「……あのさ」
 山宮が話しかけてきたので冊子から彼を見た。
「なんていうか、お前、マジで書道が好きなんだな。ただちょっと好きとかのレベルじゃねえんだな」
 一瞬、言葉に詰まる。が、どうにかにへらっと笑って頭を掻いてみせた。
「あー……発見したと思って……。人の名前で騒ぐとか、ごめん! 気分よくないよね」
 やってしまった。
 朔也の手に汗がにじみ、背筋が薄ら寒くなる。
──折原君って、ホント残念だよね……茶髪が地毛ってホントかな。そんなに書道が好きなら筆で染めちゃえばいいのにね。
──できるアピールうぜえんだよあいつ。図書の時間に辞書見て好きな漢字を探してるとか、ただの変人だろ。
──折原、最近元気がないぞ。なにかあったなら先生に話してくれ。どうしてコンクールに入選したことを皆に言いたくないんだ?
 が、山宮は「いや」と首を振った。
「お前も割と普通なんだなって思った。ただの書道バカ。そういうことだろ」
 だがその声は朔也の耳を通り過ぎてしまう。自分を見る目線、ひそひそと囁き合う仕草、さまざまな光景が脳裏に蘇る。無音の部屋の中、自分の心臓の立てる音が耳元で鳴って息苦しさが募った。
「……ま、まあ、確かに書道は好きかなあ。小さい頃からやってるから、生活に組み込まれちゃってるっていうかさ! 今思ったけど、ローマ字の表札もおしゃれでいいなって! 読み方がいろいろある名字もあるし、需要あるよな!」
 喋りながら必死で次の言葉を探す。鼓動が早まり、息が浅くなる。はあはあと口を開いて息継ぎをしているのに、胸が鷲掴みされたように苦しい。膝の上で握るこぶしが汗で冷えていく。
 早く、早く軌道修正しないと。山宮の名前がきれいだったから、つい言ってしまった。目立つようなことを言っちゃ駄目なんだ。おれは「普通」の高校生でいたいんだ。だから、早く、早く、早く。
 そこではあという大きなため息が聞こえて、朔也はそっとそちらを見た。
「折原、お前、それ本気で言ってんの?」
 思わずぴんと背筋が伸びる。山宮がまた一つため息を重ねて、つけていたマスクをとった。薄いくちびるや目元の泣きぼくろがはっきりとし、端整な顔立ちが顕わになる。喉が渇いたのか、水のペットボトルを鞄から出してごくごくっと飲んだ。学ランのときには隠れていた白い首の喉仏が動く。
 次は一体なにを言われるのか。「ええと」と言い訳しようとすると、ペットボトルを持った手がカーペットの床をとんとんと叩いた。
「てか、お前、さっきからなんで正座? 堅苦しいわ。普通に座れよ」
 独特の部屋に圧倒されて正座していただけだったのだが、慌てて足を崩した。緊張している朔也に「あのさ」と山宮が切り出す。
「折原ってそういうとこが駄目なんだわ。『おれは書道が好きで漢字が大好きです』って堂々と言えばよくね。人の顔色窺って無難に過ごそうとしてんじゃねえよ。誰にでもいい顔してて疲れねえの?」
 その声は特に怒っているふうではなかった。こちらを見る視線も食堂のときとは違い、呆れているという雰囲気だ。
「自分の好きなことまで隠して、バカじゃね。そのチャラい髪くらいチャラくなれよ。人の目を気にしすぎっから全体的に堅いんだわ」
 そういうの、字にも出るんじゃねえの。アーモンド形の目がまっすぐこちらを見つめてそう言ったので、朔也は大きな衝撃を受けた。
「……気持ち悪いと思わなかった?」
「あ? なにが」
「おれ、山宮の名前に対してすごく変なことを言ったんだけど……篆書とか隷書とか意味分かんないだろうし」
 すると彼は「ああ」と簡単に頷いた。髪がさらりと揺れて目に入ったのか、鬱陶しそうに前髪を手で払う。
「正直半分以上理解できなかった。けど、お前が書道とか字が好きってことは分かったぜ。それでいいんじゃね。繕おうとする意味が分かんねえわ」
「いや、だって……山宮からすれば、おれ、すごい変人だろ。そういうやつとは喋りたくないだろ」
「それ、お前だけじゃね」
 山宮はあっさりとそう言った。
