理由やきっかけを問われても、惹かれたからとしか説明できない。
物心がついたときには、私は靴を愛してやまない少女だった。
靴は種類が豊富だけど特に私が好きだったのは、大人の女性が履いているハイヒールだった。決して頑丈そうには見えないのに、華奢で美しい靴を履いて歩く女性の姿は、まるで世界を切り拓いていく冒険者のようで憧れた。私も大人になったらハイヒールを履いて街を歩くのだと心に決めていた。
だけど私の身長は常に学年で一番高く、肩幅も広かったせいか、男子たちからは巨人だのゴリラだのとからかわれた。言い返せずに涙する性分ではなかったため真っ向から彼らと喧嘩しているうちに、いつの間にか言葉遣いも仕草もすっかり男らしくなっていた。
大きくなったのは身長だけではない。私の足のサイズは中学校二年生の時点で二十七センチあり、足甲も厚かったゆえに女物の靴はサイズ展開がないことも多かった。
ハイヒールは私みたいな男っぽい女には、きっと似合わない。そう思った私は自分が履くことを諦めたが、いつまでも胸を焼き続ける憧れに苦しんだ。
この気持ちを昇華させるために、デザインも色もすべて自分の理想を敷き詰めた美しい靴をいつか私の手で作りたいという夢を新たに設定した。
二十四歳。専門学校を卒業してから四年、友人が転職や結婚をするという話をちらほら耳にし始めた頃、私は製靴会社で朝から晩まで働きながら夢を叶えるために必死だった。
街の中から金木犀の香りが消えて、冬の匂いが近づいてきた十一月。
私が仕事から帰る時間には大抵両親は寝ているが、今日は珍しくお母さんが起きていた。私の分の夕食を温め直してくれたお母さんはテーブル越しに対面に座り、いつもの癖でスマホを触りながら食事をしていた私を注意してから切り出した。
「じいちゃんの家をね、売っちゃおうって話になったわ」
もう二ヵ月も前になる。田舎で一人暮らしをしていたじいちゃんが死んだ。
七十一歳、つい一年前までは現役の漁師として毎日海に出て、若人顔負けの仕事ぶりをしていたじいちゃんも病気には勝てず、あっという間に帰らぬ人となった。
私は超がつくほどのじいちゃん子だった。だから訃報を聞いたときも葬式のときも干からびるほどに泣いた。四十九日を過ぎてようやく落ち着いてじいちゃんの話ができるようになってきたというのに、こんな話をされたらまた涙が出そうになってしまうではないか。
「えー……私は反対だな。じいちゃんとの思い出が消えちゃうっていうかさー」
「だったら曜があの家を相続してくれるの? 無理でしょ?」
言い返すことのできない私は、味のしみ込んだ里芋を口に入れて黙った。
社会人として荒波に揉まれている真っ最中である私の生活の基盤は出来上がっていて、じいちゃんの家がある宮城県に移住することは難しい。だからといって、住みもしない家の税金だけ払い続けるのはもっと嫌だ。
「それでね、こっちが本題なんだけど」
一度居間を出て行ったお母さんは、戻ってくるなり一通の通帳を私の前に置いた。通帳に記載されている『岸谷太志』という名前はじいちゃんの本名だ。
「じいちゃんの遺産ってこと? 相続のルールとかそういうの私よくわかんないから、お母さんに全部任せるって前に言ったじゃん」
「……まあ、いいから額を見てちょうだい」
孤児だったじいちゃんには親族はおらず、ばあちゃんは私が産まれる前に他界している。子はお母さん一人しか授からず、孫も私一人だ。そう考えると、じいちゃんの人生は少し寂しいものだったのかもしれない。
少しだけしんみりしながら通帳を開いた私は、そのまま目玉を落としそうになった。
「……嘘でしょ? こんなにあんの!?」
声に出してしまった後で慌てて口を塞いだ。壁に耳あり、障子に目あり。宝くじが高額当選すると変な勧誘がひっきりなしに来たり、知らない親戚が急に増えたりすると聞いたことがある。今までの人生では無縁すぎて脳味噌の端っこの方に仕舞われていた情報が、緊急事態により叩き起こされたようだ。
「な、なんだこれ? どういうこと? じいちゃんってただの漁師だったんじゃないの?」
じいちゃんの家は古い木造の平屋だし、服や家具からも裕福な印象は全く受けなかったため、予想を遥かに上回る遺産の額に驚く以外のリアクションができなかった。
「漁師としてコツコツ貯めたお金なのか、宝くじでも当てたのか……それはお母さんも知らないわよ。それより、一億はあんたにあげるから使い道だけしっかり考えておきなさい」
あまりにも都合のいい夢のような話だ。急にそんな夢物語の主人公になった人間は、喜びよりも先に驚愕と戸惑いから激しく動揺するのだと知った。
「……え? だ、だって、え? 一億?」
「お父さんとお母さんは老い先もそんなに長くないし、五千万もあったら十分すぎるほどに余生を楽しめるのよ。どうせお母さんたちが死んだらお金は曜にいくんだし、好きなように使いなさい」
普段友人と酒を飲んでいるときなんかは大金の使い道なんていくらでも思いつくというのに、今はただただ放心するばかりだった。
「お母さんとしてはね、働かなくてもいいとまでは言わないけれど……今の仕事、大変なんでしょう? もう少し楽な仕事に転職して欲しいなとは思ってる。いくら男勝りでも一応女の子なんだし……そんなに必死になって働かなくても、結婚して家庭に入るっていう生き方もあるのよ?」
「……女だからってそういう風に言われるのは嫌だって、前から言ってるよね? 私は靴が好きだし、今の仕事は忙しいけどやりがいがあると思って働いているんだから、口出しはしないでほしい」
お母さんが私のことを案じていることはわかっているけれど、この手の話は日頃から頻繁にされて辟易しているので反射的に言い返していた。
「……ごめん、言いすぎた」
「……ううん、お母さんも悪かったわ。でも、曜のためにじいちゃんが人生の選択肢を増やしてくれたものだと思って、よく考えてみて。おやすみ」
お母さんは席を立ち、居間から出て行った。一人になった私はテーブルの上に残された通帳をもう一度開き、嘘みたいな九桁の数字を再確認しながらじいちゃんのことを思った。
私はじいちゃんのたった一人の孫で、それはもう大いに可愛がられた。欲しいものはなんだって買ってもらえたし、遊びに行けばお腹がはち切れるまで美味しいものを食べさせてもらった。
じいちゃんは若者文化に精通している珍しい老人だった。スマホでエロ動画を鑑賞し、SNSに釣った魚や調理後の写真をアップし、サブスクで流行りの音楽を聴いているような人だった。パソコンは当然のように自作だし、iPhoneが日本に上陸したときは真っ先に手に入れて使いこなしていた。
「個性的なおじいさんだね」と言われた回数はキリがないし、「イタいじいさんだな」と陰口を叩いてきた人もいたけれど、誰がなんと言おうと私はじいちゃんが大好きだった。
じいちゃんの好きなところはたくさんあるけれど、その中で一番を選べと言われたら仕事に対する姿勢だと答えたい。
漁師をしていたじいちゃんは晩年まで弟子を取らずに単身で船に乗り、長年の経験で培われた勘を駆使して魚を獲っていた。自分の腕に矜持と拘りを持って収入を得る生き方に、私は強い憧憬の念を抱いてきた。
通帳を置いて小さく息を吐いた。時計を見ると日付が変わってから三十分が経っていた。
明確な夢を持つ私は、夢に向かって真っ直ぐ針路を進んできた。やりたい道に進んだことをお母さんも理解しているはずだ。だが七時には家を出る娘がこんな時間に帰ってくる日々が数年も続けば、親としては退職を薦めたくもなるか。
自分の手で理想の靴を作るためには、デザインから製作まですべての工程を一人でやれる靴職人にならなければならない。現段階における私の最優先に達成すべき目標だ。
