手な言葉を吐くな。それだけは、絶対に。
「……このこと、御子柴には……」
戦慄く唇で尋ねる。天野さんが首を振る度に、ぱっと輝く雫が宙を舞った。
「言ってない。もちろん他の誰にも。水無瀬くん、あのね、お願いがあるの。最低なのは分かってるんだけど——」
天野さんは子供のように手の甲でしきりに涙を拭った。
「私、御子柴くんに想いを伝えたい。結果は分かってるし、それ以上は何も望んでない。けど、せめて、自分の気持ちに自分で決着をつけたい。もちろん水無瀬くんが嫌なら絶対にしない。でも、でも……もし、少しでも考えて、くれるなら」
つやつやとした黒髪がさらりと下に流れる。
「許して、くれませんか——」
俺は一瞬だけ目を閉じた。きつい西日が瞼に透ける。
ゆっくり視界を開き、無理矢理口の形を笑みに歪めた。
「……頭を上げて、天野さん」
しばらくそのままだった天野さんがようやく顔を上げてくれる。そこには泣き腫らして真っ赤に染まった双眸がある。半ばそれを見ていられなくて、俺は深々と頭を下げた。
「俺の方こそ、嫌な思いさせて本当にごめん」
「そんな、あれは私が——」
「いや、俺達が悪いんだ。許して欲しい」
天野さんはただしゃくりあげている。俺は気力を振り絞って、笑顔を浮かべる。
「さっきのお願い、もちろん聞くよ。俺は全然構わないから」
「水無瀬くん……」
「結果さ、どうなっても受け止めるよ。っていうかそれしかできないし。それと、こんなこと言う資格ないのかもしれないけど——」
痛いほど握っていた拳をほどく。不思議と体の強張りがなくなっていた。
「とても勇気の要ることだと思う。その……頑張って」
天野さんの目から再び涙が溢れた。何度も頷く彼女を、俺は黙って見守るしかなかった。
帰宅した途端、胃が引き絞られるように痛み出した。
ああ、よくないな、と思っているうちに痛みは増し、俺はベッドで蹲ることしかできなくなっていた。
「ハルくん、ゆたんぽだよ」
美海がレンジで温めるタイプの湯たんぽを持ってきてくれた。俺が受け取る前に、美海は布団をまくり、慣れた手つきで俺に湯たんぽを抱かせた。
「あとこれ、いつものお薬ね。お水も置いとくよ」
「ごめん、美海、今日のご飯……」
「うん、レトルトカレー食べとくね」
「悪い」
「なんで? 美海、カレー好きだし」
美海はにっこり笑って、俺の部屋を後にした。幼い妹の気遣いに自分が情けなくなる。俺は一度起き上がって胃薬を水で飲み下すと、再び横になり、あたたかい湯たんぽを抱きしめた。
それからどれぐらい経ったのだろうか。薬が効いて少しうとうととしていた。暗い部屋に細い灯りが刺して、人影がベッドのそばに膝をつく。
「晴希、大丈夫?」
「母さん……うん」
母さんはスーツ姿のままだった。横になった俺の肩を優しくさする。
「今日は何も食べられないかな。ちょっと久しぶりだから辛いね」
「慣れてるから、平気」
「そっか。何かあったら言ってね」
そっと俺の頭を撫でて、母さんは出て行った。幼な子のように扱われると、遠い昔の記憶が蘇りそうになり、俺は暗闇の中で目を瞑る。
脳裏には御子柴と天野さんの姿が映っていた。二人は互いに向かい合って、何かを話している。会話の内容までは聞こえない。でもどちらとも真剣な顔つきだった。
暗がりでスマホのディスプレイが光った。メッセージの送り主は御子柴だった。
『今から会えない?』
どうなったんだろうか、天野さんの告白は。そう思い当たった途端、胃壁をつねられたような痛みが走った。
脂汗を流しながら、俺はのろのろと指を動かした。
『ごめん、ちょっと腹壊して、寝てる』
ややあって、返事が来た。
『大丈夫か?』
『よくあるから。一晩寝れば治る』
『明日、学校来る?』
『多分、行ける』
『じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて』
了解の旨を送り、そこで力尽きる。
またしばらくうつらうつらして、起きた頃には、大分腹痛は治まっていた。
部屋の照明をリモコンでつける。闇に慣れた目に光が痛い。ベットサイドの目覚まし時計を確認すると、時刻は夜十時を回っていた。
ベッドの上で半身を起こし、コップに残っていた水を飲み干す。せめて風呂には入らないと、とベッドを抜け出ようとした時、スマホが鳴り出した。
天野游那——その名前にどきりとする。
でも出ないわけにはいかない。俺はまた痛み出した鳩尾をさすりながら、スマホを耳に当てた。
「もしもし」
『あ……ごめんね、水無瀬くん。こんな時間に』
