陽が落ちて、親子は徒歩で去っていった。
目の前で渡り鳥に変身するところを見てみたい気持ちもあったミエは、ちょっとがっかりしつつも見送る。薄らぼんやりとした森の奥へ進んでいく親子の背が見えなくなる。
ぐーっと黄昏さんは伸びをした。足元のイダテンも疲れたように息を吐く。
「じゃあ、僕らも戻ろう」
「今日は散々だったから、俺はもうゆっくり寝たい」
「寝たらいいだろ。双子にミエさんのデザート食いつくされても知らないからな」
「取っておくという優しさがないのか?」
「ないなあ」
言い合いをしながら戻る一歩後ろを、ミエもついて行く。ふと思い立って空を見上げた。二羽の鳥が羽ばたいている。もしかしてあの親子だろうか。控えめに手を振ってみた。もし違うと、それはそれで恥ずかしいから。
けれど二羽のうちの一羽が、急に下降をはじめた。
―――えっ、こっちに来てる?
店に戻ろうとする二人を呼び止めようと振り返った瞬間、強い風が吹いた。耳の傍でまた洗濯物がひるがえるようなばさっという音。強風に目を閉じてしまったミエは、うっすらと開き、すぐに見開き直した。
「お母様?」
鳥の親子の母親が立っている。ちゃんと人間の姿だ。ああ、あの洗濯物のような音は、翼のひるがえる音だったのか。
「まだあなたのお名前を伺っていなかったので。お礼をしたくてもお名前がわからなくちゃ、意味がありませんわ」
丁寧に頭を下げられ、ミエは恐縮した。
「そんな、いいのに。……有堂ミエです」
すると母親鳥は少し目を見開いた。
「ウドウ、ミエ?」
「はい。……あの、前も同じように訊き直されたことがあります。そんなに変ですか?私の名前」
「いいえ、ちっとも」
それから緩く微笑む。
「夕星堂とは、あなたの名前にちなんでつけられたのでしょうね」
「黄昏さんは宵の明星のころに出会ったからと仰っていました。私の名前と関係があるようには思えないんですけど……」
「夕星とは宵の明星を意味します。これは古来からの呼び名の一つです。今度万葉集でも開いてごらんなさい」
「はあ……」
いまいち合点のいかないミエに、母親鳥はさらに付け加えた。
「私は渡り鳥。様々な人と出会ってきました。それこそ異なる言語の方々です。そのうちの一つに、夕星を意味するあなたの名前とそっくりな言葉がありました。おそらく、あの方はそれをご存じでいらしたのでしょう」
「それはどこの国ですか?」
渡り鳥は首を振った。
「国じゃないんですか?」
「もう絶えて久しい幻の種族の言語です。たぶんもう、一人も残っておりません」
「それは、どんな……」
「尽きることのない命を持ち、永遠を生き続ける美しい生き物だと。私も会ったことはございません」
「永遠を生き続ける……」
ミエはわけがわからないながらも、ぞっとした。どうしてそんなことを黄昏さんが知っているのかわからなかったから。
「あの方はそれではないと思います」
ミエの不安を察してか、きっぱりと言い切る。安堵の息を吐いた。渡り鳥はミエの耳元で囁いた。それは確か、本のタイトル。
「よすがに。どうぞお一人で」
ミエは曖昧に頷いた。一冊の本のタイトルは、覚えているかぎり児童文学だった。続編の名も知っている。というか、そちらしか知らない。指輪を捨てる物語だが、長すぎて挫折してしまった。そこに答えがあるのだろうか。
「夕星と黄昏。まるで運命のようですね」
「運命、ですか?」
「黄昏とは薄暮。薄暮がなくては黎明がありません。けれどただ暗いだけでは寂しい。だから星を宿すのです。あなたはあの方の、宵の明星なのでしょう」
