しばし無言のままの歩みが続いた。
どれほどこの屋敷は広いのだろうと驚きながら進む、奥座敷と思しき場所から更に奥。
ふわりと吹き行く風が少しばかり重く感じる場所は、随所に符と術具と思われるものが巡らされている。
相当に厳重な守りを敷いているのだと、異能を持たない紗依にも分かる。
少し進む度に、人の出入りを確かめるように置かれた番をする者に呼び止められた。
目を微かに見張ってしまった紗依に、千尋がこの先は限られた人間しか立ち入ることができないので、と申し訳なさげに説明してくれる。
そうして、三度ほど呼び止められ確かめられ、漸く辿り着いた場所は広い座敷だった。
そこには、二つの人影がある。
内の一人は、先程別れた時嗣だった。紗依を見ると感心したように目を細めて、もう一人へと何やら話しかけつつ視線を向けた。
時嗣に話しかけられたもう一つの人影を見た紗依は、思わず目を見張って凍り付いたように動きを止めてしまう。
――美しい。
それが、紗依の心に浮かんだ唯一つの言葉だった。
そこに居たのは、一人の男性だった。
なまじの女性ですら叶わぬような艶やかな射干玉の流れるような髪に、光の加減によっては金にも見える切れ長な琥珀の瞳。
長身でありながらしっかりとした体躯を持つ、言葉を奪うほどの美丈夫。
整いすぎた造作の主は、同時に魂に訴えかけるような不可思議の『圧』を纏っている。
思わず息を飲んだ紗依は直感した――この方は、人間ではない、と。
不思議を操り、本来『神』を祀る家門の秘された場所にある方が、一体何者であるのかは分からない。
ただ、只ならぬ存在であることだけは、家人に『呪い子』と忌まれ続けた身でも感じ取ることができる。
畏怖すら感じさせる人には許されない美貌の主は、食い入るように紗依を見つめていた。
二つの琥珀には、喜びとも期待とも言える、長らく焦がれたものをやっと目にしたような不思議な光がある。
真摯な眼差しを感じた瞬間、鼓動が跳ねると共に、紗依の頬に朱が散った。
男性にそこまで見つめられるなど今までになく、慣れていないのでどのような顔をしてよいか分からずに俯いてしまう。
「ようやく……会えた」
上座に座っていた男性が、静かに口を開いた。
低く落ち着いた声音は、どこか不思議に懐かしいものを感じたけれど。努めて抑えようとしているけれど万感の思いの滲む声を聞いた瞬間、紗依の胸に痛みが生じる。
きっと、この方は待っていたのだ――玖瑶家の娘……美しく強いと評判だった苑香を。
全ての支度は、この方が待ち焦がれた苑香を妻として迎える為にあったもの。
けれど、それに対して差し出されたのは代わりのまがい物。
瞳に、声音に、焦がれた心を感じるからこそ、顔をあげることが出来ない。
俯いた紗依を緊張している故と思ったらしい千尋が、安心させようと声をかけてくれている。
「確かに、話に聞いていた通りだな。さすが千尋、お見事」
「元が良いからですよ」
見事に整えられた支度を目にしてか、時嗣は感心したように呟き、次いで妻の采配を褒め労う。
対して千尋は、控えめに謙遜するのみだった。
夫婦が和やかに会話する横で、男性の眼差しが紗依から逸れることはない。
自分この場にあることに対する罪の意識は、時間をおうごとに増すばかりだ。
