「涼馬はお土産なにがいい?」
「……んあ?」
いつものようにばーちゃんと二人で晩飯を食ってる時だった。唐突にそう尋ねられ、俺は煮物の大根を口に運び損ねる。
「箱根だからやっぱり黒たまご? かまぼこもいいわよね。あ、でもやっぱり若い子はスイーツがいいのかしら」
「え、待って、なんの話? ばーちゃん、箱根行くの?」
すると、向かい合っていた円らな瞳がぱちぱちと瞬いた。
「あら、葉子か操さんに聞いてない? 町内会の旅行に誘われてね、来週の土日に一泊二日で行ってくるのよ」
「へー。膝、大丈夫?」
「最近、鍼灸院に通っててね。結構良くなったのよ。明日も本当は涼馬と一緒に、島田さんのところへ行きたかったけれど……旅行があるから無理はしないでおくわ。よろしくお伝えしてね」
「はいはーい」
安請負しつつ、俺は今度こそ大根を食おうとする。
……が、あることに気づき、箸がまた止まった。
「あれ。来週って確か、かーちゃんと親父も出張じゃなかったっけ」
「そうなのよ。だから涼馬一人になっちゃうの。……あ、クロードはいるわね」
などと呑気に付け足すばーちゃんをよそに、俺は大根を取り落とした。
来週の土日——家に誰もいない、だと?
「まぁ、高校生だもの。大丈夫よね」
「あ、うん、それは……」
「カレー作っておくから。それ食べてね」
曖昧に頷きながら、再び大根を持ち上げて咀嚼する。ばーちゃんの煮物はいつも出汁が染みててうまい。けど、今はその味がよく分からない。
「……あー、あのさ。家に同じクラスの奴、呼んでもいい?」
「あら。あらあらあら、まさか」
「いやいや、違う。男子だから。水無瀬っての。……ほら、こいつ!」
スマホで水無瀬の写真を表示する。二枚もってるうちの一枚で、撮らせてとねだり、なんとか手に入れた。屋上で、引きつった不器用な笑みを浮かべている。俺のとっておきである。
ちなみにもう一枚は転た寝しているところを無許可で撮った。これはちょっと本人にも見せられない。
ばーちゃんはスマホを覗き込んで、ぽんと手を打った。
「ああ、これが噂の水無瀬くん。ふふ、涼馬ったら春頃、ずっとこの子の話してたわよねえ」
「そ……そうだっけ?」
「最近、聞かなくなったからどうしてるのかなって思ってたけど。でもちゃんと仲良しさんだったのね」
「ははは……」
ばーちゃんが嬉しそうに言うのに、後ろめたい俺は乾いた笑いで誤魔化した。ばーちゃん、ごめん。色々ごめん。
「私はいいけど、ちゃんと葉子と操さんにも言っておくのよ」
「うん、分かった」
俺は煮物のにんじんを二個いっぺんに頬張った。そうしないと顔がにやけそうだった。あの天野の一件以来、学校じゃ何もできなくなった。キスだって保健室の時が最後だ。それがうまくいけば二人きり、しかも泊まりで。
……いや、でも待てよ。
これ、どうやって言う?
今度の土日、家に誰もいないから泊まりに来いって……。露骨じゃね? めちゃくちゃ直接的じゃね?
