【五】
「紙、整いました!」
朔也の声に部長が手をあげた。
「それでは卒業式パフォーマンスの練習を始めます」
『はい!』
かけ声を合図に全員が模造紙の上で横一列に並んだ。ジャージ姿で左手に墨池、右手にパフォーマンス用の太筆。体育館に敷き詰められた真っ白の紙を見下ろし、朔也は落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。
日曜日、書道部は体育館で初のパフォーマンス練習に臨んだ。午前中はそれぞれが本番と同じ長さになるようひたすら紙をつなぎ合わせ、午後から体育館に場所を変えた。
数分に渡って書き続けるには体力が必要とされるため、休憩を挟んでたったの四回。最初の三回は新聞紙に書いたが、ラストは贅沢に白の模造紙だ。紙によって墨のにじみ方が変わるため、本番同様の模造紙で練習できるのは貴重な時間になる。また、文化祭でも筆などを渡したりするだけの賑やかし要員だった朔也にとって、初めての作品パフォーマンスだ。
朔也はばくばくと音を立てる心臓を抱え、深呼吸した。冬の体育館なのに、前髪をピンで留めた額に汗がじんわりと浮かんでくる。
大丈夫、さっき練習した通りやればいい。きれいな紙に書いてみろ。気分がいいぞ。絶対やり遂げてみせる──!
視界の隅で顧問の指がコンポのボタンを押す。張り詰めた空気の中、音楽が流れ出し、タイミングを合わせて皆が一斉に筆を振り上げた。
最初は大胆に墨を吸わせて一画目。腰を曲げたまままっすぐ後ろに下がりながら文字を書き、屈伸をして息をつく。体育館内いっぱいに響く音楽に合わせて呼吸をし、軸足を意識して体全体を使いながら腕を動かす。
ひらがなが得意な今井と楷書の上手い先輩の間に挟まれ、朔也は必死に筆を振るった。重心を移動させ、筆を抜き、墨池へ筆を入れ、また次の字へ。
真っ白の紙に墨汁が走るだけで緊張に腕が震えそうになり、足がぐらぐらとしてバランスを崩しそうになる。だが、今書いた一画を振り返っている暇はない。すぐに筆を運んでいかなくては一人だけ遅れてしまうからだ。
隣の今井が速い。動く手がちらちらと視界に入り、朔也は焦った。
まずい、このままじゃ置いていかれる。
「あ」
次の一画目に筆を落とした手がびくっとして止まった。
しまった! 一字飛ばした!
文章の一字を飛ばす。文の意味を考えて書いていればあり得ない失敗だ。しかも、ひらがなが入るところを漢字の一画目を書いてしまっている。到底誤魔化せるようなものではない。
が、朔也はすぐに次の一画へ打ち込み、素早く筆を動かして後ろへと下がった。今井も隣の二年生も既に視界にいない。書くのが遅れているのだ。
朔也は休みを入れるところも必死に腕を動かしてスピードをあげた。最後の一文字で隣の先輩に追いつき、筆を抜く。
「……っはあっはあっ……」
曲げていた腰を伸ばし、ぜいぜいと息をつく。全員が書き終えたため、音楽の止まった体育館内に息のあがった部員たちの息遣いだけが広がる。が、次の瞬間にはパンパンと手の叩く音が鳴り響いた。
「全員、墨池と筆を置いて! 自分の字を確認しよう。乾いてないから字を踏まないよう気をつけて!」
顧問の声に、わっと緊張の解けた明るい声が飛び交う。
「焦ったー! 皆速いよ」
「私、途中から字が小さくなっちゃった」
部員たちは口々に話しながらそれぞれ自分の書いた紙の上を歩き出した。数人で互いの字を指さしたり、字の隣にしゃがみ込んで空中で手を動かしたりする。
朔也は下の文字からゆっくり遡って紙の上を歩き出した。つるりとした床に置かれた紙の上で足が滑りそうになりながらも、一字一字ゆっくり見ていく。そして、そこで足を止めた。
「一を 」
それを見下ろす朔也の鼻がつんとした。
おれはどうしたんだ。ずっと得意だった書道なのに、ずっと大好きだった書道なのに、ひらがな一文字満足に書けない。与えられた文が長いとはいえ、全員が同じ条件。その中での脱字など言い訳できない。それも作品全体をぶち壊しにするミスだ。
