【六】
ピーッと笛が鳴り、朔也は顎からしたたり落ちる汗を拭って肩で息をついた。コートでゼッケンを脱いでいると、両肩をそれぞれぽんと叩かれる。
「朔、ドンマイ!」
「シュートを外したの気にすんなよ」
「ホントごめん。あれ入ってたらうちのクラスが勝てたのに」
「半分お遊びのバスケだし、そんな責任を感じなくてもいいだろ」
別チームと入れ替わり、朔也はクラスメイトたちとコートから出て体育館の壁沿いに座った。
冬らしい寒さが和らいだはずのその日、昼前から曇り出した空は霧雨に変わった。外で行われるはずだった体育は男女共に体育館内での球技に変更され、朔也は久しぶりのバスケの試合に息を切らせた。
次の試合開始の笛が鳴ると、隣に座るクラスメイトが言う。
「なーんか朔、最近変だよな」
「ぼーっとしてること多いよな?」
試合に身が入らなかった朔也は内心ぎくりとし、口端をあげた。
「そ、そう? 自分ではそんなつもりはないんだけど」
「この間黒板に書く字を間違えてただろ」
「そうだっけ。なんだろ、寝不足かなあ」
あははと笑いながら内心ため息をつく。本音を話せる相手がいなくなると、学校生活は思った以上に息苦しい。朔也はコート内を眺め、そこに山宮がいることに気づいた。
あれから一週間以上がたったが、彼とは一言も話していない。翌日放送室を訪ねたが、いないのか鍵をかけているのか、扉は固く閉められていて、二度と開くことはなかった。教室で目が合うこともない。
狭い放送室の中、勉強をしたりお喋りに花を咲かせたりした時間がどれだけ貴重だったのか、今なら分かる。泣きぼくろの目元が笑い、薄いくちびるがにやりとつり上がり、放送部のことをきらきらとした目で語っていた山宮はもういない。
「朔ちゃん」
ジャージ姿の今井がなにかを持ってやって来る。
「試合見学中にごめんね! 書道部の先輩に贈る色紙、隣のクラスから回ってきたよ」
「ええ? このタイミングで渡す? 今井が持っててよ」
「あたしも今渡されたの! もう、全部押しつけるんだから」
「そこは頼むよ委員長! よろしく!」
朔也が笑顔で手を合わせると、ちょっぴり不満そうな顔つきで「仕方ないなあ」と今井が肩をすくめる。再び女子のコートへ戻っていく背中を眺め、心の底から彼女に感謝した。今井がこれまで通りでいてくれるおかげで、クラスも部活も居心地のよさは保たれたままだ。
「おい、見ろよ。先制シュート!」
「次こそうちのクラスが勝てるぞ」
クラスメイトの声に朔也はコートを見た。かけ声とドリブルの中、キュッと目の前の床が鳴る音がして選手が一歩後ろへ下がった。そちらを見やればマスクをしたままの横顔が目に飛び込んでくる。ぐっと膝が曲がり、山宮がボールをとる体勢になる、そのときだった。
「朔! ボール‼」
遠くから飛んできた声にそちらを振り返った瞬間、視界に迫る茶色のボールが見えた。慌てて顔の前に出した手にバンッと大きな音を立ててボールが収まる。
「おっ、朔、ナイス!」
「あっぶねー!」
隣に並んで座っていたクラスメイトの声に、朔也の口からも「びっくりした」と声が漏れた。コート内から「朔、悪い!」と声が飛んでくる。
「今日の授業はドッジボールじゃないんだけど!」
朔也が笑って叫ぶと、投げたクラスメイトも笑った。
「ボールがお前に吸い寄せられたぞー。でかいから引力が強すぎんだよ!」
「よく言うよ! 次当てたらマジの力で返すからなー」
ボールをふわりと投げ返す。その瞬間、右の中指にズキンと電流のようなものが走って、「いっ……」と小さな声が出た。
「どうした?」
「いや、なんか、右指が」
「なんだ、突き指でもしたか?」
すぐ隣で試合を見学していたクラスメイトが言う。その言葉に朔也は自分の右手を見つめた。
ああ、これがよく言う突き指なのか。……突き指?