「自分の喋りたいこと喋りゃよくね。それに、お前の書道バカぶりを見んの初めてじゃねえし、そんな驚かねえわ」
「えっ? いつの話?」
「夏前くらいだったか? 前回のパフォーマンス甲子園でスタメンになれなかっただろ。それでトイレでガン泣きして、それなのに必死に隠そうとしてただろ」
 不意にそのときのことが思い出され、朔也は自分の顔がかーっと赤くなっていくのが分かった。

 高校生活にも慣れてきたある日の放課後、体育館に書道部全員が集合し、大会で使うサイズの真っ白な紙を前にして予選に通過したことを告げられた。
予選は実技を披露するのではなく、それを撮影した映像や写真を提出して判定を行う。それらに関しては新一年生入学前に作成したものであったから、朔也も心から喜んだ。先輩たちはすごい、この高校に進学してよかった、これで自分もパフォーマンス甲子園に参加できるのだと。
 だが、本戦に出場する十二名の選手の名前を呼ばれると、夢は一瞬にして砕け散った。補員として今井の名は呼ばれたのに、朔也はそこでも呼ばれなかった。紙を押さえる要員にもなれなかった。部員は二十名ほど。なんの役も与えられないほうが少ないのだ。
 そのまま目の前で始まった初のパフォーマンス練習。朔也はぐっとくちびるを噛みしめ、冷たい体育館の床で正座して自問を繰り返した。
 どうして? おれのなにが悪かった? おれの字になにが足りなかった? 自主練にも必ず参加していたおれのどこがいけなかったんだ?
 誰も答えを教えてくれない疑問だけが頭を渦巻いて、筆を持つ部員たちを食い入るように見つめることしかできなかった。
 書道パフォーマンスはチームワークで行うものだ。試合する横のベンチで応援するスポーツ選手がいるのと同じように、仲間の応援も参加の一つである。だが、これまで字が上手いと褒められ、勉強や運動で上位にいるのが当たり前だった朔也は、人生最大の挫折を味わうことになった。
 練習は予選通過の興奮のうちに終わった。選ばれなかった部員たちは顧問から一人ひとり励まされ、朔也も労いとともに助言された。これからは上手い字だけでなく味のある字も書けるようになりなさい、と。
 これまで手本に忠実に書くことで褒められてきた朔也は、価値観が足元からひっくり返されて全てがガラガラと崩れていくような気がした。
 あとのことは覚えていない。ショックと混乱でなにから考えればいいのかも分からず、誰とも話せずに一人きりこもってしまったのだ。

「え、なんで、それ、知ってんの……」
 すると、説明するのもめんどくさいと言わんばかりに山宮がこちらをじっと見据えた。
「あの日、部活を終えて帰ろうとしたんだわ。だけど、下駄箱に委員長のローファーがあったから、変だなと思って教室に行ったわけ。そしたら委員長が一人困った顔しててさ、こう言うわけよ。お前がトイレに行ったきり戻ってこない、他の女子たちも心配してたけど下校時刻になったから帰った、でも自分はこの状況で先に帰れないってな」
 朔也はその日の帰りを思い出そうとしたが、どうもよく分からなかった。動揺していて他のことなど意識の埒外だったのだろう。今井がそんな理由で朔也の戻りを待っていたなどと考えもしなかったに違いない。彼女と帰りが重なるのは普段からあることだし、強烈な印象が残るわけでもない。
「委員長じゃ男子トイレに入れねえだろ。だから俺が行った。外からでもお前が泣いてんのが分かって、どうするか迷ったわ。だけど、見回りの先生も来るだろうし、仕方ねえとトイレに入った。で、音で俺が来たことに気づいたんだろ、慌てて出てきたお前とすれ違った。お前はこっちのことなんか見てなかったけどな」
 それを聞いてますます恥ずかしさがこみ上げたが、一方で山宮がいたことを覚えていない自分にも驚いた。それほどまでに混乱していたのか。いや、きっと、彼が言うように、人のことに関心がなかったのだ。
「……うわ……めちゃくちゃ恥ずかしい……皆にもばれてたとか……誰もそんなこと言ってなかったのに……」