その次に掲げている目標は、じいちゃんのように自分の腕一つで収入を得る生き方――つまり、自分の店を持つことだった。
製法から商品企画まで総合的に靴作りを学べる靴作りの専門学校を卒業した私は、新卒切符を片手に靴の製造と販売を行う『ジャンティ』という製靴会社に入社した。
だが、やる気に満ち溢れるフレッシュマンだった私は、入社してすぐに「こんなはずじゃなかった」と頭を抱えることになった。靴作りのできる開発部での採用だったはずなのに、人手が足りないということでいつの間にか営業に回されたのだ。
しかもこの会社では靴製作において担当できるのは企画立案とデザイン作成までで、本格的な製造は提携している外部の職人に任せていることまでわかった。会社説明会時の業務内容とはあまりにも剥離していて、本気で会社を訴えてやりたくなった。
自分の手で靴を作り上げたいという欲はどんどん強くなってはいたものの、毎日の仕事に忙殺されて退職も転職も考える余裕なんてなくなっていた。
彼氏だの結婚だの浮ついた話もなく、男の上司に上手く甘える要領の良さもなく、同僚に弱い一面を見せることもできず、ただひたすらがむしゃらに仕事に取り組んできた結果、いつの間にか付けられていたあだ名は『社畜ノッポ』だ。
「……こうして振り返ってみると、ろくでもない会社だな……」
とはいえ、愚痴はいくらでも出るけれどやりがいがあるというのは嘘ではないし、自分のやってきた仕事は胸を張って人様に自慢できるものばかりだ。
だけど今、目の前に提示された二つの選択肢を前に、大きな迷いが生じていた。
夢を叶えるために、退職して自分の店を出すタイミングは今なのだろうか。
必要とされている今の会社でもう少し経験を積んでからでも遅くないのではないか。
ハッとして再び時計を見た。いけない、考え事に集中している場合じゃない。明日も早いし、さっさと夕食を済ませて風呂に入って休まなくては。
お母さんが作ってくれた煮物をかき込んで飲み込むと、優しい栄養が疲れた体に染み渡っていくようだった。
◇
仕事にやりがいがあるといっても、会社に行きたくて仕方がないのかと問われればそれはまた別の話だ。出社したくないと思うのは毎朝恒例のことだが、今日は特に強く拒否反応が出ている。その理由は至極単純だった。
「……はあー……行きますか!」
口に出して気合いを表明しなければ足が重くて動かないくらい、苦手な職人のいる取引先を訪問する日だったからだ。
『ジャンティ』のオリジナルシューズは、新商品案が社内会議を通った後は外部に試作品製作を依頼する方針をとっている。職人が靴
を完成させたら、整形科の医師やシューフィッター、そして実際に履いてもらって感想と意見を伺う提携先の現場の人たちと一緒にフィッティングを行う。問題ないとすべての関係者からGOサインが出て初めて、生産に入るのだ。
今日は取引先に依頼した靴を取りに行かなければならない日だ。営業に行くときの戦闘靴と決めている黒い牛革のオックスフォードシューズに履き替え、会社を出た。
私は会社にスカートを履いてきた試しがない。私が女らしい格好をしないのは似合わないというのが一番の理由だが、他にもある。
男女平等社会と謳われて、国が女性の社会進出のために色々と尽力しているのは知っている。一昔前に比べたら働きやすい世の中になったのは間違いないと、数少ない女の先輩たちは言う。
それでも、職人の世界は今も昔も男のものであり、靴職人も例に漏れない。今から会う取引先の職人なんてまさに、男尊女卑の思考を持つ典型的な男だ。女だからと言って見くびられるわけにはいかない。
「こんにちはー! ジャンティの夏目です! 新村さーん! 入りますよー!」
工房の扉付近で待っていてもその人が出てきてくれたことなど一度もなく、私の方から作業場まで出向くのが慣例となっていた。煙草の煙が充満された作業場に足を踏み入れると、靴職人――新村さんの動く背中が見えた。
新村さんは木型にデザインを乗せて型紙を設計していた。足を包む甲革の原型となる型紙は、木型とともに設計の要となる。重要な工程の最中に邪魔するわけにはいかないと思い、新村さんが作業を終えるのを大人しく待つことにした。
長年の靴作りの勲章とも言える太く硬い指先が引く線は、正確無比で迷いがない。今まで様々な会社の靴職人を見てきたが新村さんの技術は本当に傑出していて、私はいつの間にかその動きに見入っていた。
鉛筆を置いた新村さんが煙草に火を点けたタイミングで、私は丁寧に頭を下げた。
「お世話になっております。ジャンティの夏目です。先日依頼した靴を引き取りに伺いました」
新村さんは挨拶を返すこともなく、作業台の隣に乱雑に積み重ねられた箱の上から二段目を引き抜き、中を確認して眉間に皺を寄せた。
「依頼通りに作ったけどよぉ、ハッ、こんな靴が売れるとは思えねえけどな。あれかい? 最近じゃあ男とか女とか意識しねえ靴が流行ってるっていうけど、お前の男みてえなナリもそういう流行りに乗ってるのか?」
また始まった。脳内の私はすでにこの翁を拳一つでKO済みなわけだが、現実は社会人として笑顔を浮かべておくに留めた。
「性別を限定しない物品のことをユニセックスっていうんです。古い人間だからといって、新しいモノを拒否する固い頭は創作者としてどうかと思いますけど」
だからと言って、嫌味に対して言い返すことを我慢するほど私は成熟していない。新村さんは煙草を燻らせながらニヤリと口角を上げた。
新村幸助。御年七十三歳のこの小柄な翁は、家族で営む小さな町工房で今もなお現役で働く靴職人だ。高度経済成長期からずっと靴職人として生計を立ててきた人で、国内に弟子を数多く持つ靴作りの第一人者であり、有名人でもある。
しかしじいちゃんとは違って、おおらかさもユーモアもないとても気難しい老人だ。まあ、たった一人の孫娘の祖父という立場と、取引先にいる生意気な小娘の相手をしなければならない立場の違いを考えれば、私に対する態度に差は出て当然なんだけど。
「昔ながらの気難しい職人さんだから、ペコペコ頭を下げていればいいんだ」と上司は言うけれど、私の負けず嫌いな性分がそうさせてくれない。そもそも、私だって好きでこんなに生意気な口を利いているわけでも、悪態をつきたいわけでもない。
ただどうしても、私個人や女性全般を見下して自分の価値観を押しつけてくるこの頭の固い老人と話していると、反抗心がメラメラと燃え上がり抑えきれないのだ。
結果、毎度吹っ掛けられた喧嘩を買ってしまって打ち合わせ時間を大幅にオーバーし、帰社後に上司に小言を言われるまでがデフォルトになっている。
「デザインしたのお前だろ? 女が作る靴なんて信用ならん。今からでも男に描き直させた方がいいんじゃねえのか?」
「だーかーらあ! 偏見はやめてくださいよ! 企画書をご覧のうえで製作にご了承いただいたものだと思っておりましたが?」
企画書を見せたときにも散々こき下ろしてきたのに、まだ言うか。今日も帰りは遅くなってしまいそうだ。
「うるせえ若造が、黙ってろ。大体、お前んとこの会社はいつも見栄えばかりに気を取られて、靴の本質をわかってねえ。靴はあくまで足のサポートなんだよ。そんなこともわからねえから、いつまでたっても中小企業でお前の給料も上がんねえんだよ」
だけど本質を突いてくるというか、肯定せざるを得ない発言もまた多いのが、新村さんをただの老害の一言で片付けさせてはくれない。
「ぐっ……ちなみに、私の給料は新村さんがもっとウチに納品してくれたら、確実に上がるんですけど」
「あ? 生意気な口利くなボケ。俺にとやかく言われたくなかったら、早く俺を認めさせる靴を持って来いってんだ」