それを理解した瞬間、顔から一気に血の気が引いた。
突き指……? まさか、字が書けなくなるんじゃ。
急に心拍数があがったからか、指のズキンズキンとした痛みが強くなる。見つめる右手がカタカタと震え出した。
うそだろ、こんなことでパフォーマンスに参加できなくなったら、おれ──。
「折原!」
その声にはっとすると、ゼッケンをつけた山宮が怖い目つきでこちらを見下ろしていた。なにも言わずに朔也の右腕を掴み、ぐっと痛いほどの力で引っ張る。
「折原は保健室に行くから! あとは任せた!」
マスクをずらし、普段大声を出さない山宮がコートへ言い放つ。そのまま廊下へ朔也をぐいぐいと引っ張った。
「なんで山宮?」
「てか、山宮、試合中……」
戸惑いの声が追いかけてきたが、山宮にはどうでもいいらしい。引きずられるままにされている朔也に鬼のような形相で怒鳴る。
「なにぼさっとしてんだ! 保健室に行けよ!」
「う、うん、でも、腫れて、ないし、数日、放っておけば、治るかも、しれないし」
己を説得するような言葉は出てくるのに、頭の中は混乱と恐怖で自分がどんな表情をしているのかも分からない。そんな朔也に山宮が更に大声で怒った。
「これから腫れてきたらどうすんだよ! 大切な右手だろ!」
足がぎくしゃくとして上手く動かず、ただただ山宮に引きずられるまま保健室に行く。扉に「外出中」の札が下がっているのを見、山宮が「先生を探してくる」と職員室のほうへと駆け出す。一人取り残された朔也にパニックの波が押し寄せた。
どうしよう、どうしよう。突き指ってどれくらいで治るんだ? こんな大切な時期に怪我をするなんて、おれはなにをやってるんだ。卒業式パフォーマンスに出られなくなったら、部員全員に迷惑をかける。一人の問題じゃ済まされない。
「折原君?」
やわらかい声に顔をあげると、マスクを外した山宮と白衣を着た養護教諭が立っていた。
「指にボールが当たっちゃったのね? ちょっと見ましょうか」
外出中の札をくるりとひっくり返したあとに続いて保健室に入る。椅子に座った朔也の向かいで養護教諭がなにか話しながら処置をしてくれたが、その言葉は朔也の耳を素通りしてしまった。
「折原。折原!」
山宮の声に我に返ると、養護教諭が机上にあるグレーの棚から外出届の紙を取り出すところだった。
「書道部なのね。学校の近くの整形外科に行ってくるといいわ。担任の先生は職員室にいらっしゃったから、相談してらっしゃい」
すぐに「ありがとうございました」と答えたのは山宮だった。なにも言えないまま椅子から立ち上がると、彼が廊下のほうへと背中を押しやる。山宮が頭を下げ、保健室の扉を閉めた。パタンという音に足から力が抜けて、廊下の壁に凭れながらずるずるとしゃがみ込む。
「……やば。山宮、どうしよう」
いつの間にか手の中にあった外出届がくしゃくしゃに折れている。
「おれ、突き指とか、初めて。これ、どれくらいで治る? おれ、卒業式のパフォーマンスに出られるの?」
パフォーマンス甲子園に向けて練習に励む部員を見ていたときの、体育館の床の冷たさ。そのときと同じひんやりとした波が心の端からひたひたと押し寄せる。
「出られなかったら、おれ、一年間で一度もパフォーマンスを披露しないことになるんだけど。そんなことになったら、ホント悲惨なんだけど。なんでこの高校に来たのか、なんで体を鍛えてまで書道に取り組んできたのか、全部意味がなくなるじゃん……」
じわっと目が熱くなった次の瞬間にはぼろぼろと涙が出てきた。
「ああ最悪……おれは、なんのために頑張ってきたんだ……」
遠くから聞こえるボールの音と生徒たちの声援。職員室からの物音やどこかで授業をしている声まで聞こえてくる。そんな中聞こえるのは情けなく泣く自分の嗚咽だけで、朔也は零れる涙をジャージの袖で拭った。ぼやける視界に目の前に突っ立った山宮のシューズがある。
と、髪をふわっと撫でる手を感じて、朔也は顔をあげた。ゼッケンをつけっぱなしの山宮が、一転、静かな表情でこちらを見下ろしている。
朔也の頭から離れた手が、そのまま目の前に差し出される。色白の、女の子のような細い指。それを握ると、頼もしく力強い腕が引っ張って朔也を立たせた。
「折原、まず病院に行け」
山宮の声は淡々としていたが、こちらを見上げる目は真剣だった。
「まだ不参加と決まったわけじゃねえだろ。想像で泣いても答えなんか出ねえわ」
きりりとした表情も落ち着いた口調も頼もしく映る。
