夕方前の冬の公園は散歩する人がちらほらといるだけでガラガラだった。壁のある東屋にちらりと目線を送ると、山宮も小さく頷く。無言のままそこへ行ってベンチに腰掛けると、コンビニで買ってきた肉まんにどちらともなくかぶりついた。紺色のコートとキャメル色のコートの手の中で、ほかほかの肉まんが湯気を漂わせる。
「……うま」
 山宮が少し目を見張って湯気の立つ肉まんを見た。
「コンビニの肉まんってこんなうまかったっけ」
「食べたことないの?」
 朔也の言葉に山宮が一口かぶりついてごくりと飲み込んだ。
「折原と違ってオトモダチが少ねえから、帰り道に買い食いしたことねえんだわ」
「書道部の女子たちはまっすぐ帰るし、おれも買い食いは初めて」
 湯気が頬にかかって温かい。ふわふわの皮と肉汁がじゅわっと口内に広がって、気持ちのとげとげとしていたところが溶けていくのが分かった。
「さっきはホントにごめん。ミスしたのがショックで八つ当たりした。山宮のことを考えずにひどいこと言った」
「……俺もズケズケ言ったわ。お前が書道パフォーマンスにすげえこだわってたの知ってたのにな」
「はっきり言えるところが山宮のいいところだって分かってるよ」
 また一口とかぶりつくと、口の中で熱い肉がほろほろと崩れた。ベンチに並んで座っているから、視界に入ってくるのは肉まんの湯気と混じる息だけだ。
「最近お前がおかしいなって思ってたけど、部活が上手くいってなかったわけ」
「そう。おれってパフォーマンス向きの字が書けないんだ。パフォーマンス甲子園で選手になれなかった理由もそれ」
「折原の字でも駄目なのか? 委員長とお前のどっちが上手いかなんて、俺には分かんねえけど」
「放送部でもあるんじゃない? 下校放送と本の音読は違う、みたいなこと」
 すると山宮が「ああ、あるな」と納得したような声を出した。
「悪かったな、イージーモードとか言って。なんでもできると思ってたけど、そういう悩みもあんだな」
「山宮もなにかあるんだね」
「それなりにな」
 軽く頷いて山宮が肉まんを頬張る。
「俺の家、両親も姉貴二人も優秀で医者なんだわ。ところが末っ子だけマイナスとマイナスのかけ算が理解できねえわけよ。劣等感しかなくね」
「でも、うちの高校は受かったでしょ」
「推薦なしの一般受験で補欠合格だけどな。授業始まった日に来る学校を間違えたと思ったわ」
 山宮の口調は自虐的で、これまでそういった態度を言葉の端々に覗かせていた理由が分かった。
「気にしてたのに、赤点スレスレとか言ってごめん」
「赤点スレスレは事実じゃね。それよりなんとかハスキーのほうが気になるんだけど、あれ、なに」
「山宮ってなんとなくシベリアンハスキーっぽいなと思って」
 ミニチュアの部分は削って言ったのだが、彼のほうが「あれって大きくね?」と首を傾げた。放送室にいるときのようなやわらかい空気が戻ってくる。山宮が再び「うまいな」と呟き、朔也はゆるゆると肩のこわばりを解いた。
「折原は絶対ゴールデンレトリーバーだろ。超大型犬」
「髪はもう少し暗い茶色だと思うんだけどなあ」
「雰囲気がそうなんだわ。クラス満場一致に肉まんを賭ける」
 それを聞いて山宮のコンビニ袋に手を伸ばすと「おい」と睨まれる。「冗談」と朔也が手をあげると、彼がそのまま二個目を頬張った。
 肉まんについていた紙が湯気で手に張りつく。ウェットティッシュで手を拭おうとして、指先に墨の跡が残っていることに気づいた。そこへ山宮が切り出す。
「……で? 声を荒らげるなんて、お前、いっぱいいっぱいなんじゃね。さっきみたいに言いたいことぶちまけろよ」
「もういいよ。ひどいことも言ったし」
「謝ったんだからチャラでいいわ。誰にでも本音を隠してたら自滅するだろ。悩みを顔に出さねえでにこにこできんのがお前のいいとこかもしんねえよ。でも今は違くね。……俺でよければ、聞くぞ」
 不意に山宮の口調が変わったので、朔也は隣に座る彼を見た。「俺に言えよ」と言う耳が赤い。
「言えばいいだろ、訳分かんねえ単語並べてどこどこが上手くいかねえって。俺に話したって書道が上手くいくわけじゃねえよな。でもトイレに引きこもるよりよくね」
「ちょっと! それ今言う⁉」
 最後の台詞に朔也がむっとすると耳を赤くさせたまま彼がくくっと声を漏らした。
「難しい問題を当てられて黒板に達筆な字で答えを書いてるやつがトイレで号泣してたんだぜ。笑えるわ」
「笑うとか最低! おれ、ショック受けてたんだからな!」
「だからよ、ショック受けたなら言えばよくね。……あんとき、人に頼ればいいのにって、俺なら話を聞いてやるのにって、そう思ったわ」
「……どうして?」
 朔也が尋ねると山宮がふうと息をついてお茶を飲む。オレンジ色のキャップのペットボトルで指先を温めるように持ち、まっすぐ前を見た。
「お前ってクラスでは当たり障りのないやつだろ。だから意外な一面を見て驚いたんだわ。それでお前のことを目で追うようになったんだけど」
 もしかして、それで好きになったとか?
