——御子柴の周りの空気が薄い気がする。
妙な表現だけど、俺にはそうだとしか言えなかった。
教室は授業と授業の間、憩いの一時を迎えている。
御子柴は俺の席の前で、設楽と談笑していた。その手に映画のブルーレイディスクを持っている。確か吃音症の英国王が言語療法士の力を借りて、最後は立派な演説を果たすという内容だ。
設楽に勧められて、俺も観たから知っている。御子柴は設楽にあらすじを軽く教えてもらっているところだった。
「へえ、なんか感動できそ」
「実際、感動すると思う。あと実話なんだよ、これ」
「マジかー」
しげしげとパッケージを眺める御子柴に、俺は軽く首を捻った。
黒目がちの瞳はまだ観ぬ映画に思いを馳せているのか、いつも以上にきらきらと輝いている。クラスメートと話すときでも背筋がしゃんと伸びていて、居住まいが美しい。黒い髪は女子がうらやむほどつやつやしていて、整った横顔はもはや嫌みったらしいほどだ。つまり、いつも通りで相変わらずでなんの変哲もない御子柴涼馬なのである。
なのに、傍にいるとなんだか少し息苦しい。この違和感に気づいたのは一昨日頃だっただろうか。それからずっと続いている。最初は妙な感覚だと思っていた。何かの勘違いだとも。だが俺はいい加減、気にせずにはいられなくなっていた。
「——水無瀬も観たんだって?」
御子柴が不意に俺の方を振り向く。設楽とも目が合い、俺はとっさに頷いた。
「あー、うん。面白かった」
「じゃ、期待大」
ディスクのパッケージを掲げて、御子柴は無邪気な笑顔を浮かべた。
途端、肺がぐっと詰まるような感覚に襲われる。困った俺は密かに眉根を寄せて、曖昧に頷いた。
四時間目の授業を受けているときに、ふと気づいた。
いつもは熱心にノートを取っている御子柴が、時々生欠伸をしている。
忙しなく動かされているはずのシャーペンの動きが途絶え、視線はぼうっと黒板に向けられていた。そして重たげな瞼が我に返ったようにはっと開き、また授業内容を書き取り始める。
御子柴は幾度となくこの行動を繰り返していた。
だが授業が終わるなり、御子柴は俺の方に向き直り、溌剌とした表情で言う。
「水無瀬、メシ行こうぜ」
「……おう」
俺の気のない返事にも、御子柴は気づかず、意気揚々と椅子から立ち上がる。お互い、購買のビニール袋をぶら下げて、教室を出た。
一歩先を行く御子柴は首を左右に傾けて、筋を伸ばしている。よく見る御子柴の癖だった。凝った体をほぐしているのだろう。俺は足を大きく前に出し、御子柴の隣に並んだ。
「なぁ、なんか疲れてる?」
御子柴はちらりと俺を見やった後、廊下の窓の外を眺めた。
「んー、そうかも」
「忙しいのか?」
「来週末、二重奏のゲストに呼ばれててさ。トチるわけにはいかねーから、割と夜遅くまで練習してっかな」
つまり寝不足か。授業中の様子を見るに、確かにそうかもしれない。
ただどうしてだろう。腑に落ちる説明を聞いても、息苦しさが消えてくれない。
屋上の扉を開けて、外の新鮮な空気を吸っても、それは変わらなかった。
いつものフェンス越しに腰掛けて、温かいカフェオレの缶で手の平を温める。御子柴はミネラルウォーターのボトルのキャップを開けて、それをちびちびと飲んでいた。俺が缶のプルを開けても、サンドウィッチに手を伸ばしても、御子柴は水しか飲まない。
「食わねぇの?」
「お前、俺がいつもいつもがっつくと思うなよ。たまにはのんびりしたいの」
「……あっそ」
もそもそとハムレタスサンドを端から食べる。御子柴は一向にビニールの中身に手を着けようとしなかった。
「水無瀬こそもっと食べたら? 細っこすぎて心配になる」
「悪かったな。昼は眠くなるからあんま食べないだけだよ。夜はがっつり食べてるし」
「じゃ、昨日何食べた?」
「え? えっと……あー……なんだっけ」
「あはは、ボケてんじゃん」
