「ずっと居たのか」
 
 はっと、顔を上げたらそこには西日の後光を背負う倫太郎が立っていた。
あまりに穏やかな気候のせいかしばらく眠っていたらしい。記憶が途切れる前にいた雁はそこにはおらず、赤く染まり初めている遠くの空で群れを見つけた。

 すっかり野生児になった気分だ、または田んぼの妖精か。


「来るなって言っただろ」

確かにそう言われた。

「会いたかっただけ」

確かにそう思った。

 倫太郎は案の定何も言わずに私を見下ろしていて、眉間の皺が二本になったからなんだか申し訳なさもあって、へへと下手な笑い方をしたら眉間の皺が三本に増えてしまった。

 そして私の腕を掴んで、汚れる、と短く溢した。体重を預けたら簡単に立たせてくれた倫太郎にお礼を言ったら、能天気な私に気苦労のため息。

「お前もう帰れ。暗くなるぞ」

「ううん倫のこと待ってる」

「俺はまだやることある。明日も会えるだろ」

 そうは言うけどその明日が、倫太郎と何の約束もなしに会える明日がもうすぐ来なくなる。この大石田の秋を身に纏う彼を見ることもなくなる。倫太郎がいない日常がもうすぐやってくる。

「こがねいろの倫は今日で見納めでしょう?」

「見納め?」

「来年からこの景色を見ること、なくなるから」

 美しさと寂しさと恋しさとあまりにたくさんの想いが混じりあって、これを郷愁と呼ぶのだろう。

「お前、帰ってこない気か」

「……そうじゃなくて」

「ずっとそんな気がしてた。お前は元々ここの人間じゃねぇから」

 そうじゃない、戻って来れないかもしれない気がしてるだけ。私をここに縛るのは母の存在ではない。豆ちゃんや茂吉おじさんでも花織さんでもない。私にとってここは倫太郎そのもので、唯一ここに帰る理由は倫太郎がいるから、それだけだ。


「漠然と、大学を卒業して音楽に携わる仕事をしている自分を想像した時に、どうしても倫と一緒にいる光景が思い浮かばないの」


 倫太郎はここを離れられない。ここを離れるわけにはいかない。でも、それを分かっていて私はここを離れる選択をした。その頃から彼のいる未来が想い描けなくなった。

「大好きなの」

でも、

「……薄情だな」

「許して倫太郎」

「ああ許すよ椛。だから泣くな」

 倫太郎にしがみつくように、私を逃がさぬように、隙間もないくらい抱き合った私達の関係は、きっと来年の秋を迎えることはないのかもしれない。

 それでも今は心も私のものだと実感出来ることが嬉しくて、お互い呼吸を合わせるようにどちらともなく唇を重ねた。



 私たちは大人になる過程にある。何かを諦めて何かを得る、その繰り返しなのだと思う。

 なんて残酷で苦しくて生きがいのある世界なのだろうと、今ならそう思える気がする。