その後、書道部はすぐに解散した。
書道室に戻って自主練に行く者もいたが、朔也は一人広い体育館に残って細長い紙を広げた。ひんやりとした床の冷たさを感じながら文字を眺め、先ほどと同じところで足を止めて片膝をつく。動揺したのか、そこから下の字は軸がぶれて大きさもバラバラだ。間違えたところを上からなぞると指先に墨がついた。
その汚れをぼんやりと見ていると、突然後ろから声がかかった。
「折原、お前、どうしたんだよ?」
聞き覚えのある声に振り仰ぐと、そこには山宮が困惑した表情で立っていた。
「山宮……? なんでここに?」
驚く朔也に彼は持っていた紙の束を突き出した。いつか放送室で一緒に見た、贈る言葉の原稿だ。
「書道部がパフォーマンス練習をやるって聞いて、俺も読み上げ練習をしようと思って。二階のギャラリーで演技を見ながら読んでた」
そう説明する山宮は、原稿ではなく模造紙を見ていた。
「お前……なんかおかしくね? 途中で字間違えるし、急に字が下手」
「煩い‼」
気づけば大声で言葉を遮っていた。山宮が顔を歪めたのを見て、我に返る。
「あ、大きな声出して、ごめん。おれ、いらいらしちゃってて、その、悪い」
だが、朔也の言い訳を聞く彼がますます顔をしかめて口をへの字にする。
「お前……変だわ。いつもならへらへら笑って済ませるのに、怒鳴るとか普通じゃねえわ。いつものイージーモードはどうしたんだよ」
「……なんだよそれ」
聞き捨てならない言葉に思わず立ち上がる。小柄な山宮が朔也の影に沈んだ。
「普通じゃないってなに? いつものイージーモード? 冬休みにおれがどれだけ練習してたか知ってるだろ! だったら失敗して落ち込んでることくらい想像できるだろ! そんなことを言うためにわざわざ上から降りてきたのかよ⁉」
朔也の剣幕に山宮が顔を苦しそうに歪める。
「そうやって怒るのがいつもの折原じゃねえんだって。らしくねえわ。だから、なんかあんじゃねって、そう言いたかっただけで」
「あっそ! 放送部は山宮一人だからいいよな! 書道パフォーマンスは皆で作るもんなんだよ! 周りと同じレベルの字を書かなきゃいけない、自分のミスが全体のミスになる、そんなプレッシャーなんて分かんないよな!」
おれ、なんでこんな大声を出してるんだろう。なんで山宮をこんな表情にさせてるんだろう。なにもかもめちゃくちゃでどれも上手くいかない。
「なにも知らないくせに! おれが、どれだけ書道に打ち込んできたか! おれが、どれだけパフォーマンスのために練習してきたか! おれがどれだけパフォーマンスをやりたかったか、おれが、どれだけ……っ」
次の瞬間には堪えていた涙がぼろっと零れた。言葉もなく落ちる涙を手で拭う。暫くそうしていると、「折原」と声がした。山宮が顔面蒼白でこちらを見ている。
「お前さ……やっぱり周りに興味ないんじゃね」
きっと謝るような言葉を言うだろう、そう思った朔也の心に鋭い矢が突き刺さった。
「今、なに言ったか分かってんのかよ。自分だけが努力してると勘違いしてね? お前が見てないところで努力してるやつがいるって、考えたことないんじゃね」
言葉は淡々としていたが、真っ白な顔が感情を如実に表している。
「お前……俺がたった一人で活動してるのをマジで平気だと思ってんのか? 誰とも楽しさを共有できねえ、誰にも悩みを相談できねえ、限られた人にしか評価されねえ、そんな毎日を平気だとでも?」
山宮が、怒っている。それに気づいた朔也の涙が引っ込んだ。
「山宮、あの、ご、ごめん、おれ」
「ひっでえな……折原がそんなこと言うなんて思わなかったわ……きっつ……」
山宮がふいと目を逸らした。ズボンのポケットから出た右手が朔也の胸をどんっと叩いた。
「これ、返すわ」
その手から紺地に金糸のお守りがぽとりと落ちた。
