——春が、やってくる。
授業中だった。換気のために教室の窓が薄く開けられている。そこから暖かい風が入り込み、季節の変わり目の揺らぐような匂いを残して、廊下へと通り抜けた。
俺はつい窓の外に目をやった。
空は青く澄み渡り、雲一つなかった。正午前の太陽は随分と高くなっていて、燦々とした光が街に降り注いでいる。砂っぽい校庭も、正門から真っ直ぐ伸びる通学路も、見慣れた街並みも、全てが輝いている。
長く寒い冬が終わって、ようやく訪れた芽吹きの春を、目一杯享受している。そんな風に見えた。
「……というわけで、今年度の私の授業を終わります」
数学の一条先生が言った。
同時に、四時間目の終了を報せるチャイムが鳴り響いたので、慌てて教壇に視線を戻すと、なんと一条先生はずびずびと鼻を鳴らして泣いていた。
「み、みなさん、ありがとうございましたっ……。これでっ、私はっ、産休に入ります。みんなのこと忘れないからねっ——!」
「えっ、一条ちゃん辞めちゃうの?」
クラスの女子が声を上げる。一条先生は目元を拭いながら言った。
「辞めないけど。でも寂しいよおお」
「先生……うちらのクラスが初めてなんだね。最後の授業するの」
「ううん、これで五回目……」
「——嘘でしょ、いい加減慣れない!?」
「だって何度やっても寂しいんだもん。う゛おおおおおん!」
教壇に突っ伏して、おっさんのような野太い声で泣き始めた一条先生を、どんな感情で見ればいいのか俺は完全に見失った。
授業は一応終わったので、女子数人が困惑しながら慰めに行く。一条先生はいつまで経っても帰らない。寂しいのは分かる、生徒思いの先生なのも。
ただちょっともう出てってくれないかな、飯食いづらいな、という雰囲気が教室中を包み始めた。
「屋上行こうぜ」
くるっとこちらを振り向いたのは御子柴だ。その手に購買のビニール袋はない。
代わりに俺が大きめのランチトートを持ってきていた。なんだか女子っぽくて恥ずかしいが、母さんに借りたものだからしょうがない。
「おう」
と、何気ない風を装って立ち上がる。
連れ立って廊下を歩く御子柴の足取りは軽かった。反面、俺はランチトートの持ち手を固く握って、その一歩後ろをついていく。
御子柴が屋上への扉を開けると、ぶわりと風が押し寄せた。教室に流れ込んできていた風とは、強さも濃度も全然違う。匂いや、温度が。
外に出るとそれがもっと顕著になる。頭上には青空が広がっていて、太陽が惜しみなく輝いていた。
真っ白な屋上の床に影を落としながら、俺達はフェンス際まで進む。何故か、足元がふわふわと浮ついておぼつかない。まるで雲の上にいるようだった。
「早く早く」
御子柴に手首を掴まれ、フェンスを背に座る。子供のような顔をして、期待を隠そうともしない御子柴に根負けし、俺はランチトートの中身を取り出した。
弁当箱が二つ、入っていた。その片方を御子柴に手渡すと、仰々しく頭を下げられた。
「ごちになります!」
その仕草がおかしくて、俺は思わず苦笑した。
二人同時に弁当箱の蓋をぱかっと開ける。
中身はまったく同じだ。
しゃけのふりかけが乗った白飯が半分を占めている。もう半分はおかずだ。ひじきと豆の煮物に、甘い卵焼き、ポテトサラダ、彩りにプチトマトが二つ。
それから——御子柴のリクエストであるハンバーグ。弁当用に小ぶりな作りだ。
「いただきます」
俺は箸を箱から取り出して、ひじきの煮物をぱくりとつまんだ。
しかしどうしても隣が気になって視線を動かすと、御子柴は未だ手も着けず、じっと弁当を見つめていた。
「え……なんか、苦手なもの入ってた?」
一応、事前に聞いておいたんだけど……。こいつ、別に嫌いな食べ物ないって言ってなかったっけ?
