もう二杯目のミルクティーを飲み終え、ミエははあ、とため息をついた。
カップの底に濾し切れなかった茶葉が沈んで、微かに残った乳白色の雫と絡まって踊っている。
こじんまりしたカウンターの向かい側ではおなじみのマスターがグラスを拭いている。
ミエのため息が聞こえたはずなのに、素知らぬ顔をして。気づいているけれど、あえて何も言わないのかもしれない。
―――私、このままでいいのかな。
思わずまたため息をつきそうになるのを堪えると、かわりにカップを包む両手が強くなった。
「ミエちゃんね」
マスターの呼びかけに顔を上げる。グラスを拭く手元から目線を外し、今はもうミエをじっと見つめている。初老の穏やかな目。ミエはその優しい目で見られると、いつも泣きそうになるのを堪えなくてはならない。今は、いつもよりもっと。
「仕事がつらいなら、辞めたっていいんだよ。無理してまでそこで働かないといけないわけじゃないでしょ?」
「いえ、違うんです」
そっと否定すると、マスターはやや眉間に皺を寄せて次の言葉を待った。
ミエはカップの底に目線を戻す。
「別に今の会社が嫌いなわけじゃないんです。みんないい人だし、仕事だってこなしてると思う」
「だったら……」
「でも次の更新を、迷っていて……」
派遣社員は三か月に一回、契約更新の手続きをしなくてはならない。ただ通知に『次も更新を希望する』にチェックを入れて派遣会社に送ればいいだけ。
その更新の返答期限が、もう明日に迫っていた。
「どうして迷うことがあるのさ」
働いていてつらいと感じないのなら。人が嫌だとか、仕事がわからないとか。そういう複雑な関係性をクリアしているのなら更新したっていいじゃないか。というか、普通の派遣社員ならそうしているはず。他に働きたいところがなければだけれど。
「たぶん、今度の面談で無期雇用のお話が来るかと思うんです。私もう、二年も同じところで続けているから」
「無期雇用って、ほとんど正社員みたいなもんだろ。安心安全、とまではいかないけど、食っていける道が固まったってことじゃないのかい?」
「そうなんです」
「じゃあなんで?」
「それは……」
ミエは一度躊躇うように言葉を飲み込んだ。
「……私、カフェを開くのが夢なんです」
言ってから、ミエはどっと心臓が大きく高鳴る。それからかっかっと顔が熱くなった。
それというのも、今まで自分の秘めた夢を誰かに告げたことはなかったから。なんとなく、無謀な夢は口に出すのは恥ずかしい。それに、こうして実際に自分のやりたいことをしている人を前にしてはなおさら。
マスターはミエの赤くなった顔を見て、合点がいったような笑顔をのぞかせた。イヤミったらしくない、穏やかな微笑。
「今時若い子がおしゃれなカフェを開業するのって、よくあることだろう。俺はいいと思うけどな」
「だからこそなんです」
「何が?」
「成功するのは一握りで、あとは二、三年でお店を辞めちゃうみたいなんです。ひどい時はほんの数か月とか。たくさんお店がある中で、うまくやれる自信がなくて。もしだめだったら、今の会社辞めなきゃよかったって、絶対後悔すると思うんです」
「そんなの、やってみないとわからないと思うけどなあ」
困惑したようにマスターは頭の後ろを掻いた。
―――そんなことわかってる。でも……。
だから、迷っている。
先のことを考えても意味がないことだってわかっている。うじうじ考えてないで、えいやっとやってみるべき。やってみたら、意外とうまくいくかもよ。
そんなの、言うのは簡単だ。
ミエはカップの底に映る自分の不甲斐ない瞳を見た気がして、じれったさと意気地のなさに何度目かのため息をつく。
自分の行き先を決める大事な分岐点。合間に立ってどちらかの道を選ばないといけないとなると、途端に足踏みをしてしまうのが実際のところ。
将来が決まっていて、先まで見えているのなら自分だってこう迷ったりしないのに。それがわからないからこそ悔いのない選択をしたいんだという人と、なるべく安心を得るために道を選びたい堅実な人がいるが、ミエはその間に立ってふらふらしているだけ。
―――悔いのない選択をしたい。でも、失敗したら。
