理由やきっかけを問われても、惹かれたからとしか説明できない。

 物心がついたときには、私は靴を愛してやまない少女だった。

 靴は種類が豊富だけど特に私が好きだったのは、大人の女性が履いているハイヒールだった。決して頑丈そうには見えないのに、華奢で美しい靴を履いて歩く女性の姿は、まるで世界を切り拓いていく冒険者のようで憧れた。私も大人になったらハイヒールを履いて街を歩くのだと心に決めていた。

 だけど私の身長は常に学年で一番高く、肩幅も広かったせいか、男子たちからは巨人だのゴリラだのとからかわれた。言い返せずに涙する性分ではなかったため真っ向から彼らと喧嘩しているうちに、いつの間にか言葉遣いも仕草もすっかり男らしくなっていた。

 大きくなったのは身長だけではない。私の足のサイズは中学校二年生の時点で二十七センチあり、足甲も厚かったゆえに女物の靴はサイズ展開がないことも多かった。

 ハイヒールは私みたいな男っぽい女には、きっと似合わない。そう思った私は自分が履くことを諦めたが、いつまでも胸を焼き続ける憧れに苦しんだ。

 この気持ちを昇華させるために、デザインも色もすべて自分の理想を敷き詰めた美しい靴をいつか私の手で作りたいという夢を新たに設定した。

 二十四歳。専門学校を卒業してから四年、友人が転職や結婚をするという話をちらほら耳にし始めた頃、私は製靴会社で朝から晩まで働きながら夢を叶えるために必死だった。



 街の中から金木犀の香りが消えて、冬の匂いが近づいてきた十一月。

 私が仕事から帰る時間には大抵両親は寝ているが、今日は珍しくお母さんが起きていた。私の分の夕食を温め直してくれたお母さんはテーブル越しに対面に座り、いつもの癖でスマホを触りながら食事をしていた私を注意してから切り出した。

「じいちゃんの家をね、売っちゃおうって話になったわ」

 もう二ヵ月も前になる。田舎で一人暮らしをしていたじいちゃんが死んだ。

 七十一歳、つい一年前までは現役の漁師として毎日海に出て、若人顔負けの仕事ぶりをしていたじいちゃんも病気には勝てず、あっという間に帰らぬ人となった。

 私は超がつくほどのじいちゃん子だった。だから訃報を聞いたときも葬式のときも干からびるほどに泣いた。四十九日を過ぎてようやく落ち着いてじいちゃんの話ができるようになってきたというのに、こんな話をされたらまた涙が出そうになってしまうではないか。

「えー……私は反対だな。じいちゃんとの思い出が消えちゃうっていうかさー」

「だったら(よう)があの家を相続してくれるの? 無理でしょ?」

 言い返すことのできない私は、味のしみ込んだ里芋を口に入れて黙った。

 社会人として荒波に揉まれている真っ最中である私の生活の基盤は出来上がっていて、じいちゃんの家がある宮城県に移住することは難しい。だからといって、住みもしない家の税金だけ払い続けるのはもっと嫌だ。

「それでね、こっちが本題なんだけど」

 一度居間を出て行ったお母さんは、戻ってくるなり一通の通帳を私の前に置いた。通帳に記載されている『岸谷(きしたに)太志(たいし)』という名前はじいちゃんの本名だ。

「じいちゃんの遺産ってこと? 相続のルールとかそういうの私よくわかんないから、お母さんに全部任せるって前に言ったじゃん」

「……まあ、いいから額を見てちょうだい」

 孤児だったじいちゃんには親族はおらず、ばあちゃんは私が産まれる前に他界している。子はお母さん一人しか授からず、孫も私一人だ。そう考えると、じいちゃんの人生は少し寂しいものだったのかもしれない。

 少しだけしんみりしながら通帳を開いた私は、そのまま目玉を落としそうになった。

「……嘘でしょ? こんなにあんの!?」

 声に出してしまった後で慌てて口を塞いだ。壁に耳あり、障子に目あり。宝くじが高額当選すると変な勧誘がひっきりなしに来たり、知らない親戚が急に増えたりすると聞いたことがある。今までの人生では無縁すぎて脳味噌の端っこの方に仕舞われていた情報が、緊急事態により叩き起こされたようだ。

「な、なんだこれ? どういうこと? じいちゃんってただの漁師だったんじゃないの?」

 じいちゃんの家は古い木造の平屋だし、服や家具からも裕福な印象は全く受けなかったため、予想を遥かに上回る遺産の額に驚く以外のリアクションができなかった。

「漁師としてコツコツ貯めたお金なのか、宝くじでも当てたのか……それはお母さんも知らないわよ。それより、一億はあんたにあげるから使い道だけしっかり考えておきなさい」

 あまりにも都合のいい夢のような話だ。急にそんな夢物語の主人公になった人間は、喜びよりも先に驚愕と戸惑いから激しく動揺するのだと知った。

「……え? だ、だって、え? 一億?」

「お父さんとお母さんは老い先もそんなに長くないし、五千万もあったら十分すぎるほどに余生を楽しめるのよ。どうせお母さんたちが死んだらお金は曜にいくんだし、好きなように使いなさい」