俺が眉を曇らせていると、御子柴ははっと目を瞬かせた。
「ああ、いや、だいじょぶだけど」
珍しく歯切れが悪い。もしかしてもっと豪勢なものを想像されていたんだろうか。運動会でお母さんが張り切って作る重箱のような。
俺は不安ごと白米を口に押し込んだ。
「言っとくけど、俺が作れるのなんてそんなもんだぞ」
「違うって。感動してんの」
「え?」
御子柴は弁当を持ち上げたり、違う角度から見たりして、矯めつ眇めつしている。
「これが水無瀬が俺のために作った弁当かー」
「お、俺のためってなんだよ」
「違うの?」
「ち……がわないけど。つーか、早く食べろよ」
「えー、もったいない」
どうやら本気でそう思っているらしく、御子柴は弁当の中身を眺めて、上機嫌に目を細めていた。
俺はもう見ていられなくて、御子柴の手から弁当を奪い取ると、箸でハンバーグを持ち上げ、御子柴の口に突っ込んだ。
「もがっ」
と、呻きつつも、御子柴はもぐもぐとハンバーグを咀嚼する。いつもは早食いのくせに、まるで見せ付けるかのようによく噛んで食べていた。
ようやくごくんと喉元が上下する。
「めちゃくちゃうまい」
「……そりゃどーも」
俺は御子柴の手に弁当箱を押しつけると、自分の分を再び食べ始めた。御子柴も観念したか、箸を動かし始める。
「あー、卵焼き甘いの好き」
「良かったな」
「ポテサラのじゃがいも具合ちょうどいい」
「じゃがいも具合ってなんだよ」
「ひじきもおいしい」
「……そう」
「飯、冷えてもうまいなー。ふりかけいいねー」
「いや、その……」
「うーん、プチトマト」
「——うるさいな、もう黙って食えよっ」
俺は箸を折れんばかりに握り締めた。プチトマトのへたを指で摘まんだまま、御子柴はにっこりと微笑んだ。
「ありがとな、水無瀬」
慌てて、顔を背けた。だが隠しきれなかったらしく、御子柴の指が俺の耳殻に触れる。
「耳、真っ赤」
「触るな、ばか」
払いのける前に、御子柴の手は逃げるように離れていく。
俺は誤魔化すように弁当をかきこんだ。結果、いつもとは反対に俺の方が早く食べ終えてしまった。
「ごちそーさまでした」
俺に遅れること少し、隣の弁当もようやく空になる。昼飯を食うだけなのになんでこんなに疲れるのだろう。俺は溜息交じりに呟いた。
「……おそまつさまでした」
御子柴から空の弁当箱を受け取り、さっさとランチトートにしまう。御子柴はペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、残念そうに言った。
「あーあ、食べ終わっちゃったな」
終わる。
その言葉に俺はふと動きを止めた。御子柴はフェンスに背中を預けながら、空を見上げた。
「つーか、一条ちゃん、泣きすぎだったよな。悪いけど、途中からちょっと笑いそうになったわ」
「だって……産休前の最後の授業だろ。しょうがないってか……」
「でも俺ら別に卒業生ってわけじゃないのに。三年なら分かるけど」
俺はぎゅっと目を眇めた。何も返さない俺に、御子柴が首を傾げた。
「水無瀬?」
膝の上で強く拳を握る。唇を固く結んでいないと、余計なことを言ってしまいそうだった。
俺の顔を覗き込んだ御子柴が目を丸くする。
「え……お前、泣いてる? そんな一条ちゃんのこと好きだったの?」
「違う」
「いや、即否定してやんなよ……」
