【一】

「折原、好きだ」
 前回と変わらぬ愛を吐く台詞に朔也はぽりぽりと頭を掻いた。自分のため息と向かいに立つ彼の吐息が白く混ざり合い、屋外の空気に溶ける。
「うーん、罰ゲームも通算四回目か。山宮、今回はなんの試験で負けたの」
 すると彼は「数学」と即答した。


 十二月考査最終日の今日、一日目に行われた生物と数学、そして地理の試験が返却された。試験から解放されて沸きかえっていた教室は別の意味でやかましくなった。それぞれを受け取った生徒たちは一喜一憂したのだが、彼は数学に一憂したようだ。ご丁寧に突き出された答案用紙の右上には真っ赤な「41」という点数が記されている。
 かっちりと学ランを着込んで重ためな黒い前髪を木枯らしに揺らし、外したマスクを手に握る様子は一ヶ月半前と同じだ。自分も学ランを着てくればよかったと後悔しつつ、キャメル色のカーディガンの袖をさする。寒さのために誰もいない中庭で二人きり。だがロマンチックにはほど遠い。
「おれ、前回のときに言ったじゃん。数学は公式覚えて教科書の問題を繰り返せば、あとは数字が違うだけだって」
 朔也の責める口調に彼は肩をすくめた。
「xとyが登場してから俺の世界は謎に支配されてんだよ」
 冬空の下、不満そうに蹴り上げたつま先に砂利が乾いた音を立てる。
「前からちょいちょい思ってたけど、山宮って勉強できないよね? 身長と一緒に中学からやり直してくれば」
 すると途端に前髪の奥から鋭い目がこちらを睨み上げた。
「無駄に長い足は削がれて縮め。チャラい髪は毛根死滅しろ。でかさといい髪の色といい、お前はゴールデンレトリーバーか」
「山宮って口も悪いけど頭も……いやなんでもない」
 再びきっと睨まれたので朔也はそこで揶揄うのをやめた。
 女の子っぽい小柄な背丈に小さい顔が乗っかった彼は、クラスメイトの山宮基一。冬を迎えて花壇が土だけになった殺風景な鉄筋校舎の中庭で、白い息を吐き、学ランの袖の中に手を縮めている。入学時彼の親は息子の成長に期待を寄せたのだろうが、「萌え袖だよね」と女子に囁かれるまま二年生へ進級するに違いない。
 自分がゴールデンレトリーバーなら、彼はミニチュアシベリアンハスキーだ。
 目にかかる長い前髪とマスクで普段は隠れているが、イケメンの部類に入ることくらいクラスメイトはとっくに気づいている。ただ、強面っぽい雰囲気があるのと一人で行動することが多いので、嫌われているわけでないがどこかのグループに属しているわけでもない。朔也も普段彼と交流のない一人だ。
 が、あまり話さない謎めいたところや孤高なさまに特別感を見出す女子もいるらしく、誰々が告白したようだといった噂は耳にしたことがある。
 しかし、女子であればときめくはずの「山宮からの告白」も、数回目の朔也にはもはやこちらが罰ゲームを受けている気分だ。
「山宮さ、この罰ゲームは意味ないよって、ちゃんと委員長に言った? 放課後呼び止められて偽告白されて部活に遅刻するとか、おれ、散々なんだけど」
「あいつの委員長命令なんて今に始まったことじゃねえわ」
 マスクをつけ直した彼の目がにやりとした。
「学年末試験では俺が勝つ。今度こそ終止符を打ってやる」
「どこから湧いたの、その根拠のない自信」
「学年末は保健で勝負する。俺の得意教科だ。週一だから試験範囲も狭いだろ」
 目の前の彼が勉強が苦手なのだと知ったのは五月考査のあとだった。
 最初の五月考査は現代文、前期末は体育、前回の十月考査では生物だった。体育の時間の様子から運動はそこそこだと思っていたが、プール開きの日に息継ぎのできないAグループに入れられた彼の成績は推して知るべし、だ。毎回「委員長に負けた」と言って懲りずに罰ゲームをやりに来る。おかげで、自販機とベンチの並ぶ、本来休憩場所である中庭が全く心の休まらない場所になってしまった。
「得意科目が保健って、山宮、なんか、エロい」
「試験範囲は健康と医療だろ。中学生みたいな発想のお前のほうがエロいわ」
 図星を指され、朔也は頭を掻いて誤魔化した。
「まあ、頑張って。二人の点数対決に付き合うの、おれ飽きた。だいたい、負けたら男に告白って罰ゲームとしてベタすぎ。もっとひねってよ」
「それは違いねえわ」
 じゃあ、と何事もなかったかのように校舎へと戻っていく後ろ姿から目を逸らし、朔也は校舎に囲まれた四角い空を見上げた。雲はどんよりとしていて今にも降り出しそうだ。前回の罰ゲームのときに黄色い葉をつけていたイチョウも裸木になり、ケヤキの枝は曇天を衝かんとばかりにきりりとしていた。腰の高さに剪定された生け垣のサザンカだけがところどころにピンクの花を覗かせているが、まばらなせいでより寂しく見える。
 いつの間にか冷え切っていた足元から寒さが這い上がってきた。
「さぶっ。マジでさっむ!」
 誰に聞かれるわけでもないのに声が出る。カーディガンの上から腕をさすり、生徒の声が聞こえる校舎へと引き返した。