 朔也はごくりと唾を呑んで続きを待ったが、一方の山宮ははあっとため息をついた。
「気づいたわけよ。お前が誰にも心を許してねえんだってな。誰にでもテキトーに笑ってるだけだろ。こいつ実は性格悪りいんじゃねって思った」
「誰が性格悪いって⁉」
 むっとした朔也に山宮が小さな笑い声を立てる。
「そういうとこな。いい子ちゃんじゃねえ、悔し泣きするくらい書道に真剣な折原をいいなって思った。よく見てりゃ、終礼のあとすぐロッカーから書道道具を出すし、ほぼ毎日部活に行くだろ。発声練習に行くために書道室前を通りかかったら、一心不乱に筋トレしてたもんな。書道室の窓から書いた半紙持ったお前がなにか考え込んでるのが見えたこともあったわ。俺には書道なんて退屈でしかねえのに、そこまで努力すんのかって、すげえ真剣にやってんだなって、俺と同じで見えねえところで頑張ってんだなって……そんなん、もう、好きになるしかなくね……」
 最後のほう、小さくなった山宮の呟きに朔也は驚いた。
 たった、それだけ。それだけで、人を好きになる? 親切にされたとか、嬉しい言葉をかけてもらったとか、メリットのある行動をされたわけじゃないのに。
──でも、分かる。初めて山宮の下校放送を目の前で聞いたときに肌で感じた感動。それと同じような気持ちを山宮はおれに感じてくれていた。
 理解した途端、すとんとなにかが落ちた。空気が澄んで感じられる。土のにおいを感じられる。視界にあるものが鮮やかに色づいた。
 真剣にやれば感動を伝えられる。それはパフォーマンスも同じじゃないのか? 上手い字を書くことだけが全てじゃない。気持ちを込めて字を書けば、おれの字でも伝わるんじゃないのか?
 朔也の右手に筆を握る感覚が戻ってくる。中指と親指にどれだけ力を入れるか、どう人差し指を添えるか。墨池に入れる墨のにおいに墨汁の粘り気、半紙とは違う模造紙の手触り。そこに立って振るう右腕の構えと足の位置。──ああ、今なら自分の字が書ける気がする。
「そうか……そうだよ、山宮の言う通りだ。真剣な姿勢って伝わるんだ。今ならできる気がする!」
 朔也は思わず立ち上がった。地面の落ち葉が冬の風に連れ去られていったが、寒さはちっとも気にならない。
「今から学校戻ってもう一回書きたい! 今ならできそう! あっ、でも今日はひらがなを飛ばしたんだっけ。でもさ、ひらがなって難しいと思うんだよね。小学校の頃ってなんで『そら』とか書くんだろ。『そ』も『ら』も難しくない? おれ、かなが昔から苦手で、高野切とか拷問なんだよね。運筆の感覚がイマイチ掴めないし、連綿が、あ」
 朔也は自分が一方的に喋っていることに気づいた。
「ごめん、また自分勝手に訳分かんないこと喋っちゃった」
 おれ、あんな初歩的なミスしたくせに、ペラペラ喋って恥ずかしい。
 急いでベンチに座り直すと、山宮が鞄を膝に載せ、そこに頬杖をついてにやっとした。
「書道にゾッコン折原君、生還したか? そういう気持ちが戻ってくりゃ、なんとかなるんじゃね。ま、明日から頑張れよ」
 それじゃあな。ゴミをビニール袋に入れた山宮がベンチから立ち上がったので、朔也は慌ててその鞄を掴んだ。
「ちょっと待った! なんで帰るの」
「夕方になればもっと寒くなるだろ。お前の悩みも解決したみたいだし」
 さも当然のように山宮がそう言ったので、朔也は鞄から取り出したカイロを押しつけた。
「寒いならこれ使って! まだ、肝心の話をしてないだろ」
 するとカイロを手にした山宮の顔が歪んだ。
「肝心の話って……俺は言うこと言ったし、お前には謝ってもらったし、もう話すことなくね」
 山宮の手の中でカイロがぎゅっと握り潰される。
「それとも、まだ文句あんのかよ」
「文句だなんて一言も言ってないだろ。おれ、山宮が言ってくれたことに対してちゃんと答えてない」