「すげえ練習してきたのに、目前になって出られねえかもってなったら誰だって怖いわ。俺も、前にあったから」
彼が今までに見たことのない苦悶の表情を浮かべた。
「毎日練習して、誰にからかわれようと喉を痛めねえようマスクして、予防注射も打ったのに、コンクール前日にバカみてえな高熱が出てさ。声がガラガラになって布団の中で寒さと恐怖に震えてんのに、誰も助けてくんねえんだわ。解熱剤を飲んで会場に行ったけど、自分の番が来ても声は治んなかった。結局棄権したわ。中学最後のコンクールだったのに」
山宮の声が、傷ついている。悔しさと涙を呑んできた声だ。ずっと一人で耐え忍んできた者の声だ。人に頼れと言ったのは、彼自身が人に頼れずにいたからだ。
山宮の痛みが自分のことのように伝わってきて、再び涙腺が緩みそうになる。
「自暴自棄になって放送部の強豪校を受験すんのもやめて、姉貴の母校ってだけでここに進学した。でも、顧問の先生がコンクールで俺を見てて、部員が卒業して廃部になったけど君がやるならって、俺一人のために放送部を復活させてくれた。放送室を開放してもらって居場所もできた。そこに、お前が来た」
山宮の力のこもった声が心にまで響いてくる。
「折原、お前には委員長たち仲間がいるだろ。書道パフォーマンスは皆で作るものなんだろ。だったら病院に行け。行って、症状を聞いて、対処法を教えてもらえ。きっと仲間がフォローしてくれる。その日のその直前まで諦めるなって言ってくれる。それに」
そこでゆっくりと俯いた黒いつむじが小さな声を出した。
「……俺も、卒業式パフォーマンスに音声で参加するって言ったろ。俺だって、お前がいねえと、やる気、出ねえんだわ……」
朔也の目が見開いた。その髪から赤くなった耳が覗いている。が、それをよく見ようとした瞬間、溜まっていた涙で視界がほろりと崩れた。
「……そういうことだから。とにかく、先生んとこ行って外出届を出してこい。病院から戻ってきたら書道部に報告しろよ。……俺も放送室にいるから」
山宮はぶっきらぼうにそう言い切ると、くるりと背を翻した。襟足から顕わになったうなじも、握ったこぶしも、ハーフパンツから伸びるふくらはぎの筋肉もぎゅっと引き締まっている。ゼッケンの後ろ姿はこれまでにない感情を吐露した男の背中だった。ずんずんと早足で体育館へと遠ざかるその背へと手が伸びる。だが、言葉が出てこない。なにを言えばいいのか分からない。
山宮の姿が消えると朔也は涙を拭い、立ち上がって外出届の紙を丁寧に広げた。
病院へ行こう。卒業式までどうするかは、顧問の先生や部員の皆と考えればいい。病院から帰ってくれば、山宮になんて伝えればいいのかも分かるはずだ。
もう一度目蓋をこすると、朔也は職員室へしっかりと歩き出した。
病院から学校に戻ると夕日の眩しい時間になっていた。担任に戻ったことを伝え、職員室を出てまっすぐ書道室へ向かう。だいだい色に染まる廊下や階段を歩くと、上履きがリノリウムの床の上でぺたぺたと足音を立てた。部活に精を出す生徒の声が鉄筋の校舎内に反響する。
朔也は廊下突き当たりの書道室まで来て、足を止めた。カーディガンの襟に留めていたピンで前髪をびしっと留め、よし、と自らを叱咤して扉を開ける。ガラッという大きな音とともに声を出した。
「遅くなりました! 本日もよろし」
「折原君! 大丈夫⁉」
朔也の言葉を遮って真っ先に駆け寄ってきたのは顧問だった。テーピングを巻いた朔也の手をとり、眉を寄せる。
「体育の時間に怪我したって聞いたけど。お医者さんはなんだって?」
心配そうにこちらを見上げた顧問の後ろで、今井を含む部員が皆一同に筆を持つ手を止めて息を呑んでいた。
「──すみません!」
次の瞬間、朔也は頭を下げた。
「すみませんでした! 自分の不注意で、先生や部員全員にご心配とご迷惑をおかけすることになってしまい、本当に申し訳ありません! 本当に……いつも役立たずで」
朔也の手をとっていた顧問がぎゅっと手に力を込めた。それに顔をあげると、顧問が心配そうな顔つきで口を開く。
「お医者さんはなんて? どれくらいで治るって?」
「……あ、ええと、軽度の突き指で……アイシングと自分でできるリハビリをやれば、一週間くらいで治ると言われました」
朔也の答えに書道室内がわっと沸きかえった。
「よかった、本当によかった!」
「折原君、皆心配してたんだからね」
「今井ちゃん泣かないで」