「そ、そう言うお前は何食べたんだよ」
「……なんだっけ」
「ったく、どの口が言ってんだ」
俺はカツサンドの袋を開けながら、むすっと唇を尖らせた。御子柴はとぼけるように空を眺めながら、また水を一口飲んだ。
「なんか、今日、寒……」
御子柴が自分の腕をさすっている。その顔がわずかに青白く見えて、俺は目を瞠った。
「なぁ……本当に具合大丈夫か?」
「何が?」
「何がって……」
俺は未だ手が着けられていない御子柴の昼食に目を落とした。御子柴はひょいと肩を竦める。
「実は朝飯食べすぎたんだよ。母親が昨日の残りもん、全部出してきてさ」
「何食べたんだよ」
「それは……えっと。なんだったかな」
口に手を宛がい、御子柴は俯いた。
俺はたまらず大きく息を吸い込んだ。やっぱり御子柴の周りの空気が薄い。妙な胸騒ぎが止まらない。
そんな俺の不安を見透かしたように、御子柴はへらりと笑った。
「つーか、何。心配してくれてんの?」
「……そうだよ」
「はは、俺、愛されてんなー」
「あのな」
俺が食い下がろうとしたその時、予鈴が鳴り響いた。校舎の一番上にある時計を見ると、すでに十二時五十分だった。
「あーあ、なんだかんだ言ってたら、昼飯食いっぱぐれちまったな」
ビニール袋とペットボトルを持って、御子柴が立ち上がる。俺が言い募ろうとして、御子柴を見上げた時だった。
がしゃ、と金属が鳴る音がした。袋とペットボトルが床に落ちる。御子柴の指がしがみ付くようにフェンスに食い込んでいた。足の力が抜けたのか、そのままずるずると片膝を着く。
「御子柴……!?」
俺に背を向けてしゃがみこむ御子柴を見て、前に回り込む。
御子柴は口元を手の平で押さえ、大きく目を見開いていた。どう見ても顔面蒼白で、額に脂汗を浮かべている。
「御子柴、しっかりしろ!」
思わず肩を掴むと、御子柴はぎゅっと目を閉じて、首を横に振った。
「やめ……ちょ、待って。う——」
聞いたことのない苦しげな声だった。情けないことに、混乱して動けない。この場合は救急車? それとも誰か呼んできた方がいいのか? でも寒い屋上に御子柴を残すわけにはいかない——
俺はとっさに学ランを脱いで、御子柴の肩にかけた。御子柴は尚も苦しげに弱々しい呻きを上げていた。フェンスから手が離れ、完全にうずくまってしまう。
しっかりしろ、俺。自分を叱咤して、スマホを取り出す。頭を過ったのは休み時間に話していた設楽の顔だった。
『——もしもし、水無瀬?』
「設楽、助けてくれ。御子柴が、御子柴が……」
『え? お、落ち着け、何があった? 今、どこ。屋上?』
「そう、屋上……。急に、苦しそうにして……どうしよう、俺、どうしたら」
『とりあえず、俺が行くから。先生とかも呼んできてもらう。待ってろ』
「分かっ、た——」
設楽との通話が切れると、不安がどっと押し寄せる。俺はそれを振り払って、御子柴の背中をさすった。冷たい風から守るように、体ごと覆い被さる。御子柴はついに横に倒れた。
「大丈夫だ、今——」
「みなせ」
焦点の合わない目が、ぼんやりと俺を見上げている。御子柴はゆっくりと手を伸ばし、俺の頬に触れた。その指先は氷のように冷たい。
「ごめん……」
そう呟いたっきり、御子柴は静かに目を閉じた。
腕の力が抜けて、床に落ちそうになるのを、とっさに掴む。俺は祈るようにして、ずっと御子柴の手を握りしめていた。
「——寝不足と貧血」
無精髭を生やした学校医はあっけらかんとそう言った。
あれからクラス中が大騒ぎになった。
まず設楽が駆けつけ、少し遅れてクラスメート達がやってきた。気の回る誰かが担架を持ってきてくれて、男子四人がかりで意識のない御子柴を慎重に保健室へと運んだ。
クラスの何人かの女子は顔を青くしていて、特に天野さんは目に一杯の涙を溜めていた。