新村さんに白煙を顔に吹きつけられ、私のストレス値は最高潮に達した。
帰社してからも、荒くれだった心の波はちっとも静まりそうになかった。
「……文句あるなら同行しろっつーんだよ、クソ上司……!」
「でも、新村さんは絶対に担当を変えろって言ってこないじゃないですか。夏目先輩は気に入られているんですよ」
休憩室で爆発寸前の苛々をコーヒーと一緒に胃の中に流そうと躍起になっている私の隣で、ミルクティーを片手に相槌を打っているのは後輩の廣瀬だ。
身長が一七五センチある私とは違って小柄で童顔な廣瀬は、学生に間違われることも多い。男の比率が高いこの職場における数少ない同性の後輩であり、ずっと私を慕って懐いてくれる可愛いやつだ。
「新村さんに気に入られるだけで給料が上がるなら、私のストレスも少しは減るんだろうけど……あー、一度ストライキでも起こしてみるか……」
余程渋い顔をしていたのか、廣瀬は苦笑いを浮かべていた。
「そんなこと言いながらも、先輩はいつもバリバリ仕事して男性陣よりもずっといい業績上げているじゃないですか。本当に格好良くて、憧れます。わたしも先輩みたいになれたらなって思いますもん」
「廣瀬が私みたいなガサツ女になったら、それこそ男たちの暴動が起こるよ」
アイドル顔負けの器量の良さに庇護欲をそそる性格もあって、廣瀬は社内の男たちから圧倒的な人気がある。そんな彼女が私のように口が悪く、飲み会では誰よりも飲み食いし、会社で仮眠するときには涎を垂らして寝るような女になってしまったら、新卒から定年間際のおっさんまで阿鼻叫喚になるだろう。
「……夏目先輩、あの……少しお時間いただけますか? 相談したいことがあって……」
何か言いたそうにモジモジする廣瀬を見て、私は腕時計を一瞥した。
「ん、いいよ。ただし、休憩時間は残り七分しかないから五分以内ね」
こうやって制限時間を設けるのには理由がある。廣瀬が「相談」と言ったときの九割は話を聞いてほしいだけの愚痴なので、長引く傾向にあるからだ。
「わたし、午前中に林田さんの営業に同行したんです……訪問したアーク社の担当者、すごく物腰の柔らかい良い人だったんですけど……林田さんとばかり話して、わたしとは一切打ち合わせをしようとはしなかったんです。これって、内心でわたしのこと使えないお飾り女だって思っているってことですよね?」
「なんでそんなにネガティブなの。アーク社の営業担当は林田さんなんだから、先方が林田さんと打ち合わせを進めるのは当たり前だって。廣瀬のことは『新人が勉強してるんだな』くらいにしか思ってないよ」
私の言葉は届いていないのだろうか、廣瀬は大きな溜息を吐いて俯いた。
「はあ……元々ない自信が、ゼロになりました。きっとわたし、この仕事向いていないんですよ」
「そんなに落ち込むなって~。入社して一年目のペーペーが一丁前に弱音を吐くなんて、百年早いからね?」
デザインセンスがあると評され、どんな仕事も器用にこなす廣瀬は将来有望な新卒だと思うのだが、自分に自信がない超ネガティブ人間で扱いが面倒臭いのが難点だった。
「そう言われましても……わたしは先輩みたいに強くないんですよ。はあ……先輩はどうしてそんなに頑張れるんですか?」
廣瀬はそう言うけれど、私だって決して強い人間ではない。わりと頻繁に落ち込むし、挫けそうになるし、会社を辞めたいと思った回数は両手では到底数えきれないし、今だって廣瀬の言葉に苛立ちを覚えなかったと言えば嘘になる。
だけど、強い人間であろうとする努力はしているつもりだ。
好機や幸運はいつだって、前向きに正しい努力をしている人間のところにやって来ると信じているから。
「どうしてって……私は靴が好きだし、いい靴を作りたいからね。それ以外に理由なんてないよ」
ありきたりな回答がお気に召さなかったのか、廣瀬は唇を尖らせていた。まあこれは建前で、理想の靴を自分の手で作りたいからという本当の理由は、恥ずかしいので社内の人間に言うつもりはない。
「それより廣瀬、昨日の会議も極力目立たないようにしてたでしょ。もっと積極的に声を上げていかないと、どんどん窓際に追いやられて本当にお飾りだけの存在になるからね? 廣瀬、女物の看板商品を作りたいって言ってたじゃん。発言力を高めるには出世しないと」
「でも……わたしなんかが意見しても、しょうがないですから」
私はさっきの廣瀬よりも大きな溜息を吐き、頭頂部にチョップをかましてやった。
「何度も言ってるけど、『なんか』と『どうせ』は、私の前ではNGワードだから」
「……はい……す、すみません……」
優しく慰めることもできない私はいつモラハラで訴えられるか懸念しているのだが、廣瀬は文句を言わないどころか慕ってくれるから本当に不思議だ。
「廣瀬はもっと自信持って! この間だって『なんていうかさあ、女性ならではの意見が欲しいんだよねえ』とか言って、ふんわりした無茶売りかましてきた部長の期待に応えて評価上げたわけだしさ」
同じ会議に参加していた私は「女性ならではってなんだよ! っていうか企画書に承認のサインをするのはどうせオッサン連中なんだから良し悪しがわかるわけないだろ!」と胸中で悪態をついていたが、廣瀬は新しいアイデアをその場で発言して部長を満足させた。
夏に素足でもローファーを履けるように裏側に通気性のいい馬の素上げ革を使うなんて、私にはない発想だった。
「は、はい! ありがとうございます!」
慰めの言葉なんてかけられない私でも、正しいと思う言葉を吐いている自信はある。私の本心が廣瀬に届いてやる気に繋がってくれるなら嬉しい。
「じゃあ、先に戻るね。お疲れ様」
飲み干したコーヒーの紙コップを捨てて休憩室を出た。時刻はまだ十五時過ぎだ。仕事はまだ山ほど残っている。
凝り固まった肩を回しながら、私は再び戦場へと戻った。
◇
当然のように休日出勤をした土曜の夜、私は大衆居酒屋で小学校からの友人である夏帆と酒を交わしていた。
「田舎のじいちゃん家を売却ねえ……なんかこういう話していると、あたしらも歳とったんだなって実感するわ」
ちなみに、話したのは家のことだけだ。信頼の置ける知己とはいえ、莫大な遺産の金額については伏せている。
「そりゃ、私らも二十四だしね。でも夏帆とは付き合いが長いからか一緒にいると学生ノリが抜けなくて、自分がまだ中学生なんじゃないかって錯覚する」
「何言ってんのさ。中学生はこんなジジ臭いつまみで酒は飲まないっしょ」
夏帆はテーブルの上に並べられたつまみを見ながらケタケタと笑った。
エイヒレにイカの姿焼き、ホッケに漬物、二十代の女子二人が注文しているとは思えないメニューが並んでいる。私がケーキよりもスルメを、タピオカよりも芋焼酎が好きな女になってしまったのはきっと、家でいつも楽しそうに晩酌をしていたじいちゃんの影響だ。
「はあー……なんでじいちゃん死んじゃったかなあ。あと三十年はくたばらないと思ってたんだけど」
「あんた、相変わらず目つき悪いけど口はもっと悪いね。そんなんじゃモテないよ?」
「別にモテなくていいし。男尊女卑の思想が蔓延る会社で男に負けずに仕事をしていくためには、男勝りじゃないとやっていけないんだって」
「男らしくすることが男に勝つ条件にはならないと思うけど」
口下手な私はこの手の論争で夏帆を言い負かせたことは一度もない。まだ言いたいことはあるがこれ以上続けるのは得策ではないと思い、黙ってエイヒレに手を伸ばした。
「じゃあさ、この機会に独立しちゃったら? じいちゃんの家って宮城でしょ? そっちに移住して靴屋さんやるの。曜、学生の頃から靴職人として自分の店出すの夢だったじゃん」