「朔、ちゃんとリハビリしてよ?」
いつも叱咤を飛ばす厳しい顧問が温かい手で朔也の右手を握った。
「全員でいいパフォーマンスにしよう! 練習頑張ろう!」
「……すみません」
顧問の言葉や皆の笑顔に涙が溢れた。慌てて左腕で押さえると、カーディガンの毛がちくちくと顔を刺す。
「おれ、すみません、こんなことで、泣くとか、恥ずかしい、ホント、すみません」
すると後ろで部長がぷっと噴き出し、今度は書道室が笑い声に包まれた。
「泣いていいぞ~先輩たちがよしよししてあげる」
「今日決めたところを話そう」
「うん、パフォーマンスの話をしよう。涙拭いてさ! ね!」
涙腺が壊れたようにとめどなく涙が流れる。だが、それは悲しいからではない。嬉しいからだ。
山宮の言う通りだ。皆が支えてくれる。おれは一人じゃなかった。書道パフォーマンスは、全員の心を合わせるものなんだ。部活を超えて、山宮も一緒に。
気づかぬうちに朔也は何度もありがとうございますと繰り返していた。
「ただいま」
コンコンとノックして放送室の扉を開けると、そこにはいつも通り、床に座り、椅子を机代わりにしてプリントに取り組んでいる山宮がいた。
「まだ下校時刻まで時間あるぞ。書道部はいいのかよ」
保健室の前で見せた激情は既になく、淡々とした様子の彼に朔也はテーピングの巻かれた右手をひらひらさせた。
「今日は怪我の報告とパフォーマンスについて話をしただけ。皆はまだ書いてるけど、おれは帰っていいってさ。早く帰って治せって」
朔也の言葉が途切れると自然と会話も切れた。が、目は合ったままだ。朔也は床を指さした。
「あがっていい?」
「……今更だわ」
「だよな」
こちらをじっと見続ける山宮の前で鞄を床に置き、少し間を開けてすとんと隣に座った。改めて室内を見回す。数ヶ月前までよく知らなかった部屋と、よく知らなかったクラスメイト。いつからこの位置が安心できる場所になっていたのだろう。
「それ、なんのプリント?」
朔也が問うと、彼はいらいらしたようにマスクをむしり取ってexplainと書いた。
「英単語テストのペナルティプリント。exラッシュがうぜえ。俺の脳からアルファベットがログアウトしそうだわ」
「英単語の暗記が苦手なの?」
「言ったろ、xとyが登場してから俺の世界は謎に支配されてんだよ」
不満たらたらといった口調で山宮が吐き捨てる。それ、数学の話じゃなかったのか。そう言おうとしたが、彼の目線が右指に注がれているのに気づいた。病院のにおいが染みついたような、真っ白なテーピングでしっかりと巻かれた指。
「……早く来て正解だって病院で言われた。冷やして様子見ながら曲げる練習すれば、一週間くらいで治るって」
「そうか」
ほっとしたような吐息が落ちる。生徒の話し声も部活の物音も遮蔽されて聞こえない小さな部屋は、校内でトリミングされた二人だけの空間だった。
「先生も皆も心配してくれてた。怪我なんて不注意だって怒られるかと思ったけど、全然そんなことなくて。おれは自分を書道部に貢献できないお荷物だと思ってたけど、皆はそう思ってなかったみたい。卒業式に向けて全員で頑張ろう、だって」
「そんなの、当たり前じゃね」
「今井が山宮君も一緒だね、だってさ」
「……あいつはそういうやつなんだよ」
ため息混じりの声が消えると、放送室内がしんとした。外は二月の寒さなのに、陽だまりのように温かく感じられる。朔也はミキサーの向こうで閉められたカーテンを見た。
「卒業式パフォーマンスのとき、そこのカーテンを開けるの?」
「じゃなきゃ校庭が見えねえわ。音楽を流すタイミングとか、アナウンス開始のタイミングとか、書道部に合わせなきゃなんねえし」
「そっか。……山宮」
朔也は紺色のセーターの肩に頭を載せた。びくっとその肩が揺れたが、朔也はその温かさに綻んだ。
髪に山宮の頬を感じる。熱が伝わってくる。温かい。人ってこんなにあったかいんだ。どうしてそんなことを知ろうともしないで人と壁を作っていたんだろう。
「ありがとな。山宮がいなかったら、おれ、今日で終わってた」
「……大袈裟。病院に行けって誰でも言うわ」
「それだけじゃないよ。地球の裏側まで落ち込んで一人で殻に閉じこもるところだった」
「またトイレに閉じこもられちゃかなわねえわ。つらいときはつらいって言えばよくね。お前が思ってる以上に周りはちゃんと」
