たった一枚だけ手元に残った写真を、母は探して見せてくれた。朔也(さくや)という名の彼の顔は、陽向にとって随分見慣れたものだったが、何も言わないことにした。
「兄さんが高校を卒業した日、私と撮った写真。まだまだ子どもっぽいでしょ」
 受け取り、写真を見ながら頷く。朔也、つまり凪の顔は、二十二歳のものより幼さが残っている。あどけなく笑う彼の隣には、制服を着た少女が満面の笑顔で並んでいる。
 脳裏に刻み付けるようにじっと写真を見つめる陽向に、母は滲む涙を拭う。
「私にとっては、世界で唯一味方をしてくれる人だった。けれどきっと、遠くない内に犠牲になってしまう。だからね、この子と一緒に生きて、欲を言えば守ってくれますようにって、対になる名前を付けたの」
 朔也と陽向。夜と昼。月と太陽。母はそうイメージしたのだ。
 やがて彼は陽向と再会した。生まれたその日から、彼は自分を見守ってくれていた。今まさに、共に生きている。
「優しそうな人だね」
 そう言って、陽向は写真をそっと座卓に置いた。母は笑って頷き、そっと両手に写真をすくう。
「陽向が生まれた時も、そばにいてくれたの。兄さんだけ」
「覚えてるよ」
 冗談だと思ったのだろう、母は笑いながら指先で涙を拭う。
「俺、指を握ったよね」
 その言葉を聞いて、母は目を丸くした。彼女もはっきりと覚えていた。その時に朔也が自分たちに送った、祝福の言葉も。
「今も見守ってくれてるよ」
 陽向の言葉に、もう止められない涙をぽろぽろと流しながら、母は何度も頷いた。
「私ね、怖かったんだと思う。陽向と二人きりでこの世に残されてるのが、心細くて。けれどこのままじゃ駄目だって、やっと気が付いたよ」
 泣きながら、彼女は陽向を見つめて微笑んだ。
「葛西さんには恩がある。だけど、いつまでも言い成りになっているわけにはいかないもんね。尚更、陽向に罪はないんだから。……あなたが生きてくれているだけで、私は充分なんだから」
 母の決意は重く、温かだった。あらゆるものを、取り戻させてくれた。これからは絶対に大丈夫。陽向は大きく頷いた。

 初めに再会したのと同じ公園で、再び千宙と待ち合わせた。東屋に集合すると、徐に千宙は切り出した。
「私、バイトやめることにした」
 彼女はきっぱりと言った。
「それって駄菓子屋だよな、ばあちゃん大丈夫なのか?」
 陽向が問いかけるのに、彼女は苦笑する。
「そう。うちの駄菓子屋。おばあちゃん、お店を畳む覚悟をしたんだって」
「どうして急に」
 千宙は必死で祖母の店を守っていた。祐司を騙し、陽向を突き放しながらも、肉親が大事にするものに尽くしていたはずなのに。
「おばあちゃん、私がいなくてもお店を回せるって信じてたの。だけど私、陽向について行ってほんの少しだけお店を離れたでしょ。たったの二日だけど、大変だったみたい。それで、私に頼りきりだったって、謝ってくれたの」
 言い難そうに、千宙は視線を伏せる。
「私は、気付いてくれるだけでよかった。だけど、お店はもうお終いにするって。おばあちゃんも、いつまでお店を守っていればいいか分からなかったみたい。すっぱり辞めちゃうって言ってた」
「お店がなくなるのは、そりゃあ残念だけど……。でも、区切りがついたのは、良かったのかもな」
 一度頷き、千宙は上目遣いに陽向を見やる。
「それで、何か別のバイトをしようと思うんだけど……。よかったら、陽向も一緒の所がいいなって」
「俺? 俺がバイトするって」
「そうしたら、学校の外でも会えるし。動機が不純だけど、そうなったら、私は嬉しい」
 千宙からこんな提案をしてくれるなんて思ってもみなかった。素直に喜ばしい。
 だが、彼女が心配しているのは、陽向の事情のことだった。陽向が葛西将吾にアルバイトを禁止されていることを彼女は知っている。その上での提案なのだ。
「やるよ。候補とかある?」
「いいの、陽向。バイトしても」
「母さんには相談しないといけないけど、喜んでくれると思う。許されなくても俺が許す」
「何それ」
 くすくすと千宙が笑うから、陽向もおかしくなって笑ってしまう。葛西の許可なんて必要ない。自分のために、悪いことをするわけじゃないのだ。
 千宙が向こうに手を振るのを見て、振り向いた陽向も手を振った。やけに機嫌の良さそうな調子で、祐司がひらひらと手を振ってやって来る。陽向の向かいの席に彼は腰を下ろした。
「二人で仲良くしてるなあ」
「祐司くん、どうしたの。なんかご機嫌そうだよ」
「そう見える? そんなつもりなかったんだけど」
 祐司は、初めて父親に逆らったのだと言った。
「逆らったっていっても、大したことじゃないよ。親父が千宙ちゃんの話題を出して、あの子は彼氏と別れたのかって聞いてきたんだ。俺のためとはいえ、二人に対してとんでもない台詞だろ。またプレッシャーかけるつもりなのが見え見えだったから、ふざけんなジジイって言ってやった」
 俺も言葉が悪いなあ。付け加えながら、祐司は続ける。
「ぽかーんってしてたよ。俺、我ながら素直で聞き分けの良い息子だったからさ。びっくりしてた、驚嘆ってやつ。あの子らに絶対手出すなって釘さしてきたし、陽向に絡んだりはしないと思うけど。俺がどこまで知ってるか焦ってるのが、なんか痛快だったなあ」
「祐司は、母親に言ったりはしてないのか」
「流石にな。今まで一緒に暮らしてきた親には違いないし。まあ、これ以上陽向や千宙ちゃんにちょっかいかけたら、暴露もやぶさかではないけど」
「頼もしいなあ、祐司くん」
 千宙が笑い、祐司は誇らしそうな顔をする。今は陽向も、彼を小突くのではなく、称えたい気持ちになる。
 もう蝉の鳴き声は聞こえない。明日には、もう新学期が始まってしまう。夏の終わりは寂しいが、寂しくないよう陽向は切り出した。
「あのさ、今度、三人でどっか行かないか」
「どっかって、遊びにってこと?」
「うん。どこかは相談次第だけど」
 千宙だけでなく祐司までが意外なものを見る目で自分を見ている。断られるのかと思ったが、祐司はすぐさま口を開いた。
「行く行く。それにしても、陽向がそういうこと言うなんてなあ」
「うん。なんかすごく意外だった」
「じゃあいいよ」
「拗ねないでよ。ね、行こ。どこがいい?」
 夏休みが明けた九月の初めの土曜日。みるみる話が決まっていく。
 これからはもう、寂しさを感じることはない。きっとそんな暇もない日常になっていく。信じられる人の隣で、自分の力で歩いて生きていく。大丈夫。この中には、たくさんの人の想いが詰まっているのだから。
 今はもう、見せられるのは、心からの自然な笑顔だった。