それを見た俺は少し冷静になれた。自分より取り乱してる人間が近くにいると、自然とそうなるものらしい。
五時間目が始まっていた。俺と設楽は保健室に残り、クラスを代表して、担任の大垣先生に当時の状況を説明した。その間に学校医——名札には『甲斐』とあった——が御子柴を診察して、出た言葉がそれだった。
「ね、寝不足ですか?」
設楽が目を丸くしている。甲斐先生は顎をさすりながら続けた。
「ああ、倒れたのは貧血ね。脳貧血。多分、ろくに寝てなかったし、食べてなかったってこと。なんだっけ、ピアニスト? 忙しいんだろ、こいつ」
甲斐先生はカーテンで仕切られたベッドを親指で差す。先生は大儀そうに立
ち上がると、小さな冷蔵庫からゼリー飲料とバータイプの栄養補助スナックを一箱取り出した。
「とりあえず、目ぇ覚ましたらこれ食べさせとくわ。あと一応明日は医者に行かすから」
「あの、本当に大丈夫なんですか」
たまらず聞くと、甲斐先生は大きな溜息をついた。
「そんなに心配なら、覗いてみ。ぐーすか寝てるから」
俺と設楽は顔を見合わせ、カーテンを開いた。
ベッドの上に御子柴が横たわっている。その寝顔は確かに穏やかで、すうすうと健やかな寝息が聞こえていた。
「分かったか? 分かったら、クラスの奴らに伝えておけ。見舞い禁止、面会謝絶。大勢で押しかけられると患者も休まらねえし、なにより部屋が汚れる。お前ら、ほんと砂っぽいっつーか埃っぽいっつーか」
ぼさぼさの後頭部をぼりぼり掻きながら、甲斐先生はぶつくさと文句を言っている。そうして「帰った帰った」と手を叩いて追い立てるので、俺たちは仕方なく御子柴の傍を離れようとした。
「あー、そういや、制服貸してんのってお前?」
「え?」
突然指を差され、俺は今更ながら自分がシャツ姿であることに気づいた。そういえば御子柴の肩にかけてやってから、あの後、どうしたっけ……
「これだろ?」
甲斐先生が布団を少しめくる。御子柴の体の上に俺の学ランがあったので、目を瞠った。
「なんか強く握って離さねーんだわ。起こすのもアレだし、このままでいいか?」
「はい……それはいいですけど」
「じゃ、お前だけは見舞いを許可する。授業終わったら、様子見に来い。起きてるかもしんねーから」
俺は小さく頷き返しながら、布団の中をもう一度覗いた。御子柴の右手がきつく俺の学ランを握り締めている。ぎゅっと寄った生地の皺にその力強さを感じ、俺はたまらず目を伏せた。
五時間目の途中で教室に戻ると、衆目が一斉に俺と設楽に向いた。
駆け寄ってきて御子柴の様子はどうだったかと聞いてくる者もいて、俺は思わず教壇を窺ったが、幸い五時間目は数学だった。一条先生が「ピアノくん、大丈夫!?」と率先して聞いてくるので、俺達は授業時間を少し借りて、特に深刻ではないので安心してほしい旨を伝えた。ついでに見舞禁止の件も。でないと甲斐先生に大目玉を食らいそうだからだ。
とりあえずの納得は得られ、授業は再開することとなった。
シャツ一枚の俺は多少すうすうする教室の空気を肌で感じながら、じっと目の前の席を見ていた。この席が空っぽなのは珍しいことじゃない。だが今日ばかりは胸が塞がる思いがして、また息苦しさを覚えた。
そんな調子で授業が終わり、放課後が訪れた。いてもたってもいられず席を立った瞬間、俺の行く手を人影が遮った。
「あの、水無瀬くん……」
おずおずと俺の顔を覗き込んできたのは、天野さんだった。不安そうに胸のあたりで手を合わせ、眉を寄せている。
「何度もごめんね。御子柴くん、本当に大丈夫そうだった……?」
大きな瞳が潤んでいる。できれば視線を逸らしたかった。けど、そんなことをしたら天野さんが不安になるだけだ。俺は精一杯、虚勢を張った。
「うん、なんか気持ちよさそうに寝てたし。マジの寝不足だったみたい」
「そっか……」