そこで山宮の言葉が途切れる。肩に頭を載せたままちらりと彼の表情を見ると、やはり夕日に照らされているかのように頬が染まって見えた。
「ちゃんと、た、たいせつ、に思ってる、わ……」
朔也は目を閉じた。互いの心音と息遣いが聞こえる距離に胸がいっぱいで、目蓋を開けられない。
「……下校放送まであとどれくらい?」
「三十九分四十二秒」
「……こうしてていい?」
すると少し間を置いて朔也の指につんと爪が当たったのが分かった。そっと薄目を開けて手元を見ると、自分の手の数センチ横で山宮の指が迷っている。そっと指先を絡めると、小さな手はしっかりと握り返してきた。細くて、節のしっかりとした手だった。
ピーッと笛が鳴り、朔也は顎からしたたり落ちる汗を拭って肩で息をついた。コートでゼッケンを脱いでいると、両肩をそれぞれぽんと叩かれる。
「朔、ドンマイ!」
「シュートを外したの気にすんなよ」
「ホントごめん。あれ入ってたらうちのクラスが勝てたのに」
「半分お遊びのバスケだし、そんな責任を感じなくてもいいだろ」
別チームと入れ替わり、朔也はクラスメイトたちとコートから出て体育館の壁沿いに座った。
冬らしい寒さが和らいだはずのその日、昼前から曇り出した空は霧雨に変わった。外で行われるはずだった体育は男女共に体育館内での球技に変更され、朔也は久しぶりのバスケの試合に息を切らせた。
次の試合開始の笛が鳴ると、隣に座るクラスメイトが言う。
「なーんか朔、最近変だよな」
「ぼーっとしてること多いよな?」
試合に身が入らなかった朔也は内心ぎくりとし、口端をあげた。
「そ、そう? 自分ではそんなつもりはないんだけど」
「この間黒板に書く字を間違えてただろ」
「そうだっけ。なんだろ、寝不足かなあ」
あははと笑いながら内心ため息をつく。本音を話せる相手がいなくなると、学校生活は思った以上に息苦しい。朔也はコート内を眺め、そこに山宮がいることに気づいた。
あれから一週間以上がたったが、彼とは一言も話していない。翌日放送室を訪ねたが、いないのか鍵をかけているのか、扉は固く閉められていて、二度と開くことはなかった。教室で目が合うこともない。
狭い放送室の中、勉強をしたりお喋りに花を咲かせたりした時間がどれだけ貴重だったのか、今なら分かる。泣きぼくろの目元が笑い、薄いくちびるがにやりとつり上がり、放送部のことをきらきらとした目で語っていた山宮はもういない。
「朔ちゃん」
ジャージ姿の今井がなにかを持ってやって来る。
「試合見学中にごめんね! 書道部の先輩に贈る色紙、隣のクラスから回ってきたよ」
「ええ? このタイミングで渡す? 今井が持っててよ」
「あたしも今渡されたの! もう、全部押しつけるんだから」
「そこは頼むよ委員長! よろしく!」
朔也が笑顔で手を合わせると、ちょっぴり不満そうな顔つきで「仕方ないなあ」と今井が肩をすくめる。再び女子のコートへ戻っていく背中を眺め、心の底から彼女に感謝した。今井がこれまで通りでいてくれるおかげで、クラスも部活も居心地のよさは保たれたままだ。
「おい、見ろよ。先制シュート!」
「次こそうちのクラスが勝てるぞ」
クラスメイトの声に朔也はコートを見た。かけ声とドリブルの中、キュッと目の前の床が鳴る音がして選手が一歩後ろへ下がった。そちらを見やればマスクをしたままの横顔が目に飛び込んでくる。ぐっと膝が曲がり、山宮がボールをとる体勢になる、そのときだった。
「朔! ボール‼」
遠くから飛んできた声にそちらを振り返った瞬間、視界に迫る茶色のボールが見えた。慌てて顔の前に出した手にバンッと大きな音を立ててボールが収まる。
「おっ、朔、ナイス!」
「あっぶねー!」
隣に並んで座っていたクラスメイトの声に、朔也の口からも「びっくりした」と声が漏れた。コート内から「朔、悪い!」と声が飛んでくる。
「今日の授業はドッジボールじゃないんだけど!」
朔也が笑って叫ぶと、投げたクラスメイトも笑った。
「ボールがお前に吸い寄せられたぞー。でかいから引力が強すぎんだよ!」
「よく言うよ! 次当てたらマジの力で返すからなー」
ボールをふわりと投げ返す。その瞬間、右の中指にズキンと電流のようなものが走って、「いっ……」と小さな声が出た。
「どうした?」
「いや、なんか、右指が」
「なんだ、突き指でもしたか?」
すぐ隣で試合を見学していたクラスメイトが言う。その言葉に朔也は自分の右手を見つめた。
ああ、これがよく言う突き指なのか。……突き指?