そう思うと、踏みとどまってしまうのだ。
カップの底に濾し切れなかった茶葉が沈んで、微かに残った乳白色の雫と絡まって踊っている。
こじんまりしたカウンターの向かい側ではおなじみのマスターがグラスを拭いている。
ミエのため息が聞こえたはずなのに、素知らぬ顔をして。気づいているけれど、あえて何も言わないのかもしれない。
―――私、このままでいいのかな。
思わずまたため息をつきそうになるのを堪えると、かわりにカップを包む両手が強くなった。
「ミエちゃんね」
マスターの呼びかけに顔を上げる。グラスを拭く手元から目線を外し、今はもうミエをじっと見つめている。初老の穏やかな目。ミエはその優しい目で見られると、いつも泣きそうになるのを堪えなくてはならない。今は、いつもよりもっと。
「仕事がつらいなら、辞めたっていいんだよ。無理してまでそこで働かないといけないわけじゃないでしょ?」
「いえ、違うんです」
そっと否定すると、マスターはやや眉間に皺を寄せて次の言葉を待った。
ミエはカップの底に目線を戻す。
「別に今の会社が嫌いなわけじゃないんです。みんないい人だし、仕事だってこなしてると思う」
「だったら……」
「でも次の更新を、迷っていて……」
派遣社員は三か月に一回、契約更新の手続きをしなくてはならない。ただ通知に『次も更新を希望する』にチェックを入れて派遣会社に送ればいいだけ。
その更新の返答期限が、もう明日に迫っていた。
「どうして迷うことがあるのさ」
働いていてつらいと感じないのなら。人が嫌だとか、仕事がわからないとか。そういう複雑な関係性をクリアしているのなら更新したっていいじゃないか。というか、普通の派遣社員ならそうしているはず。他に働きたいところがなければだけれど。
「たぶん、今度の面談で無期雇用のお話が来るかと思うんです。私もう、二年も同じところで続けているから」
「無期雇用って、ほとんど正社員みたいなもんだろ。安心安全、とまではいかないけど、食っていける道が固まったってことじゃないのかい?」
「そうなんです」
「じゃあなんで?」
「それは……」
ミエは一度躊躇うように言葉を飲み込んだ。
「……私、カフェを開くのが夢なんです」
言ってから、ミエはどっと心臓が大きく高鳴る。それからかっかっと顔が熱くなった。
それというのも、今まで自分の秘めた夢を誰かに告げたことはなかったから。なんとなく、無謀な夢は口に出すのは恥ずかしい。それに、こうして実際に自分のやりたいことをしている人を前にしてはなおさら。
マスターはミエの赤くなった顔を見て、合点がいったような笑顔をのぞかせた。イヤミったらしくない、穏やかな微笑。
「今時若い子がおしゃれなカフェを開業するのって、よくあることだろう。俺はいいと思うけどな」
「だからこそなんです」
「何が?」
「成功するのは一握りで、あとは二、三年でお店を辞めちゃうみたいなんです。ひどい時はほんの数か月とか。たくさんお店がある中で、うまくやれる自信がなくて。もしだめだったら、今の会社辞めなきゃよかったって、絶対後悔すると思うんです」
「そんなの、やってみないとわからないと思うけどなあ」
困惑したようにマスターは頭の後ろを掻いた。
―――そんなことわかってる。でも……。
だから、迷っている。
先のことを考えても意味がないことだってわかっている。うじうじ考えてないで、えいやっとやってみるべき。やってみたら、意外とうまくいくかもよ。
そんなの、言うのは簡単だ。
ミエはカップの底に映る自分の不甲斐ない瞳を見た気がして、じれったさと意気地のなさに何度目かのため息をつく。
自分の行き先を決める大事な分岐点。合間に立ってどちらかの道を選ばないといけないとなると、途端に足踏みをしてしまうのが実際のところ。
将来が決まっていて、先まで見えているのなら自分だってこう迷ったりしないのに。それがわからないからこそ悔いのない選択をしたいんだという人と、なるべく安心を得るために道を選びたい堅実な人がいるが、ミエはその間に立ってふらふらしているだけ。
―――悔いのない選択をしたい。でも、失敗したら。
そう思うと、踏みとどまってしまうのだ。