 高校入学の四月。初めて袖を通した学ランに身を包み、朔也は緊張していた。高校デビューという言葉は、死語ではなくスクールカーストの格付けに対抗する現実的な手段だ。
「朔也の朔は右が月の字で、一日(ついたち)という意味です! 一日生まれなので、朔って呼んでください!」
「茶髪とくせっ毛は地毛なんで! 中学のときはいつも頭髪検査に引っかかっちゃって」
「部活では全国制覇目指してます!」 
 春休み中いろいろ練った結果、この三つを自己紹介で使うことにした。
 おかげで男女両方に気さくに名前を呼ばれるグループに入り、校則に反して染髪した不良と認定されることもなく、部活に青春する男子というキャラクターで落ち着いた。
 つまり、よくも悪くも目立つ集団とは違う、その他大勢に溶け込むことに成功したのだ。入学時に頭一つ飛び出ていた身長も、最近は伸び盛りの男子たちの間に紛れるようになってきている。
「折原君遅いよ!」
「すみません! 本日もよろしくお願いします!」
 ジャージに着替えて部活へ顔を出すと、すぐに部長の叱咤が飛んできた。リノリウムの廊下で部員たちがウォーミングアップに精を出している。朔也もすぐに腹筋を始めた。
 試験の終わった今日から部活は解禁だ。久しぶりの感覚を取り戻すために基礎トレに集中すると、すぐに汗がにじみ出した。先ほどクラスメイトから告白をされたことなど、朔也の頭からはすっかり抜け落ちていた。
 部長の号令でストレッチを終えると、部員は室内に入った。道具入れから一つひとつ丁寧に取り出し、きっちりと定位置に置いていく。
 天気はもったらしい。雨の日特有の紙がじめじめする感じはない。いつものように前髪をびしっとピンで留めると、銀色の文鎮を置いて紙を押さえ、朔也は筆を握った。すったばかりの墨のにおいをすうっと胸いっぱいに吸い込み、呼吸を止め、次の瞬間筆を落とす。
 起筆は角度に注意してそのまま軽く右上へ。一度止めて角を押さえたら素早く次へ入り、止め、跳ねる。息を吐き出さずにそのまま次の一画に打ち込み、穂先を突き上げるようにぐっと力を入れる。
 呼吸がビートを刻み、それに合わせて紙に濃墨が駆け抜ける。線と線がつながって文字へ、文字と文字がつながって言葉へ、言葉と言葉がつながって文へ、なにもなく真っ白だった紙に筆先から命を吹き込む。
 すった墨の濃さ、握る筆の長さや固さ、使う紙の質感、それら全てを鋭敏に感じ取りながら筆に力を乗せる書は全身を駆使して表現する芸術だ。
 筆の動きと呼吸が合っていなければ線から力が抜けてしまうし、筆先ばかりを見ていては紙の上で迷子になる。手首だけで動かせば線の太さは定まらないし、姿勢が揺らげばあっという間に文字はバラバラに崩壊する。一瞬一瞬の判断が作品全体を決めるのだ。
 バレーボール選手がパスでボールを回すように筆の運びもつながっており、サッカー選手が狙ったところへゴールを決めるように紙の空間を見ながら筆を送る。一度演奏が始まれば戻れないように筆も止められないし、メロディーに強弱があるように運筆も力加減が大切だ。曲の理解を深めなければならないように文の解釈も必要になる。
 地味な部活だと思われがちだが、書道とはときにスポーツであり、ときに音楽であり、ときに文学であり、さまざまなものが凝縮されたものである。特に複数名で行う書道パフォーマンスを取り入れたこの高校の書道部に入って、朔也はそれらを改めて感じた。