天野さんの声はどこか気の抜けたように聞こえた。俺は事態の成り行きを計り損ねたまま、答える。
「いや、いいよ。気にしないで」
『今、少しだけいい?』
「うん」
わずかな沈黙の後、天野さんは堪えきれなかったように笑った。
『ふふ、あのね、綺麗にフラれてきたよ』
どこか吹っ切れた口調だった。
途端、胃の痛みが嘘のように消え、全身を安堵感が包んだ。告白の結果になのか、天野さんが晴れ晴れした様子だからなのか、分からなかったが。
「そっ、か……」
『水無瀬くん、本当にありがとうね』
「そんな、俺は」
『ううん、だって水無瀬くんが許してくれたから、私、きっぱり諦めることができたんだよ』
辛くないはずがない。御子柴の連絡から時間差があったのは、きっと気持ちの整理をつけていたからに違いなかった。けれど天野さんは気丈に続けた。
『あ、そうそう。御子柴くんにも打ち明けたの。保健室のこと、立ち聞きしてごめんなさいって。そしたら私の告白も冷静に聞いてたのに、急に怖い顔されて』
「……は? 御子柴が?」
『そう。水無瀬にも言ったのか? って聞かれたから、うんって言ったらすっごい目で睨まれた。あんな御子柴くん初めて見たよ』
俺は呆れて物が言えなかった。御子柴がここにいたらぶん殴っていただろう。
「なんだそれ……あいつに怒る資格ないだろ。天野さん、本当にごめん」
『あはは、まぁ、ちょっと怖かったけど。でも……水無瀬くんのことが本当に大事なんだなぁって思ったよ』
「いや、関係ない。絶対、土下座させるから」
『ええ? いいよぉ』
天野さんはころころと笑っている。そのあまりの人の良さに、彼女の行く末を勝手に心配してしまうほどだ。
『私ね、水無瀬くんと友達になりたい』
「え、俺と?」
『うん、最初はね、こんな話、急にできないなって思って……もう少し仲良くなってからって、そういう打算? みたいなのがあったんだ。ごめんね』
突然、連絡先を聞いてきたのはそういう理由だったのか。俺は首を振った。
「いや、そんな」
『共通の話題もないから御子柴くんの話ばっかりしてたよね。……でも、実際の水無瀬くんってとても優しい人だったから。話を聞いてもらった時もすごく心が安らぐっていうか。御子柴くんももしかしたらそういうところが好きになったのかな?』
「そ、それはどうだろう」
『どこが好きとか聞いたことないの? って、ごめんなさい、突っ込んだ話はもっと仲良くなってからだね』
照れたように笑い、天野さんは続けた。
『水無瀬くんといろんな話したいな。私と……友達になってくれる?』
「……もちろん。天野さんがいいなら」
電話口から軽やかな微笑が聞こえた。きっと今、天野さんは花が綻ぶように笑っているのだろうと思った。
翌朝にはすっかり胃の調子が戻っていた。
俺はいつものようにトーストを食べ、紅茶を飲んだ。最初に母さんを、その後に美海を送り出して戸締りを確認していると、インターホンが鳴った。画面には昨日言っていた通り、御子柴の姿が映っていた。
エントランスまで降りると、所在なさげに立っている御子柴がいた。
「あー、おはよ、水無瀬」
声もどことなく覇気がない。俺は適当に挨拶を返すと、先にマンションの自動ドアをくぐった。
朝の住宅街は冷え込んでいた。やにわに吹いた寒風に肩を竦めていると、御子柴が不意に口を開いた。
「その……怒ってるよな、ごめん」
俺は隣をちらりと横目で一瞥し、すぐ前に向き直った。
「何が?」
「こないだの保健室のこと。あ、てか、昨日、天野にさ、なんていうか……」
「知ってるよ、全部本人から聞いてるし」
「あぁ、そっか。水無瀬に許可取ったって言ってたな」
一向に気付く気配がないので、俺は御子柴を睨みつけた。
「保健室のことはいいよ。俺も悪いんだから。けど、お前なんで天野さんにキレたわけ? 女の子ビビらすとか最低だ」
御子柴はきょとんと目を瞬かせた。
「キレた? 俺が? え、何のこと?」
「天野さんがすごい顔して睨まれたって言ってた」
「い、いやいや、んなことしてねーよ。第一、天野は被害者なんだし、悪いのは全面的に俺だし、睨むなんてそんなこと」
「天野さんがそう感じたんだから、そうなんだよ」
「待てって、水無瀬」
「言い訳無用。今日、絶対謝れ」
尚も何か言いたげな御子柴に、俺はきっぱり宣言した。
「謝らないなら、金輪際、一緒に昼メシ食わない」
「謝ります」
「土下座だぞ」
「マジかー……」
御子柴は額に手を添えて、がっくりと肩を落としている。俺はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。