新学期の慌ただしさがなくなってきた日の放課後、朔也が「やっほ」と放送室の扉を開けると、床に座り椅子を机代わりにしてなにかを書いていた山宮が「ん」と手をあげた。だが、その右手がマスクを外すと怪訝そうな表情が表れる。
「お前、今日書道部は?」
「自主練だから大丈夫」
「珍し。先週は放課後一度も来なかったろ。自主練も皆勤賞狙いかと思ったわ」 
「今日はちょっと気分転換しようかなって」
 笑いながら言った朔也の言葉に彼がじとっとした目つきになった。
「朝も来たくせに、気分転換にここを使ってんじゃねえよ」
「だって、防音で静かだし、図書室よりも集中できるし。おれがいたら邪魔?」
 すると山宮がシャーペンを置き、深いため息をつく。
「それ、邪魔じゃねえって言わせようとしてね?」
「バレた?」
「ったく……まあ、いいけど。邪魔じゃねえわ。好きにすれば」
「ではお邪魔しまーす。嬉しいなあ、山宮君って優しいんだなあ」
 朔也は明るくそう言ってさっさと上履きを脱いだ。山宮と鞄一つ分空けて、定位置になったカーペットの床にどさっと腰を下ろす。一方の山宮は膝に肘をつき、そこに顔を載せた。
「折原って、案外わがままっていうか、甘ったれっていうか……」
「山宮君の寛大さに感謝してます! 頼れる人には頼ろうと思ってさ」
 急に山宮が口を噤んだ。ちらりと彼を見やると、頬杖をついた顔が照れたように赤らんで、不自然にきゅうっと結んだ口を誤魔化すように手でこすっている。こちらの目線に気づくと「ズリいやつ」と朔也の腕にぽすっと右ストレートを打ち込んだ。
「折原っていい性格してんな。教室でバラしてやりてえわ」
「それはこっちの台詞。山宮だって教室では大人しそうなのに、結構口悪いよ」
 朔也はそう言いながら数学の教科書とノートを取り出した。出席番号を考えれば明日当たるのは確実だ。その様子を見た彼も、「あ」と慌てたような顔になる。
「数学、俺も当たるわ。今日習ったとこ、至急解説要求」
 案の定の流れに朔也は内心笑い、彼の復習に付き合った。冬休みの経験から彼の躓きそうなところは分かっている。

 冬休み明けに二人で話して以来、放送室で過ごす時間が増えた。チャイムの一件等、朝早くから山宮は放送室にいることが多く、朔也が朝訪れるようになってもう何日にもなる。放送室に部員以外が入ってはいけないという言葉も覚えているが、入るなと言われたことは一度もない。
 今日、朔也が放課後に放送室にやって来たのには明確な理由がある。部活に行きたくないからだ。
 卒業式パフォーマンスに向けて、今、朔也はスランプに陥っていた。
 形を整えようとすると筆の勢いが落ちてもたつく。気持ちのままに筆を走らすとバランスが崩れる。立って書く練習になると、周りとの連携ばかりが気になって字に集中できない。
 顧問にはそういった心の迷いを指摘され、ますます体が強張って字が縮こまる。初心に立ち返ろうと自主練で臨書に取り組んだが、手本とは似ても似つかない字になった。得意分野である字を真似ることすらできないのだ。
 一週間前の新一年生の推薦入試が終わった日、書道部は放送部の協力のもと、パフォーマンス甲子園の予選演技の撮影に臨んだ。人数の減った一、二年生だけで行う演技で、朔也は今井と共に選手として参加する予定だった。だが、急遽顧問は朔也を補員、別の一年を選手に変更した。振りつけ等もしっかり叩き込んでいたのだが、字が書けなければ足手まといでしかない。
 そうやってあからさまな形で選手を外され、畳敷きの部屋の隅で一人筆を振るう朔也に、部員たちもなにも言わなかった。だが、朔也にはそれが一番怖かった。部長に、先輩に、同学年の女子たちにどう思われているのか分からない。
 墨のにおいを感じ取れなくなり、畳のささくれに心が落ち着かなくなる。文鎮についた墨の汚れも筆先の小さな割れ目も、お前はここにいるべきじゃないと抗議しているようで、朔也は道具入れにつけていた「心願成就」のお守りを外した。