それを理解した瞬間、顔から一気に血の気が引いた。
突き指……? まさか、字が書けなくなるんじゃ。
急に心拍数があがったからか、指のズキンズキンとした痛みが強くなる。見つめる右手がカタカタと震え出した。
うそだろ、こんなことでパフォーマンスに参加できなくなったら、おれ──。
「折原!」
その声にはっとすると、ゼッケンをつけた山宮が怖い目つきでこちらを見下ろしていた。なにも言わずに朔也の右腕を掴み、ぐっと痛いほどの力で引っ張る。
「折原は保健室に行くから! あとは任せた!」
マスクをずらし、普段大声を出さない山宮がコートへ言い放つ。そのまま廊下へ朔也をぐいぐいと引っ張った。
「なんで山宮?」
「てか、山宮、試合中……」
戸惑いの声が追いかけてきたが、山宮にはどうでもいいらしい。引きずられるままにされている朔也に鬼のような形相で怒鳴る。
「なにぼさっとしてんだ! 保健室に行けよ!」
「う、うん、でも、腫れて、ないし、数日、放っておけば、治るかも、しれないし」
己を説得するような言葉は出てくるのに、頭の中は混乱と恐怖で自分がどんな表情をしているのかも分からない。そんな朔也に山宮が更に大声で怒った。
「これから腫れてきたらどうすんだよ! 大切な右手だろ!」
足がぎくしゃくとして上手く動かず、ただただ山宮に引きずられるまま保健室に行く。扉に「外出中」の札が下がっているのを見、山宮が「先生を探してくる」と職員室のほうへと駆け出す。一人取り残された朔也にパニックの波が押し寄せた。
どうしよう、どうしよう。突き指ってどれくらいで治るんだ? こんな大切な時期に怪我をするなんて、おれはなにをやってるんだ。卒業式パフォーマンスに出られなくなったら、部員全員に迷惑をかける。一人の問題じゃ済まされない。
「折原君?」
やわらかい声に顔をあげると、マスクを外した山宮と白衣を着た養護教諭が立っていた。
「指にボールが当たっちゃったのね? ちょっと見ましょうか」
外出中の札をくるりとひっくり返したあとに続いて保健室に入る。椅子に座った朔也の向かいで養護教諭がなにか話しながら処置をしてくれたが、その言葉は朔也の耳を素通りしてしまった。
「折原。折原!」
山宮の声に我に返ると、養護教諭が机上にあるグレーの棚から外出届の紙を取り出すところだった。
「書道部なのね。学校の近くの整形外科に行ってくるといいわ。担任の先生は職員室にいらっしゃったから、相談してらっしゃい」
すぐに「ありがとうございました」と答えたのは山宮だった。なにも言えないまま椅子から立ち上がると、彼が廊下のほうへと背中を押しやる。山宮が頭を下げ、保健室の扉を閉めた。パタンという音に足から力が抜けて、廊下の壁に凭れながらずるずるとしゃがみ込む。
「……やば。山宮、どうしよう」
いつの間にか手の中にあった外出届がくしゃくしゃに折れている。
「おれ、突き指とか、初めて。これ、どれくらいで治る? おれ、卒業式のパフォーマンスに出られるの?」
パフォーマンス甲子園に向けて練習に励む部員を見ていたときの、体育館の床の冷たさ。そのときと同じひんやりとした波が心の端からひたひたと押し寄せる。
「出られなかったら、おれ、一年間で一度もパフォーマンスを披露しないことになるんだけど。そんなことになったら、ホント悲惨なんだけど。なんでこの高校に来たのか、なんで体を鍛えてまで書道に取り組んできたのか、全部意味がなくなるじゃん……」
じわっと目が熱くなった次の瞬間にはぼろぼろと涙が出てきた。
「ああ最悪……おれは、なんのために頑張ってきたんだ……」
遠くから聞こえるボールの音と生徒たちの声援。職員室からの物音やどこかで授業をしている声まで聞こえてくる。そんな中聞こえるのは情けなく泣く自分の嗚咽だけで、朔也は零れる涙をジャージの袖で拭った。ぼやける視界に目の前に突っ立った山宮のシューズがある。
と、髪をふわっと撫でる手を感じて、朔也は顔をあげた。ゼッケンをつけっぱなしの山宮が、一転、静かな表情でこちらを見下ろしている。
朔也の頭から離れた手が、そのまま目の前に差し出される。色白の、女の子のような細い指。それを握ると、頼もしく力強い腕が引っ張って朔也を立たせた。
「折原、まず病院に行け」
山宮の声は淡々としていたが、こちらを見上げる目は真剣だった。
「まだ不参加と決まったわけじゃねえだろ。想像で泣いても答えなんか出ねえわ」
きりりとした表情も落ち着いた口調も頼もしく映る。
「すげえ練習してきたのに、目前になって出られねえかもってなったら誰だって怖いわ。俺も、前にあったから」
彼が今までに見たことのない苦悶の表情を浮かべた。