「聞きたくねえわ」
 山宮が即座に言い切った。口調から拒絶感がひしひしと伝わってくる。
「それについては、求めてねえ。……いや、本音を話せと言っておいてそれはねえな。ちょっと待て。心の準備三十秒前」
 大袈裟でなく山宮が深呼吸する。その口から漏れる白い息を見つめていると、自分の頬を撫でていくきりりと冷えた風を感じた。
 なんて言えばいい? 好きだと思ってくれてありがとう? 話を聞いてくれてありがとう? やる気を出させてくれてありがとう? 大切なことに気づかせてくれてありがとう? ……だから、これからも隣にいてほしい?
 そこまで考えて朔也は答えにたどり着いた。驚きに息を呑むと、冷たい空気が肺の奥まで入り込んで自分の内側から澄んでいく。山宮に付き合う人ができたらどう思うのかという今井の言葉が蘇った。
「……準備オーケー。ではドーゾ」
 山宮がそっとベンチに浅く腰掛ける。ぴりっと封を開けたカイロを両手で挟み、その横顔を強張らせた。
「まず質問なんだけど、山宮はおれに気持ち伝えてどうしたかったの」
 朔也の言葉に山宮が口を開きかけては閉じ、なにか言いかけては黙るという行為を繰り返した。じっと待っていると、ぼそぼそとした声を出す。
「……全然伝わんねえから言ってやろうと思った。そうすりゃ、気持ち悪がられても俺だけ特別になれるかもと思って」
「山宮は特別だよ。おれが本音を話せるのは山宮だけだし」
 すると山宮が少し照れたように目を瞬かせる。朔也は先ほどよりもはっきりと言った。
「さっきはひどいこと言ってごめん。甘えてた。山宮なら分かってくれるはずだって」
「それはいいけど。……全部言うとな、他のオトモダチと一緒にされたくねえんだわ。放送部だって書道部の役に立ってるって知ってほしかったし、放送室で喋れるのも嬉しかった。勉強ができねえってバレるのは恥ずかしかったけど、教えてもらえるのは嬉しかったわ。とにかく、特別でいたかった。そういう自己中な考えでお前といた」
「自己中なのはおれのほう。山宮の気持ちも考えないで、放送室を逃げ場にしてた。委員長に、今井に言われたんだ。山宮のことを考えるなら行動を変えろって」
 朔也の台詞に山宮が弾けるように顔をあげ、少し嫌そうな顔つきになった。
「あいつめ。余計なことを」
「今井は山宮のことを思ってそう言ってたよ」
「それは違くね。委員長が好きなのは折原だろ」
 山宮が簡単にそう言ったので、朔也は内心気づいていたのかとため息をついた。
「……山宮も知ってたんだ」
「最初の試験前にな。『山宮君の好きな人を知ってるよ。いつも見てるよね』とか言われてよ。『あたしと好きな人一緒だね』って。驚きすぎて否定するタイミングを失ったわ」
「でも、その今井がおれに言ったわけ。自分の気持ちに素直になれって。だから提案なんだけど」
「なんだよ」
 朔也は大きく息を吸い、思い切って言った。
「おれたち付き合わない?」
 ぴたりと山宮が動きを止めた。が、次の瞬間「はあ⁉」と大声をあげる。
「冗談キツいわ! 簡単に言うんじゃねえよ!」
「冗談じゃない。真剣に提案したんだけど」
 すると山宮はもう聞きたくないとばかりにふいと顔を逸らし、頭を抱える手がその表情を隠した。だが、負けじとたたみかける。
「おれは山宮が特別だって言ったじゃん。山宮は特別でいたいって言ったじゃん。それならおかしくないだろ」
 だが、山宮はゆるゆると首を横に振る。
「お前、好きって言われたら好きって返さなきゃと思ってね? お前って他人に合わせるの得意だもんな。特別でいたいって思う俺に合わせようと思ったんだろ」
「おれは自分から山宮を特別だと思ったんだけど」
「そもそも勉強もできるお前と俺じゃつり合わねえわ」
