今日は屋上を吹き抜ける風が一段と冷たい。いつも隣にいる、壁になる奴がいないからだ。
俺は拗ねたガキのように膝を抱えて、もそもそとキャベツメンチカツサンドを頬張った。それを缶コーヒーで流し込んで、本日の昼飯は終了。一人きりなら何も屋上で食べなくてもいいのに、なんでここに来てしまったんだろう。
「シュトゥットガルト……」
どの国のどこだよ、と今でも思う。教えてもらったところによると、ドイツ南西部の都市らしい。御子柴はただいま絶賛海外ツアー中だ。他にもベルリンやミュンヘンなど、合計四都市で四日間のコンサートを行い、帰ってくるのが明後日の土曜日である。
話し相手もおらず、手持ち無沙汰な俺は、制服のポケットからスマホを取りだした。動画アプリを開いて、登録チャンネルを呼び出す。大手音楽プロダクション『アクセス』のクラシック部門のアイコンをタッチすると、去年の春にイギリスのリヴァプールで行われた、御子柴のソロ・リサイタルのダイジェスト動画が出てきた。
昨年の始め、テレビに少しだけ出演したこともあってか、再生数が物凄いことになっている。一体、何回分が俺なんだろうと思いながら、慣れた手つきで動画を再生する。
暗い会場の中、明るく浮かび上がる壇上に登場したのは、黒いスーツに身を包んだ御子柴だった。堂々たる足取りで舞台の真ん中に鎮座しているピアノに歩み寄り、優雅な仕草で椅子を引いて座った。
穏やかだった御子柴の表情が別人のように引き締まる。全身に緊張が漲り、演奏が始まった。力強い音と共に開幕する、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番『悲愴』第二楽章(と、動画のキャプションに書いてある)。時に激しく、時にもの悲しげな旋律が、スマホのスピーカーから流れては、屋上の風に攫われ、消えていく。
動画はダイジェストなので、ものの一分ほどでフェードアウトして終わる。俺はくるっと丸く矢印を描く『もう一度再生』ボタンをタップする。
クラシックにははっきり言って興味がない。話題の曲を聴いた方が、話のネタにもなるし、よほど有意義だと思う。それでも俺は動画を再生しつづける。ギガがもったいないなぁ、という心配をよそに。
ベートーヴェンには申し訳ないが、段々と音楽が耳を通り過ぎるようになってくる。
スマホのディスプレイを見入る俺の目に映るのは、御子柴の真剣な横顔だった。時折音に集中するかのように閉じられる瞼、頬に落ちる長い睫の影、あるいは細かく上下する手首、魔法のような動きで鍵盤を奏でる両の五指——
——ああ、また画面が暗闇に溶けていく。もう一度だけ、と決めて伸ばした指の先に、突然、電話の通話画面が表示された。独特の着信音にびくっと肩を震わせる。『御子柴涼馬』の文字が目に入った瞬間、俺は通話ボタンにタップしていた。
「えっ、と。もしもし?」
『水無瀬、今、だいじょぶ? 昼休みだよな?』
動画の中にいたピアニストと、回線の向こうの人物がうまく結びつかない。それでも聞き慣れた耳触りのいい声を聞いて、冷えた体に温度が戻ってくる。
「あぁ……うん。昼飯食い終わったとこ」
『なんか静かじゃね、どこいんの?』
「どこって、屋上」
『お前も好きだなぁ、寒いだけじゃん』
スマホ越しにからからと笑い声が響くので、不服げに口を尖らせる。誰のせいで——などと言ってしまえば、墓穴を掘るのは火を見るより明らかだ。そうして沈黙に徹した俺はしかし、御子柴の直感力を侮っていた。
『もしかして、こっそり俺の写真でも見てた?』
ぎくりと全身が強張り、危うくスマホを取り落としそうになる。
「……んなわけねーだろ」
嘘じゃない、本当だ。だって動画だから。
『ふーん』
御子柴が電話の向こうでにやにやしている様が目に浮かぶ。俺はどうにかして話題を変えようと、頭をフル回転させた。
「っていうか、ドイツって時差あんだろ。そっち、何時なんだよ?」
『朝の四時』
「四時!?」
『まぁ、お前と話し終わったら、二度寝するけど』
ふわぁ、と思い出したかのように御子柴が大欠伸をする。そうか、学校が昼休みの時間帯を狙って電話してきたのか。俺は知らない間にスマホを強く耳に押し当てていた。
『水無瀬くんが寂しがってるんじゃないかなーって思って。俺の声聞けて嬉しい?』
いつも通りそっけなく返しそうになって、口を噤む。
遠く離れた地にいる御子柴のことを考えた。ツアー中にもかかわらず、俺に電話をかけてきてくれた。夜も明けきらない時刻にアラームをセットして、俺が電話に出られる時間に合わせて。
抱えた膝に口元を埋める。俺は蚊の鳴くような声でやっと言った。
「……そりゃ、その、嬉しいよ……」
にわかに電話の向こうが沈黙した。ああ、しくじった。きっと俺が何も言えなくなるまで、からかい倒されるに違いない。すでに耳まで赤いのを自覚し、戦う前に降参の体でいると、御子柴がふーっと細く長い息を吐いた。
『早起きは三文の得』
「は? 急に何?」
『ちょっとだけほっといて……』
御子柴の声が少し揺れていることに気づき、俺は思わず深く俯いた。
……くそ、からかわれた方がましだったかもしれない。
小さく唸ってる御子柴をご希望通りしばらく放っておくことにして、俺はゆるゆると昼の空を見上げた。
同じ太陽の光が八時間遅れて、御子柴の元へ届く。
大丈夫、繋がってるんだ、と自分に言い聞かせても、願うのは、早く会いたい——と、そればかりだった。