エイヒレを落とした。ずっと頭の中にあった選択肢の一つを明確に言葉にされただけで、自分でも驚くくらい動揺してしまった。
「……いや、いつかは独立したいって考えてはいるけどさあ……まだ実力も経験も足りないし、今の会社で学ぶことも多いし、もう少し先の話じゃん?」
「そう? あたしには曜のじいちゃんが応援してくれているように思うけどなー。幸か不幸か彼氏もいないわけだし、全然アリでしょ」
夏帆は昔から典型的な「考えるより先に動く」タイプだった。
中学生の頃に一つ上の先輩に一目惚れした夏帆は、出会ってその日のうちに連絡先を聞いて猛アタックを開始した。その後軽く十回以上は告白したらしいが、見事に全部玉砕したらしい。
それでも一切の後悔も未練もないと語る夏帆の顔は清々しく、今や定番の笑い話にできるそのメンタルの強さは見習いたいとすら思っている。
大学生になってからは四年間でいくつ資格を取れるか挑戦したかったらしく、少しでも興味のあるものは片っ端から受験していた。結果、簿記二級やMOSのような履歴書に書ける資格から、チョコレート検定のような就活に全く無関係の資格まで持っている。
今は旅行会社の広報部で働いているが他にやりたいことが多すぎるため、来年には違う職種に転職したいのだそうだ。見ていて危なっかしいところも多々あるけれど、夏帆のパワーには近くにいる私も元気をもらえるというか、いい刺激を受けることが多い。
「……ねえ、夏帆は皮と革の違いって知ってる? 靴の素材には動物の皮が用いられているんだけど、皮には腐食や変色を防ぐ加工を施す必要があってさ。薬品を使ってこの皮を革にする加工工程を『鞣し』っていって、鞣しが施されて初めて、靴を始めとするすべての革製品の材料になるんだ」
「いや、酔ってんの? 知るわけないじゃん」
「だよね、ごめん。やっぱ、一般的には靴の製法なんてどうだっていい話だよね」
私は靴が好きだから歴史も材料も製法も全部知りたいと思うけれど、大抵の人は靴に対して私ほどの愛情を持ってはいない。靴は生活の必需品とはいえ、高級靴を買ったり拘りを持って何足もコレクションしたりするのはごく一部の人間だ。
遠回しな聞き方は性に合わないと実感する。私は小さく息を吸って、夏帆の目を見た。
「百貨店の靴屋とか海外の高級靴を取り扱っている店なんかじゃ、最近は足圧測定器で足にかかる圧力やサイズ、幅、重心を分析して最適の靴を提案したり、3Dプリンターでミッドソールを作ったりするんだってさ。でも私がやりたいのは、お客様の足を手で採寸して木型を削って、自分の目利きで購入した革を手で縫って靴の形にする、昔ながらの伝統的なやり方の店なんだ。……最新技術を持つ大手有名メーカーの中で、た、戦っていけると思う?」
緊張しながら返事を待つ私の心を見透かしたのか、夏帆はふっと笑った。
「……ははーん? あんた、あたしに背中押してほしいんでしょー? ったく、普段は気が強いくせにさー、酔って甘えるのは男の前だけにしろって!」
からかうように肩をつついてくる夏帆から視線を逸らした。図星すぎて何も言えない。
「まあ曜の人生だし、あたしがとやかく口出す立場じゃないけどさ……あたしなら行くかな。人生の転機ってそうそうないと思うし、イイ波が来たら乗っておきたいっていうか」
波というフレーズで、漁師だったじいちゃんのことが思い出された。
高校を卒業するまで、私は夏休みはじいちゃんの家で一週間程度過ごすのが恒例となっていた。田舎は暮らしてみれば不便なところも数多くあると思うけど、子どもが一週間だけ過ごす田舎というのは異常な楽しさがあった。私が行くとじいちゃんも張り切って、山にも海にもたくさん連れて行ってくれた。
それは確か十二歳の夏、じいちゃんの漁船に乗って沖まで釣りに行ったときのことだった。
◆
「じいちゃん。女が釣りを好きだったり、山でカブトムシ捕まえたりするのって変なの?」
「おお? どうした急にそんなこと言って」
「クラスの男子に『女なのに変なの、男みたいだ』って言われた」
「ほおー、そうか、そんなこと言われたんか」
じいちゃんは釣り糸を垂らしながら白い歯を見せた。
「いいか曜。好きなことをやるのに男も女も関係ないぞ。本当に大切なのは性別なんかじゃなく、拘りだと思ってる」
「拘り?」
「そうだ。自分の中に一本の強い芯がある奴は、他人から何を言われてもブレねえんだ。その強い芯は磁石みてえに楽しいことや嬉しいこと、それにいい奴らを引き寄せるから、何をやっても人生が愉快になる。だからじいちゃんは毎日が楽しいんだ。もちろん今、曜といるこの時間もな」
「へー……ってことは、じいちゃんの中には強い芯があるってこと?」
じいちゃんは大きく頷き、しわがれた手で私の頭を撫でた。
強い芯とは一体どういうものなのか、社会人になった今でもまだ理解できないままだ。
◆
「……曜ー? 大丈夫? マジで酔っ払った?」
夏帆の声で我に返った。自覚はなかったけれど、思い出と現実の境目が曖昧になるなんてかなり酔っているのだろうか。
「……いや、平気。これから考えることもやることもいっぱいあるのに、酔ってなんかいられないって」
「そう? 重い腰が軽くなるなら、酔ったフリをしてみるのもいいと思うけどねー」
そう言ってビールを飲む夏帆を横目で見つつ、私も同じようにジョッキを呷った。こうやってアルコールを喜んで摂取できるくらいには、私はもう大人なのだ。
大人には責任が付いて回る。酔っても酔わなくても、決断するのは自分だということだ。
それからしばらくの間、私は四六時中悩んだ。
やらない後悔よりやる後悔。
石の上にも三年。
失敗は成功のもと。
急いては事を仕損じる。
人生の分岐点に立たされた私の頭の中を、先人たちが残してきた数々の言葉が駆け巡ったけれど、どんな金言も結局のところ、自分の中で出ている答えに対して背中を押してほしいから作られたのだと悟った。
私の中ではもう、とっくに答えは出ていたらしい。
――ねえ、じいちゃん。遺してくれたお金、ありがたく使わせてもらうから。
私はじいちゃんの家がある宮城県笹森市に移住し、夢だったオーダーメイドシューズの店を持つことを決めた。
◇
会社を辞めると決めてからは、あっという間に時間が流れた。
退職日までの期間は日々の業務と並行して引継ぎもしなければならない。取引先への挨拶は後任の担当者を連れて、可能な限り出向いて直接挨拶した。新村さんの工房に伺ったときは「考えが甘い」だの「女のくせに出しゃばるな」だの暴言を吐かれるだろうと身構えていたが、たまたま新村さんが長期出張で不在だったため顔を合わせずに済み、正直安堵した。
そしていよいよやって来た退職日当日。廣瀬は私が出社した直後からずっと目に涙を浮かべていた。そんな彼女を見ていたら泣くに泣けなくなってしまい、最終日と言えどいつもと変わらない忙しい一日を過ごした。
「……ついに終わっちゃいました……夏目先輩、本当にお疲れ様でした! でもやっぱり、寂しいです……わたし絶対、先輩の店がオープンしたら行きますから!」
「ありがとう。開店の日取りが決まったらまた連絡するよ。廣瀬も弱音ばっかり吐いていないで頑張りなよ? 四月から入ってくる後輩は廣瀬が率先して引っ張っていってね」
「じ、自信はありませんが……先輩がそう言ってくれるなら、まずは踏ん張って、やれるだけやってみたいと思います!」
廣瀬はネガティブなやつだけど、仕事量が多く残業が当たり前のこの会社で一年頑張ってきたことは紛れもない事実だ。何かあるごとに私を頼ろうとしていた廣瀬も立場が変われば、きっと目を見張るスピードで成長していくだろう。