 立てた膝に頬杖をついた山宮が、非難するような目でこちらを見てくる。
「翌日委員長にお前の様子を聞いたけど、委員長が選ばれたことばっかり口にして、笑顔を崩さなかったって。あたしはなんにも言えなかったって言うから、委員長の責任じゃねえだろって言った。他の女子たちもお前に話しにくかったんだろ。簡単に言うと、全部折原が悪い。お前は委員長に気を遣ったのかもしんねえけど、あいつがお前に話してほしかったこととは違うんじゃね。お前ら、幼馴染みなんだってな。だったらそんくらい気づけよバカ折原」
 完璧なまでに一刀両断され、朔也の頭が下がった。
「返す言葉もないです……」
 だが、山宮は再びざっくりと切り込んでくる。
「で、その日お前のこと観察してたけど、部活のことなんておくびにも出さなかったもんな。宿題が難しかったとか、昼ご飯になに食べたいかとか、当たり障りのねえことばっか笑顔で喋ってた。こいつ、誰に本音を言うんだろって思ったわ。トイレじゃ『なんで駄目なんだ』『来年は必ず』『絶対諦めない』とかぶつぶつ言いながら泣いてたくせに。『笑顔だ笑顔』『耐えろおれ』とか自分を言い聞かせるようなことも呟いてたけど、そもそも笑顔の使い方と耐え方間違ってんだわ。お前っててんで駄目だな」
 山宮の台詞に朔也は顔から火が出る思いがした。泣いていたことを知られた以上に言葉を聞かれていたとは。思わず頭を抱え込む。
「……あの、具体的な言葉とか、いいから……なんで覚えてんの、ホントやめて……」
 だが、山宮は容赦ない。
「本音さらしたくねえなら家帰るまで泣くんじゃねえよ。男子高校生のあんな泣き顔初めて見たわ。でかいから俯いても見え見えなんだよバカ折原」
「……それは、山宮君が、小さいからです……」
「そうやって話を逸らそうとするのが駄目なんだよ。言えばいいだろ、そうですすげえ悔しくて泣いてましたって。バレてんのになに繕ってんだよ、バカじゃね」
 何度も山宮がバカを繰り返すので、次第に恥ずかしさより悔しさが上回ってきた。
 こいつ。ここぞとばかりにバカバカ言いやがって。そんなに言わなくたっていいだろ。
 ぐぐっと芯から湧き上がる感情を堪えて声を抑える。
「バカバカ煩い……駄目駄目ムカつく……」
「やっと本音が出たか。折原ってめんどくせえわ」
「……めんどくせえとか最低……あと、山宮すごいS……」
「Sじゃねえわ。誰もお前に本音を言えねえから言ってやってんだ、感謝しろよな」
「……マジでふざけんな、この、チビ山宮……」
「折原、次チビって言ったらもっと恥ずかしいこと言うからな。どんな泣き声だったかどんな顔してたか詳しく説明すっから」
「……マジでふざけんな、この、イケメン美形線対称……」
「なんだそれ。悪口言い慣れてないいい子ちゃんか。イケメンでも美形でもねえわ」
「……美形は名前の話……基一、線対称の名前羨ましい……」
「結局それに戻るのか。どこまでいっても書道バカなのな、お前」
 ぐぐぐっと朔也のこぶしに力が入った。
 ああ、こんなにもストレートにバカにされたのは初めてだ。もんのすごく清々しいまでに山宮がムカつく。
 朔也はすうっと大きく息を吸った。勢いをつけて顔をあげるとびしっと山宮を指さす。
「黙れ! この赤点スレスレチビマスクハスキー!」
 いつぞや頭に浮かんだ罵りがそのまま口から飛び出したが、朔也はすぐに気づいた。
「あ、今、マスクしてなかった」
 すると一転、山宮がぷはっと噴き出した。部屋の空気が途端に変わる。むっとした朔也が睨んでも、山宮は腹を抱えて笑い続けた。
 やべえ、折原ウケる、天然か。ひとしきり笑ったあと、こちらを見、それでも堪えきれないように腹が痛え、と肩を震わせる。機械のつまみやボタンまでつられて笑い出しそうだ。
「ははっ、折原ってマジ笑えるわ! てか、赤点云々は否定できねえけど最後のハスキーってなに。俺、ハスキーボイスじゃなくね」
「それ、ハスキー違いだから」
「意味分かんね。あ、でもチビって言ったから言うけど、あんときお前」