「毎日練習して、誰にからかわれようと喉を痛めねえようマスクして、予防注射も打ったのに、コンクール前日にバカみてえな高熱が出てさ。声がガラガラになって布団の中で寒さと恐怖に震えてんのに、誰も助けてくんねえんだわ。解熱剤を飲んで会場に行ったけど、自分の番が来ても声は治んなかった。結局棄権したわ。中学最後のコンクールだったのに」
山宮の声が、傷ついている。悔しさと涙を呑んできた声だ。ずっと一人で耐え忍んできた者の声だ。人に頼れと言ったのは、彼自身が人に頼れずにいたからだ。
山宮の痛みが自分のことのように伝わってきて、再び涙腺が緩みそうになる。
「自暴自棄になって放送部の強豪校を受験すんのもやめて、姉貴の母校ってだけでここに進学した。でも、顧問の先生がコンクールで俺を見てて、部員が卒業して廃部になったけど君がやるならって、俺一人のために放送部を復活させてくれた。放送室を開放してもらって居場所もできた。そこに、お前が来た」
山宮の力のこもった声が心にまで響いてくる。
「折原、お前には委員長たち仲間がいるだろ。書道パフォーマンスは皆で作るものなんだろ。だったら病院に行け。行って、症状を聞いて、対処法を教えてもらえ。きっと仲間がフォローしてくれる。その日のその直前まで諦めるなって言ってくれる。それに」
そこでゆっくりと俯いた黒いつむじが小さな声を出した。
「……俺も、卒業式パフォーマンスに音声で参加するって言ったろ。俺だって、お前がいねえと、やる気、出ねえんだわ……」
朔也の目が見開いた。その髪から赤くなった耳が覗いている。が、それをよく見ようとした瞬間、溜まっていた涙で視界がほろりと崩れた。
「……そういうことだから。とにかく、先生んとこ行って外出届を出してこい。病院から戻ってきたら書道部に報告しろよ。……俺も放送室にいるから」
山宮はぶっきらぼうにそう言い切ると、くるりと背を翻した。襟足から顕わになったうなじも、握ったこぶしも、ハーフパンツから伸びるふくらはぎの筋肉もぎゅっと引き締まっている。ゼッケンの後ろ姿はこれまでにない感情を吐露した男の背中だった。ずんずんと早足で体育館へと遠ざかるその背へと手が伸びる。だが、言葉が出てこない。なにを言えばいいのか分からない。
山宮の姿が消えると朔也は涙を拭い、立ち上がって外出届の紙を丁寧に広げた。
病院へ行こう。卒業式までどうするかは、顧問の先生や部員の皆と考えればいい。病院から帰ってくれば、山宮になんて伝えればいいのかも分かるはずだ。
もう一度目蓋をこすると、朔也は職員室へしっかりと歩き出した。
病院から学校に戻ると夕日の眩しい時間になっていた。担任に戻ったことを伝え、職員室を出てまっすぐ書道室へ向かう。だいだい色に染まる廊下や階段を歩くと、上履きがリノリウムの床の上でぺたぺたと足音を立てた。部活に精を出す生徒の声が鉄筋の校舎内に反響する。
朔也は廊下突き当たりの書道室まで来て、足を止めた。カーディガンの襟に留めていたピンで前髪をびしっと留め、よし、と自らを叱咤して扉を開ける。ガラッという大きな音とともに声を出した。
「遅くなりました! 本日もよろし」
「折原君! 大丈夫⁉」
朔也の言葉を遮って真っ先に駆け寄ってきたのは顧問だった。テーピングを巻いた朔也の手をとり、眉を寄せる。
「体育の時間に怪我したって聞いたけど。お医者さんはなんだって?」
心配そうにこちらを見上げた顧問の後ろで、今井を含む部員が皆一同に筆を持つ手を止めて息を呑んでいた。
「──すみません!」
次の瞬間、朔也は頭を下げた。
「すみませんでした! 自分の不注意で、先生や部員全員にご心配とご迷惑をおかけすることになってしまい、本当に申し訳ありません! 本当に……いつも役立たずで」
朔也の手をとっていた顧問がぎゅっと手に力を込めた。それに顔をあげると、顧問が心配そうな顔つきで口を開く。
「お医者さんはなんて? どれくらいで治るって?」
「……あ、ええと、軽度の突き指で……アイシングと自分でできるリハビリをやれば、一週間くらいで治ると言われました」
朔也の答えに書道室内がわっと沸きかえった。
「よかった、本当によかった!」
「折原君、皆心配してたんだからね」
「今井ちゃん泣かないで」
「朔、ちゃんとリハビリしてよ?」
いつも叱咤を飛ばす厳しい顧問が温かい手で朔也の右手を握った。
「全員でいいパフォーマンスにしよう! 練習頑張ろう!」
「……すみません」
顧問の言葉や皆の笑顔に涙が溢れた。慌てて左腕で押さえると、カーディガンの毛がちくちくと顔を刺す。
「おれ、すみません、こんなことで、泣くとか、恥ずかしい、ホント、すみません」
