「場所はここ。コンセプトは本屋とカフェの併設。ターゲット層はうちの常連。ついでに無期雇用だよ。ほらもう揃った」

とんとん拍子で黄昏さんは進む。確かに条件は揃った。申し分ないくらいに。あまりの急転直下な展開に、ミエは口を開けて何も言えないでいるのも構わないで。
ようやく意識が手元に戻ってきたのは、黄昏さんが「おーい」とミエの目の前で手を振ってから。

「私、いきなりそんな……」
「ミエさんは受け身だね。そんな人が急に何でもかんでも自分でやるなんて、そりゃ無理だよ。でもそのせいで自分の夢を捨てるのはもったいない。せっかく悩むところまでこれたんだ。この壁は越えてみない?」
「でも、悪いです。黄昏さんのお店なのに」
「僕がいいって言ってんだから。あ、それとも売り上げの心配とか?そこは大丈夫だよ。確かに辺鄙なところに建ってるから、訝しむ気持ちもわかるけど」
「ち、違います。その……、本当にいいんですか?」

窺うように見つめると、黄昏さんは穏やかに微笑んだ。

「ミエさんが淹れてくれたお茶もお菓子も、また食べたいって思ったんだ。はじめる理由としては十分だろう?」

黄昏さんは手を差し出す。
はじめる理由なんて、本当に些細なことでいい。誰かに喜んでもらいたいという、本当に小さなことでも。今この人に喜んでもらえた。それを自分の理由にしてもいいんじゃないだろうか。

今、手を取らないと。きっとずっと後悔する。仕事を続けてやっぱり夢を叶えたかったと後悔するよりも、うまくいかなくて辞めなきゃよかったと後悔するよりも。
伸ばされた手を取らなかったことのほうが、ずっと深い後悔になる。そんな気がする。
ミエはおずおずと、その手を取った。それから頭を下げる。

「よ、よろしくお願いします」

壁を超えた、気がした。ミエにとっては大きな壁を。踏み出すということを遂げた。

「決まり。よろしくね、ミエさん」

黄昏さんはミエの手を上から優しく叩いた。

「今日はもう遅いから泊ってきなよ。雨もひどくなってるしさ」
「えっ」
「こんなぐちゃぐちゃだけど、寝る場所くらいはあるから」
「いや、そうじゃなくて」

―――そんな、会ったばかりの人の家に泊まるなんて。しかも、男の人……。

そんなことを言い出したら、初対面の人に勧誘されたことだって。ミエは絆された自分の至らなさを殴りたくなった。けれど黄昏さんの不思議な雰囲気は、どうしてもそういう現実的な不安を吹き飛ばしてしまう。
絵本を手渡されたからだろうか。安心を約束された気がしたのだ。
散々戸惑ったが、決め手は窓を強く叩く雨だった。風も強い。梅雨の名残が最後の最後で嵐を呼び込んだかのよう。これではさすがに帰るに帰れない。
奥の扉を抜けると廊下があり、左手に台所と水回り系の扉、右手にリビング。まっすぐ前が二階へ通じる階段。その階段を登ると、部屋はあった。二部屋あるうちの一方を案内される。

「風呂とトイレは下。鍵はついてるから安心して」
「す、すみません」
「顔に不安が描いてあるからねえ。別に何もしないよ」

黄昏さんは軽快に笑う。はは、とミエは苦笑を返すしかできない。

「じゃあ僕は店のほうにいるから、何かあったら呼んでね」
「ありがとうございます」
「おやすみ」

穏やかに微笑んでから、黄昏さんはランタンを片手に階下へと降りていった。廊下に電気はなく、しんと静まり返る。まるで古いお屋敷のよう。雨が強く廊下の出窓を叩いた。
ベッドに腰を掛けると、どっと疲れが出た。ミエはそのまま倒れ込み、目をつぶった。人の家なのに安心感があるのは、やっぱり絵本に出てくるような家だからだろうか、懐かしさに包まれているような気持ちになる。
窓を強く叩く音を耳にしながらも。ミエを眠りに落ちて行った。