「——ハルくん、そのマフラーなに?」
 学童の出入り口まで出てきた美海が開口一番そう言った。
 白いもこもこのセーターに赤と黒のタータンチェックスカート、その下には足首にリボンのついたお気に入りのタイツ。藤色のランドセルに、学校指定の黄色い帽子。どこからどう見ても小学生なのに、女の子は本当に目聡い。
 学童の先生に挨拶し、連れ立って小学校の校門を出る。繋いだ手がぐいっと引っ張られた。
「そのマフラーなに?」
 駄目押しである。俺は観念して答えた。
「もらった」
「バレンタインだから?」
「いや、ちょっと前に……」
「うそ。そんなの持ってなかったじゃん」
「持ってたよ」
「誰からもらったの?」
「美海の知らない人」
「カノジョ?」
「ち、違うって」
 美海は腕を目一杯伸ばして、マフラーに触れた。
「本気だよ、その人。じゃないとカシミアなんてくれないよ。カシミア、知ってる?」
「お兄ちゃんを馬鹿にするんじゃありません……」
「そっか、ハルくんにも。そっかぁ」
 俺は思わず閉口した。母さんの言い方にそっくりだ。
 気の短い冬の日が沈み切る前に、マンションへ辿り着く。
 美海は手洗いうがいをすると、荷物を自分の部屋に置きに行き、その後はリビングでくつろぎ始めた。
 俺も着替えて、台所に立ったところで、自分の失策に気づく。
「あー、買い物すんの忘れた……」
「れーしょくないの?」
 録画したアニメを見ていた美海が、ソファ越しに振り返る。俺は冷凍庫の中を確認した。
「ハンバーグかなぁ」
「あっ、美海それ大好き。決まりっ」
「はいはい」
 お歳暮でもらった、虎の子だったけど……今日の残り体力ではやむなし。俺はエプロンを着て、野菜室からレタスを取り出し、手で千切ってサラダを作り始めた。
「ハルくんのことが好きな子気になるなぁ。でもどうしてチョコあげなかったんだろ?」
「……そんなことより、昨日、俺が必死で作ったチョコはどうなった?」
「美海も作った!」
「塩入れたくせに。ベタな間違いして……」
「作り直したもん。みんな美味しいっていってくれたもん」
「そりゃ良かった」
 サラダを三人分作って、皿にラップをかけてしまう。冷蔵庫にはでかい板チョコが保存されていた。失敗すると見越して多めに買っておいた、その余りものだ。
 その横に生クリームの紙パックが置いてあるのが目に入った。時々、パスタソースなんかに使うのだが……
「あっ」
「どしたの?」
「チョコって使ってもいいか?」
「何つくるの、デザート!?」
「あー、えと、そう。材料余ってるから」
「やったー、ハルくん大好きっ」
 また調子のいいことを。俺はソファの上で弾む美海を一瞥した後、スマホでレシピを検索し始めた。簡単でなるべく早く作れるやつ。今日、間に合うやつ。
「……うん、いけそう」
 俺はエプロンの紐を締め直すと、パーカーの袖をまくった。さっきまであった疲労感はどこかへ吹き飛んでいた。


 帰ってきた母さんに美海を託した俺は、夜の住宅街を歩いていた。
 首にはもらったマフラーを巻いて、紙袋を一つだけ持って。どの家庭も夕食がひとしきり済んだのだろう、辺りは静まり返っている。街灯の下に、俺の足音だけが小さく響いていた。
 辿り着いたのは道の角にある公園だった。いくつかの遊具と砂場、木々に囲まれた申し訳程度の遊歩道がある。滑り台の脇に立っている人影を見つけ、俺は呼びかけた。
「悪い、突然呼び出して」
「おー」
 御子柴がこちらを振り向く。黒地に蛍光グリーンのロゴや模様が入ったジャージ姿だ。靴はいつものスニーカーではなくランニングシューズである。
「走りに行くところだったから、ちょうど良かったわ」
「そっか。えっと、ちょっと座らね?」
 俺が指差したのは遊歩道に設置されているベンチだった。御子柴が軽く頷いたので、そちらへ向かう。
 遊歩道は外灯が一つしかなく少し薄暗い。ベンチに座ると、木の葉の隙間から月明かりがちらちらと覗くのが分かった。
 隣に腰掛けた御子柴が俺の手元を見る。
「なんつーか、まぁ、期待しちゃってるけど、いい?」
「い、いいけど」
 でもそんな期待に応えられるものか……。俺は緊張しながら、紙袋の中身を差し出した。