戸惑ったように御子柴が言う。俺はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「今日、最後なんだぞ。二年の、最後……」
明日は終業式だった。つまり通常の授業は今日で終わりだ。
——御子柴と同じ教室で過ごすのも。
目の前を見れば、背中がすぐそこにあって。
くるりとこちらを振り向いてくれれば、いつでも顔が見られて。
一緒に廊下に出て、屋上に上がって、昼飯を食べて。
全部、終わるかもしれない。
「一条先生じゃないけどさ、俺……俺は……」
声の震えを意地で押しとどめる。
それ以上、何も言えなくなった。
俯く俺の頭を、御子柴の手がぽんぽんと叩いた。端からじわじわと滲んでいく視界に、御子柴の微笑みが映る。
「まだ分かんねーじゃん。また同じクラスになれるかもだし」
「七クラスあるんだぞ、無理だ」
「でもそのうち文理が五つだろ。つまり五分の一」
そんな分の悪いくじ、当たるわけない。離ればなれになる確率の方が断然高いじゃないか。御子柴の言うとおり可能性がないわけではないけど、俺はそれほど楽観的にはなれない。
「それに別々になっても、会えなくなるわけじゃないだろ。大げさだってば。んな、明日、世界が終わるんじゃあるまいし——」
「分かってるよ!」
思わず大声を出してしまい、俺ははっと自分の口を手で塞いだ。御子柴は呆気に取られたように口を噤んでいる。
どうしよう、こんなつもりじゃなかったのに。
これが、二年生の最後なのに。
このままじゃ、まるで喧嘩別れみたいになってしまう。
謝らなければ。そう思うが、喉が震えてうまく言葉が出てこない。
俺は彫像のように固まってしまう。少しでも動いてしまえば、感情を押しとどめている堤防が決壊しそうだった。
「……俺と別のクラスになるの、そんなに嫌?」
穏やかな口調で御子柴がそう問いかけた。俺は小刻みに震えるばかりで、答えられない。
「俺と離れるの、寂しい?」
優しい声音が胸に染みる。とうとう堪えきれなくなって、ぼろりと涙が溢れた。
「寂しいよ」
ぼやけた視界が一瞬クリアになって、御子柴の穏やかな笑みが映る。
「離れたくない……」
情けなくも濡れた頬を、御子柴の指がぐいっと拭う。弱ったように寄せられた眉から、俺はとっさに目を逸らした。
「ごめ——」
「なんで? 嬉しいよ」
親指の腹が、生まれたての雫を掬う。
「前も言ってたよな、寂しいって。離れたくないって。これのことだったんだ」
そういえば池袋に行った帰りに、思わず言ってしまった気もする。あの時も確か御子柴が「もうすぐ三月だな」と何気なく呟いたのに、感傷的になってしまったんだっけ。
俺はぐすっと鼻を鳴らした。
「引いたよな、悪い……」
「だから、んなことないって。ただ……俺、お前の涙に弱いんだよ。なんてーの、刷り込み?」
意味が分からず、首を傾げる。御子柴は言いにくそうにこめかみを掻いていた。
「とにかくお前が泣いてると、一瞬、どうしていいか分かんなくなんの。でも俺のために泣いてくれたら嬉しいし、それに……潤んだ目と涙が結構好きっていうか、そそる」
「は……?」
「正直、興奮します」
「え——」
「いや、引くなよ。俺、引かなかったんだから、引いてくれるなよ」
突然暴露された性癖に、涙が止まった。最後の最後に何言ってんだ、こいつ……?