天野さんの表情は尚も翳っている。俺はなんとか元気づけたい一心で続けた。
「俺、これから保健室に忘れ物取りに行くからさ。もし御子柴が起きてたら、なんか伝言とかある?」
「あっ、そうだね……。ええと、その」
組んだ手を擦り合わせ、天野さんはじっと考え込んでいた。そして囁くように言う。
「お大事に。それと……あんまり無理しないでね、って」
——ああ、この子は本当に御子柴のことを想っているんだな。
それが痛いほど伝わってきて、俺はどうしようもなく狼狽えた。そして「分かった」と言葉少なに返事して、逃げ出すように教室を後にした。
一階の廊下が夕日色に染まっている。俺は窓からの光が届かない影の部分を踏むようにして歩き、保健室へと辿り着いた。一応、ノックをすると、扉の向こうから甲斐先生のくぐもった返事が聞こえてきた。
俺が保健室に入るなり、開口一番、甲斐先生は不機嫌そうに言った。
「あいつ起きん」
「えっ……?」
表情を引きつらせる俺に、甲斐先生はぱたぱたと手を振る。
「ああ、違う違う。爆睡してるってこと。一応、何回か起こしてみようとしたんだが、まったく起きん。大垣先生に言ったけど、親御さんとも電話繋がらないんだと」
「そうなんですか……」
「そんなわけでお前の制服も取り返せん。あー、困ったな」
甲斐先生はしきりに腕時計を見ている。
「何か用事でもあるんですか?」
「仕事。今夜、救急の夜勤入ってんだわ。お前、部活とかやってんの?」
「いや、してないです」
「用事ある? 鍵渡しときたいんだけど」
「えっと……ちょっと待ってください」
俺は一旦、保健室の外に出て、母さんに電話を掛けた。事情を説明すると、会社にもかかわらず驚いた声を上げる。
『それってこの前、お見舞い来てくれた子でしょ? 大丈夫なの?』
「大丈夫は大丈夫なんだけど。一応、ついててやりたくて……。美海のお迎えいける?」
『了解、定時に上がる。ちゃんと御子柴くんのことみてあげてね』
「うん、分かった」
保健室に戻り、甲斐先生に残れる旨を伝えると、保健室の鍵を手渡された。
「内側から鍵掛けとけ、他の教師や生徒がきたら面倒だから」
「はぁ」
「あと鍵は職員室にそおっと返しといて。できれば誰にも気づかれずに」
「無理ですよ」
甲斐先生は無責任に笑いながら、保健室を去って行った。俺は言われたとおり一応鍵をかけて、そっと溜息をつく。なんだか無茶苦茶な人だ。
しんと静まり返った保健室を振り返ると、カーテンの閉まった窓があった。そのすぐ外はグラウンドに面しており、運動部がランニングをするときのかけ声が、遠くから聞こえていた。
俺は壁際に重ねられた丸椅子を一つ取り、御子柴の眠るスペースの中に入った。
白いカーテンで仕切られた空間に、病院でよく見るような頭と足の方に柵のついたベッドがある。
御子柴は布団にくるまって、横向きに寝ていた。その両腕にしっかりと俺の学ランを抱きしめて。
「……何してんだよ」
この状況を甲斐先生に見られたのだろうか。そう思うと急に恥ずかしくなる。俺は丸椅子をベッドサイドに置いて、腰掛けた。
枕の上に御子柴の髪がばらりと広がっている。頬には血色が戻ってきており、呼吸は深く、規則正しい。閉じられた瞼に生えそろった長い睫が、保健室の照明を受けて、目元に影を落としていた。
あんまり眠れていなかったんだろうか。だったらこのままずっと寝かせてやりたい。けどそれと同時に早く目覚めて欲しいとも思った。
いつまでも保健室にいるわけにいかないし、それに何より——声が聞きたい。いつもの減らず口を叩いて欲しい。大丈夫なんだと確認させて欲しい。
「御子柴」
人差し指で頬を突いてみる。すべすべしていて、瑞々しい弾力があった。
「起きろよ」
今度は肩を叩く。反応はない。
俺は丸椅子を降りて、しゃがみこみ、ベッドに頬杖をついた。
