「あら椛、帰ったの?」

 
 すっかり外は薄暗く虫の音がより一層深まった頃、ガラっと玄関のドアを開けたらお母さんの声がした。

 そして朝家を出た時に感じた引き度の具合が悪そうな引っ掛かりがなくて、はて?と小首を傾げていたら視界の端に我が家にはあるはずのないサンダルが一つ綺麗に揃えられていた。明らかに女物ではないからどこの誰にお邪魔されているかは想像に難くない。
 わざわざ確かめる必要も変に騒ぐ必要もない、ただなんとなく、しこりのようなモノが私の中にあるだけ。

 玄関の立て付けを直すなら私のことも同じようにしてほしい。ローファーを脱いで鞄を荒く手に取って居間へと向かえば

「……」

「座れよ。飯あるぞ」

 その飯はうちの飯だと反駁するのはやめた。どうせうちの米だと言い返すに決まっている。

「お母さん、引き戸直すくらいで倫のこと呼ぶのやめて」

「なに言ってるの。倫太郎くんお風呂場のカビ取りもやってくれたのよ」

 それこそわざわざ呼ぶ必要なんかないのに。

 居間の机を囲む母と実の息子のような空気感で当たり前のようにそこにいる倫こと本名、袴田倫太郎《はかまだりんたろう》。

 高校三年間をひたすら野球に打ち込んだ倫は、豆ちゃんとは比べ物にならないくらい精悍な体つきをしている。豆ちゃんの憧れだという。

 夏より少し伸びた髪は未だに見慣れない。町内の保護者会がこぞってテレビの前に噛りついて応援していたのが、紛れもない倫太郎その人だ。

「倫がそんなことしなくても…」

「お前にやらせたら指怪我する」

 ゴロゴロ具材が入った肉じゃがと白米をかっくらいながらチラリと私を一瞥して、すぐ料理へと興味を移した。少し泥のついた作業着のせいか秋の香りがした。

 私の資本はこの両手、私よりも倫太郎の方がそれを理解しているような気がして内心面白くない。味、濃いね、お母さんの肉じゃがは薄味だったのにいつの間にか倫太郎好みの豪快な味付けになっていた。面白くない。

 倫は隣の家(隣といっても50メートルは離れている)に住む幼馴染で、ここ大石田町での暮らしを私に教えてくれた。記憶の中にある小中学生時代はずっと倫の後ろを付いて回っていた気がする。
 ただ高校はお互い別々に進み、私は地元の高校、倫太郎はローカル線で往復3時間かかる高校へ。県内では名の知れた野球の強豪で倫太郎は一年生からキャッチャーマスクを被り三年の夏には甲子園出場を果たしたのだから、同じシニアにいた豆ちゃんが倫太郎を目標にする気持ちも分かる。



「美和さんご馳走さま」

 行儀よく両手を合わせ綺麗に平らげた倫太郎は、まだお味噌汁を半分も啜っていない私に向かって 椛、話ある、とやけに素っ気ない言い方で外へ誘い出した。築三十年の床がミシッと軋むように鳴ったと同時に一抹の不安がお味噌とともに溶けていく。

 立ち上がった倫太郎が私の腕を掴んでから、従うように後をついていくその背後で、



「若いわねぇ」

 窓の外から鳴る虫の音に紛れて、お母さんが心を畳に転がしていた。