「もう、俺と仲良しこよししなくていいから。浮かれてた俺がバカだったわ。だってお前」
そこで俯いた山宮が、はっきりと通る声を出した。
「俺がお前のことを好きだなんて、全然分かってねえんだもんな」
広い体育館が、しんと静まりかえった。これまでの罰ゲームとは違う、山宮の本気の告白。こぶしのぶつかる胸がどくんと大きな音を立てた。
「五月から何度も言ってんのに伝わってねえみてえだから、今、言うわ。俺、お前のことが好きなんだわ」
心臓がとくとくと音を立て始める。見下ろす黒髪のつむじがはあと息をついた。
「あー……気持ち悪りいとか文句はあとから受けつけるから、とりあえず聞け。つまりな、クラスにいるかどうか分かんねえような俺だから、あんな罰ゲームも割と真剣だったわけよ。変なやつでもいい、印象に残りゃいいって半分やけっぱちだったわ。宿題教えろとか、結構勇気出して言ったんだぜ? でも、よく分かった。お前は俺だけじゃなく誰にも興味ねえんだな。俺がどんなにお前の気を引こうとしたって意味ねえんだな」
はは、と俯いた黒髪が力なく震えた。
「最近、お前が俺のことを認識し始めたかと思ってたけど、勘違いだったみたいだわ。お前から見た俺って、ぼっちで部活やってる孤独なやつなんだな。お前が下校放送に気づいてからは、きっと書道室で聞いてんだろって孤独じゃなかったんだけどな……」
山宮の声は悲しみの色に染まっていて、それを聞いていた朔也は激しい後悔に駆られた。お守りを渡そうとしたときと同じ、今、心が痛いのは自分ではなく山宮だ。
「気色わる……引かれるって分かってたのに、言っちまったわ。俺バッカじゃね……」
そこで唯一触れていた山宮の手がすっと下りた。
「……というわけで、今から文句の受け付けを開始するわ。赤点スレスレ……なんとかハスキーの戯れ言に対する罵りがあったら遠慮なくドーゾ」
俯いたまま決して顔をあげない山宮と、床に転がったお守りを見、朔也はお守りを拾った。だが彼はなんの反応も見せない。紺色のセーターの肩が強張って、襲い来る痛みに構えているように見えた。
「……山宮」
朔也が名前を呼ぶと山宮がびくっと体を揺らした。ぎゅっと握ったこぶしに更に力が入る。
怖がっている。おれの言葉に傷つくんじゃないかと怯えている。おれと同じだ。人の本音と向き合うのが怖いおれと同じなんだ。そんな山宮を、おれはまた傷つけた。
「……本当にごめん。言っちゃいけないこと言った。考えなしの発言だった。ちゃんと謝りたいんだけど」
朔也は壁にある時計を見た。シンプルな白い文字盤に黒の針が三時半を指している。
「今日の下校放送は何時なの?」
すると山宮が顔をあげ、朔也と同じように時計を確認した。顔色を失いぼんやりとした目で頷く。
「下校放送はしねえ。今日俺が学校にいるのは自主練だから。でも、行くわ。コートとか鞄とか、放送室に置きっぱなしだし」
山宮が暗に帰ることをにおわせたので、朔也はすぐに足下の紙をたたみ始めた。
「これ、すぐに片づける。終わったら放送室に行くよ」
すると山宮は「来なくていい」ときっぱりと言った。
「来なくていいわ。もう言うことねえし」
「おれはある」
朔也の言葉に彼が口を開きかけたそのとき、きゅるるる……という小さな音がした。ぱっと山宮が腹を押さえたので、思わず噴き出す。
「山宮、お腹が空いてるの?」
朔也の問いに彼は少し赤い顔でこちらを睨んだ。
「うっせえ。食堂やってねえの忘れてて、昼飯を食い損ねたんだわ」
「じゃあコンビニになにか買いに行こうよ。学校近くにある公園に行って食べよう」
「……でも俺は」
「先に帰っちゃ駄目。すぐ片づけるから」
朔也は強引にそう言うと、紙を巻き取って立ち上がった。所在なさげにそわそわと原稿を握りしめる山宮に笑顔を向ける。
「細かい話はあと! まずはコンビニ!」
朔也は明るい声を出し、山宮を追い立てて体育館をあとにした。