間近で見る御子柴の顔はよくできた彫刻のように美しい。でもこのまま美術品になんてなってほしくない。俺は動いて、笑って、生きている御子柴が好きだ。
不意に薄く開いている唇に目がいった。十分に温まったからだろうか、倒れたときとは違う、色づきを取り戻した唇に——
「……キス、するぞ」
言った途端、自分でも分かるほど頬に血が集まった。こんなこと起きている御子柴に言ったら一生からかい倒されるに違いない。けど、御子柴は目を覚まさない。俺はむきになって繰り返した。
「起きなきゃ、キスする」
御子柴はすやすや寝ている。自分の中に変な意地のようなものが生まれてしまった。このまま引き下がってなるものか。俺はぐいっと身を乗り出すと、段々と顔を近づけた。
目を瞑るわけにもいかないから、御子柴の顔を直視しなければならない。呼吸がままならない。心臓の音がうるさい。唇が触れる一歩手前のところで、鼓動が痛いぐらいに胸を叩き、俺は目を見開いた。
「う……、やっぱ無理」
「——なんでだよ」
「うわあああぁぁッ!?」
突然、ベッドから聞こえた声に、俺は文字通り飛び上がった。驚きに顔を引きつらせている俺の前で、御子柴は腹を抱えて、ばたばたと足を動かしていた。
「ぶっ——はは、あははははは! やっぱ気づいてなかった!」
「お、おまえ——」
人間、感情が渋滞を起こすと、言葉を失うものらしい。笑い続ける御子柴に、俺は思わず拳を握る。くそ、病人じゃなかったらブン殴ってやるのに……!
「あー、笑ったら腹減った。なんか食うもんない?」
「餓死しろ」
「あ、でも水無瀬くんにキスしてもらったら、満腹になるかも」
「うるさいバカ、うるさい!」
前言撤回、あのまま永遠に眠ってりゃ良かったんだ。
俺はカーテンの外に出て、甲斐先生が置いていった食べ物を掴むと、乱暴に投げつけた。
腹の立つことに御子柴は難なくそれらをキャッチし、ベッドの上で半身を起こして、ゼリー飲料を吸い始めた。パックの中身は瞬く間になくなった。御子柴は息つく暇もなく、今度は栄養バーの箱を開けて、中身をもぐもぐと頬張った。
俺は内心で小さな溜息をついた。いつも通りの早食いである。
「……いつから起きてたんだ」
「んー、お前が保健室に来た辺りかな?」
「最初からじゃねーか、なんですぐ起きなかったんだよ」
「いや、まだちょっとぼんやりしてたし。あとあのおっさん面倒くさそうだったから」
おっさんというのは甲斐先生のことだろうか。仮にも診てもらった身の言い草ではない。まぁ、確かに面倒ではあったけど……
「先生の相手を俺に押しつけたんだろ」
「バレた?」
悪びれもせず肩を竦め、御子柴は最後のバーを食べ尽くした。すっかり腹が膨れたようで、満足げな笑みを浮かべて壁によりかかっている。俺は口をへの字に曲げたまま、御子柴に手を差し出した。
「返せ、俺の上着」
「はいはい」
俺の学ランはすっかりくしゃくしゃになっていた。不機嫌なまま袖を通した俺の肌に、ふとぬくもりが広がる。鼻先を掠めるのは何度も嗅いだことのある香り——御子柴の匂いだ。
まるで抱きしめられているような感覚が、ぴりっとした痛みを伴って、涙腺を刺激した。俺はホックもボタンも留めるのを忘れ、膝の上で拳を握った。
「あー、ごめんって。クリーニング出して返す——」
「……違う」
声が震えるのを抑えきれなかった。御子柴が口を噤む。俺は溢れそうになる涙をこらえるのに必死だった。
天野さんの泣き顔が脳裏を過る。あまりにもその姿が痛々しかったのだろう、友人はしきりに天野さんを慰めていたし、中には俺じゃなくて彼女の方を見舞いの代表にした方がいいんじゃないかという意見も出ていた。
俺はただ単に学ランを人質に取られていたから甲斐先生に呼ばれたのであって、そういうことではなかったけれど、もし普通なら天野さんが傍についている方がずっと良かったように思う。
でも、もう俺はそんな普通には戻れない。