男性が見つめる眼差しは、一度として自分から外されることがない。
ついに罪悪感は際に達してしまい、男性が何か口にしかけたのを遮って紗依はその場に平伏した。
「申し訳、ございません……!」
叫びながら頭を垂れた紗依に、驚いたような眼差しが向けられたのが分かる。
千尋が戸惑いながら横から紗依の名を呼び、頭をあげるように言ってくれているのが聞こえるけれど。
申し訳なさに消え入りたい程の紗依は、伏したまま震える声で必死に続けた。
「私は、確かに玖瑶家の長女ではあります。けれど、玖瑶家の娘として名高かったのは、私ではなくて妹なのです……!」
建前を用意され、余計なことはいうなと釘をさされた。
紗依が出立する前、既に北家から多額の援助が為されたという。
もし差し出したのが本来求められた娘ではなかったと知れたら、引き上げられてしまう可能性がある。だから必死に取り繕えと……。
けれど、目の前の青年が期待に目を輝かせた様子を見ていたら、何故か心が耐えきれずに悲鳴をあげた。
露見すれば、今度こそ母と共に路頭に迷うかもしれないという恐怖は確かにあるけれど。
それでも、このひとを騙していたくないという思いが強くて、これ以上耐えられない。
「私は……お求めの者ではありません……!」
相反する心に逆の方向に引かれながら、紗依は伏したまま悲痛な叫びをあげる。
隣に座っていた千尋が戸惑ったようにかける言葉を選んでいるのが伝わってくるのが申し訳ない。
「おい、矢斗……」
矢斗、とはこの男性の名だろうか。
時嗣が何かを男性に話しかけているのは聞こえるけれど、何と告げているのかはかすかで聞き取れない。
紗依が頭をあげることが出来ずにいるまま、その場には重く複雑な沈黙が満ちた。
だが、何かが動いたような気配を感じた次の瞬間、それは静かな声音に破られる。
「……私が求めたのは、貴方で間違いないよ」
離れたところにあったはずの気配を自分のすぐ前に感じて、紗依は思わず弾かれたように頭をあげてしまった。
見上げた先にあったのは、歩み寄って紗依の前に膝をついた男性の、慈しむような眼差しだった。
両の琥珀に宿る温かな光が、何故か胸が痛く成る程に切なく、懐かしい。
矢斗と呼ばれた男性は、戸惑いに身をこわばらせたままの紗依の手をとり、優しく握りしめる。
「随分とかかってしまったけれど、ようやくあの日の約束を果たせた」
約束と言われても、何の事か分からない。
だって、この方とは今初めて会ったのだから。
ずっと以前から知っていたような不思議な感覚を覚えるひととは、この場で初めて……。
まるで大切な宝物にでも触れるように、握る紗依の手に頬を寄せる矢斗。
滑らかな手で優しく手をとられて、押し頂くように触れられて、自分の荒れた手が恥ずかしくなる。
どうして、何故。口にしたい言葉は山のようにあるのに、あり過ぎて言葉にすることが出来ない。
裡の想いに翻弄されただ男性を見つめることしか出来ない紗依の耳に、次の瞬間飛び込んできたのは思考を完全に奪う程の衝撃だった。
「会いたかった……私の、天乙女……」
それを耳にした瞬間、紗依は目を見張り動きを止めてしまう。
今、この方は何と言った? 自分を、何と呼んだ……?