 その点、放送室は居心地がよかった。
 学校のどこよりも静かで人目を気にしなくてもいい。山宮には今井との話を聞いてしまったことには触れておらず、相変わらず関係はクラスメイト止まりではあるが、距離は縮まっている。無条件で自分を受け入れてくれる山宮は、書道に行き詰まっている今なくてはならない存在だった。

「……で、こことここをかける。オーケー?」
 練習問題を一緒に解きながら説明すると、分かった、と山宮が頷いた。朔也もすぐに計算を始め、応用問題に移った。そこへ暫く黙って手を動かしていた山宮が話しかけてくる。
「てかよ、そもそも、なんでマイナスとマイナスをかけるとプラス?」
「それ、中一の範囲だよ」
「そういうもんって覚えただけで、実際のところは理解してねえんだわ」
 そこでパキッと音がして、山宮のシャーペンの芯が折れた。ペンケースから消しゴムを取り出してノートをごしごしとこする。そのペンケースの中に定規を見つけた朔也はそれを手にした。都合のいいことに目盛りの中央にゼロがある定規だ。
「山宮、これ見て」
 山宮がノートから顔をあげると、朔也はその定規を掲げた。シャーペンの先で目盛りを指す。
「この定規、真ん中にゼロがあるだろ。このゼロ地点に自分がいるとする。分かりやすく地図と同じように右のプラス方向を『東』、左のマイナス方向を『西』とする」
「? ああ」
「例えば『山宮君は一分間に西方向へ二センチ歩きます。五分前はどこにいたでしょう』という問題があったとする。西に動く山宮君の速さは、定規で考えると分速 -2センチメートル。で、五分前ってことは -5分。-2×-5=+10。今ゼロ地点にいる山宮君は、五分前には東のプラス十センチの地点にいたってわけ。マイナスとマイナスをかければプラスになるだろ」
 すすすっと十の目盛りまでシャーペンを動かして「な?」と言うと、彼は「うわ」と眉尻を下げた。
「悪りい、すげえ分かりやすかったけど、理解できなかったわ」
「どういうこと?」
「折原の解説には納得できたけど、俺には説明できねえ。手品を見せられた気分だわ。お前だけ人生二回目なんじゃね」
「疑問があるならどんどん調べればいいのに」
「世界の疑問の数と俺のフル稼働領域が合ってねえ。多分、俺の脳ミソの一部、小せえ頃に家出したきり戻ってきてねえんだわ」
 山宮はときに自虐的なことを口にする。そういうときの彼の顔は決まってどこか諦めや苛立ちを含んでおり、今もきれいな顔に似合わず眉をきゅっと寄せている。
 もったいないな、そう思った朔也の人差し指がぐぐっとその眉間を押した。
「ここに力を入れない! 納得できるんだから、家出なんてしてないだろ」
 うぜえ、触んな。そう言って自分の手を振り払うはず。そんな朔也の予想とは逆に、山宮がそのままかーっと顔を赤らめた。その反応に、はっと我に返る。
 おれ、なに顔触っちゃってんの!
 指をぱっと引っ込めると、山宮が朔也が触れたところを前髪で隠すように手をやった。真っ赤に顔を染めた山宮が眉間をぽりぽりと掻いて、部屋の空気がおかしくなる。
 そのとき、朔也の鞄の中でスマホがブブッと振動した。二人同時にびくりとし、朔也はスマホに、山宮が教科書とノートに飛びつく。
「……なに連絡」
「書道部一年のグループ連絡だった。サボってるのどこかで見られてるのかな。はは……」
 おれの下手くそ! もっと普通に笑え!
 無理矢理口角を引っ張り上げて必死に笑顔を作る。一方の山宮は問題を睨むように教科書を見ており、頬を赤くさせたまま小さな声で返事をした。
「……ま、ほっとけばいいんじゃね。自主練だし」
 だから、部活、行かなくてもよくね。より小さくなった声がぼそぼそと続けたので、今度は朔也の顔が赤くなりそうになった。ここにいてくれと言われたようで、内心あわあわとする。
「そ、そう、自主練だもんね。山宮といたっていいよな!」
 あ、おれのバカ! 山宮と、じゃなくて、放送室に、だろ!