「まぁ、それは置いといて」
濡れたままの俺の顔を、御子柴は制服の袖でぐいぐいと拭いた。
それから真っ赤になった俺の瞳を、至近距離で覗いた。
「クラスが別になっても、一緒に飯食えばいいし、一緒に帰ればいいじゃん。たまに休み時間、喋ったりしてさ。放課後もあの公園とかで待ち合わせして会えば良いし、休みの日は遊びにいけばいいし。あとできるだけ毎日電話するから」
再び大きな手が頬に触れ、そっと撫でる。
「心配しなくても、俺はお前の傍にいたいし、傍にいるよ」
満面の笑みが、目の前に広がる。
「明日、世界が終わるんだとしても——俺はそうするよ」
ああ、ここが学校じゃなければ。
深く口づけて、強く抱きしめて、ずっと離れないのに。
もどかしさを持て余しながら、俺は小さく頷くことしかできなかった。
◇
——春が、やってきた。
俺の脳裏に、一年前の桜が舞う。
新しいクラスに緊張しながら、教室に入って。あんまり顔見知りはいなくて。それほど社交的ではない性格を自覚していたから、どうしようかと密かに思い悩んでいたら、そいつは少し遅れてやってきた。
背が高くて、顔が整っていて、控えめに言っても目立っていた。そうでなくても学年の中ではちょっとした有名人だったので、俺でも名前は知っていた。
俺とは違って顔が広いらしく、すれ違うクラスメートにいちいち挨拶をしながら、やっと俺の前の席に座った。
机の横に鞄をかけて、適当に筆記用具やノートを机の中に入れている。ちょうどその作業が終わったところで、俺は勇気を振り絞って、その背中をちょいっと突いた。
「——ん?」
そいつはくるりとこちらを振り返った。
目の前で見ると本当に顔が美形だった。黒目がちの瞳に、筋が通った鼻梁。大きめの口には男らしさがあって、でも唇は形が綺麗で血色が良い。
唐突に呼ばれたにもかかわらず、口元には淡い笑みが浮かんでいた。俺は少しほっとしながら、尋ねた。
「ピアノの人だよな?」
「ピアノの人って。ピアニストな」
可笑しそうに苦笑する姿すら様になっていた。マジで俳優かモデルみたいだ。本当のイケメンってこういうのを言うんだな、と感心しながら、俺は尋ねた。
「ええっと。御子柴、だっけ?」
「そう、御子柴。前後同士、よろしくな」
御子柴は俺の名札をちらりと見やった。
「——水無瀬」
差し出された手を握り返す。分厚い皮の感触と伝わる体温が、いつまでも手の平に残っていた。
授業中だった。換気のために教室の窓が薄く開けられている。そこから暖かい風が入り込み、季節の変わり目の揺らぐような匂いを残して、廊下へと通り抜けた。
俺はつい窓の外に目をやった。
空は青く澄み渡り、雲一つなかった。正午前の太陽は随分と高くなっていて、燦々とした光が街に降り注いでいる。砂っぽい校庭も、正門から真っ直ぐ伸びる通学路も、見慣れた街並みも、全てが輝いている。
長く寒い冬が終わって、ようやく訪れた芽吹きの春を、目一杯享受している。そんな風に見えた。
「……というわけで、今年度の私の授業を終わります」
数学の一条先生が言った。
同時に、四時間目の終了を報せるチャイムが鳴り響いたので、慌てて教壇に視線を戻すと、なんと一条先生はずびずびと鼻を鳴らして泣いていた。
「み、みなさん、ありがとうございましたっ……。これでっ、私はっ、産休に入ります。みんなのこと忘れないからねっ——!」
「えっ、一条ちゃん辞めちゃうの?」
クラスの女子が声を上げる。一条先生は目元を拭いながら言った。
「辞めないけど。でも寂しいよおお」
「先生……うちらのクラスが初めてなんだね。最後の授業するの」
「ううん、これで五回目……」
「——嘘でしょ、いい加減慣れない!?」
「だって何度やっても寂しいんだもん。う゛おおおおおん!」