いや、変に意識するな。いつものようにさらっと言えばいい。ちょっと冗談めかして、からかうように。そしたら水無瀬はきっと顔を真っ赤にして、でも予定が空いてれば頷いてくれる……はず……。くれるよな。え、つか、断られたら精神的に死ぬんだけど。
やば、難易度高いかも……。俺は弱気の虫を喉へ押し込むように、白飯をかきこんだ。何も知らないばーちゃんが「よく噛んで食べなきゃダメよ」と俺をたしなめた。
翌日の土曜日は久しぶりに水無瀬と出かけた。
シマさんのところへ顔を出し、これからどうしようか迷っている時に、水無瀬が「新しいスニーカーが欲しい」と言い出した。水無瀬はいつも同じブランドのスニーカーを履いている。星のマークが有名なシリーズで、今日は白のハイカットだった。
てっきりそこの店に行きたいのかと思いきや、水無瀬は不意に俺の足元を見やった。
「御子柴のはどこのやつ?」
聞けば、格好良くて気になるのだと言う。いいのかよ、もしここのやつ買ったらおそろいだけど? いや、別にスニーカーのブランドが被ることは変じゃない。それに俺はむしろ嬉しいし。
ちょうどすぐ近くに店があったので、買いに行くかと誘えば、水無瀬はこくんと頷いた。
「うん、行く」
自覚があるかどうかは分からないが、目は柔らかく細められ、口元には淡い笑みが浮かんでいた。その素直な言葉と仕草が、俺の胸を突き刺した。痛みをこらえるべく、目の前にそびえる大きなビルを見上げる。
……最近、水無瀬が無防備で困る。前はもっとつんけんしていて、それが可愛くもあったのだが。今では結構態度や言葉で好意を示してくれるし、あと気を許されているのがはっきり分かる。
今じゃないだろうか、と頭の中の計算高い部分が提案する。もちろん来週の土日のことだ。今言えば、同じ調子で「うん、行く」と言ってくれるんじゃ……?
「——あのさ、水無瀬。全然、話違うんだけど」
「え? お、おう」
「その、なんだ……ええと……」
まずい、変に口ごもってしまった。こうなると後が続かない。俺は戦略的撤退を余儀なくされた。
「……ごめん、また後で言う」
え、俺ってこんなにヘタレだっけか? 俺が密かにショックを受けていると気づきもせず、水無瀬はしきりに首を捻っていた。
店に行くと、またもやあの高遠さんとかいうクセの強い店員さんに会ってしまった。なんで俺が来るときに限って、この人に当たるんだろう。初めて来る水無瀬にもぐいぐい迫るので、それを適当にあしらいつつ、店内を見て回る。
いつものブランドと違うからか、水無瀬は少し戸惑っている様子だった。隣で新作を眺めていた俺をちらっと見上げる。
「なぁ、見立ててくんね?」
茶色がかった瞳が上目遣いで見つめてくる。そして俺の選んだ靴を、水無瀬は一も二もなく買うと決めた。「めちゃくちゃいい」とか「気に入った」を連呼する。新しいのに履き替えると言いだし、店を出ても靴を見てはうきうきしていた。
「そうだ、服もお前に見立ててもらおっか」
あまつさえそんなことを言い出した水無瀬に、最早ぐったりする。それって全身俺色に染まるってこと? 勘弁しろよ……
再び次の予定を考えていると、水無瀬が目を輝かせて、プラネタリウムのポスターを見ていることに気づいた。
は? 高二の男子がプラネタリウム行きたいのか? 可愛いすぎね? 俺は水無瀬を連れて躊躇なくエレベーターに乗り込み、スマホでチケットを取った。あまりにも手際が良かったからだろうか、水無瀬は屈託なく笑っていた。
こうなると俺もちょっと慣れてきた。いや、飽きたとかじゃなくて、耐性がついたというか。
それにプラネタリウムだって何も水無瀬可愛さに連れて行くだけではない。指定した座席は最後列の端だ。こうなれば、映画館よりも暗いプラネタリウムでやることは限られる。
……夜空? 星座? 知ったことか。まず手を繋ぐ、そんでキスする。絶対する。それからあとは申し訳程度に星を見て、多分いい雰囲気になる。そこで来週の土日のことを打ち明ければ完璧だ。