天乙女と……自分以外にはただひとりしか知り得ない呼び名で呼ばなかっただろうか。
紗依のことを麗しい天女の呼称で呼んだのはただひとり。
人ではなかったけれど、大切な、大切な、紗依の友。
宵空に輝く星の光のような友の輝きと、琥珀の一対が帯びる輝きが交差し、一つとなる。
花舞う空に消えて言った光が脳裏を過ぎる。
確かに、去り行く友は約束してくれた――必ず、また会えると……。
思い出した唯一つの約束。
まさか、と呟いた声はひどく掠れてしまっていた。
口に出して確かめるのが何故か恐ろしい。
だって、あまりにも記憶の中の姿と、目の前にある姿は違いすぎる。
そんなことがあるわけがないという心が止めようとするけれど。
心の裡に残る温もりは『そう』なのだと肯定している。
「……夕星……?」
紗依は驚きに震えそうになるのを必死で堪えて、確かめるのを恐れる自分を叱咤して、男性を見つめ問いを紡いだ。
小さく頼りない光だった友と同じ温もりを感じさせるひとは。
喜びを滲ませながら、一度大きく頷いて見せたのだった。
どれほどこの屋敷は広いのだろうと驚きながら進む、奥座敷と思しき場所から更に奥。
ふわりと吹き行く風が少しばかり重く感じる場所は、随所に符と術具と思われるものが巡らされている。
相当に厳重な守りを敷いているのだと、異能を持たない紗依にも分かる。
少し進む度に、人の出入りを確かめるように置かれた番をする者に呼び止められた。
目を微かに見張ってしまった紗依に、千尋がこの先は限られた人間しか立ち入ることができないので、と申し訳なさげに説明してくれる。
そうして、三度ほど呼び止められ確かめられ、漸く辿り着いた場所は広い座敷だった。
そこには、二つの人影がある。
内の一人は、先程別れた時嗣だった。紗依を見ると感心したように目を細めて、もう一人へと何やら話しかけつつ視線を向けた。
時嗣に話しかけられたもう一つの人影を見た紗依は、思わず目を見張って凍り付いたように動きを止めてしまう。
――美しい。
それが、紗依の心に浮かんだ唯一つの言葉だった。
そこに居たのは、一人の男性だった。
なまじの女性ですら叶わぬような艶やかな射干玉の流れるような髪に、光の加減によっては金にも見える切れ長な琥珀の瞳。
長身でありながらしっかりとした体躯を持つ、言葉を奪うほどの美丈夫。
整いすぎた造作の主は、同時に魂に訴えかけるような不可思議の『圧』を纏っている。
思わず息を飲んだ紗依は直感した――この方は、人間ではない、と。
不思議を操り、本来『神』を祀る家門の秘された場所にある方が、一体何者であるのかは分からない。
ただ、只ならぬ存在であることだけは、家人に『呪い子』と忌まれ続けた身でも感じ取ることができる。
畏怖すら感じさせる人には許されない美貌の主は、食い入るように紗依を見つめていた。
二つの琥珀には、喜びとも期待とも言える、長らく焦がれたものをやっと目にしたような不思議な光がある。
真摯な眼差しを感じた瞬間、鼓動が跳ねると共に、紗依の頬に朱が散った。
男性にそこまで見つめられるなど今までになく、慣れていないのでどのような顔をしてよいか分からずに俯いてしまう。
「ようやく……会えた」
上座に座っていた男性が、静かに口を開いた。
低く落ち着いた声音は、どこか不思議に懐かしいものを感じたけれど。努めて抑えようとしているけれど万感の思いの滲む声を聞いた瞬間、紗依の胸に痛みが生じる。
きっと、この方は待っていたのだ――玖瑶家の娘……美しく強いと評判だった苑香を。
全ての支度は、この方が待ち焦がれた苑香を妻として迎える為にあったもの。
けれど、それに対して差し出されたのは代わりのまがい物。
瞳に、声音に、焦がれた心を感じるからこそ、顔をあげることが出来ない。
俯いた紗依を緊張している故と思ったらしい千尋が、安心させようと声をかけてくれている。
「確かに、話に聞いていた通りだな。さすが千尋、お見事」
「元が良いからですよ」
見事に整えられた支度を目にしてか、時嗣は感心したように呟き、次いで妻の采配を褒め労う。
対して千尋は、控えめに謙遜するのみだった。
夫婦が和やかに会話する横で、男性の眼差しが紗依から逸れることはない。
自分この場にあることに対する罪の意識は、時間をおうごとに増すばかりだ。