教壇に突っ伏して、おっさんのような野太い声で泣き始めた一条先生を、どんな感情で見ればいいのか俺は完全に見失った。
授業は一応終わったので、女子数人が困惑しながら慰めに行く。一条先生はいつまで経っても帰らない。寂しいのは分かる、生徒思いの先生なのも。
ただちょっともう出てってくれないかな、飯食いづらいな、という雰囲気が教室中を包み始めた。
「屋上行こうぜ」
くるっとこちらを振り向いたのは御子柴だ。その手に購買のビニール袋はない。
代わりに俺が大きめのランチトートを持ってきていた。なんだか女子っぽくて恥ずかしいが、母さんに借りたものだからしょうがない。
「おう」
と、何気ない風を装って立ち上がる。
連れ立って廊下を歩く御子柴の足取りは軽かった。反面、俺はランチトートの持ち手を固く握って、その一歩後ろをついていく。
御子柴が屋上への扉を開けると、ぶわりと風が押し寄せた。教室に流れ込んできていた風とは、強さも濃度も全然違う。匂いや、温度が。
外に出るとそれがもっと顕著になる。頭上には青空が広がっていて、太陽が惜しみなく輝いていた。
真っ白な屋上の床に影を落としながら、俺達はフェンス際まで進む。何故か、足元がふわふわと浮ついておぼつかない。まるで雲の上にいるようだった。
「早く早く」
御子柴に手首を掴まれ、フェンスを背に座る。子供のような顔をして、期待を隠そうともしない御子柴に根負けし、俺はランチトートの中身を取り出した。
弁当箱が二つ、入っていた。その片方を御子柴に手渡すと、仰々しく頭を下げられた。
「ごちになります!」
その仕草がおかしくて、俺は思わず苦笑した。
二人同時に弁当箱の蓋をぱかっと開ける。
中身はまったく同じだ。
しゃけのふりかけが乗った白飯が半分を占めている。もう半分はおかずだ。ひじきと豆の煮物に、甘い卵焼き、ポテトサラダ、彩りにプチトマトが二つ。
それから——御子柴のリクエストであるハンバーグ。弁当用に小ぶりな作りだ。
「いただきます」
俺は箸を箱から取り出して、ひじきの煮物をぱくりとつまんだ。
しかしどうしても隣が気になって視線を動かすと、御子柴は未だ手も着けず、じっと弁当を見つめていた。
「え……なんか、苦手なもの入ってた?」
一応、事前に聞いておいたんだけど……。こいつ、別に嫌いな食べ物ないって言ってなかったっけ?
俺が眉を曇らせていると、御子柴ははっと目を瞬かせた。
「ああ、いや、だいじょぶだけど」
珍しく歯切れが悪い。もしかしてもっと豪勢なものを想像されていたんだろうか。運動会でお母さんが張り切って作る重箱のような。
俺は不安ごと白米を口に押し込んだ。
「言っとくけど、俺が作れるのなんてそんなもんだぞ」
「違うって。感動してんの」
「え?」
御子柴は弁当を持ち上げたり、違う角度から見たりして、矯めつ眇めつしている。
「これが水無瀬が俺のために作った弁当かー」
「お、俺のためってなんだよ」
「違うの?」
「ち……がわないけど。つーか、早く食べろよ」
「えー、もったいない」
どうやら本気でそう思っているらしく、御子柴は弁当の中身を眺めて、上機嫌に目を細めていた。
俺はもう見ていられなくて、御子柴の手から弁当を奪い取ると、箸でハンバーグを持ち上げ、御子柴の口に突っ込んだ。
「もがっ」
と、呻きつつも、御子柴はもぐもぐとハンバーグを咀嚼する。いつもは早食いのくせに、まるで見せ付けるかのようによく噛んで食べていた。
ようやくごくんと喉元が上下する。
「めちゃくちゃうまい」
「……そりゃどーも」
俺は御子柴の手に弁当箱を押しつけると、自分の分を再び食べ始めた。御子柴も観念したか、箸を動かし始める。
「あー、卵焼き甘いの好き」
「良かったな」
「ポテサラのじゃがいも具合ちょうどいい」
「じゃがいも具合ってなんだよ」
「ひじきもおいしい」
「……そう」