「わあ、やめろ!」
 慌てて声をあげると、山宮が再び噴き出した。
「お前、いつもそうしてりゃいいんじゃね」
 くくっとおかしそうに笑ってこちらを見た。
「そうやって普通にしてろよ。誰とでも仲良しこよしの優等生よりよっぽど人間らしいわ」
 山宮の顔は心底楽しそうで、いつの間にか不快な気持ちは消えていた。
「爆笑した山宮に言われたくない。クラスで全然喋んないくせに」
「俺は話しかけられればちゃんと話す。笑わせたのは折原だろ。あと俺、チビじゃねえから。女子の平均身長くらい超してるわ」
「それ、何センチの話」
「一六五くらいあるし。なんだよお前のガリバー旅行記みたいな身長は」
「へええ、それ一六四センチ以下の人が言う台詞に聞こえるなあ。おれ、そんな巨人じゃないから。通常人間サイズだから! 四月時点で一八一センチしかないから‼」
「お前の具体的な数字なんか聞いてねえわ。なんだよ『しか』って。嫌味か」
「普通にしろって言ったから普通に言っただけ。ついでに普通に聞くと、なんでいつもマスクしてんの? 身長よりそっちのほうが気になるんだけど」
 すると山宮が苦笑いした。
「理由はいくつかあるけど、単純に一つは喉を痛めないため。放送部は声が命。喉痛めてたら、部活できねえわ」
 そう言われて朔也は当初の目的を思い出した。居ずまいを正して尋ねる。
「この間も聞いたけど、放送部ってどんな部活なの? 他の部員はもう帰ったの?」
 すると山宮が困ったように室内をくるりと見回した。ふうと小さく聞こえたため息が部屋に消える。
「まず、部員は俺だけで他にはいない。一人でも楽しいからいいんだけど」
 え、と驚く朔也に構わず山宮が続ける。
「活動内容は本当に雑多。今日は、学校の近所にあるデイサービスの施設でクリスマスパーティーの手伝いに行ってきた。音楽の操作とアナウンスが主だけど、飾りつけなんかも手伝ったわ。お前が今持ってるのはその台本な」
 改めて手元の冊子をパラパラと捲ると、「クリスマスソングを流す」「台詞:皆さんメリークリスマス! 今日は十二月二十五日です。」「(拍手)」等、まるで劇の台本のように文が並んでいる。
「今日みたいに放送関係のボランティアに行くこともあれば、学校内でやることもたくさんある。夏にある大会のために練習もするな」
 言葉は抽象的だったが、そこでふと思い出したように山宮が鞄から同じような冊子を取り出す。
「これ、年明けに使う書道部の台本。甲子園の予選に向けて体育館でパフォーマンス映像を撮るんだろ? つっても俺は喋んねえけど、どこで音楽を流すのかとか、誰が動くのが合図なのかとか、全部まとめてあるぜ。音楽関連、放送部の仕事だから」
 ひょいと簡単に山宮がそれを差し出してきたので、朔也はまっさらな表紙を捲った。
 中を見、目が見開くのが分かった。そこには箇条書きで書道部の動作や台詞が書かれており、その間に太字で「音楽を流す」等放送部の作業が記されていた。
 書道部の顧問に聞いたのだろうか、挨拶の位置や誰が最初に動くのか等、部員しか知らないようなことまでメモが書き込まれている。たった数分の書道部の演技について、放送部がどう連動しているのかが事細かに書かれてあった。
 それは、放送部抜きでは、いや、山宮抜きでは書道パフォーマンスが成り立たないことを証明していた。
「折原、ここ、こっそり見てみ」
 山宮が校庭とは反対側についたカーテンの部分を指さした。幅六十センチほどしかない小さなカーテンを下からくぐってそこを覗く。するとはめ殺しの窓越しに練習に励むバドミントン部の姿が目に飛び込んできた。スマッシュを決めた生徒のガッツポーズをとる笑顔が見える。
「放送室の裏側、第二体育館なんだわ。ここから中の様子が見れるってわけ」
 ふと気づくと、隣に同じように中を覗く山宮がいた。
 朔也は窓からそちらへと目線を移した。体育館内が明るいからか、山宮の目より上の部分だけが明るく照らされている。嬉しそうに目を細めている様子は、かくれんぼをして鬼が見つけに来るのをわくわくして待っている子どものようだ。
