「……まあ、もう少し考えてみたら?無期雇用だって決まったわけじゃないし、次の更新までに決めるって期限決めてさ」
「そう、ですよね……」
「ごめんね。うちで働かせてあげたいけど、たぶん今のミエちゃんのお給料よりずっと少なくなっちゃうだろうから」
へへ、と控えめに笑う。
マスターのお店は、確かに小さい。住宅と住宅の間にある喫茶店で、確かどちらかの隣家が地主らしい。
その人の厚意でマスターは店を構えている。言うなればマスターもまた雇われ店主のようなもので、いつ地主から店を撤去しろと言われるかわからない。
そういった意図から彼は六十を越しても一人で営み、誰も雇っていないという。結婚していたかまでは、ミエは知らないが。
「お気持ちだけで嬉しいです。すみません、長居しちゃって」
隣の椅子に置いたかばんを取りつつ立ち上がる。ヒールで疲れていた足が久しぶりに自重を感じてずしりと重たい。
「そういえばこの時間までいるのは初めてだね。陽が長いとはいえ、夜道には気をつけるんだよ」
力なく微笑みを返す。お会計を済ませて、外に出た。
はた、と頬に冷たい雫。
「えっ?」
慌てて店先の軒に引っ込む。顔を上げ、目を丸くした。先ほどまで快晴の終わりを感じさせる夕方の陽で赤らんでいた空が、どんよりと暗く陰っている。雨が降り出していた。
「今日、降るって言ってなかったのに……」
かばんの中に折り畳み傘がないか探る。
梅雨が明けて初夏の到来、とお天気お姉さんは言っていた。だからミエはすっかり信じ込んで、傘を家に置いて行ってしまっていたのだった。
はあ、とため息をついた。
―――まだ降りはじめだし、走って帰れば。
意気込んでかばんを胸に抱え直す。
よし、と一歩踏み出しかけた時、ミエの真横に人が飛び込んできた。ぎょっとして、出しかけた足を思わず引っ込める。
自分と同じように胸の前に荷物を抱え、濡れないように風呂敷のようなもので包んでいる。硬そうな角が布の上から感じられる。
本、のようだ。それもかなりの冊数。
ミエは思わずまじまじと観察してしまう。
雨宿りする場所を探して走っていたのか、息が少し弾んでいるようだ。
後ろで一つに束ねた黒い髪は肩甲骨ほどの長さ。頭の上が霧に吹かれたみたいに水気を孕んでいる。ミエの身長で見えるくらいだから、そこまで背は高くないということ。
といっても、ミエよりは多少はあるけれど。襟のついた白いシャツ。肩先も濡れている。黒か、濃い茶色のパンツにローファー。
学生かと思った。空を見上げたその人の目がミエに向くまでは。
「ご、ごめんなさい。まじまじ見ちゃって」
恥ずかしくなって慌てて謝る。
「いえ」
その人は一言だけ返した。
―――男の子、かな。
髪が長いから、どちらだかわからなかった。こちらを向いた顔はきれいだった。性別を感じさせない目。声もどちらかというとどっちつかずだが、たぶん、男性、のはず。男性であれば少し小柄だから、大学生といっていいくらい。
ほとんど感覚的に、ミエはそう判断した。
軒先に二人で立って空を見上げる。雨足はますます強くなるばかりで、その雨音が逆に沈黙を強調させた。
―――どうせなら、お店に戻ろうかな。
隣の彼も、と思って顔を向けると、向こうもこちらを向いていた。彼は困ったように笑う。
「全然止まないですね」
「本当に……。もしよければ、中で待ちませんか?」
「確かに。そのほうがこいつらにとってもありがたい」
「こいつら?」
すると彼は自分の抱える本を目で示した。
「濡れたら使い物にならなくなってしまうんで」
「じゃあ、入りましょう」
両手の塞がった彼のかわりに戸を押してやる。