 とうとう山宮が腕で隠すように頭を抱えたので、朔也も目を逸らしてスマホをいじるふりをした。
 なんだ、この空気。すごく恥ずかしい。すごく恥ずかしいのに……何故かここを離れたくない。
 矛盾した気持ちに口がへにゃりと笑ってしまいそうで、カーディガンの袖で口を覆って空咳をした。紺色のセーターの腕に隠れた山宮が再び尋ねてくる。
「お前、呼び出しくらってんの?」
「ううん、女子たちがやり取りしてる。卒業式パフォーマンスの衣装についてみたい」
 画面の中でぽこん、ぽこんとメッセージが飛び交う。数人がすぐに反応することから、部室で自主練しているメンバーが複数いることが分かる。
 そこで、ふうと小さく息を吐いた山宮が腕を下ろした。だが、まだ彼の耳は赤い気もするし、自分の心臓もどきどきと音を立てている。それを振り切るように口を開く。
「おれさ」
「さっき」
 思い切り声が被って、再び室内の空気が動揺する。口元を隠し目を逸らした山宮が「ドーゾ」と機械的な声を出した。
「ううん、大丈夫! 山宮から言って」
「たいした話じゃねえわ。お前から言えよ」
 朔也はふにゃふにゃになりそうな口元を引き締めた。
 なんか、今日は変だ。山宮の様子も、この空気も、おれ自身も。いつもはきちっと納まっている機械たちも妙にそわそわしているように感じる。
「おれのサイズに合った衣装がないから、新しく買うはずって言おうとしただけ。山宮は?」
「卒業式パフォーマンスって、卒業生に贈る言葉を全員で書くんだろ。その原稿、さっき顧問からもらったって話」
 卒業式パフォーマンスの話題になったので、朔也は冷静になった。
「贈る言葉の原稿ってなに?」
「書道部がパフォーマンスしてる間に俺が代読するから。去年の映像見てねえ?」
 山宮の言葉に朔也はそれを思い出した。
 卒業式パフォーマンスでは、校庭に一人幅一メートル、縦二十メートルほどの細く長い紙を隙間なく敷き詰める。そして全員で横並びになり、卒業生に背を向けて後ろに下がりながら文を書いていく。全てを書き終えると全体が一つの文章になり、卒業生への贈る言葉が完成するという仕組みだ。
 パフォーマンス中は音楽と文章を代読する声が流れるのだが、その読み上げを担当しているのも放送部だということだろう。
「そうか、今回は音楽を流すだけじゃないんだ」
「そういうこと。お前ら部員の名前も紹介するぜ」
 部活の話になり、山宮が自然な笑顔を浮かべた。
「すげえ緊張するわ。書道部最後の一人が最後の一字を書き終えたときに代読を終えるのが理想。でも、書くスピードなんて日によって変わるだろうし、難しそうじゃね?」
 言葉とは裏腹に、山宮の声が楽しそうに弾んでいる。
「折原は原稿のどこ担当?」
 山宮が鞄から原稿用紙を取り出したので、朔也は一緒になってそれを覗き込んだ。贈る言葉全体を書道部一、二年生で書く場所を分けることになっている。
「まだ正式には決まってない。おれ、漢字が得意だから、漢字が多い部分になると思うんだけど」
 そこで朔也は自分の今の状態を思い出した。
 パフォーマンス甲子園では、一枚の紙にいろいろな場所から文字や絵を書き足していくので、全員が同じ文字数を書くわけではない。
 ところが、卒業式パフォーマンスでは全員がほぼ同じ長さの文を書くことになる。横並びでスタートするため、書いていく速さも合わせなければならないし、一つの文章に見えるように字の書体や大きさも揃えなければならない。読みやすいようにごく普通の楷書で書くのだが、今の自分の字を考えると暗澹たる思いがした。
 と、そこでまた朔也のスマホが振動した。見れば今井から個別に「メッセージ見て!」と連絡が来ている。
「……呼び出しだ。卒業式のパフォーマンスで着る衣装合わせ、今校舎にいるメンバーだけでも先にやらないか、だって」
 今学校にいるの誰? 部室に三人。 ごめん、私もう電車内! 朔は? 朔の分の衣装、サイズを測らないと! 朔ちゃーん、いたら書道室に来て!