「飯、冷えてもうまいなー。ふりかけいいねー」
「いや、その……」
「うーん、プチトマト」
「——うるさいな、もう黙って食えよっ」
俺は箸を折れんばかりに握り締めた。プチトマトのへたを指で摘まんだまま、御子柴はにっこりと微笑んだ。
「ありがとな、水無瀬」
慌てて、顔を背けた。だが隠しきれなかったらしく、御子柴の指が俺の耳殻に触れる。
「耳、真っ赤」
「触るな、ばか」
払いのける前に、御子柴の手は逃げるように離れていく。
俺は誤魔化すように弁当をかきこんだ。結果、いつもとは反対に俺の方が早く食べ終えてしまった。
「ごちそーさまでした」
俺に遅れること少し、隣の弁当もようやく空になる。昼飯を食うだけなのになんでこんなに疲れるのだろう。俺は溜息交じりに呟いた。
「……おそまつさまでした」
御子柴から空の弁当箱を受け取り、さっさとランチトートにしまう。御子柴はペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、残念そうに言った。
「あーあ、食べ終わっちゃったな」
終わる。
その言葉に俺はふと動きを止めた。御子柴はフェンスに背中を預けながら、空を見上げた。
「つーか、一条ちゃん、泣きすぎだったよな。悪いけど、途中からちょっと笑いそうになったわ」
「だって……産休前の最後の授業だろ。しょうがないってか……」
「でも俺ら別に卒業生ってわけじゃないのに。三年なら分かるけど」
俺はぎゅっと目を眇めた。何も返さない俺に、御子柴が首を傾げた。
「水無瀬?」
膝の上で強く拳を握る。唇を固く結んでいないと、余計なことを言ってしまいそうだった。
俺の顔を覗き込んだ御子柴が目を丸くする。
「え……お前、泣いてる? そんな一条ちゃんのこと好きだったの?」
「違う」
「いや、即否定してやんなよ……」
戸惑ったように御子柴が言う。俺はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「今日、最後なんだぞ。二年の、最後……」
明日は終業式だった。つまり通常の授業は今日で終わりだ。
——御子柴と同じ教室で過ごすのも。
目の前を見れば、背中がすぐそこにあって。
くるりとこちらを振り向いてくれれば、いつでも顔が見られて。
一緒に廊下に出て、屋上に上がって、昼飯を食べて。
全部、終わるかもしれない。
「一条先生じゃないけどさ、俺……俺は……」
声の震えを意地で押しとどめる。
それ以上、何も言えなくなった。
俯く俺の頭を、御子柴の手がぽんぽんと叩いた。端からじわじわと滲んでいく視界に、御子柴の微笑みが映る。
「まだ分かんねーじゃん。また同じクラスになれるかもだし」
「七クラスあるんだぞ、無理だ」
「でもそのうち文理が五つだろ。つまり五分の一」
そんな分の悪いくじ、当たるわけない。離ればなれになる確率の方が断然高いじゃないか。御子柴の言うとおり可能性がないわけではないけど、俺はそれほど楽観的にはなれない。
「それに別々になっても、会えなくなるわけじゃないだろ。大げさだってば。んな、明日、世界が終わるんじゃあるまいし——」
「分かってるよ!」
思わず大声を出してしまい、俺ははっと自分の口を手で塞いだ。御子柴は呆気に取られたように口を噤んでいる。
どうしよう、こんなつもりじゃなかったのに。
これが、二年生の最後なのに。
このままじゃ、まるで喧嘩別れみたいになってしまう。
謝らなければ。そう思うが、喉が震えてうまく言葉が出てこない。
俺は彫像のように固まってしまう。少しでも動いてしまえば、感情を押しとどめている堤防が決壊しそうだった。
「……俺と別のクラスになるの、そんなに嫌?」
穏やかな口調で御子柴がそう問いかけた。俺は小刻みに震えるばかりで、答えられない。
「俺と離れるの、寂しい?」