男性が見つめる眼差しは、一度として自分から外されることがない。
ついに罪悪感は際に達してしまい、男性が何か口にしかけたのを遮って紗依はその場に平伏した。
「申し訳、ございません……!」
叫びながら頭を垂れた紗依に、驚いたような眼差しが向けられたのが分かる。
千尋が戸惑いながら横から紗依の名を呼び、頭をあげるように言ってくれているのが聞こえるけれど。
申し訳なさに消え入りたい程の紗依は、伏したまま震える声で必死に続けた。
「私は、確かに玖瑶家の長女ではあります。けれど、玖瑶家の娘として名高かったのは、私ではなくて妹なのです……!」
建前を用意され、余計なことはいうなと釘をさされた。
紗依が出立する前、既に北家から多額の援助が為されたという。
もし差し出したのが本来求められた娘ではなかったと知れたら、引き上げられてしまう可能性がある。だから必死に取り繕えと……。
けれど、目の前の青年が期待に目を輝かせた様子を見ていたら、何故か心が耐えきれずに悲鳴をあげた。
露見すれば、今度こそ母と共に路頭に迷うかもしれないという恐怖は確かにあるけれど。
それでも、このひとを騙していたくないという思いが強くて、これ以上耐えられない。
「私は……お求めの者ではありません……!」
相反する心に逆の方向に引かれながら、紗依は伏したまま悲痛な叫びをあげる。
隣に座っていた千尋が戸惑ったようにかける言葉を選んでいるのが伝わってくるのが申し訳ない。
「おい、矢斗……」
矢斗、とはこの男性の名だろうか。
時嗣が何かを男性に話しかけているのは聞こえるけれど、何と告げているのかはかすかで聞き取れない。
紗依が頭をあげることが出来ずにいるまま、その場には重く複雑な沈黙が満ちた。
だが、何かが動いたような気配を感じた次の瞬間、それは静かな声音に破られる。
「……私が求めたのは、貴方で間違いないよ」
離れたところにあったはずの気配を自分のすぐ前に感じて、紗依は思わず弾かれたように頭をあげてしまった。
見上げた先にあったのは、歩み寄って紗依の前に膝をついた男性の、慈しむような眼差しだった。
両の琥珀に宿る温かな光が、何故か胸が痛く成る程に切なく、懐かしい。
矢斗と呼ばれた男性は、戸惑いに身をこわばらせたままの紗依の手をとり、優しく握りしめる。
「随分とかかってしまったけれど、ようやくあの日の約束を果たせた」
約束と言われても、何の事か分からない。
だって、この方とは今初めて会ったのだから。
ずっと以前から知っていたような不思議な感覚を覚えるひととは、この場で初めて……。
まるで大切な宝物にでも触れるように、握る紗依の手に頬を寄せる矢斗。
滑らかな手で優しく手をとられて、押し頂くように触れられて、自分の荒れた手が恥ずかしくなる。
どうして、何故。口にしたい言葉は山のようにあるのに、あり過ぎて言葉にすることが出来ない。
裡の想いに翻弄されただ男性を見つめることしか出来ない紗依の耳に、次の瞬間飛び込んできたのは思考を完全に奪う程の衝撃だった。
「会いたかった……私の、天乙女……」
それを耳にした瞬間、紗依は目を見張り動きを止めてしまう。
今、この方は何と言った? 自分を、何と呼んだ……?
天乙女と……自分以外にはただひとりしか知り得ない呼び名で呼ばなかっただろうか。
紗依のことを麗しい天女の呼称で呼んだのはただひとり。
人ではなかったけれど、大切な、大切な、紗依の友。
宵空に輝く星の光のような友の輝きと、琥珀の一対が帯びる輝きが交差し、一つとなる。
花舞う空に消えて言った光が脳裏を過ぎる。
確かに、去り行く友は約束してくれた――必ず、また会えると……。
思い出した唯一つの約束。
まさか、と呟いた声はひどく掠れてしまっていた。
口に出して確かめるのが何故か恐ろしい。
だって、あまりにも記憶の中の姿と、目の前にある姿は違いすぎる。
そんなことがあるわけがないという心が止めようとするけれど。
心の裡に残る温もりは『そう』なのだと肯定している。
「……夕星……?」
紗依は驚きに震えそうになるのを必死で堪えて、確かめるのを恐れる自分を叱咤して、男性を見つめ問いを紡いだ。
小さく頼りない光だった友と同じ温もりを感じさせるひとは。
喜びを滲ませながら、一度大きく頷いて見せたのだった。