私の退職に対して嫌みを言う人もいたが幸いにもごくわずかで、大方の人は私の夢を応援すると言ってくれた。送別会では体育会系のノリで私は大いに飲まされ、終わりの挨拶の際には顔に似合わぬ綺麗な花束までもらった。花なんてどう生ければいいのかわからないけれど、皆の気持ちが嬉しくてここで初めて涙した。
勤めたのは四年間という短い時間だったのかもしれないけれど、毎日責任感を持って自分の仕事に全力を尽くして働いた経験は、これからの人生でもきっと糧になるだろうと思った。
「たーだいまあああぁー」
終電を逃してタクシーで帰宅した私は、玄関に座り込んだまま使い古した通勤靴を眺めた。
この黒白バイカラーのウィングチップシューズは、強さの中にも華憐さがあるデザインに一目惚れして就職祝いに両親に買ってもらった、小娘の身の丈に合わない値段の靴だ。
愛着のあるこの靴をゆっくりと脱いで、姿勢を正して座礼した。決して酔っているからではない。四年も一緒に戦ってくれた相棒に最後の挨拶をしたのだ。
私は人生の節目では必ず靴を新調するというマイルールを定めている。つまり、明日から私がこの靴を履くことはないのだ。
――今までありがとう。次のステージでも私、頑張るから。
胸中で感謝の意を告げて床に額をつけたまま眠りこけてしまった私が、起床してきたお母さんにいい年をして叱られたことは言うまでもない。
◇
私はかねてからサイズもデザインも色もすべてお客様一人ひとりの希望に沿った靴を提供できる、いわゆるオーダーメイドシューズの専門店を持ちたいと思ってきた。
既製品を売って利益を得ることがメインとなる商売ではないため、オープン前に大量にオリジナルシューズを製作しておく必要はないとはいえ、店内にある程度のサンプルは置いておかないと営業にならない。オーダーメイドシューズは既製品よりもずっと値の張る靴だ。参考として見た靴サンプルが酷い出来なら、購入する人なんているはずがない。
だから私は退職してからの三ヵ月間、スクールに通ってもう一度靴作りを学び直し、授業以外の時間はすべて靴作りの勉強と製作のために充てた。
専門学校で靴作りを学んで以降、一足の靴を最初から最後まで自分の手で製作するのはおよそ四年のブランクがあった。最初の方に作った靴はとても売りに出せるような代物ではなく相当落ち込んだが、三ヵ月が経とうとする頃に作った靴は概ね満足のいく仕上がりとなり、私の自信を強めてくれた。
そして今日は私にとって運命の日、新たな人生の一歩をいよいよ踏み出す日だ。
コットンと山羊革で作った自作のコンビスニーカーと共にやって来たのは、じいちゃんの家がある宮城県笹森市だ。笹森市は仙台市からローカル線に乗り継いで三十分の距離にある、およそ十二万人が居住する海沿いの町である。自然豊かな土地で、第一次産業を中心に発展してきたと聞いている。
冬の寒さは厳しいらしいが、季節は夏真っ盛りだ。じっとしているだけで汗が滲むよく晴れた七月のこの日、私は生まれ育った東京を離れて笹森市に移住してきたのだった。
引っ越し業者のトラックを見送り、段ボールだらけのだだっ広い古い木造の平屋の中を改めて見渡した。
日に焼けた濡れ縁、古い台所、煙草のヤニで黄ばんだ居間の壁。それらはじいちゃんがいた頃と何も変わらない佇まいで、新しい家主となる私を出迎えてくれた。
私は両手で頬を叩いて、顔を上げた。初っ端からしんみりとしている場合ではない。今日はまだまだやることがたくさんある。和室にある仏壇の前に座り、遺影に向かって手を合わせた。
「じいちゃん……私、ここで頑張るから。応援してよね」
決意を宣言すると、気のせいかもしれないがじいちゃんが笑ったような気がした。
早速菓子折りを持って外へ出た。今日は挨拶回りをしようと決めているのだ。
家と家の間隔の広さに田舎を感じながら、近所を一軒ずつ訪ねて回った。今日挨拶をした人は皆、私がじいちゃんの孫だと知ると好意的な反応を示してくれた。生前のじいちゃんの人柄や人望の厚さを知ることができて嬉しかった。
近所を一周し、残りは隣家の高久さんだけとなった。最初に訪問したときは不在だったけれど、さすがにお隣さんには今日中に挨拶を済ませておきたい。まあ、高久さんご夫妻は私が笹森に遊びに来る度に顔を合わせていたから、顔見知りで気が楽だ。
ご夫妻はじいちゃんより一回り若く、お子さんたちが巣立ってからは二人暮らしをしている。
『高久』と彫られた表札を掲げる一軒家のインターホンを押して反応を待っていると、家の中からドタドタと足音が近づいてきた。「はーい」という高い声と開かれた引き戸から現れたのは、高久さんの奥さんだった。
「ご無沙汰しております、曜です。先日こちらに越してくることは伝えておりましたが、今日無事に引っ越しが終わりましたので、改めてご挨拶に伺わせていただきました」
顔見知りとはいえ、挨拶は真面目にやるべきだ。丁寧に頭を下げると、おば様は笑いながら私の両腕をペタペタと触った。
「曜ちゃん! 曜ちゃんが越してくるのアタシ、楽しみにしてたのよぉ! でもねえ、東京の若い女の子がこんな田舎に来たら刺激が足りなくて飽きちゃうんじゃないかって、心配だわあ。あ、そうそう! 来年この近くにコンビニができるらしいから、今よりちょっとだけ便利になるわよ! ゴミの日はわかる? 今日のごはんは準備してあるの? なにか困ったことがあったら言ってね?」
相変わらずのマシンガントークに圧倒されてしまったものの、歓迎してもらえるのはとても幸せなことだ。
「気にかけてくれてありがとうございます。あのこれ、お口に合えばいいのですが」
持参した菓子折りを差し出すと、おば様は頬に手を当てて嬉しそうに受け取った。
「あらー、ありがとう! 東京のお菓子? お父さんといただくわあ。でも本当、岸谷さんも幸せ者よねえ! こおんな可愛くてしっかり者のお孫さんに慕われて、数多くの女から好かれて、男として理想の人生を謳歌して旅立ったんだから本望でしょうねえ」
岸谷というのはじいちゃんの苗字だ。……いや、そんなことよりも、聞き返さずにはいられない言葉を耳にしたような気がした。
「……あのー、じいちゃんってモテたんですか?」
「あら、知らなかった? そうよお? 端正な顔立ちで、とびっきり優しくて、気が利いていて、知識が豊富でお話も上手だったからねえ。岸谷さんのことを嫌いな女は笹森にはいないんじゃないかしら?」
「そ、そうなんですか。なんだか意外です……」
おば様は昔を懐かしんで目を細めながら、
「ふふ……女ったらしでねえ、顔のいい成人女性なら息をするように口説いちゃうのよ。アタシも当然大好きだったわ! 見向きもされなかったけどね! あはははは!」
「あ、ははは……そ、そうですか……」
身内は少なく、ばあちゃんにも先立たれて寂しい思いをしているだろうなとじいちゃんに同情していたっていうのに。それなりに楽しんでいたのならまあ、良かった。……と、いうべきだろうか?
◇
おば様の世間話は本当に長くて、挨拶回りの順番が最後で正解だったと心から思った。
「ただいまー……」
実家暮らしの癖が抜けず、誰もいない家なのについ帰宅の挨拶を口にしていた。転がっている段ボールを足で除け、居間の電気を点けて床の上に寝転んだ。
溜息を吐くと同時に、腹の虫が鳴いた。来年は近くにコンビニができるとは聞いたが、問題は今どうするかだ。元々料理が不得意な私にとって、コンビニやファミレスが遠いというのは致命的だった。
車は必需品だなと考えながらスマホで近隣の飲食店を検索していると、玄関の引き戸が開く音が聞こえて飛び起きた。
なんだ? 誰か入ってきた? ……いや、警戒するのはまだ早い。田舎の人は勝手に玄関に入ってきて、食べ物やら回覧板やらを置いていくとじいちゃんは言っていた。でも鍵はかけたはずだよね? 合鍵? 泥棒?