だって、俺は。
俺、は——
「心配した」
奥歯を食いしばりながら、絞り出すように言う。
「心配、したんだよ……」
やっとの思いでそう言うと、俺は唇を噛み締めて黙り込んだ。
我知れず、肩が震える。御子柴が倒れた時の恐怖が甦って、首の後ろが薄ら寒くなる。
「——ごめん」
御子柴の腕が伸びてきて、力強く引き寄せられた。
さっき学ランから感じたぬくもりが、匂いが、圧倒的な現実感で俺を包み込む。御子柴の背中に腕を回して抱きしめ返すと、こらえていたはずの涙があっけなく零れた。
「分かってたんだ、お前がなんかおかしいこと。ちょっと前から違和感があって……。でも、お前があまりにも普通だから、勘違いじゃないかって思ってて。何もできなかった……」
「それは俺が悪かった」
「何があったんだよ。なんであんなになるまで」
俺を包み込む腕に力がこもる。御子柴の口元が俺の髪の中に埋まったのがわかった。
「なんか、あるじゃん。人間、しょうがないこと考えちまう時って」
「ピアノのことか?」
「……うん、まぁ、それから色々」
御子柴が俺の頭にそっと頬を擦りつける。軽く苦笑する時の吐息が、髪を揺らした。
「でも水無瀬が可愛いからどうでもよくなった」
「……イジんな」
「そんなんじゃないって。だって可愛いじゃん。泣くほど俺のこと心配してさ。キスしてくれたら完璧だったのにな」
やっぱイジってんじゃねーか。もぞもぞと顔を上げて、御子柴を睨む。
するとおもむろに前髪を上げられた。きょとんとする俺に知らしめるように、御子柴はわざと大きくリップ音を立てて、額に口づけしてきた。
「……っ!」
「嘘だよ。キスできないところも可愛かった」
その声はいつもより深く響いた。俺は再び涙腺が緩みそうになるのを堪え、椅子から腰を浮かせて伸び上がった。
「なめんな」
背中から肩へ、そっと手を動かす。
「——キスくらいできる」
唇が触れあうのを確認してから、目を閉じる。
感じるのは重なり合う柔らかい感触と全身を包み込む体温、くらくらするほど色濃くなった匂いに、少し荒っぽい息遣い。それと直前に見た微笑みが瞼の裏に映っている。
ああ、俺の世界は今、全部御子柴で出来ているのか。そう思い当たった途端、どうしようもなく体が震えた。
長いキスが終わる。俺はいつのまにか腰を引き寄せられ、ベッドの上に腰掛けていた。御子柴がぐったりと俺の肩に頭を預けたのに、ぎくりとした。
「大丈夫か?」
「うーん、やっぱまだしんどいかも」
「ごめん、俺……」
おろおろして、とりあえず御子柴の背中をさすっていると、肩口からふっと苦笑が聞こえた。
「水無瀬は元気?」
「え? はぁ、まぁ……」
「じゃ、俺に元気分けて」
顔を上げて、御子柴はにっこりと笑う。小学生の頃観ていたアニメの主人公のようなことを言い出した御子柴に、俺は眉を顰めた。
「お前……結構、大丈夫そうじゃね?」
「いえいえ、俺なんかまだまだですよ」
御子柴は唐突に自分の腿の上をぽんぽんと叩いた。
「こっち来て」
「こっちって……え?」
「俺の上。ほら、ここおいで」
おおいに首を傾げながらも、流れで言われた通りにする。
あぐらをかいている御子柴を跨いで、膝立ちに。ベッドの上は不安定なので、御子柴の肩を掴む。
満足げな顔が俺を見上げている。そのあまりの近さと、自分の今の体勢を客観的に俯瞰してしまい、俺はかあっと体が火照っていくのを感じた。
「いやあの、これ……普通に恥ずかしいんだけど……」
「なんでよ、いいじゃん」
「だ、抱きつくな」
まるで犬のように頭をこすりつけてくるのに、閉口する。俺は窓と扉の方へ視線を行ったり来たりさせた。
「なぁ、誰かに見られたら……」
則ち、社会的な死である。焦る俺に御子柴は悠々と言った。
「カーテンで仕切られてるし」
「でも窓の外とか、まだ部活して……」