「書道部も第二体育館で撮影するだろ。俺はここで合図を待って音楽を流す。これはそのための小窓ってこと」
 それだけ言うと、山宮はすぐにカーテンからくぐり抜け、壁を背にしてすとんと座った。朔也もそれに倣う。今度は真正面に引かれた灰色のカーテンを見て山宮が顎をしゃくる。
「こっちのでかい窓は校庭全体を見るためで、役割は同じ。例えば体育祭で校庭に音楽を流すときはここから様子を見て流してる。校庭に音流すときって、音量にすげえ気遣うんだわ。近所は住宅街だし、煩えなんて苦情が来たら放送部の責任だろ。フェーダーを上下させて調節すんだけど、場所によって聞こえ方が違うから、あっちこっちで先生たちが音上げろだの下げろだの指示してくるからマジ怖えんだわ。次の競技のアナウンスもここからな。顧問の先生と手分けするけど、出番を控えてるのに自分でアナウンスしなきゃいけねえときは焦ったわ。気抜くと声が大きくなったり早口になったりするし」
 そこまで言うと、先ほど楽器のように操った機械を指さす。
「これと似た機械、テレビで音源の収録風景とかで見たことあるんじゃね。ミキサーっつうんだけど、音響関係には必須なんだぜ」
 山宮が腰を浮かせて、台のつまみなどを指先でちょんちょんと触れた。
「ここらへんは本校舎関連、こっちは別棟関連。この列になると地下とか第二体育館とかな。第一体育館は体育館内で操作することが多いな。校庭はここのスイッチをオンにする。これで校内殆どの施設の放送音響管理ができるってすごくね?」
 機械を前に、先ほどと同じようにその目がきらきらと輝き出した。声のトーンがあがり、華やいだ声が空気の色を変える。
「行事の手伝いなんて使いっ走りみたいに聞こえるかもしんねえけど、この小さな部屋から学校にいる全員にいろんなことが伝えられるんだぜ。きっと、誰も俺が操作してることを知らねえし、先生たちだって知らねえこともある。でも、誰かの役には立ってる。そう考えたら他のことなんてどうでもよくなるわ。な、放送部って最高だろ!」
 泣きぼくろのある目元が嬉しさを堪えきれないといったように笑う。朔也の心に深い感動が湧き起こった。
 放送部がどれだけ学校生活に関わっているのか、山宮がどれだけ学校生活に貢献してきたのか、全く知らなかった。自分がどれだけ助けられてきたのかも。
 そして、自分を堂々と言えることがこんなにも人を輝かせるのだということも知らなかった。
──俺のことなんかなんも知らねえ。
 改めて山宮の言葉が蘇る。
「……ごめん」
 朔也が謝ると、山宮がきょとんとしたようにこちらを見た。
「おれ、山宮がこういうことをしてるって知らなかったし、書道部に関わってたことも知らなかった。他人に興味ないって、この間言われた通りだった。反省した」
 するとそのときの会話を思い出したのか、山宮が「あー……」と少し俯いた。さらりと垂れた髪からぴょんと耳が覗き、かりかりと頭を掻く。
「そんなふうに言われたら恥ずいわ。あのときちょっといらいらしててさ、俺も言い過ぎたし」
 室内の空気が緩む。防音の部屋は学校内にいるのにそれを感じさせる音が聞こえてこない。だからこそ、山宮の感情が部屋いっぱいに広がるのだ。
 台本を「ありがとう」と返すと、山宮は大切そうに鞄にしまった。
「改めて山宮のすごさが分かった。文化祭での書道パフォーマンスもここで音楽を流してたのか」
「正解。すごいのは設備だけどな。俺はただ部活を楽しんでるだけ」
「それってすごいな……おれが書道してたってなんの役にも立たないし」
「それは違くね。お前の字を見て書道やりたくなるやつがいるかもしんねえし、いつ誰の役に立つかなんて分かんねえだろ」
 そこで山宮がにやっとする。
「自分の名前が線対称って知ったやつもいるぜ」
 その言葉に朔也は笑ってしまった。今更ながらはしゃいだ自分が照れくさい。