 普段友人と酒を飲んでいるときなんかは大金の使い道なんていくらでも思いつくというのに、今はただただ放心するばかりだった。

「お母さんとしてはね、働かなくてもいいとまでは言わないけれど……今の仕事、大変なんでしょう? もう少し楽な仕事に転職して欲しいなとは思ってる。いくら男勝りでも一応女の子なんだし……そんなに必死になって働かなくても、結婚して家庭に入るっていう生き方もあるのよ?」

「……女だからってそういう風に言われるのは嫌だって、前から言ってるよね? 私は靴が好きだし、今の仕事は忙しいけどやりがいがあると思って働いているんだから、口出しはしないでほしい」

 お母さんが私のことを案じていることはわかっているけれど、この手の話は日頃から頻繁にされて辟易しているので反射的に言い返していた。

「……ごめん、言いすぎた」

「……ううん、お母さんも悪かったわ。でも、曜のためにじいちゃんが人生の選択肢を増やしてくれたものだと思って、よく考えてみて。おやすみ」

 お母さんは席を立ち、居間から出て行った。一人になった私はテーブルの上に残された通帳をもう一度開き、嘘みたいな九桁の数字を再確認しながらじいちゃんのことを思った。

 私はじいちゃんのたった一人の孫で、それはもう大いに可愛がられた。欲しいものはなんだって買ってもらえたし、遊びに行けばお腹がはち切れるまで美味しいものを食べさせてもらった。

 じいちゃんは若者文化に精通している珍しい老人だった。スマホでエロ動画を鑑賞し、SNSに釣った魚や調理後の写真をアップし、サブスクで流行りの音楽を聴いているような人だった。パソコンは当然のように自作だし、iPhoneが日本に上陸したときは真っ先に手に入れて使いこなしていた。

「個性的なおじいさんだね」と言われた回数はキリがないし、「イタいじいさんだな」と陰口を叩いてきた人もいたけれど、誰がなんと言おうと私はじいちゃんが大好きだった。

 じいちゃんの好きなところはたくさんあるけれど、その中で一番を選べと言われたら仕事に対する姿勢だと答えたい。

 漁師をしていたじいちゃんは晩年まで弟子を取らずに単身で船に乗り、長年の経験で培われた勘を駆使して魚を獲っていた。自分の腕に矜持と拘りを持って収入を得る生き方に、私は強い憧憬の念を抱いてきた。

 通帳を置いて小さく息を吐いた。時計を見ると日付が変わってから三十分が経っていた。

 明確な夢を持つ私は、夢に向かって真っ直ぐ針路を進んできた。やりたい道に進んだことをお母さんも理解しているはずだ。だが七時には家を出る娘がこんな時間に帰ってくる日々が数年も続けば、親としては退職を薦めたくもなるか。

 自分の手で理想の靴を作るためには、デザインから製作まですべての工程を一人でやれる靴職人にならなければならない。現段階における私の最優先に達成すべき目標だ。

 その次に掲げている目標は、じいちゃんのように自分の腕一つで収入を得る生き方――つまり、自分の店を持つことだった。

 製法から商品企画まで総合的に靴作りを学べる靴作りの専門学校を卒業した私は、新卒切符を片手に靴の製造と販売を行う『ジャンティ』という製靴会社に入社した。

 だが、やる気に満ち溢れるフレッシュマンだった私は、入社してすぐに「こんなはずじゃなかった」と頭を抱えることになった。靴作りのできる開発部での採用だったはずなのに、人手が足りないということでいつの間にか営業に回されたのだ。

 しかもこの会社では靴製作において担当できるのは企画立案とデザイン作成までで、本格的な製造は提携している外部の職人に任せていることまでわかった。会社説明会時の業務内容とはあまりにも剥離していて、本気で会社を訴えてやりたくなった。

 自分の手で靴を作り上げたいという欲はどんどん強くなってはいたものの、毎日の仕事に忙殺されて退職も転職も考える余裕なんてなくなっていた。

 彼氏だの結婚だの浮ついた話もなく、男の上司に上手く甘える要領の良さもなく、同僚に弱い一面を見せることもできず、ただひたすらがむしゃらに仕事に取り組んできた結果、いつの間にか付けられていたあだ名は『社畜ノッポ』だ。

「……こうして振り返ってみると、ろくでもない会社だな……」

 とはいえ、愚痴はいくらでも出るけれどやりがいがあるというのは嘘ではないし、自分のやってきた仕事は胸を張って人様に自慢できるものばかりだ。

 だけど今、目の前に提示された二つの選択肢を前に、大きな迷いが生じていた。

 夢を叶えるために、退職して自分の店を出すタイミングは今なのだろうか。

 必要とされている今の会社でもう少し経験を積んでからでも遅くないのではないか。

 ハッとして再び時計を見た。いけない、考え事に集中している場合じゃない。明日も早いし、さっさと夕食を済ませて風呂に入って休まなくては。

 お母さんが作ってくれた煮物をかき込んで飲み込むと、優しい栄養が疲れた体に染み渡っていくようだった。