「私、そんな……」
ミエは躊躇うように押し黙った。それを見て、渡り鳥が首を傾げる。
「あの方がお嫌いなの?」
「いいえ、違います」
とっさに否定をして、弱弱しく息を吐く。
「私、黄昏さんがよくわかりません。たぶん普通の人間じゃないし、性別だってどちらだかわかりません。普通好きになる相手の性別くらい、わかっていてもいいじゃないですか。それがわからなくて……。でも一番わからないのは、何を考えているのか」
「普通ではないといけないのかしら?」
「え?」
ミエは顔を上げた。渡り鳥は豊かに微笑む。
「普通の基準なんて人それぞれ。私からしたら、あなたたち人間が空を飛ばず二足歩行をしているのが普通だとは思いません。あなたが何と比べて普通ではないと判断しているのかわかりませんが、その普通が気持ちを抑えつけているのなら捨ててしまいなさい。あの方が何を考えているのか、その普通の先にあるのでしょうから」
でも、と言いかけてやめる。またいつもの後ろ向きな考えに支配されてしまうから。だめなのだ。そうやって考え込んで悪い方向にばかり意識を向けていては。
ミエはぎゅっとこぶしを握った。
「私、普通やめます。普通のせいで相手を理解できないくらいなら、いりません。私は私の気持ちで、黄昏さんを理解したい」
言い切ると、ミエの中ですとんと何かが落ちた。そのままでいいと言われて納得していても、どこかでまだ普通を追い求めていた自分。もうやめよう。自分は自分だと気づいた今、相手のこともその人のままわかろう。
渡り鳥はにっこりと微笑んだ。
「いいわね、若くて。羨ましいわ。頑張ってちょうだい」
「あっ、はい。頑張ります!」
じわじわと羞恥が広がる。たぶんもう頬や耳は一目見てわかるくらい色が変わっていることだろう。
渡り鳥は再度飛び立とうと両手を広げた。びゅうと強い風が吹く。思わずまた目を閉ざしてしまい、開いた時にはもうそこには誰もいなかった。
黄昏時の空の上では、鳥が二羽旋回している。一羽の小さな鳥は待ち構えたように大きい一羽の傍によると、そのままどこかへ飛び去ってしまった。
ミエは頭上の空を見上げ、徐々に顔を出す月と星を思い浮かべた。
「あっ、宵の明星!」
いきなり近くで声がして、ミエはぎょっと身を引く。傍にいたのはあの双子だった。
「な、なんて?」
訊き返すと、青い子が遠くの空を指さした。
「金星。宵の明星」
「一番星だよ」
続けて赤い子もそれに倣う。ミエも指先を追って星を探すと、なるほど確かに星が一つ輝いている。
「あそこから二番目に出た星を右に曲がると、ネバーランドだよ」
「でも妖精はせっかちだから目ん玉の中に星を置いておくんだってさ」
ミエは小さく笑った。
「知ってるよ」
微笑を含んだ顔を見上げ、双子はきょとんとする。
「桃は?」
「ちゃんと貰った?」
「うん、たくさんありがとう。これからデザート作るね」
ぴょんと双子は飛び上がり、スキップをはじめた。とはいえ顔は無表情のままなのがおもしろい。
「ねえ、あの桃どこから持ってきたの?」
先を歩く二人の背に向かって問いかける。もう扉を開けようかという時に、双子は同時に振り向いた。
「桃源郷!」
「とんがり耳の死なないやつらの住むところ」
「夕星によろしくってさ」
「……えっ⁉」
訊き返す間もなく双子は店の中に入って消えた。
桃源郷って。仙人の住む異界じゃないか。とんがり耳で不死って、あれか?あれしかないよね。いやでも、桃源郷に住んでいるイメージはないけれど……。どちらかが、ただの例えなのだろうか?