「そっちもカーテンかかってた」
「お前、いつの間に……」
「あとドアの鍵閉めたんだよな? おっさんが言ってたもんな?」
満面の笑みを浮かべる御子柴に、俺は呆れを通り越して畏敬を覚えた。もしかして俺は一生この男に頭が上がらないのでは。いっそ清々しい絶望感が頭を過る。
「あのさ」
御子柴の長い指が俺の髪に触れる。そのまま耳殻を辿り、頬を通って、唇を押しつぶした。
「今日、ちょっとだけ進んでみてもいい?」
何を、と呑気に思ったのは一瞬だけだった。
御子柴の言わんとしていることが分かり、とっさに全身を強張らせる。ハグ以上の、キス以上の、それ以上のこと——
「進ん、でって、その」
「うん」
「あの、えと、こ、ここで……?」
「そ。こんな機会滅多にないし」
「それは……」
「別に大したことしねぇよ。ま、水無瀬がどんなこと想像してんのか知らないけど」
「べっ、別に、何も想像してない……」
「そお? お前、むっつりっぽいからなー」
「殴るぞ」
「あとほら、保健室ってのがよくね?」
「むっつりはお前だ……」
「俺はちゃんとおおっぴらにしてるし」
意味のない応酬を区切るように、御子柴の指が首元の下、俺のシャツのボタンに触れる。
「嫌だ? 怖い?」
真剣な表情で見上げてくるのに、俺は密かに歯噛みした。
こうやっていつもこいつは、躊躇という逃げ道を先回りして潰しにかかるのだ。そうなれば俺は心の内を吐露するしかなくなる。
「嫌、じゃない。でも……少し怖い」
「やめておこうか?」
気遣わしげな口調に、俺は小さく首を横に振った。
「分かった、嫌になったらすぐ言えよ」
僅かな布擦れの音と共に、一番上の襟のボタンが外される。その下も、そのまた下も──。
*
俺はベッドを降りて、そそくさとカーテンをくぐった。
「どこ行くの?」
「……トイレ」
不必要に背中を丸くしているのがバレたらしい。御子柴は上機嫌に手を振った。
「ごゆっくり」
「うるさい」
保健室のドアを後ろ手に閉め、深い溜息を吐く。廊下はすっかり暗くなり、窓から僅かに漏れる外灯の明かりが照らすのみだった。
夜の学校はどことなく不気味だ。なんとなく前後左右を見回していると、階段の方からカタッと音がした。
「えっ」
思わず声を上げる。誰かいるのだろうか、それとも……。確かめる勇気はなく、俺は足早に廊下を進んだ。
トイレの個室から出て、いつもより念入りに手を洗う。気力がどっと抜け落ちて、腰の周りを気怠さが覆っていた。
鏡に映る自分の顔は酷いものだった。目元は泣き腫らして真っ赤だし、頬にはうっすらシーツの皺の跡がついている。
首にまで視線をずらすと、ふと詰め襟の上に違和感を感じた。
「あっ……!」
俺は鏡に顔を寄せた。薄い皮膚の一点が紫色に変色している。慌てて学ランとシャツの襟を開くと、同じような点がいくつも散らばっていた。
「うわ、なんだこれ。嘘だろ……」
首回りだけでこれなのだ。胸や腹、背中はどうなっているか分からない。確か明日は体育があったはず。一体、どうやって着替えろというのか。
俺は痛む頭を抱えながら、トイレを出た。暗い廊下を戻って、保健室に帰る。
ありったけの文句を言ってやろうと息巻いていた俺の耳に、御子柴の話し声が聞こえてきた。
「——うん、そう。校舎入ってすぐ左な。ああ……はい、はい。分かったって」
誰かと通話している? カーテンを開けると、御子柴がちょうど電話を切ったところだった。
「あ、おかえり」
「親御さん、連絡ついたのか?」
「ん? あぁ、うちの親は無理だぜ。ブラック公務員だから」
「市役所とか?」
「いや、財務省。どっちもキャリアで、いつも過労死寸前」
それは……またなんというかすごい。こいつの家は一族郎党ハイスペックなのだろうか。
「じゃあ、誰が迎えに……」
そう尋ねた瞬間だった。
「——涼馬、来たわよー!」
