【四】

 翌早朝、あくびをかみ殺して朔也は学校へ向かった。
 夜、山宮に連絡しようとも思ったのだが、過去が邪魔してメッセージの送信や電話といった行動をとることはできなかった。メッセージを無視されたら、電話で突き放されたら──怖い。そう思うと指が止まってしまう。すぐに謝るのが正解だと分かっているのに、自分をコントロールするのはひどく難しい。
 結局そのまま模試対策もせず、スマホ片手にベッドでうつらうつらしてしまった。今も冷たい風に吹かれているのに、頭がどこかぼんやりしている。
 が、学校の校舎が見えてくると朔也の心臓がどきどきと音を立て始めた。
 そもそも、山宮に謝るチャンスももらえないかもしれない。話すことすら拒絶されるかもしれない。そう思うと胸がざわざわして、心が落ち着かないまま校門をくぐって放送室に足を向けた。
 教室よりも放送室のほうが静かで二人きりで話せる。山宮が今放送室にいるとは限らないが──そう思った朔也の足が止まった。
 おれは、山宮が普段何時頃に教室に来るのか覚えていない。だから、今、山宮が教室にいるのかいないのか、そもそも登校しているのか、見当もつかない。おれはどうして山宮のことをこんなに知らないんだろう。……山宮は、そんなおれをどうして好きだと思ったんだろう。
 と、そこへなんの偶然だろうか、朔也の目が職員室から飛び出してきた山宮の姿を捉えた。外廊下を放送室のほうへと慌てたように走っていく。
 今しかない。
 朔也も次の瞬間にはその背を追って駆け出した。放送室前でようやく彼を捕まえる。
「お、おはよう」
 朔也は緊張して声をかけたが、彼はそれどころではないらしい。こちらも見ずに「はよ」とだけ答えると、ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込んで回そうとした。が、どうやら違ったようだ。チッと舌打ちすると、キーリングにもう一つ下がっている鍵を掴む。
「どうかしたの?」
「チャイムだよ」
 焦りを含んだ口調で山宮が言い放った。
「今日、全校模試だろ。チャイムの時間を変えねえと」
 早口でそう言い、放送室の扉をぐっと引っ張って開け放つ。いつぞや静かに閉めろと言っていたのはどこへやら、上履きを脱ぎ捨て肩に提げていた鞄を放ると黒いデッキのところへしゃがみ込んだ。重さで閉まりかけた扉を手で押さえ、自分も中に入ってそっと閉じる。
「七時半、八時、二十分、三十分……」
 眉間にしわを寄せた山宮がぶつぶつと時間を呟く。その隣に朔也も膝をついて覗いた。白い指がボタンを押すごとに時間が表示され、ときに別のボタンを連打して数字を変える。
「山宮、なにしてるの?」
「煩え。分かんなくなるから黙ってろ」
 ぴしゃりと言われて朔也は口を閉じた。
 デッキの数字が次々に変わり、最後に18:00:00が表示された。山宮がやれやれといったように息をつき、パチンと音を立てて小さな黒いつまみをあげた。暑いのかマスクを外して手で額の汗を拭い、鞄から出したペットボトルの水を口に流し込む。朔也はもう一度尋ねた。
「ねえ、今なにしてたの?」
 すると山宮がペットボトル片手にかがみ込んでいた姿勢を崩す。
「チャイムの時間設定。今日は一年も二年も授業じゃなくて模擬試験だろ。試験時間に合うように、普段とは違う時間にチャイムが鳴るように設定したわけ」
 ギリ間に合ったわ。
 そんなふうに言って再び水を飲む山宮の台詞に朔也は驚いた。が、口を開く前にキーンコーンカーンコーンとチャイムが放送室内に鳴り響く。ひしめき合う機械群に囲まれた空間は、チャイムが鳴り終わると同時に時間がぴたりと止まったように静まりかえった。
 山宮の操作していた機械を改めて見れば07:30:21と現在時刻が表示されている。部長の号令がかかり、朝練を始める部活の様子が浮かぶ。
 朔也は第二体育館に向いたカーテンを見た。きっとその向こうでも生徒たちがウォーミングアップを開始しているだろう。
 改めて白い数字が浮かび上がるデッキを指さして尋ねる。
「この時間に合わせてチャイムが鳴るの?」
「そう。定期試験だと休み時間が十分から十五分に変わってチャイムの時間がずれるだろ。それもここで時間を設定してるってこと」
 事もなげに言った山宮の言葉に朔也は驚いた。
「いつも山宮が時間を指定してチャイムを鳴らしてるの?」
「チャイムを鳴らしてるのは機器で俺じゃねえわ」
「でも、山宮が操作した時間に鳴るんだろ? それってすごい大仕事じゃん!」
 朔也がすごいと繰り返すと、彼はふっと小さく笑って声を和らげた。
「普段は顧問の先生がやる仕事なんだわ。ただ今日は朝に会議があるからって急遽頼まれただけ。機械の操作を知ってるのって放送部員だけだからさ」
 それを聞いた朔也はますますへえと思った。生徒の一日を決めるチャイムの操作ができる山宮が眩しい。
 皆はなにも知らないのだ。今日チャイムがいつもと違う時間に鳴っても、「そういうものだ」と誰も疑問に思わないだろう。実際これまでの朔也もそうだったのだから。
「放送部って本当にすごいんだな……」