途端に血の気が引いていった。男勝りだと言われている私だが一人暮らしの経験はないし、こんな事件性の高い出来事に遭遇するなんて初めてなのだ。手に持っていたスマホですぐに警察に電話が繋がるように準備して、何かあったら逃走できるように忍び足で窓際まで移動した。
近づいてくる足音に息を吞む。その人影を私の目が視認した瞬間、
「あ、家の中が明るいと思ったら、やっぱり人いたあ。こんばんはー」
人懐こい笑顔を見せながら、女性は私に一礼した。
予想とは大きく異なる登場人物と爽やかな挨拶に、私の脳は容易く混乱した。
「えっ……こ、こんばんは。……あの、私はこの家の家主ですが、どちら様ですか?」
まだ不法侵入の疑いが晴れていない相手に対して、随分と淑女な対応をしたものだと自分でも驚く。丁寧に身元を尋ねた私に対して、彼女は信じられない返答を口にした。
「わたし、太ちゃんの彼女です。生前の太ちゃんがこの家をくれる約束をしてくれたんだけど、あなたが家主? ってことは、あなたも太ちゃんの彼女なんですか?」
眩暈を起こしてぶっ倒れそうになりながら、私は女の顔をしっかりと確認した。年は私と同じくらいだろうが、私とは違って引力のある大きな目が印象的な、華やかな容姿をした美人だった。
彼女が手に持っているのは間違いなくこの家の鍵だった。合鍵を持っているということは、じいちゃんとそれなりに親しい仲だったのは嘘ではないらしい。
私は眉根を揉んでから天井を仰いで、冷静になるために深呼吸をして、
――ねえ、じいちゃん。いや……このエロジジイ! 身辺整理くらいちゃんとやってから逝きやがれ!
珍しく、いや、もしかしたら初めてかもしれない。
私は胸中で親愛なるじいちゃんに暴言を吐いたのだった。
ファーストフード店で一杯百円のコーヒーを啜りながら、手元のプリントに大きく「×」と書き込んだ。
今日内見した物件の三つ目、梅山のテナントビルは人通りの多さや広さは申し分なかったのだが、大幅に予算オーバーしてしまう。
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。靴の魅力を十分に伝えられるように靴作りの勉強はしてきたけれど、個人店の開業準備についての知識や経験は私には全くない。無事に開店までこぎ着けられるのか不安に苛まれるがもう後には引けないし、引く気もない。足りない面は根性と行動力でカバーしてやるととうに覚悟は決めている。
このまま別の不動産会社に足を運ぼうと決めて顔を上げた瞬間、見ないようにしていた『ハルキィ』という名前のパチンコ屋が視界に入ってしまい思わず顔を顰めた。
私はパチンコはやらないし、この店で大損をしたとか恨みがあるわけでもない。本当に自分勝手な理由なのだが、ただその店名が気に入らなかっただけだ。
じいちゃんの彼女を名乗る女――桜井陽葵と初めて会った夜が思い出された。
◆
常に動きやすさ最優先のパンツスタイル。一年中変化のない黒髪ボブ。女らしさと女子力は似て異なるものだが、その両方を心身から排除した女がこの私、夏目曜だ。
そんな私とは対照的に、桜井陽葵は容姿だけでも女らしい魅力に溢れていた。
長い睫毛に守られた平行型二重の大きな瞳に、完璧なバランス比で構成された美しい鼻。並びのいい白い歯に、艶のある唇。茶色い長髪をかける耳朶の形までもが完璧に創られていて、私は生まれて初めて同性に見惚れそうになった。
正反対の雰囲気を持つ私たちは、じいちゃん家のテーブルを挟んで向かい合った。見惚れていた己を反省し、主導権を握られまいと警戒心を全開にした私は、相手の一挙手一投足を観察しようと心がけた。
「状況を整理するためにも、まずは互いにちゃんとした自己紹介をしましょう。私は夏目曜といいます。岸谷太志のたった一人の孫です。思い入れのあるじいちゃんの家を売るのが嫌で、東京から越して来て相続しました。で、あなたの名前は?」
冷静に話そうとしても、口調はどうしても刺々しくなってしまう。それでも陽葵は微笑を崩さないまま、甘ったるい声を発した。
「わたしは『大島詩織』っていいます。さっきも言ったけれど、太ちゃん……ううん、あなたのおじいちゃんの彼女です!」
いくらじいちゃんがモテたとはいえ、こんな美人が靡くわけがないだろと思いながらも、あの遺産の額を考えると金に物を言わせて口説き落とした可能性もある。真っ向から否定できないのがもどかしい。
「大島さんですか。歳はいくつですか? じいちゃんの彼女とのことですが、じいちゃんとは一体どこで知り合ったんですか?」
「曜ちゃんと同じ二十四歳だよ。太ちゃんから聞いてたんだぁ、『陽葵と同い年の孫娘がいる』って……あ、大島詩織って源氏名だった。あはは、ごめんねいつもの癖で! 本名は桜井陽葵っていうの。太陽の陽に葵で、はるき。最近だとひまりって読み方が主流みたいなんだけど、わたしはハルキ」
陽葵と名乗った女は、持参していたエコバッグの中から缶ビールを取り出した。私の常識では考えられない行動に唖然としていると、
「わたしのことは陽葵って呼び捨てにしていいよ。わたしも曜ちゃんって呼ぶね! ねえ曜ちゃん、そんな尋問みたいな真似はやめて早くわたしたちの出会いに乾杯しようよ!」
「まだ話は終わってない! っていうか、こんな怪しい相手と酒が飲めるわけないし!」
出会って十分も経たないうちに、私は完全に陽葵のペースに呑まれていた。
陽葵の非常識な態度に説教を試みたものの暖簾に腕押し状態で、気がつけば缶ビールを握らされていた。
「……あなた、私と真面目に話をする気がないよね!?」
「あるよーあるある。源氏名って時点で察していると思うんだけど、わたしはキャバ嬢だったんだよねー。太ちゃんとはお店で出会ったの。紳士的で羽振りが良くて、最高のお客様だったなー」
缶ビールを片手に思い出を語る陽葵には、訝さしか感じなかった。
「……あんたがキャバ嬢だろうが、じいちゃんの彼女だろうが別にどうでもいい。ただ、じいちゃんがあんたにこの家を贈与する話をしていた証拠がないのが問題なんです。物的証拠がない限り、この家は正式な手続きをして相続した私のものになるので出て行ってください」
「ええー? 愛し合っていた二人に証拠を求めるとか、曜ちゃんって太ちゃんの孫娘とは思えないくらい堅いんだね?」
「胡散臭い見ず知らずの女に家を渡すわけがないでしょうが!」
陽葵がいちいち人の神経を逆撫でしてくるので、私の忍耐も限界を迎えようとしていた。
「でも困ったなあ。わたし、曜ちゃんに出ていけって言われたら行くところないんだよね。今日は漫画喫茶か、ビジホか……ううん、お金もないし公園で野宿でもしようかな」
「はあ!? ……まさかあなた、住んでいた家を引き払ってきたの?」
「そうだよー。キャバも辞めてきちゃったから、曜ちゃんに追い出されたら路頭に迷ってのたれ死んじゃうかもしれないよぉー」
わざとらしく泣き真似をする陽葵に苛々しながら頭を掻いた。たとえこの発言が嘘だったとしても、女に一人で野宿するなんて言われたら出ていけなんて言えるはずがない。
「後先考えられないタイプかよ……わかった。じゃあ今すぐにとは言わないから、一週間以内に住む家を見つけて出て行って。いい?」
私はつい悪癖である高圧的で乱暴な口調になってしまったのだが、陽葵は私の態度に言い返すことも怒りを見せることもなく、