 楽しい時間はすぐに去る。
「下校時刻三十分前です。部活動のない生徒は下校しましょう。部活動に参加している生徒は帰り支度を始めましょう……」
 その放送が書道室に流れたとき、既に日は傾いていた。
「今日の声、舞子先生だ」
「いつも男の声だから新鮮だね」
「もうちょっと書きたかったな」
 試験明けの部活はいつもよりもにぎやかで、引退した三年生以外が顔を揃えていた。久しぶりに筆を握る今日は、リハビリを兼ねて個々が好きなものを書いていいことになっている。
 お喋りも聞こえる明るい教室の中その多くが机に向かっていたが、朔也は一人、畳敷きのスペースに紺色の毛氈を敷いて黙々と字を書き続けていた。
 最後の一字。
 乾いた空気に硯にある墨からじわじわと水分が失われていく。悩んでいる暇はない。同じ濃さで仕上げなければ作品に一体感が出ない。墨をつけると、朔也は一気にゴールへ向かって筆を運んだ。
 リズムに合わせ、点から点へ、太く細く送筆し、収筆は呼吸を乱さず丁寧に。左から右へ、上から下へ、筆の軌跡に墨が走る。慌てず、スピードは保ったまま、次へ次へ。最後の払いはしっかりと押さえ、右下へとゆっくりと持ち上げるように穂先を抜いた。
 朔也は大きく息を吐き出して額を拭った。ピンで留めた前髪の下にも汗が浮いている。俯きっぱなしになっていた姿勢に体が悲鳴をあげており、腰を軽くとんとんと叩きながら最後の一枚をじっくりと眺めた。
 正確、正確だ。いつものおれの字。筆の入りは紙のどこか、どちらへ向かって跳ねるのか、並んだ横線のどれが一番細いのか、線のどこが強くてどこが弱いのか、全てがきっちりと紙の上に収まっている。
「うーん、相変わらず堅いね」
 その声にはっと我に返って顔をあげると、顧問が眉を寄せて立っていた。
「折原君、もっと気持ちを込めてダイナミックに筆を動かしたほうがいい。字に躍動感がほしいな」
「自分もそう思います」
 朔也は幾分か歯を見せて笑ってみせたが、顧問は眉間を弛めなかった。
「折原君は背高くて目立つんだから、パフォーマンス向きなのに、すごくもったいないよ」
 顧問は繰り返した。
「せっかく目立つ容姿なのに、縮こまった字を書いてたら、すごくもったいない」
「……はい。ありがとうございました」
 朔也はくちびるを引き結んで一礼し、筆を洗うために立ち上がった。


 朔也の所属する書道部は、通常の書道と書道パフォーマンスの二つの活動を行っている。
 書道パフォーマンスとは、主に床に敷かれたメートル単位の紙に音楽に合わせて複数人が筆で文字を書いて作品を仕上げるというものだ。甲子園と名のつく全国大会もあり、テレビや映画を通じて広く知れ渡った。袴などの揃いの衣装を着てダンスを取り入れたり、洋楽を流しながらカラフルな文字や絵を加えたりと、多くの人が抱く物静かな書道の印象とは大きく異なる。
 前屈みで動きながら思い通りの字を書くには特に体幹が必要だ。大会では六分間の演技をやりきる体力も求められる。筆の大きさはさまざまだが、大きく太くなるほど重くなり、墨を吸えば更に重くなる。全身で操るサイズの筆になれば、墨と合わせて十キロを超えることだってあるのだ。そのため、書道部であっても体を鍛えることは欠かせない。朔也は自宅でも腕立て伏せなどの筋トレを日課にしている。
 朔也は筆に早く慣れたほうがいいという母の信念の元、幼稚園の頃から書道教室に通い始めた。ひらがなやカタカナは半紙の上で学び、小学校にあがると「字が上手い」と毎年担任に評された。地域のコンテストに出品したりコンクールで入選したりと、褒められることが多かったのもこの頃だ。
 そして中学生のある日、テレビで書道パフォーマンスなるものを知った。落ち着いた元来の印象とは異なる新しい面に感動し、高校は書道パフォーマンスができる私学に進学した。同じ中学から来たのは朔也をいれてたった二人。バスと電車を乗り継いで一時間ちょっとかかるが、楽しい学校生活を送っている。
 この学校の書道部がパフォーマンスを披露するのは、入学式に新入生歓迎会、大会であるパフォーマンス甲子園、文化祭、そして卒業式だ。十二月考査が終わった今、卒業式に向けて準備が始まっている。人数の決まった大会とは違い、一、二年生全員で行う卒業式でのパフォーマンスは大々的で華やかだ。式を終えて体育館から出てくる卒業生の前で、校庭全面を使って門出を祝う。
 その様子は皆で映像を見ているので朔也も楽しみにしている。生き生きとした字を書きたい、字を書くことで人の心を動かせるようになりたい、その思いが強くなった。
 だが、朔也はこれまで一度も納得のいくパフォーマンスの字を書けたことがない。朔也の字の評価はたいていが「きれい」か「整然としている」で、型にはまった字しか書けないからだ。一年生なのだから焦るなと言われたことはある。だが、そのことがいつも喉に引っかかった小骨のようにちくりと心を刺していた。