「だって、山宮基一って書体を変えれば完璧に線対称になるから、すごい発見だと思ったんだって」
「大発見したところ悪いな。俺の名前、『きいち』じゃねえんだわ。『もとい』。始めは基だけでもといだったんだけど、じいちゃんが長男に一を入れたいって言って、基一でもといになった」
「えっ、ごめん! 人の名前を間違えるとか、すごく失礼じゃん! きいちって連呼したし」
「たいしたことじゃねえわ。よく間違われるから俺も普段は訂正しねえし。知ってんの、担任と英語の先生くらいじゃ」
 そこで山宮の言葉が不自然に途切れた。一瞬考え込んだ様子に、朔也もはっとする。
「あ」
「あ!」
 二人の声が重なった。
『MOTOI、線対称‼』
 顔を見合わせ、同時に噴き出した。機械に囲まれた無機質な空間に二つの笑い声が重なる。
「ははっ、山宮はいいなあ。漢字圏でも英語圏でも線対称!」
「線対称に美意識感じてんの、お前だけだから。でも、自分の名前がどっちも線対称とか、全然気づかなかったわ」
 しみじみと噛みしめるように山宮が頷く。
「おれの中学に春岡先生っていう先生がいたんだけど、下の名前も美しい南でみなみでさ。憧れだったよ、名前が」
「名前が」
 折原ってやべえ。くくっと山宮が笑う。今日初めて見た山宮の笑顔は教室に溶け込んでいる人物とは別人のようだった。
「……もう一つ発見があった。山宮って結構笑うんだ」
「俺も発見があった。お前が結構面白れえやつってこと」
 再び二人でぷっと噴き出す。
「ちなみに、他にお勧めの名字はあんの?」
「小林さんは王道で好き。東出さんは明るくて高市さんは渋い!」
「小はちょっと違くね」
「それは楷書で考えてるから。中谷さんはどう?」
「お、いいな。俺でも分かる線対称だわ」
「下の名前に真とか文とかあると更にいいと思う」
「姉貴二人いるけど、一文字で茜と葵。微妙にぽくね?」
「それすごい! 山宮の家ってきょうだい皆すごいじゃん! おれも姉ちゃんいるんだけど、夕方生まれだからひらがなでゆう」
「折原ん家の名づけって面白いよな。姉ちゃん、夜に生まれたらどうなったんだよ」
「さよ、だったらしい。真夜中ならまよ、朝ならあさひ、昼ならまひる」
「そのセンス最高だわ」
 そこで山宮がなにかに気づいたようにミキサーの隣の棚を見た。それを目で追うと、一つの黒いデッキに白字で時刻が浮かんでいるのに気づく。17:28:46。
「あ、まずい、下校時刻!」
 しまった、書道室に道具が出しっぱなしだ。
 我に返った朔也は壁から背を起こした。お喋りに夢中になってすっかり忘れていたが、部活の休憩のつもりでここに来たのだ。
「山宮ごめん! 書道室に帰らないと先輩に」
 慌てて立ち上がろうとしたところへ「ちょっと待て」と山宮が手で制した。突然がらりと変わった鋭い声に言葉を呑む。真剣な眼差しがデッキの数字を見やった。17:29:12。
「折原、いいって言うまで絶対物音を立てるなよ」
 山宮がミキサーの前に立って慣れた手つきでパチパチとスイッチを入れた。
 17:30:00。
 キーンコーンカーンコーン……数字が五時半になったのと同時に放送室内にもチャイムがわんわんと響く。スッとつまみを押し上げて、マイクの前で紺色のセーターの背がすうっと息を吸って膨らむと、聞いたことのある声が流れ出した。
「下校時刻、三十分前です。部活動のない生徒は、下校しましょう」
 朔也の目が丸くなった。
 先ほどまでとは違う、透き通った声が一筋の風のようにマイクへと吸い込まれる。どことなく無遠慮な普段の声色はなりを潜め、オレンジ色の夕焼けを思わせる声が時計の針を進めるように学校全体の時刻を変えた。
「部活動に参加している生徒は、帰り支度を始めましょう。下校時刻、三十分前です……」
 同じ台詞を、同じ口調で繰り返す。生徒の背中をそっと押して送り出すような、優しさと温かみのある声。
 朔也の脳裏に校内の光景がまざまざと思い浮かんだ。