「はあい。じゃあ、どの部屋なら使っていい? どこでもいいならわたし、縁側の隣の洋室がいいなー。あそこ、日当たりがいいし隙間風も少ないから好きなんだよね」
穏やかにそう口にしたのだった。冬を見越した発言にこいつは本当に家を探す気があるのかと不安になり、眩暈を起こした。
◆
あの腹黒なのか天然なのか全く読めない笑顔を思い出すと、心に波が立つ。
陽葵に心の中を掻き乱されているのが癪に障り、私は急いでコーヒーを喉の奥に流し込んで席を立った。私がやるべきは陽葵について考えることではなく、自分の店を納得のいく形でオープンさせることだ。そのためにはまず、店舗を構える場所を決めなければ。
ファーストフード店を出た私はパチンコ屋の前を足早に通り過ぎ、駅の方まで歩いた。
◇
くたくたに疲れて家路を辿ると、我が家に近づくにつれて腹の虫を刺激するいい匂いが漂ってきた。負けた気がしなくもないが、つい足早になって帰宅した。
本来一人暮らしになるはずだった私の家で、家族でも友人でも家事代行でもない人間が鼻歌を歌いながら料理をしているだなんて、一週間前の私には想像もできなかっただろう。
「あ、おかえり曜ちゃん。ちょうど炊き込みごはんができたところだよー。筍とか椎茸って食べられるかなあ?」
「……ただいま。私が苦手なのは梅干しとラッキョウ。魚より肉派で、麺より米派」
「おっけーわかった、覚えておくね。すぐ食べられるから着替えてきなよ」
私は素直に陽葵の指示に従って手洗いとうがいを済ませ、部屋着になってから居間の座布団に腰を下ろした。
陽葵を信用していないのも事実。陽葵の態度に腹が立つことも事実。陽葵を追い出したいのも事実。私はこの女が絶対的に好きではない。
しかし困ったことに、陽葵は「自炊なんかできなくたって、食事は男に奢ってもらえるからいいし」とでも言いそうな見た目に反して、本当に料理上手だった。
陽葵と同居を始めて一週間。今思えばこいつの作戦だったのかもしれないが、私が家に帰ると必ず温かい手料理が用意されていた。初めは警戒していた私だが、一口食べてみたときにはもう遅かった。胃袋を掴まれる男の気持ちを身をもって理解してしまった。
日中外にいるときは陽葵には早く出て行ってもらいたいと考えているのに、空腹で帰宅して美味しいごはんが用意されていると、どうにも陽葵に対しての態度が軟化してしまうのだ。
「さっ、食べよ! いただきまーす!」
「いただきます」
具沢山の味噌汁を啜ると、一日中歩き回って汗を掻いた体にちょうどいい塩分が染み渡っていった。ほかほかの炊き込みごはんは咀嚼した瞬間に口の中に旨味が広がって、何杯でもお代わりできてしまいそうだ。
ここ数日のメニューから推測すると、陽葵は洒落た料理よりも家庭料理が得意なようだ。陽葵は夢中で食べ進めている私を見て口角を上げ、顔を近づけてきた。
「ねえ曜ちゃん、やっぱり食器には統一性を持たせたくない? 今度お揃いのお茶碗とかグラス買いに行こうよ!」
「行かない。あなた、本当にここを出ていく気がある? 今日こそは家探しに出掛けた?」
出て行ってもらうために設けた一週間の期限は昨日で過ぎたが、陽葵が出ていく気配は微塵も見られない。美味しいごはんに懐柔され気味だといえども、断じて同居を認めたわけではないと伝え続けなければならない。
「んー……今日は天気が悪かったから行ってない。家探しってやっぱり、テンション高いときじゃないと楽しくないじゃん?」
「言い訳はせずに素直に面倒だったと白状する姿勢は嫌いじゃないけど、ダメ! 明日は絶対に探しに行って!」
「えー! 曜ちゃんがわたしとの同居を認めてくれれば、この家にいられるのにー! 家賃ならちゃんと払うからさあ~」
「無職は馬鹿なこと言ってないで、さっさと物件と一緒に職も探せっての」
陽葵は平日だろうが土日だろうが関係なく、大抵昼過ぎに「おはよお~」だなんて寝ぼけ眼を擦りながら部屋から出てくる優雅なご身分だ。職も金も行く場所もないという陽葵の申告を受けて仕方なく同居を認めたわけだが、一緒に暮らし始めてすぐに一つの疑問が発生した。
食費は陽葵の財布から出ているし、奴の衣服や化粧品を見る限りでは金に困っている様子は別段見られない。どこから金が出てくるのだろう、と。
これは私の勝手な推測だが、その理由は陽葵の交友関係にあると踏んでいる。
陽葵はじいちゃんの彼女を自称しているくせに、しょっちゅう男から連絡が来るようで常にスマホを片手に生活していた。じいちゃんが死んでから随分経ったし、陽葵は美人だから金回りの世話をしてくれる男がいても不思議ではないけれど、じいちゃんも所詮金蔓の一人だったのかと思わされるのでいい気分ではなかった。
そういう背景もあって、元々誰にも言うつもりはないけれど、私がじいちゃんから多額の遺産を相続したことは陽葵にも当然伏せている。
「でもぉ、開業準備中だって言ってるけど、曜ちゃんだって今は無職じゃん? お店をやるって大変なんだし、わたしよりも自分の心配した方がいいと思うよ?」
「……う、うるさい。それより来週の十一日、私の友達がこの家に泊まりに来るから」
「十一日? うん、わかった。腕によりをかけてごはん作るからね! お友達の名前はなんて言うの? 仲良くなれるといいなあー」
「いや、外で食べてくるからいい。っていうか、仲良くしろだなんて言ってない。うるさくして迷惑かけるかもしれないって予告してるだけ。陽葵は友達の家とか男の家に泊まってきて」
「嫌! わたしも曜ちゃんの友達に会いたい! 日中は用事があって外出するけど、夜には絶対家にいるようにする!」
友達が来ることに文句を言われるのではなく、友達を連れてこいと文句を言われるとは。
風味豊かな椎茸を飲み込みながら、陽葵を見つめた。
男にだらしないところは嫌いだが、陽葵が完全な悪人でないことはもうわかっているつもりだ。しかし働きもせずにこの家に居座ろうとする行為は、この四年で培われた私の社畜根性とじいちゃんへの思いが全面に出るせいか認められないのだ。
「なあにー曜ちゃん、わたしのことじっと見つめて。そんなにわたしのことが好き?」
「ち・が・う。……ねえ、炊き込みごはんってお代わり分、残ってる?」
空になった私の茶碗を手に、陽葵は足取り軽く台所へ向かっていった。
私が受け入れてしまう前に、この女の正体と目論見を早めに暴いて正々堂々と家から追い出す理由を見つけなければと思った。
◇
駅のロータリーに車を停めて西口から出てくる人々を注視していると、小さめのキャリーバッグを持った日に焼けた女がきょろきょろと首を振りながら姿を現した。東京の友人がこの地にいる新鮮な光景にむず痒さを覚えながら、窓を開けて彼女に声をかけた。
「夏帆!」
私の声に反応した夏帆は笑顔で駆け寄ってきて助手席のドアを開けた。再会の挨拶もそこそこに、夏帆がシートベルトを締めたのを確認してすぐに車を発進させた。
「曜が車買ったの意外だったなー。東京じゃずっとペーパーだったじゃん」
スピードを上げていった車の速度が一定になった頃、夏帆はからかうように言った。
「こっちじゃ必需品だからね。でも運転はまだ慣れなくてさ、ハンドルを握っているときはいつも手汗がやばい」
「ガチガチなのは見ていてすぐわかるって。だから最初は静かにしてたじゃん」
さすが付き合いが長いだけある。自分をさらけ出せる開放感を感じながら、近くのイタリアンレストランに入店した。