——それから十数分後、俺は死んだ魚のような目で、星を見上げていた。
手を繋いだはいいものの、それからすぐ水無瀬が爆睡し始めたのだ。
おい……水無瀬のくせに良い度胸じゃねーか。いいか、俺はな、やると決めたらやる男なんだよ。寝てても関係ねぇよ、絶対キスしてやる。
そうしてぎろっと隣を睨んだ瞬間だった。水無瀬の首が傾いだかと思うと、俺の肩にこてんと頭を預けてくる。……おま、お前、嘘だろ。動けないじゃん。なんにもできないじゃん、これ。
さして興味もない星空を眺めながら、白旗を振った。厄日って今日みたいな日を言うんだろうか。小一の頃、ジュニア・コンクールの本選でモタりまくった時のことを思い出す。あの日はマジで何をしても駄目だった。まさに今日と同じだ。
こうなると俺は切り替えが早かった。週明け、学校で言った方がいいかもしれない。いつものように屋上で、水無瀬が飲み物飲んでる時にでもさらっと。そしたらまたごほごほ咳き込んで、照れまくるんだろう。うん、それがいい、きっと——
「……み、こし、ば……」
耳元で小さな小さな声が聞こえた。すぐ傍にある水無瀬の唇が、もごもごと擦り合わされている。
——なんだか、気が抜けてしまった。
色々と考えていたのが馬鹿らしくなる。繋いだ手を一旦ほどいて、指を絡める。寝ているはずなのに水無瀬の手にぎゅっと力がこもった。
顔を傾けて、唇で水無瀬の髪に触れる。癖の付いた毛の少しくすぐったい感触から、逃げるように離れた。
……あのさ、最近、お前のことを想うとたまらなくなるよ。胸が詰まったみたいに苦しくて、息がうまくできなくなる。伝えていいものか分からないけれど、こんなんじゃ全然足りないんだ。
細く長く息を吐いて、なんとか心を落ち着けようとする。頭上に瞬く星の光は儚いのに眩しくて、俺はきつく目を瞑った。
夜の帳が降りた空の下で、水無瀬は俺の努力を全部水の泡にした。
「……寂しいよ」
小さくて、泣き出しそうな声。遠慮がちに掴んだコートの袖の端。
「離れたくない」
俺は奥歯を割れんばかりに噛み締めた。水無瀬が憎い。初めてそんなことを思った。どうしようもなく好きなのに、どうしようもなく憎い。そのどす黒くて凶暴な感情は、血の色のような双眸をぎらつかせた獣の姿をしている。
爪が食い込むまで拳を握った。胸の奥に棲み着いた獣を飼い慣らすべく、深い息を吐く。
俺は胸中の全てをぶちまけた。そして、最後に肝心の一言を告げる。
「——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?」
「——へっ!?」
水無瀬の顔が面白いように赤くなる。肩の荷が下りたのと、水無瀬の反応を見て、俺はほっと安堵した。素直なのも気を許してるのも可愛いけど、こいつはこうでなくては。
今、何想像してる? とからかってやろうとした瞬間、水無瀬はがばっと頭を下げた。
「い……一度、持ち帰って検討させていただきます! 今日はありがとうございました!」
驚きの声を上げる間もなかった。水無瀬は俺の脇をすり抜けて、全速力でマンションに入っていってしまう。為す術もなくその背中を見送った俺は、致命的に遅れてから叫ぶ。
「——はあ!?」
え……いや、ええ!? 何、さっきの。何が起きた!? つか、なんでサラリーマンみたいな口調!? っていうか、っていうか……
もしかして——遠回しに断られた?
「嘘だろ……」
呆然とする俺の手元から、紙袋が滑り落ちた。アスファルトに叩きつけられた中身から、ガシャンと嫌な音がする。
「うわっ!」
我に返り、慌ててしゃがみ込む。
恐る恐る紙袋を覗き込むと、ばっきばきに割れたCDケースが目に入る。肝心のCD自体は無事だったが、買ったばかりの新譜の変わり果てた姿に思わず項垂れる。
やっぱり厄日だ。俺はしばらくその場から動けなかった。通行人がいなかったのかせめてもの幸いか。
「もうやだ……」
外灯の下、人知れず呟く。俺の小さな声は夜闇に溶けて、消えていった。