「すげえのは書道部じゃね。パフォーマンス甲子園に出たりしてんだから」
 校舎の外に垂れ幕かかってるもんな。山宮はそう言うと、もう一度喉を潤すようにペットボトルの水を飲んだ。それに合わせて喉仏が上下する。と、そこで朔也の視線に気づいたように山宮がこちらを見た。
「で?」
「え?」
「なんか用?」
 言われてはっとする。昨日の謝罪をするはずが、いつものように話してしまった。
「え、えっと」
 途端に背に汗が噴き出した。
 昨日、呼び出したのはプレゼントしたいものがあっただけなんだ。本当にごめん。それに、今井と喋ってるのを聞いちゃったんだ。罰ゲームで好きって言うの、あれ、本気だったんだ。全然分からなかったよ。
 いろいろと言いたい言葉は浮かんでくるが、言葉にならない。朔也を見る彼は真顔で、自分に好意を寄せているようには見えなかった。
「あー……」
 朔也は頬を掻いて無理矢理言葉を捻り出した。
「山宮がすごく慌ててたから、なにかあったのかなと思っただけ」
「ああそう」
 山宮が飲み干したペットボトルを鞄に戻しながら言う。
「折原、模試に向けて勉強すんじゃねえの。教室で単語帳でも見てろよ」
 いつも通りの山宮の口調が今日はなんだか突き放すように聞こえる。だが、ここで逃げ出したら二度と山宮と向き合えないような気がした。腹をくくった朔也は唾を呑み込むと、思い切って「ここで見てもいい?」と尋ねた。
「あ? なんで」
「ええっと、ここ、静かで集中できそうだから」
 すると山宮が少し考えるふうな表情をし、「ま、いっか」と呟いた。
「折原、放送室で勉強したって誰にも言うなよ」
「え? うん、分かった、言わない」
「放送室って高い機材があるからさ、部外者をあんまり入れないようにってことになってるから」
 そこで小さく山宮が笑った。
「だから、内緒な。俺とお前だけの秘密」
 俺とお前だけの。
 山宮の言葉に何故か顔が火照りそうになり、朔也は慌てて鞄を引き寄せた。その一方で安堵する。山宮が教室へ戻れと言ったのは、話したくないという意味ではなかったのだ。
「そ、そうなんだ。うん、分かった」
「……で? 模試、どこを対策しておけばいいわけ。ついでに教えろよ」
「模試の範囲なんてあってないようなもんだし、自分の苦手なところを見ておいたらいいんじゃない?」
「お前、俺の成績を知りながらよくもそんなことが言えんな。苦手だらけでどこから手をつけたらいいのか分かんねえわ」
「あはは、確かに」
「今のは否定するところじゃね」
 会話が順調に滑り出し、朔也は英単語帳を取り出そうと鞄を覗き込んでそれを思い出した。神社で買った、お守りの入った白い紙袋。
「……山宮、これ、あげる」
 驚いた表情で袋を受け取った山宮に、朔也は顔の前でぱんっと手を合わせた。
「昨日はふざけてごめん。ただそれを渡したかっただけなんだ」
 朔也の言葉に山宮が黙って袋からお守りを取り出した。その手の中に収まる紺色のお守りは、彼に似合っているように見えた。
「……健康祈願?」
「書道部で筆供養のために初詣に行ったんだ。そのときに買ったお守り」
「……なんで俺に?」
「それ見たときにマスクしてる山宮のこと思い出して。先生もインフルエンザにかかってたし、ちょうどいいかなって思って買っちゃったんだ」
 とってつけたような理由だったが、お守りをじっと見つめた山宮が「サンキュ」と言った。その声が心なしか浮ついていて、ちらりと覗く彼の耳が少し赤くなってる。
──もしかして、照れてる?
 そこでようやく朔也は彼が自分を好きなのだということを少しだけ実感した。が、すぐに山宮の口がへの字に曲がった。こちら側の手が頭を掻き、学ランの袖で顔が隠れる。
「理由も聞かずに引っぱたいたのに、俺も謝ってなかったわ。悪りい」
「ああいうこと嫌だったんだもんね? ふざけたおれが悪いって分かってるから」
 朔也の言葉に山宮の腕が下におりた。隠れていた顔が心なしかほっとしたような表情に変わる。
 マスクがないから、表情を読まれたくなくて隠したのか。山宮って、案外分かりやすいのかも。
「……で、フデクヨウってなに」
 山宮が再び顔を腕で隠すようにして頭を掻く。その口調もいつもより心なしかぶっきらぼうだ。
「使い終わった筆を神社に持っていって供養してもらうんだ。お札供養とかと同じ。書道部では毎年使い終わったのを初詣に行って供養してもらってるんだって」
「わざわざ行くなんて面倒じゃね」
「神社に行くと気分いいよ。初詣は混んでたけど、普段は静謐で、霊験あらたかって感じでおれは好き」
 そう言って少し笑うと、山宮が呆れ顔になる。
「折原ってジジくさ……。高校生で神社好きって、あんまいなくね」
「委員長も神社は好きって言ってたな」
 山宮が「確かに好きそう」と呟く。
「パタパタするノートに筆で書くやつ……委員長はあれを集めてそうじゃね?」
「御朱印のこと? おれも書いてもらうよ。季節限定のものがあったりして、始めるとはまっちゃうんだよね」
 結局朝会直前まで朔也たちはお喋りをして過ごした。放送室を出るとき、彼がそっとお守りをしまうのを見て、心に爽やかな風が通り抜けるのを感じた。