「なんで成績で卑下するの。山宮の下校放送も教科書の音読もすごいよ。おれには真似できない」
「……だとしても、お前と俺の気持ちは違えんだよ」
「最初から同じ人なんていないだろ。なんで山宮はおれの気持ちを決めつけるの」
 強い口調で言うと山宮は黙りこくった。屋根の下に入り込んだ風が彼の黒髪も自分の髪も揺らしていく。
 沈黙が下りた東屋の横で明かりがついた。いつの間にか空が青とオレンジに二分されていて、公園に夜の足音が迫っている。風にざわめく葉の音を聞きながら朔也は彼のほうへ向き直った。
「山宮、言って」
 寒いはずなのに顔が熱い。自分でも顔が赤くなっているのが分かる。それでも朔也は山宮から目を逸らさず繰り返した。
「いつもみたいに言って。おれ、返事するから」
 すると山宮が口をへの字に曲げて、頭をがしがしと掻く。
「俺から言わせようとすんの、ズルくね」
「だって、お守り渡そうとしたときに言おうとしたけど、冗談の二文字なのにすっごく難しかったし……」
「その難しい言葉を既に四回、いや、今日入れて五回以上発言した俺を褒め称えろ」
「山宮君ってすっごく勇気あるんだな! 尊敬しちゃうなあ」
「折原、お前な」
 紺色のコートからにゅっと伸びたこぶしが、朔也のキャメル色のコートにぽすっと音を立てた。泣きぼくろの目元が笑って山宮がちらりと歯を見せる。小さな花がほころぶような笑みに、朔也の心がぎゅっと締めつけられた。──ああ、おれ、山宮のこと。
 朔也は山宮の頭に手を回してこちらに引き寄せた。わっと声をあげた黒髪の頭が右腕の中に収まる。ぬくもりのある髪と冷えた耳に当たる指先が熱い。手を引き剥がそうとする細い指がやめろとこちらの腕を掴んだが、朔也は更にぎゅっと小さな頭を抱え込んだ。
「山宮、言って」
 朔也は繰り返した。
「もう一回、言って。ちゃんと答えるから」
 すると暴れていた山宮が大人しくなった。自分のコートの下から彼の吐く白い息が細く漂う。
「……お前、マジで、ズリいわ……」
 コートに当たる声がくぐもる。山宮の体温が、息遣いが、分厚い布越しに伝わってくる。それを感じながら空を見上げる朔也の鼻がまたつんとした。
 こんな気持ち、初めてだ。胸がどきどきして、目の奥が熱くて、神経が研ぎ澄まされて、全ての感覚が彼に向いている。この小さな体を、もっと引き寄せて抱きしめたい。
「……折原」
 腕の中の山宮が息を整えるように息をつく。
「お前が、好きだった」
 明瞭な声に息が止まる。
「好き、だった。もう、好きじゃない」
 次の瞬間、彼の両手がどんっとこちらの胸を押しやった。腕からすり抜けて手ぐしで髪を整え、なにも言わずに立ち上がる。ポケットから出てきた白いマスクが表情を隠した。
 なんで、どうして、山宮、なんで。
 ベンチに座りっぱなしの朔也が彼の顔を目で追いかけると、山宮はポケットに手を突っ込んで吹いた風に寒そうに首を縮めた。
「それでは折原君は恋愛ごっこから卒業デス。本日までお疲れサマデシタ」
「……山宮、どうして」
 朔也の震える声に、こちらを見た寂しそうな目元が笑った。
「思い出したわ。委員長が言ってたぜ。お前、普通じゃねえって思われるのが嫌いなんだってな。男と付き合うなんて折原の普通に入ってねえだろ」
 こちらの肩にぽんと手を置き、屈み込む。伏せられた山宮の黒い睫毛が目の前に迫り、くちびるへマスクの布越しに一瞬温かいものが当たった。
 キス、された。
 驚きにひゅっと息を吸い込むと、マスクの中でふっと息をつく音が聞こえた。
「……卒業記念授与。じゃあな」
 じゃあな。
 キスとその言葉の意味が分かったとき、山宮の姿は公園から消えていた。糸が切れたように体が動かず、ベンチに座り込んだまま空を見上げる。いつの間にか辺りは薄暗くなっており、闇色に沈んだ木々でギザギザに切り取られた空に半月が浮いている。