すみません、と小さく頭を下げる彼の後ろをミエは追った。
「そう、ですよね……」
「ごめんね。うちで働かせてあげたいけど、たぶん今のミエちゃんのお給料よりずっと少なくなっちゃうだろうから」
へへ、と控えめに笑う。
マスターのお店は、確かに小さい。住宅と住宅の間にある喫茶店で、確かどちらかの隣家が地主らしい。
その人の厚意でマスターは店を構えている。言うなればマスターもまた雇われ店主のようなもので、いつ地主から店を撤去しろと言われるかわからない。
そういった意図から彼は六十を越しても一人で営み、誰も雇っていないという。結婚していたかまでは、ミエは知らないが。
「お気持ちだけで嬉しいです。すみません、長居しちゃって」
隣の椅子に置いたかばんを取りつつ立ち上がる。ヒールで疲れていた足が久しぶりに自重を感じてずしりと重たい。
「そういえばこの時間までいるのは初めてだね。陽が長いとはいえ、夜道には気をつけるんだよ」
力なく微笑みを返す。お会計を済ませて、外に出た。
はた、と頬に冷たい雫。
「えっ?」
慌てて店先の軒に引っ込む。顔を上げ、目を丸くした。先ほどまで快晴の終わりを感じさせる夕方の陽で赤らんでいた空が、どんよりと暗く陰っている。雨が降り出していた。
「今日、降るって言ってなかったのに……」
かばんの中に折り畳み傘がないか探る。
梅雨が明けて初夏の到来、とお天気お姉さんは言っていた。だからミエはすっかり信じ込んで、傘を家に置いて行ってしまっていたのだった。
はあ、とため息をついた。
―――まだ降りはじめだし、走って帰れば。
意気込んでかばんを胸に抱え直す。
よし、と一歩踏み出しかけた時、ミエの真横に人が飛び込んできた。ぎょっとして、出しかけた足を思わず引っ込める。
自分と同じように胸の前に荷物を抱え、濡れないように風呂敷のようなもので包んでいる。硬そうな角が布の上から感じられる。
本、のようだ。それもかなりの冊数。
ミエは思わずまじまじと観察してしまう。
雨宿りする場所を探して走っていたのか、息が少し弾んでいるようだ。
後ろで一つに束ねた黒い髪は肩甲骨ほどの長さ。頭の上が霧に吹かれたみたいに水気を孕んでいる。ミエの身長で見えるくらいだから、そこまで背は高くないということ。
といっても、ミエよりは多少はあるけれど。襟のついた白いシャツ。肩先も濡れている。黒か、濃い茶色のパンツにローファー。
学生かと思った。空を見上げたその人の目がミエに向くまでは。
「ご、ごめんなさい。まじまじ見ちゃって」
恥ずかしくなって慌てて謝る。
「いえ」
その人は一言だけ返した。
―――男の子、かな。
髪が長いから、どちらだかわからなかった。こちらを向いた顔はきれいだった。性別を感じさせない目。声もどちらかというとどっちつかずだが、たぶん、男性、のはず。男性であれば少し小柄だから、大学生といっていいくらい。
ほとんど感覚的に、ミエはそう判断した。
軒先に二人で立って空を見上げる。雨足はますます強くなるばかりで、その雨音が逆に沈黙を強調させた。
―――どうせなら、お店に戻ろうかな。
隣の彼も、と思って顔を向けると、向こうもこちらを向いていた。彼は困ったように笑う。
「全然止まないですね」
「本当に……。もしよければ、中で待ちませんか?」
「確かに。そのほうがこいつらにとってもありがたい」
「こいつら?」
すると彼は自分の抱える本を目で示した。
「濡れたら使い物にならなくなってしまうんで」
「じゃあ、入りましょう」
両手の塞がった彼のかわりに戸を押してやる。
すみません、と小さく頭を下げる彼の後ろをミエは追った。