急に保健室のドアが開いたかと思うと、やたら野太い声が響いた。俺はその闖入者に目を丸くする。
大股で俺達の前に進み出たのは、大柄な人だった。
そう、人——としか言えない。
真っ赤なタートルネックのセーターに、黒いエナメルのジャケット、下はタイトな白いジーンズを穿いている。髪は明るい金髪で、顔にはファッションショーのモデルのような濃い化粧が施されていた。
特徴はその体格である。御子柴よりも頭半分くらいは高いであろう身長に、広い肩幅、全身がどことなく筋肉質なのが分かる。とにもかくにも色んな意味で濃い人物だった。
完全に固まってしまった俺をよそに、御子柴と彼(でいいのだろうか)は親しげに会話し始めた。
「おーっす、お疲れ」
「お疲れ、じゃないってーの。何、ぶっ倒れたって? あんたねえ、体調管理も仕事のうちよ。来週の米原さんのコンサートに穴開けたらどうするつもり——って、あら?」
青いアイシャドウが瞼に乗っている瞳が、ちらりと俺の方を見やる。蛇に睨まれた蛙ってこのことを言うのだろうか。俺は目を見開いたまま動けない。
「あらあら? あなた、もしかして——」
「え、えと」
一歩、また一歩と後退る俺の前に、御子柴の腕が割り入った。
「やめろ、見るな。水無瀬が減る」
「あーやっぱり、なるほどね。はいはい」
なんだか知らないが勝手に納得される。彼はジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。
「ハーイ、はじめまして、水無瀬くん。あたし、こういうものでーす」
受け取った名刺にはこう書かれていた。
『株式会社アクセス・エンターテインメント クラシック部門 エクスクルーシヴ・マネージャー ジェーン花園』
……じぇーん、はなぞの。
「気軽にジェーンって呼んでね」
扇状のつけまつげがばさっと揺れる。俺はなんとか会釈を返した。
「み、水無瀬晴希です。えっと、ジェーンさんは……」
「そ。こいつのマネージャーね。ご両親の代わりに迎えに来たってワケ」
やっぱりそうか。御子柴を振り返ると、それ以上の説明は不要とばかりに、さっさと身支度を調えていた。
「もう大丈夫なのか?」
「おー、全然へーき。じゃ、帰りますか。水無瀬も送ってくぜ」
「あんたね、運転すんの誰だと思ってんのよ」
「あ、いいです。俺、一人で帰れますから」
「何、遠慮してんだよ。同じ方向じゃん」
「そーよ、最近は男の子の一人歩きも物騒なんだから。あなた、カワイイから変態に狙われそうよね」
「だよなー。攫いやすそうだもん」
なんかめちゃくちゃ言われてる……。まぁ、今日は少し疲れたし、俺は素直にジェーンさんのお言葉に甘えることにした。
職員室に鍵を返して(ジェーンさんのインパクトが凄いからか、甲斐先生の危惧していた文句は言われなかった)、三人そろって校舎を出る。
外にはすっかり夜の帳が降り、いつの間にか運動部も引き上げていた。時計を見るとなんと七時を越えていた。
ジェーンさんの運転する車で、マンションの前まで送ってもらった。御子柴が助手席のウインドウを下げて、手を振ってくる。
「今日はありがとな。また明日」
「いや、明日は休め。医者に行けって甲斐先生が言ってたぞ」
「あ、そっか。じゃ、また明後日。おやすみ」
「……うん、おやすみ」
車が発進して、赤いテールランプが遠ざかっていく。俺はなんとはなしにそれを見送った後、マンションのエントランスをくぐった。
家に着くまでの間、頭を過るのは、もちろん保健室での出来事だった。冷静になって思い出すと、羞恥でどうにかなりそうだった。
エレベーターの中で人知れず、両手で顔を覆う。世の中の人って、あれ以上のことをしているのか。だとしたら、
「無理すぎる……」
エレベーターが静かに五階へ到着した。俺は緩く首を振りながら、一歩足を踏み出した。