優しい声音が胸に染みる。とうとう堪えきれなくなって、ぼろりと涙が溢れた。
「寂しいよ」
ぼやけた視界が一瞬クリアになって、御子柴の穏やかな笑みが映る。
「離れたくない……」
情けなくも濡れた頬を、御子柴の指がぐいっと拭う。弱ったように寄せられた眉から、俺はとっさに目を逸らした。
「ごめ——」
「なんで? 嬉しいよ」
親指の腹が、生まれたての雫を掬う。
「前も言ってたよな、寂しいって。離れたくないって。これのことだったんだ」
そういえば池袋に行った帰りに、思わず言ってしまった気もする。あの時も確か御子柴が「もうすぐ三月だな」と何気なく呟いたのに、感傷的になってしまったんだっけ。
俺はぐすっと鼻を鳴らした。
「引いたよな、悪い……」
「だから、んなことないって。ただ……俺、お前の涙に弱いんだよ。なんてーの、刷り込み?」
意味が分からず、首を傾げる。御子柴は言いにくそうにこめかみを掻いていた。
「とにかくお前が泣いてると、一瞬、どうしていいか分かんなくなんの。でも俺のために泣いてくれたら嬉しいし、それに……潤んだ目と涙が結構好きっていうか、そそる」
「は……?」
「正直、興奮します」
「え——」
「いや、引くなよ。俺、引かなかったんだから、引いてくれるなよ」
突然暴露された性癖に、涙が止まった。最後の最後に何言ってんだ、こいつ……?
「まぁ、それは置いといて」
濡れたままの俺の顔を、御子柴は制服の袖でぐいぐいと拭いた。
それから真っ赤になった俺の瞳を、至近距離で覗いた。
「クラスが別になっても、一緒に飯食えばいいし、一緒に帰ればいいじゃん。たまに休み時間、喋ったりしてさ。放課後もあの公園とかで待ち合わせして会えば良いし、休みの日は遊びにいけばいいし。あとできるだけ毎日電話するから」
再び大きな手が頬に触れ、そっと撫でる。
「心配しなくても、俺はお前の傍にいたいし、傍にいるよ」
満面の笑みが、目の前に広がる。
「明日、世界が終わるんだとしても——俺はそうするよ」
ああ、ここが学校じゃなければ。
深く口づけて、強く抱きしめて、ずっと離れないのに。
もどかしさを持て余しながら、俺は小さく頷くことしかできなかった。
◇
——春が、やってきた。
俺の脳裏に、一年前の桜が舞う。
新しいクラスに緊張しながら、教室に入って。あんまり顔見知りはいなくて。それほど社交的ではない性格を自覚していたから、どうしようかと密かに思い悩んでいたら、そいつは少し遅れてやってきた。
背が高くて、顔が整っていて、控えめに言っても目立っていた。そうでなくても学年の中ではちょっとした有名人だったので、俺でも名前は知っていた。
俺とは違って顔が広いらしく、すれ違うクラスメートにいちいち挨拶をしながら、やっと俺の前の席に座った。
机の横に鞄をかけて、適当に筆記用具やノートを机の中に入れている。ちょうどその作業が終わったところで、俺は勇気を振り絞って、その背中をちょいっと突いた。
「——ん?」
そいつはくるりとこちらを振り返った。
目の前で見ると本当に顔が美形だった。黒目がちの瞳に、筋が通った鼻梁。大きめの口には男らしさがあって、でも唇は形が綺麗で血色が良い。
唐突に呼ばれたにもかかわらず、口元には淡い笑みが浮かんでいた。俺は少しほっとしながら、尋ねた。
「ピアノの人だよな?」
「ピアノの人って。ピアニストな」
可笑しそうに苦笑する姿すら様になっていた。マジで俳優かモデルみたいだ。本当のイケメンってこういうのを言うんだな、と感心しながら、俺は尋ねた。
「ええっと。御子柴、だっけ?」
「そう、御子柴。前後同士、よろしくな」
御子柴は俺の名札をちらりと見やった。
「——水無瀬」
差し出された手を握り返す。分厚い皮の感触と伝わる体温が、いつまでも手の平に残っていた。