 寒さの増す中、真っ二つに割れてしまった心と同じ形の月をぼんやり見上げていると、たたたっと駆ける足音が近づいてきた。
「朔ちゃん!」
 その声にそちらを見ると、口を開けて走ってくるオレンジ色のマフラーの今井がいた。東屋まで来ると膝に手をつき、はあはあと息を整えて額を拭う。
「今井、どうして……?」
 大きく肩で息をついた彼女が息をあげ、戸惑ったような表情で手にしたスマホを見た。
「山宮君から電話がかかってきて、公園に朔ちゃんがいるから迎えに行ってやれって。自主練の片づけが終わったところだったから、急いで学校から走ってきたの」
 今井が説明しながら再び手で額を拭った。本当に急いで来てくれたのだろう、額に張りついて前髪はばさばさで、何度も肩で息をついている。朔也の胸が先ほどとは別の意味で締めつけられた。
──今井はいい子だ。昔からそうだった。おれはそれを知っている。
 不意に口から「ははっ」と乾いた笑いが漏れた。
「山宮ってバカだな。引導を渡して人のお膳立てまでして……本当にバカだ」
 朔也の呟きに彼女がますます困惑したような顔をした。
「ねえ、どうしたの? 山宮君にかけ直してもつながらないし。なにかあったの?」
「……なんでもない。今井は遅くなる前に帰ったほうがいいよ」
 だが、彼女は引き下がらなかった。
「朔ちゃん、ひどい顔してる。山宮君の声も変だったし、朔ちゃんも山宮君も絶対におかしい。あたしを巻き込むならちゃんと話して」
「……山宮の話はやめよう。今、話したくない」
 次第に、朔也の体が芯から震え出した。
 なんだよ、なんなんだよ。罰ゲームの告白で始めてあんなキスで終わらせて、ずるいのは山宮じゃないか。歩み寄った途端に離れていくなんて、そんなの、ひどいだろ。
「……だって、あいつ、ホント意味分かんない」
 唾が飛ぶような勢いで言葉が飛び出した。
 先ほど手に感じていた山宮の髪と肌の温度がいつの間にか消えている。何度握ってみても、もうなにも掴めない。ようやく共鳴した心の音叉がポキリと折れてしまった。
「あんなに何回も好きとか言ったくせに、今井には本命だとまで言ったくせに、おれのこと引っぱたいたし、お守り突き返すし、性格悪いとか字が下手とか……もう好きじゃないとか……今更、そんなこと言って……おれはちゃんと向き合おうとしたのに……」
 必死に堪えようとしても口がわなないて、怒りが、悲しみが、目蓋の裏に押し寄せる。と、「朔ちゃん」と声がした。目を開けてみれば今井がくちびるを噛み締めていて、朔也にも彼女がなにを言おうとしているか分かった。
「朔ちゃんが山宮君と向き合ったなら、あたしもそうするね。……あたし、ずっと朔ちゃんが好きだったんだ」
 いつもは明るい今井が声を絞り出すようにそう言った。
「……うん、知ってた。気持ちを無視してごめん」
「書道も勉強もなにに対しても、努力を惜しまず諦めないところがすごいと思ってた」
「……うん、ありがとう」
「同じ高校を志望してるって分かったとき、すごく嬉しかったよ」
「……おれも心強かったよ」
「罰ゲーム、山宮君がふられればいいのにって心のどこかで思ってたの。ひどいよね」
「……そう思っちゃうよね」
「でも、山宮君は諦めなかったし、朔ちゃんは山宮君に向き合うって決めたんだもんね。あたしも応援しなきゃ」
 今井は目をこすってから笑みを浮かべ、レモン色のハンカチを差し出してきた。
「朔ちゃんは、どうして山宮君に怒ってるの? 好きじゃないって言われたから? 好きだって言ってほしかったの?」
 囁くような優しい声色に感情が溢れ出して、コートに落ちた涙が玉を作って転がった。
「どうしよう今井」
 おれ、山宮が好きなんだ。