俺は拗ねたガキのように膝を抱えて、もそもそとキャベツメンチカツサンドを頬張った。それを缶コーヒーで流し込んで、本日の昼飯は終了。一人きりなら何も屋上で食べなくてもいいのに、なんでここに来てしまったんだろう。
「シュトゥットガルト……」
どの国のどこだよ、と今でも思う。教えてもらったところによると、ドイツ南西部の都市らしい。御子柴はただいま絶賛海外ツアー中だ。他にもベルリンやミュンヘンなど、合計四都市で四日間のコンサートを行い、帰ってくるのが明後日の土曜日である。
話し相手もおらず、手持ち無沙汰な俺は、制服のポケットからスマホを取りだした。動画アプリを開いて、登録チャンネルを呼び出す。大手音楽プロダクション『アクセス』のクラシック部門のアイコンをタッチすると、去年の春にイギリスのリヴァプールで行われた、御子柴のソロ・リサイタルのダイジェスト動画が出てきた。
昨年の始め、テレビに少しだけ出演したこともあってか、再生数が物凄いことになっている。一体、何回分が俺なんだろうと思いながら、慣れた手つきで動画を再生する。
暗い会場の中、明るく浮かび上がる壇上に登場したのは、黒いスーツに身を包んだ御子柴だった。堂々たる足取りで舞台の真ん中に鎮座しているピアノに歩み寄り、優雅な仕草で椅子を引いて座った。
穏やかだった御子柴の表情が別人のように引き締まる。全身に緊張が漲り、演奏が始まった。力強い音と共に開幕する、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番『悲愴』第二楽章(と、動画のキャプションに書いてある)。時に激しく、時にもの悲しげな旋律が、スマホのスピーカーから流れては、屋上の風に攫われ、消えていく。
動画はダイジェストなので、ものの一分ほどでフェードアウトして終わる。俺はくるっと丸く矢印を描く『もう一度再生』ボタンをタップする。
クラシックにははっきり言って興味がない。話題の曲を聴いた方が、話のネタにもなるし、よほど有意義だと思う。それでも俺は動画を再生しつづける。ギガがもったいないなぁ、という心配をよそに。
ベートーヴェンには申し訳ないが、段々と音楽が耳を通り過ぎるようになってくる。
スマホのディスプレイを見入る俺の目に映るのは、御子柴の真剣な横顔だった。時折音に集中するかのように閉じられる瞼、頬に落ちる長い睫の影、あるいは細かく上下する手首、魔法のような動きで鍵盤を奏でる両の五指——
——ああ、また画面が暗闇に溶けていく。もう一度だけ、と決めて伸ばした指の先に、突然、電話の通話画面が表示された。独特の着信音にびくっと肩を震わせる。『御子柴涼馬』の文字が目に入った瞬間、俺は通話ボタンにタップしていた。
「えっ、と。もしもし?」
『水無瀬、今、だいじょぶ? 昼休みだよな?』
動画の中にいたピアニストと、回線の向こうの人物がうまく結びつかない。それでも聞き慣れた耳触りのいい声を聞いて、冷えた体に温度が戻ってくる。
「あぁ……うん。昼飯食い終わったとこ」
『なんか静かじゃね、どこいんの?』
「どこって、屋上」
『お前も好きだなぁ、寒いだけじゃん』
スマホ越しにからからと笑い声が響くので、不服げに口を尖らせる。誰のせいで——などと言ってしまえば、墓穴を掘るのは火を見るより明らかだ。そうして沈黙に徹した俺はしかし、御子柴の直感力を侮っていた。
『もしかして、こっそり俺の写真でも見てた?』
ぎくりと全身が強張り、危うくスマホを取り落としそうになる。
「……んなわけねーだろ」
嘘じゃない、本当だ。だって動画だから。
『ふーん』
御子柴が電話の向こうでにやにやしている様が目に浮かぶ。俺はどうにかして話題を変えようと、頭をフル回転させた。
「っていうか、ドイツって時差あんだろ。そっち、何時なんだよ?」
『朝の四時』
「四時!?」
『まぁ、お前と話し終わったら、二度寝するけど』
ふわぁ、と思い出したかのように御子柴が大欠伸をする。そうか、学校が昼休みの時間帯を狙って電話してきたのか。俺は知らない間にスマホを強く耳に押し当てていた。
『水無瀬くんが寂しがってるんじゃないかなーって思って。俺の声聞けて嬉しい?』
いつも通りそっけなく返しそうになって、口を噤む。
遠く離れた地にいる御子柴のことを考えた。ツアー中にもかかわらず、俺に電話をかけてきてくれた。夜も明けきらない時刻にアラームをセットして、俺が電話に出られる時間に合わせて。
抱えた膝に口元を埋める。俺は蚊の鳴くような声でやっと言った。
「……そりゃ、その、嬉しいよ……」
にわかに電話の向こうが沈黙した。ああ、しくじった。きっと俺が何も言えなくなるまで、からかい倒されるに違いない。すでに耳まで赤いのを自覚し、戦う前に降参の体でいると、御子柴がふーっと細く長い息を吐いた。
『早起きは三文の得』
「は? 急に何?」
『ちょっとだけほっといて……』
御子柴の声が少し揺れていることに気づき、俺は思わず深く俯いた。
……くそ、からかわれた方がましだったかもしれない。
小さく唸ってる御子柴をご希望通りしばらく放っておくことにして、俺はゆるゆると昼の空を見上げた。
同じ太陽の光が八時間遅れて、御子柴の元へ届く。
大丈夫、繋がってるんだ、と自分に言い聞かせても、願うのは、早く会いたい——と、そればかりだった。