またからかっているのか。それとも本当に大真面目にそこに行って取って来たのか。常識的にあり得ないけど。
―――いや、普通を捨てるって決めたんだ。
これがあの双子の普通なら、ミエの概念を変えるべきところ。ありえないと笑い飛ばすよりもそうなんだと受け入れたほうがずっといい。
「よしっ」
改めて意気込んで、ミエも店の中に戻った。黄昏さんの出迎える笑顔が、ほんの少し和らいで見えた。
目の前で渡り鳥に変身するところを見てみたい気持ちもあったミエは、ちょっとがっかりしつつも見送る。薄らぼんやりとした森の奥へ進んでいく親子の背が見えなくなる。
ぐーっと黄昏さんは伸びをした。足元のイダテンも疲れたように息を吐く。
「じゃあ、僕らも戻ろう」
「今日は散々だったから、俺はもうゆっくり寝たい」
「寝たらいいだろ。双子にミエさんのデザート食いつくされても知らないからな」
「取っておくという優しさがないのか?」
「ないなあ」
言い合いをしながら戻る一歩後ろを、ミエもついて行く。ふと思い立って空を見上げた。二羽の鳥が羽ばたいている。もしかしてあの親子だろうか。控えめに手を振ってみた。もし違うと、それはそれで恥ずかしいから。
けれど二羽のうちの一羽が、急に下降をはじめた。
―――えっ、こっちに来てる?
店に戻ろうとする二人を呼び止めようと振り返った瞬間、強い風が吹いた。耳の傍でまた洗濯物がひるがえるようなばさっという音。強風に目を閉じてしまったミエは、うっすらと開き、すぐに見開き直した。
「お母様?」
鳥の親子の母親が立っている。ちゃんと人間の姿だ。ああ、あの洗濯物のような音は、翼のひるがえる音だったのか。
「まだあなたのお名前を伺っていなかったので。お礼をしたくてもお名前がわからなくちゃ、意味がありませんわ」
丁寧に頭を下げられ、ミエは恐縮した。
「そんな、いいのに。……有堂ミエです」
すると母親鳥は少し目を見開いた。
「ウドウ、ミエ?」
「はい。……あの、前も同じように訊き直されたことがあります。そんなに変ですか?私の名前」
「いいえ、ちっとも」
それから緩く微笑む。
「夕星堂とは、あなたの名前にちなんでつけられたのでしょうね」
「黄昏さんは宵の明星のころに出会ったからと仰っていました。私の名前と関係があるようには思えないんですけど……」
「夕星とは宵の明星を意味します。これは古来からの呼び名の一つです。今度万葉集でも開いてごらんなさい」
「はあ……」
いまいち合点のいかないミエに、母親鳥はさらに付け加えた。
「私は渡り鳥。様々な人と出会ってきました。それこそ異なる言語の方々です。そのうちの一つに、夕星を意味するあなたの名前とそっくりな言葉がありました。おそらく、あの方はそれをご存じでいらしたのでしょう」
「それはどこの国ですか?」
渡り鳥は首を振った。
「国じゃないんですか?」
「もう絶えて久しい幻の種族の言語です。たぶんもう、一人も残っておりません」
「それは、どんな……」
「尽きることのない命を持ち、永遠を生き続ける美しい生き物だと。私も会ったことはございません」
「永遠を生き続ける……」
ミエはわけがわからないながらも、ぞっとした。どうしてそんなことを黄昏さんが知っているのかわからなかったから。
「あの方はそれではないと思います」
ミエの不安を察してか、きっぱりと言い切る。安堵の息を吐いた。渡り鳥はミエの耳元で囁いた。それは確か、本のタイトル。
「よすがに。どうぞお一人で」
ミエは曖昧に頷いた。一冊の本のタイトルは、覚えているかぎり児童文学だった。続編の名も知っている。というか、そちらしか知らない。指輪を捨てる物語だが、長すぎて挫折してしまった。そこに答えがあるのだろうか。
「夕星と黄昏。まるで運命のようですね」
「運命、ですか?」
「黄昏とは薄暮。薄暮がなくては黎明がありません。けれどただ暗いだけでは寂しい。だから星を宿すのです。あなたはあの方の、宵の明星なのでしょう」