 画面を見た朔也の口からため息とともに声が漏れた。
「おれの名前、すっごく連呼されてる。めんどくさい……」
 その台詞に山宮が原稿を捲っていた手を止めた。
「……お前、どうした? なんかあったのか?」
 訝しげにこちらを見る目は打って変わって真剣だった。
「いつもの折原なら、そんなこと言わなくね。俺が知らねえ書道やら衣装関係の単語を羅列して喋りまくるとこだわ」
 思わず言葉に詰まった。鞄にしまいっぱなしの朱色のお守りが思い出される。
「あー……どうしたのかな、今日は書道の気分じゃないんだよね。予選の撮影が終わって気が抜けてるのかな」
「? 予選の撮影って先週の話じゃね。なんで今?」
 至極当然の指摘に朔也は口ごもった。
 音響担当の山宮は、第二体育館でのその撮影を小窓から見ていたはずだ。本当なら、そこで朔也はパフォーマンスを披露できるはずだった。そんな機会を失っただなんて恥ずかしくてとても言えない。
 先ほどまで居心地のよかった空気が、何故か気まずい雰囲気に変わる。こちらが口を開かないことに山宮は困惑したようだったが、目線が朔也の持つスマホに落ちた。
「ま、連呼されてんなら返事すれば。気分じゃねえなら、もう帰るとか言えばよくね」
「いや、どうせまた明日同じことになるだろうし、行ってくるよ」
 メッセージに「今行く」と返すと、朔也は鞄を持って立ち上がった。扉の取っ手に手をかけながら「じゃあ」と山宮のほうを振り返る。瞬間「明日にすればいいのに」と引き留めるかもしれないと思う。だが、シャーペンを動かす彼は顔もあげずに「行ってら」と言うだけだった。
 放送室を出ると冬の空気が襟元から入り込んで、体がぶるりと震えた。そこを去りがたくて、意味もなく腕を回して肩をほぐす。校庭で練習する陸上部の様子を眺め、浅春のそこで披露する卒業式パフォーマンスのことを想像した。だが、自分が筆を持つところをイメージできない。
 今すぐ「やっぱり行くのはやめるよ」と放送室に戻りたい。そして山宮と一緒に時間を過ごしたい。
 こういう気持ち、なんて言うんだろ。
 放課後の空は灰色の雲がどんよりとしている。重い足取りで書道室へ行くと、カタログらしきものを見て話し合っている一年生がいた。こちらに気づいた一人が「朔!」と声をあげ、皆が笑顔で朔也を出迎える。
「朔が来てよかった!」
「うん、明日には注文できるね」
 笑顔の部員たちの側に、墨池や硯、筆や練習で使い終わった紙が重なっていて、朔也の心に罪悪感が生まれた。
──皆一生懸命練習しているのに、おれは逃げている。
「ごめん、自主練来なくて。片づけたい課題があって勉強してた」
 朔也の言い訳にも皆笑顔のままだった。
「平気だよ! 自主練なんだし」
「朔は真面目すぎ。息抜きくらいしたほうがいいって」
 メジャーを当てる今井や代わる代わるかかる声に、自分の今の気持ちを皆が承知しているのだと分かった。いつか朔也がトイレで泣いていたときも、こうやってなにも言わずに見守ってくれていたのだろう。その気遣いがありがたくもあり、後ろめたくもある。
「男子用の袴ってXLまでだっけ」
「朔には足りないんじゃない?」
「少し短いくらいのほうが汚れなくていいかもな」
 書道部の仲間と笑顔で話しながら、頭の片隅で今山宮はなにをしているだろう、と思った。

「朔ちゃん、聞いてもいい?」
 下校時刻になるまで書道室にいた朔也は、部員たちと家路についた。駅からバスに乗り換え並んでつり革に掴まると、今井がそう切り出す。
 バスの中は混み合っていて少し騒がしかった。お腹の大きな女性が乗ってきて、「席へどうぞ」と譲る声も聞こえる。
 朔也が「なに?」と返事をすると、今井が首を傾げた。
「最近、朝ぎりぎりの時間に教室に来るよね。でも、あたしが登校する時間には下駄箱に靴がある。どこにいるの」
 鋭い指摘に一瞬ぎくりとする。だが、すぐに笑みを浮かべて答えた。
「山宮と一緒に勉強してる。分かんないところがあるって言うからさ。教えるおれも勉強になるよ」
「……ふうん? 山宮君とずいぶん仲良くなったんだね」
 彼女の声色に内心ため息をつく。今井は幼馴染みだ。こういうとき、彼女に誤魔化しはきかない。
「仲良くっていうか……また話すようになっただけだよ。前進も後退もしてない」
「この間聞いちゃったってことは山宮君に言ったんだよね?」
「……言ってない。盗み聞きしたみたいで悪いし」