 教室で、廊下で、体育館で、部室で、食堂で、中庭で、それぞれ思い思いに過ごしていた生徒たちがその時間に気づく。笛が鳴って試合が終わり、お喋りをやめた生徒たちが鞄を持ち、パックのジュースを飲み干して、昇降口で靴を履き替える。それぞれが校門へ向かい、寒さに白い息を吐きながら笑顔で「また明日」と家路につくのだ。
 最後まで言い切ったらしい。白い指がつまみをスーッと静かに下げてパチンとスイッチを切り替えた。
「ん、いいぞ」
 普段通りの声に戻った山宮が簡単にそう言ってこちらを見た。が、目の前で山宮が放送するところを見て、朔也の口から「すごい」という言葉が漏れた。
「この声、山宮だったんだ。毎日のように聞いてたのに気づかなかった……穏やかで落ち着いた声で、下校放送に合ってる……どうやったらそんな声が出せるわけ? すごい、本当に、すごい」
 他に表現が思いつかずすごいしか繰り返せなかったが、瞬間面食らったように真顔になった山宮が照れたように目を逸らした。
「恥っず……別にすごくねえわ……」
 謙遜する山宮に「いやいや!」と思わず身を乗り出す。
「いやいや、すごいって! たまに先生が放送するときもあるけど、ちょっと違うなって思って別の声だって気づくから! 今、山宮の放送で空気が変わったのが肌で分かった!」
「……ま、授業で喋るのと校内放送するんじゃ、先生たちも勝手が違うんじゃね。俺がいないときの先生たちの放送は知らねえけど」
 マスクを掴もうとしたらしい手が顔に触れて、口元を隠すように覆う。少し赤らめた顔には角がとれたような親しみやすさがあった。
「強い口調とか棒読みっぽいときもあるよ。先生たちが悪いってわけじゃなくて、山宮の放送がすごいってことなんだけど! 上手く言えないけど、とにかくすごいって!」
「……お前、狙ってる?」
「え、なにが?」
「いや……こんなん、練習すれば誰にでもできるし……」
「山宮の声を聞いて帰ろうって皆が思うんだからすごいじゃん! さっき山宮が言ったように、校内の皆に伝わるってことだろ!」
「……マイクに向かって言うんじゃなくて、マイクの向こうの誰かに言うつもりになればそうなるし……」
「それだけじゃないよね? 喋り方、ゆっくりで独特だったし」
「腹式呼吸とか、ポーズとか、テンポとかに気をつければ……」
「ポーズってなに?」
「間、みたいな……マジでこれ、やめね? 自慢できることじゃねえわ。ただのテクニックだって」
 山宮ががくっと頭を垂れてはああと深い息をつく。だが、そうするとぴょんと赤い耳が覗くので、普段とのギャップが出てしまうのだ。シベリアンハスキーがクールな見た目と違って人懐っこさを見せるのに似ている。
「てか、折原、書道室に戻れよ。やることあんだろ」
「あ、そうだ! 道具しまわないと先輩に叱られる。ごめん、もう行く!」
 朔也が立ち上がると、俯いたまま「ん」と山宮の手があがった。急いで上履きに足を突っ込み、「お邪魔しました!」と重い扉を押し開ける。後ろから「真面目か」と小さな声が聞こえた。
 外に出ると、いつの間にか日が沈んでいた。帰り支度をする生徒の気配と夜のしんしんとした冷たい空気がミスマッチに感じられる。
 だが、朔也の顔には笑みが浮かんだままだった。自分がひどく高揚しているのが分かる。誰かと話すのに夢中になって時間を忘れるなんて久しぶりだ。最近は試験勉強に必死だったし、部活では悩んでいるのだからなおさらだ。
 なんか、すっごく楽しかった。山宮と話すの、面白いじゃん。
 教室での彼は静かで風景に溶け込むようにそこにいる印象が強かった。恒例化した罰ゲームの相手をするのもとっくに慣れてしまっていて、そのこと自体特に思い返すこともなかった。部活のことを聞いたときも、自分とは関係ないと思っていた。
──お前、他人に興味ねえだろ。
 そうか、こうやって人のことを知るのも楽しいのか。誰かを知りたいっていう気持ち、初めて分かった気がする。
 校内から帰宅する生徒の喋り声が聞こえてくる。朔也はぱしゃっと水たまりを蹴って校舎入り口に向かって走り出した。