「私、そんな……」
ミエは躊躇うように押し黙った。それを見て、渡り鳥が首を傾げる。
「あの方がお嫌いなの?」
「いいえ、違います」
とっさに否定をして、弱弱しく息を吐く。
「私、黄昏さんがよくわかりません。たぶん普通の人間じゃないし、性別だってどちらだかわかりません。普通好きになる相手の性別くらい、わかっていてもいいじゃないですか。それがわからなくて……。でも一番わからないのは、何を考えているのか」
「普通ではないといけないのかしら?」
「え?」
ミエは顔を上げた。渡り鳥は豊かに微笑む。
「普通の基準なんて人それぞれ。私からしたら、あなたたち人間が空を飛ばず二足歩行をしているのが普通だとは思いません。あなたが何と比べて普通ではないと判断しているのかわかりませんが、その普通が気持ちを抑えつけているのなら捨ててしまいなさい。あの方が何を考えているのか、その普通の先にあるのでしょうから」
でも、と言いかけてやめる。またいつもの後ろ向きな考えに支配されてしまうから。だめなのだ。そうやって考え込んで悪い方向にばかり意識を向けていては。
ミエはぎゅっとこぶしを握った。
「私、普通やめます。普通のせいで相手を理解できないくらいなら、いりません。私は私の気持ちで、黄昏さんを理解したい」
言い切ると、ミエの中ですとんと何かが落ちた。そのままでいいと言われて納得していても、どこかでまだ普通を追い求めていた自分。もうやめよう。自分は自分だと気づいた今、相手のこともその人のままわかろう。
渡り鳥はにっこりと微笑んだ。
「いいわね、若くて。羨ましいわ。頑張ってちょうだい」
「あっ、はい。頑張ります!」
じわじわと羞恥が広がる。たぶんもう頬や耳は一目見てわかるくらい色が変わっていることだろう。
渡り鳥は再度飛び立とうと両手を広げた。びゅうと強い風が吹く。思わずまた目を閉ざしてしまい、開いた時にはもうそこには誰もいなかった。
黄昏時の空の上では、鳥が二羽旋回している。一羽の小さな鳥は待ち構えたように大きい一羽の傍によると、そのままどこかへ飛び去ってしまった。
ミエは頭上の空を見上げ、徐々に顔を出す月と星を思い浮かべた。
「あっ、宵の明星!」
いきなり近くで声がして、ミエはぎょっと身を引く。傍にいたのはあの双子だった。
「な、なんて?」
訊き返すと、青い子が遠くの空を指さした。
「金星。宵の明星」
「一番星だよ」
続けて赤い子もそれに倣う。ミエも指先を追って星を探すと、なるほど確かに星が一つ輝いている。
「あそこから二番目に出た星を右に曲がると、ネバーランドだよ」
「でも妖精はせっかちだから目ん玉の中に星を置いておくんだってさ」
ミエは小さく笑った。
「知ってるよ」
微笑を含んだ顔を見上げ、双子はきょとんとする。
「桃は?」
「ちゃんと貰った?」
「うん、たくさんありがとう。これからデザート作るね」
ぴょんと双子は飛び上がり、スキップをはじめた。とはいえ顔は無表情のままなのがおもしろい。
「ねえ、あの桃どこから持ってきたの?」
先を歩く二人の背に向かって問いかける。もう扉を開けようかという時に、双子は同時に振り向いた。
「桃源郷!」
「とんがり耳の死なないやつらの住むところ」
「夕星によろしくってさ」
「……えっ⁉」
訊き返す間もなく双子は店の中に入って消えた。
桃源郷って。仙人の住む異界じゃないか。とんがり耳で不死って、あれか?あれしかないよね。いやでも、桃源郷に住んでいるイメージはないけれど……。どちらかが、ただの例えなのだろうか?
またからかっているのか。それとも本当に大真面目にそこに行って取って来たのか。常識的にあり得ないけど。
―――いや、普通を捨てるって決めたんだ。
これがあの双子の普通なら、ミエの概念を変えるべきところ。ありえないと笑い飛ばすよりもそうなんだと受け入れたほうがずっといい。
「よしっ」
改めて意気込んで、ミエも店の中に戻った。黄昏さんの出迎える笑顔が、ほんの少し和らいで見えた。