 できるなら、このままでいたい。
 告白も、それを真剣に受け取らなかったことも、山宮の好意や自分の気持ちも、今日のようにやり過ごせるのなら一番いい。
 部活で共通点があって、たまに勉強や授業のこと、それ以外のたわいもない話ができる友だち。山宮はただのクラスメイトとは違う、おそらく、朔也が一番求めている位置にいてくれる存在だ。
「……鈍感」
「え?」
 今井が少しきつい口調になったので朔也は再び彼女を見下ろした。今井は朔也を見ずにバスの窓から流れる景色を睨んでいる。
「朔ちゃん、山宮君の気持ちを考えたことある? あたしが知ってる朔ちゃんはそんな卑怯じゃなかったんだけどな」
「……卑怯ってどういう意味」
「なんで本当のことを言わないの? 山宮君は自分の知らないところで気持ちを知られちゃったんだよ?」
「おれは、傷つけたことを謝ったし、山宮はなにも求めてこない。だったら今の状態が山宮の望む状態なんじゃないの」
「そうかな? 山宮君は本当の気持ちを無視され続けてるんだよ。朔ちゃんは全てを知りながら、自分の楽な距離でいるだけ。それってちょっとひどいと思わない……?」
 たしなめる口調に朔也は言葉を失った。だが、今以上になにをすればいいのか分からない。
 好きじゃないと改めて山宮に言うのか。しかし、それは山宮を傷つけることになる。山宮の泣きそうな顔はもう見たくない。ならばいっそ山宮と関わらないようにするのか。それは朔也の望むことではない。
「……上手く言えないけど、おれが山宮と仲良くしたい、のかな……」
「山宮君が朔ちゃんを好きなように、朔ちゃんも山宮君を好きってこと?」
 今井にずばり切り込まれて、自分自身に問いかける。だが、朔也には分からない。以降山宮からきちんとした言葉は聞いていない。だから山宮の気持ちの大きさなど測れないし、本気で友だちを作ろうとしたことのない朔也には山宮に対する気持ちの正体もよく分からない。
「違うと思うけど」
 その言葉に横にいる彼女が小さくため息をついた。
「今井なら、おれの中学のときのことも分かってるだろ。だから……久しぶりに気を許せるやつを見つけた、みたいな感覚だと思う」
「それで朔ちゃんは山宮君といたいんだ。でも、それで山宮君は幸せなのかな? 自分の行動を変えたほうがいいとは思わない?」
「今井って、なんでそんなに山宮の肩を持つの。そういうの、珍しいよな」
 するとくちびるをぎゅっと噛んだ今井が目を瞬かせ、すぐに口を歪ませて笑った。
「朔ちゃんって、やっぱり鈍感だなあ。でも、山宮君はそういうところも好きなんだろうね。……あたしと違って」
 最後のほう、消え入りそうな声で言ったので二人の間に沈黙が下りた。ガタガタと凹凸が振動となって足に伝わってくる。今井のいる右側だけ体が熱くなってきて、朔也は汗のにじむ手でつり革を握り直した。口を開いても、喉のところに引っかかって言葉が出てこない。
 今井がブザーを押した。紫色のランプがともり、アナウンスが流れる。そこで再び彼女が口火を切った。
「山宮君も動かない、朔ちゃんも動かない、そういう時期ってことだよね。でも、山宮君に付き合う子ができたらって考えたことはある? 山宮君が恋人と過ごす時間を優先するようになったらどうするの? そうなったら、朔ちゃんはどう思うの?」
 山宮に恋人ができたら。
 これまでいっぺんたりとも考えなかったことを言われ、朔也の息が止まりそうになった。再び彼女がくすりと笑って「ホント鈍感」と言った。
「どうしたらいいのか、本当は朔ちゃんも分かってるんじゃない? 自分の気持ちに素直になることをお勧めするよ!」
 その明るい声に答えようとしたとき、バスががくんと揺れて止まった。笑顔の彼女が「また明日ね!」と元気よく降りていく。耳障りな音が鳴って扉が閉まり、バスは再び動き出した。
 卑怯、か。
 朔也は窓の外を見た。通り過ぎる建物の明かりや反対側へ走る車のライトが目に色を残していく。
──本当の気持ちを無視され続けてるんだよ。
──朔ちゃんは全てを知りながら、自分の楽な距離でいるだけ。
──朔ちゃんってやっぱり鈍感だなあ。
 朔也はつり革に掴まりながら目を瞑った。墨が飛んだ手で筆を持つ今井の朗らかな笑みや楽しそうに原稿を見る山宮の表情を思い出す。
 なあ今井。今井の気持ちも山宮との距離感も壊したくないって思うおれは、そんなに卑怯なのかな。どちらかを選ぶなんて、すごく難しいよ。