 改めて見ると我ながらどうかと思う。どこの家にでもあるタッパーだ。案の定、御子柴は目を丸くしていた。
「ごめん、もうラッピングの箱、残ってなくて……」
 水色の蓋を開けると、格子状にカットされた生チョコが出てくる。端っこを切り落としもせず、まるで不格好だった。これが首元にあるマフラーと引き換えかと思うと、なんて不平等な取引なのだろう。
 口を噤んでいる御子柴から、思わず視線を逸らす。あぁ、こんなの渡さない方がマシだったか、やっぱり——
「もしかして、帰ってから作った?」
「う……。そう、昨日の材料が余ってたから。こんなのでほんとごめん」
「いや——てっきり、コンビニの売れ残りかなんかだと思ってたから」
 タッパーの中の生チョコを覗き込んで、御子柴は自分の口を手で覆っている。
「手作り……。うわ、どうしよ……」
「や、やめとこうか」
「なんでだよ。食べるわ」
 顔を思いっきり顰められ、タッパーをひったくられた。御子柴が長い指で摘まんだチョコを、ひょいっと口に放り込む。
「うまっ」
「マジ?」
「マジマジ。すげー、こんなん作れんだ」
 立て続けにチョコを食べていく御子柴から目が離せない。唇が妙な形になりそうなのを必死にこらえる。
 四つ目に手を伸ばそうとしていた御子柴が不意にこちらを見た。口の中にあったチョコをごくっと飲み下す。そして軽く咽せた。
「びっ……くりした。急にその目はやめろ……」
「えっ、なんか変だった?」
「変っていうか。変じゃないけど」
 珍しく御子柴が口ごもっている。俺は拳でむにむにと頬を押した。やばい、にやけてたのかもしれない……
 御子柴は軽い溜息をついた後、チョコの一つを差し出した。
「お前も食べる?」
「あぁ、そういえば味見してなかった……」
 急いでいたとはいえ、味くらいちゃんと確認しておくべきだった。御子柴が摘まんでいたチョコを差し出してくるので、反射的に口を開ける。
 が、御子柴はくるりと手を返すと、それを自分の口に放り込み、にやりと口端を釣り上げる。俺はほとほと呆れかえった。
「お前……」
 小学生か。いや、美海でもそんなことしないぞ——
 そう抗議しようとしたその時、御子柴の腕が素早くこちらに伸びた。大きな手の平が後頭部に添えられたのも束の間、有無を言わさぬ力で引き寄せられる。
「んっ——!」
 息も吐かせぬ勢いのキスに、俺はたまらず御子柴の背に腕を回した。ジャージの生地を強く握りしめる。
 次第に体が熱くなり、頭がぼんやりとして、溺れかかっているような感覚に陥る。口の中のチョコはほとんど消えてなくなり、少しざらざらとした味蕾から、甘い残滓を感じるのみだ。
 唇が離れ、熱が遠ざかっていった。
 くらっと目眩を覚えたところを、御子柴に抱き留められる。俺は荒い息を吐きながら、御子柴の肩口に強く額を押し当てた。未だ口内に残る甘さに、燻る熱に、ほとんど夢見心地で呟く。
「……好き……」
 俺の背中に回っていた御子柴の腕の力が急に強くなった。ぼんやりと二、三度瞬きし、はっと我に返る。
「い……今、俺、なんか言った?」
 見上げた御子柴の顔は小刻みに左右へ振れていた。
「……別に、何も聞こえなかったけど?」
「そっか。あ、いや、なんでもないから」
 そろそろと体を離す。御子柴も特に抵抗せず身を引いた。何故か明後日の方向を見ながら。
「とにかく、まぁ、ありがとな。夜遅いし、家まで送るわ」
「あぁ、いいよ、別に。これから走らなきゃなんだろ?」
 か弱い女の子じゃあるまいし、などと思っていると、御子柴の目が意地悪そうに弧を描いた。
「最近、ここらへんで変質者が出たって話だぜ。男子高校生がおっさんに後ろから突然、抱きつかれたんだと。お前、細っこいし、そのまま担がれてどっかに攫われたりして」
「……お、お願いできますか」
「素直でよろしい」
 御子柴が満足げに頷く。俺は未だ口の中に残るチョコの苦味と甘味を、舌の上で持て余しながら、そっと息を吐いた。
 連れ立って夜道を歩く。御子柴がタッパーの入った紙袋を揺らした。
「すげえ美味かったから、また来年も欲しいな」
 随分、気が早い話だ。俺は自然と頬を緩めた。
「これぐらい、いつでも作ってやるよ」