すると後ろで部長がぷっと噴き出し、今度は書道室が笑い声に包まれた。
「泣いていいぞ~先輩たちがよしよししてあげる」
「今日決めたところを話そう」
「うん、パフォーマンスの話をしよう。涙拭いてさ! ね!」
涙腺が壊れたようにとめどなく涙が流れる。だが、それは悲しいからではない。嬉しいからだ。
山宮の言う通りだ。皆が支えてくれる。おれは一人じゃなかった。書道パフォーマンスは、全員の心を合わせるものなんだ。部活を超えて、山宮も一緒に。
気づかぬうちに朔也は何度もありがとうございますと繰り返していた。
「ただいま」
コンコンとノックして放送室の扉を開けると、そこにはいつも通り、床に座り、椅子を机代わりにしてプリントに取り組んでいる山宮がいた。
「まだ下校時刻まで時間あるぞ。書道部はいいのかよ」
保健室の前で見せた激情は既になく、淡々とした様子の彼に朔也はテーピングの巻かれた右手をひらひらさせた。
「今日は怪我の報告とパフォーマンスについて話をしただけ。皆はまだ書いてるけど、おれは帰っていいってさ。早く帰って治せって」
朔也の言葉が途切れると自然と会話も切れた。が、目は合ったままだ。朔也は床を指さした。
「あがっていい?」
「……今更だわ」
「だよな」
こちらをじっと見続ける山宮の前で鞄を床に置き、少し間を開けてすとんと隣に座った。改めて室内を見回す。数ヶ月前までよく知らなかった部屋と、よく知らなかったクラスメイト。いつからこの位置が安心できる場所になっていたのだろう。
「それ、なんのプリント?」
朔也が問うと、彼はいらいらしたようにマスクをむしり取ってexplainと書いた。
「英単語テストのペナルティプリント。exラッシュがうぜえ。俺の脳からアルファベットがログアウトしそうだわ」
「英単語の暗記が苦手なの?」
「言ったろ、xとyが登場してから俺の世界は謎に支配されてんだよ」
不満たらたらといった口調で山宮が吐き捨てる。それ、数学の話じゃなかったのか。そう言おうとしたが、彼の目線が右指に注がれているのに気づいた。病院のにおいが染みついたような、真っ白なテーピングでしっかりと巻かれた指。
「……早く来て正解だって病院で言われた。冷やして様子見ながら曲げる練習すれば、一週間くらいで治るって」
「そうか」
ほっとしたような吐息が落ちる。生徒の話し声も部活の物音も遮蔽されて聞こえない小さな部屋は、校内でトリミングされた二人だけの空間だった。
「先生も皆も心配してくれてた。怪我なんて不注意だって怒られるかと思ったけど、全然そんなことなくて。おれは自分を書道部に貢献できないお荷物だと思ってたけど、皆はそう思ってなかったみたい。卒業式に向けて全員で頑張ろう、だって」
「そんなの、当たり前じゃね」
「今井が山宮君も一緒だね、だってさ」
「……あいつはそういうやつなんだよ」
ため息混じりの声が消えると、放送室内がしんとした。外は二月の寒さなのに、陽だまりのように温かく感じられる。朔也はミキサーの向こうで閉められたカーテンを見た。
「卒業式パフォーマンスのとき、そこのカーテンを開けるの?」
「じゃなきゃ校庭が見えねえわ。音楽を流すタイミングとか、アナウンス開始のタイミングとか、書道部に合わせなきゃなんねえし」
「そっか。……山宮」
朔也は紺色のセーターの肩に頭を載せた。びくっとその肩が揺れたが、朔也はその温かさに綻んだ。
髪に山宮の頬を感じる。熱が伝わってくる。温かい。人ってこんなにあったかいんだ。どうしてそんなことを知ろうともしないで人と壁を作っていたんだろう。
「ありがとな。山宮がいなかったら、おれ、今日で終わってた」
「……大袈裟。病院に行けって誰でも言うわ」
「それだけじゃないよ。地球の裏側まで落ち込んで一人で殻に閉じこもるところだった」
「またトイレに閉じこもられちゃかなわねえわ。つらいときはつらいって言えばよくね。お前が思ってる以上に周りはちゃんと」
そこで山宮の言葉が途切れる。肩に頭を載せたままちらりと彼の表情を見ると、やはり夕日に照らされているかのように頬が染まって見えた。
「ちゃんと、た、たいせつ、に思ってる、わ……」
朔也は目を閉じた。互いの心音と息遣いが聞こえる距離に胸がいっぱいで、目蓋を開けられない。
「……下校放送まであとどれくらい?」
「三十九分四十二秒」
「……こうしてていい?」
すると少し間を置いて朔也の指につんと爪が当たったのが分かった。そっと薄目を開けて手元を見ると、自分の手の数センチ横で山宮の指が迷っている。そっと指先を絡めると、小さな手はしっかりと握り返してきた。細くて、節のしっかりとした手だった。