「遠いのにわざわざ来てくれてありがとね。最近は頭から煙が出そうな日々が続いてたから、久々にリラックスできてる感じがするわ」
「礼なんかいらないって。でもあたし正直、笹森ってもっと田舎だと思ってたわ。電車は二時間に一本くらいで、歩いていればカブトムシを発見して夜は蛍を鑑賞できちゃうような。でも電車は十五分に一本は来るし、駅周辺は結構栄えてるね」
ナポリタンのケチャップを口の端に付けながら、夏帆はフォークを進める手を止めない。まだ笹森に来て日の浅い私がすでに贔屓にしているこの店を夏帆もお気に召したようだ。
「いや、田舎だと思う……カブトムシや蛍はしょっちゅう見るわけじゃないけど、虫の数には驚かされたし。まあそれより驚いたのは、じいちゃんに若い女がいたことなんだけどね」
あえて淡々と告げてみると、夏帆はナポリタンでむせていた。この反応が見たかった私は声を出して笑った。
水を飲んで一呼吸置いた夏帆は、目を爛々とさせて聞いてきた。
「なにそれどういうこと!? ちょっと、詳しく教えなさいよ!」
私はじいちゃんの彼女だと名乗る女、陽葵と同居している現状の一部始終を説明した。夏帆は相槌を打ったりオーバーリアクションをとったりしながら、まずは私の話を聞くことに徹していた。
「……まあ、こっちに来てからはそんな感じ。開店の準備を進めなきゃいけないのに、余計なことで神経減らしてる」
食事と説明で渇いた喉をジンジャエールで潤すと、話を聞き終えた夏帆は白い歯を見せた。
「よし、その女を尾行しよう!」
予想外の提案に私は思わず「はあ?」と感じの悪い返事をしてしまった。
「嫌だよ。なんで悪いことしてない私がコソコソしなきゃなんないの?」
「曜はじいちゃんの女の素性が気にならないの? あたしだったら彼女に顔を知られてないし、上手くやれる自信あるよ!」
「ちょっと落ち着いて。来る前にも伝えたと思うけど、夏帆には物件探しとホームページ制作の相談に乗ってほしいんだよ。遊んでいる暇はないんだけど」
「遊び? 違う! これは曜のこれからの生活に関わる大事なことだよ? 店の準備に集中するためにも不安要素はここでなくしておかないと! さあ! 早速その子に連絡して!」
「……夏帆が楽しみたいだけでしょ。顔に『こんな面白そうなことスルーできない!』って書いてある」
否定しない夏帆に溜息を吐きながらも、得体の知れない陽葵のことを知っておきたい気持ちは確かにある。言われるままに動くのは癪だが、夏帆の好奇心に背中を押される形で私はついに陽葵の正体を暴くための行動を開始した。
別に彼氏でもないのに陽葵に『今どこにいるの?』だなんて束縛男みたいなメッセージを送ると、『隣町のリオンだよ。なになに? わたしに会いたくなっちゃった?』と自撮りの写真付きで返信がきた。メッセージを見た夏帆は目を見開くと同時に小首を傾げた。
「うわ! すんごい美人じゃん! ……でもさ、あんたらって実は付き合ってるの? この子わざわざ自撮りまでして、一人で来てますアピールしてるけど」
「違う、この子なりの変な冗談なんだよ。意味わかんないっしょ?」
否定するために口を開いても夏帆は面白がって冷やかすばかりだったので、私は口の端についているケチャップを指摘しないことに決めた。
◇
隣市にあるショッピングモール『リオン』はこの辺りでは最も大きな商業施設で、笹森市民も頻繫に訪れるらしい。東京とは違って遊ぶ場所が限られている笹森市では、リオンに行くと知り合いとのエンカウント率が非常に高いと高久のおば様は言っていた。
だけど今日みたいな土曜日の日中はたくさんの人でごった返していて、この中から陽葵一人を見つけることは相当に困難な気がした。陽葵を探し始めてからおよそ一時間が経過し、買い物と家族サービスに疲れ切ったパパ達に混ざって休憩用の椅子に腰掛けた私は、通り過ぎる人々をじっと観察する夏帆に提言した。
「メッセージ来てからもう二時間は経ってるんだし、移動したんでしょ。探し出して尾行するなんてやめて、私らも普通に買い物しようよ」
「わざわざ地方に来て服とか買ってもしょうがないじゃん! 曜、もっとやる気出してよ! さっき送ってもらった写真もう一回見せて!」
好奇心の権化である夏帆はこうなったらもう止められない。溜息を吐いて陽葵の写真を見せつつ、スマホの画面越しからでも伝わってくる陽葵の美しさを再確認した。
大きくて睫毛の長い瞳は女子高生からすれば羨望の対象だろうし、ふっくらとして艶のある唇で触れられたら大抵の男は瞬殺されるだろう。陽葵はフランクで距離感も近いし、多くの男が勘違いして容易に落ちるのだろう。……というか、じいちゃんがその男の中の一人か。
「とりあえず、もう一回専門店街回ってみよう!」
今日東京から来た足でよくこんなに動けるものだと、同い年の夏帆の体力に驚く。広いショッピングモールをもう一度回ることにげんなりしつつ、捜査を再開すること十五分。夏帆の熱意が天に届いたのか、ついに尋ね人の姿を見つけた。
「いた! え!? 男といるじゃん!」
「は!? どこ!?」
夏帆に引っ張られて遠目から陽葵の様子を窺ってみると、奴は背の高い男を連れて種類の違うスカートを二着手に持ち、ショッピングを楽しんでいた。
男は金色に近い茶髪でパーマをかけていて、企業勤めのサラリーマンには見えなかった。美容師だろうか、それともスタイルがいいからモデルだろうか。……いや、もしかしたら陽葵が一方的に惚れ込んでいるホストという可能性だってある。
男の正体が誰であれ、二人は微笑み合ったり時折肌を触れ合わせたりして、傍目からだとカップルにしか見えなかった。陽葵には他に男がいてもおかしくないと思っていたのに、こうして別の男と一緒に笑っている姿を目の当たりにすると腹が立って仕方がなかった。
「やっぱりじいちゃんの金目当てだったってことだよね? ちょっと問い詰めてくる」
「落ち着きなよ。じいちゃんはもういないんだしさあ、彼女は別に浮気しているわけじゃないでしょ?」
そんなの理性ではわかっていても、不快なものは不快だ。何度かの押し問答を経て渋々夏帆に従って大人しく尾行を続けていると、男が電話で席を外した。
一人になった陽葵も誰かに電話をかけていたので夏帆が接近して聞き耳を立てた。夏帆の報告によると「さっきとは違う男と食事をする日について話しているみたいだった」とのことだ。
眉を顰めて尾行を続ける私のことなど露知らず、戻ってきた男と仲睦まじくリオンを出て笹森駅まで車で送ってもらった陽葵は、家には帰らずにカフェに入ってスマホを触っていた。
「あの茶髪男、陽葵を家まで送らないんだ。陽葵ならどんな男も選り取り見取りっぽいのに、案外甲斐性なしと付き合ってるんだね」
「いや違うっしょ。あれは男に家を知られたくないか、今から別の男と会うから適当な理由をつけて陽葵さんの方から駅で降ろしてって頼んだんでしょ」
夏帆の推測は見事に当たった。ジャケットを着こなす四十代前半くらいの男と合流した陽葵は、男と腕を組んで駅近のオイスターバーに入っていった。
「……なんだあいつ。おい夏帆、帰るぞ。陽葵の素性はもう十分にわかった」
よくもまあ平気な顔で男を取っ替え引っ替えできるものだと、一周回って感心すら覚える。
陽葵の交友関係に口を出すつもりはないが、こんな生活をこれからも続けるのであれば冗談でもじいちゃんの彼女だなんて言わないでほしかった。