俄かの功績や財ではなく、確かに歳月を経て築かれた風格が見る者を圧倒する佇まい。
北家の門の前に立った時、紗依は身体が震えそうになった。
何とか見てくれこそは取り繕ったものの、自分のような者がこの家の門を叩くなど許されるのだろうかと。
暫くの間逡巡していたが、紗依は意を決して門番と思しき人影に声をかけた――。
数刻後、紗依は呆然としていた。
門番に声をかけたところまでは記憶が確かだけれど、その後に続いた出来事があまりに衝撃的すぎて今でも現実だったかと疑ってしまっている。
最初は怪訝そうに紗依を見ていた門番は、紗依が名乗ると瞬時に顔色と態度を変えた。
丁重に屋敷の中へと案内されたかと思えば客人を通すような立派な座敷に通され、見るからに身分があると思われる男女の出迎えを受けた。
『ようこそいらっしゃった、玖瑶のご長女殿』
年の頃は三十を少しすぎた辺りだろうか。
闊達に笑うと少年のような雰囲気を覗かせる男性を見た紗依は、周囲の態度と、落ち着いた物腰や確かな質の身支度から相手が『誰か』を察してしまう。
座して手を付いて頭を垂れた紗依に恐縮しなくてもいいと笑う男性は、自らを北家の主と名乗った。
自分は時嗣という名であり、傍らに控える女性は妻の千尋であると。
北家の現当主といえば、異能が弱まり行く家門において久方ぶりに並外れて強い異能を持って生まれたことと、切れ者であることで有名な人物のはずだった。
やはり、という思いに頭を上がられずに居る紗依に、千尋が時嗣の言葉に重ねて楽にするようにと声をかけてくれる。
恐る恐る上体を起こすと、そこには当主夫婦の優しい笑みがあった。
紗依は何とも言えぬ表情になりそうになったのを必死に堪える。
少なくとも、歓迎はされている気がする。この夫婦は、純粋に紗依の存在を受け入れてくれているのを感じるのだ。
二人は紗依が無事北家に到着したことを喜び、緊張を解そうと他愛無い会話を挟みながら、気遣う言葉をかけてくれた。
始めは声が震えかけていたけれど、言葉を交わすうちに少しずつ落ち着いて来る。
それに、分かってきたことがある。
この気さくで朗らかな当主と優しく穏やかに微笑む妻は、とても仲睦まじい。
父達は『神嫁』を当主の妾と邪推していたが、どうみてもこの夫婦には不要だと感じる。
出会ったばかりの紗依にすら分かる程に、互いを想い合う様子が会話の端々に垣間見えるのだ。
子がない懸念故に仕方なく、ということも考えられるが、それならばこれ程に紗依は歓迎されまい。
一体、自分は何故にこの家に望まれたのか。
申し出にあった『神嫁』とは、何なのか。
直接問いかけたいけれど、未だ緊張が解けぬ状態では言葉を発する事もままならない。
何故にここにあるのか、これからどうなるのか。知りたいけれど問えないもどかしさだけが募っていく。
紗依が問いを抱えていることを察したらしい時嗣は、苦笑すると傍らの千尋の方を向く。
『少し話し過ぎたか。千尋、神嫁殿の支度を頼む。あいつが待ちくたびれて暴れないように、なるべく早めに』
『はい、承知致しました』
次は支度が整った後に、と言い置いて時嗣は部屋を後にした。
千尋は女中達を呼び寄せると、見ていて気持ちよいほど手際よく采配し、指示を出していく。
実に目まぐるしい時間が過ぎた。
大きな湯船のある浴室に通された時は、手伝おうとする女中達を出来得る限りの強さで遠慮しようとした。
だが、時間も迫っておりますのでと押し切られ、隅々まで綺麗に磨き上げられてしまう。
熱く温もった湯で湯浴みなどあまりに久しぶりで、やや湯あたりしてしまいもした。
そうかと思えば、次はこれ、その次は、と息をつく間も無い程流れるような行程で、紗依は身支度を整えられていく。
忙しなくてごめんなさいね、と千尋は申し訳なさげにしていたが、紗依はそれよりも自分が変わっていく様に驚愕していた。
髪を整えられ、生まれて初めての化粧を施され。
あれよあれよという間に用意された着物を着付けられて――そして、現在に至る。
奥座敷の部屋に置かれた姿見には、女中達により磨き上げられ飾られた自分の姿が映っている。
すっかり艶など失っていた肩上までの髪は、椿油をつけて念入りに梳かれて見た事もない程に整えられて。
青白く血の気のない顔も、紅をさされたことで不思議と顔色が良く感じる。
それに何より、鏡の中の自分はあまりにも美しい装束を纏っている。
着付けられたのは、淡い桃色から白へのぼかしの具合が美しい、艶やかな花と吉祥を意匠とした裾模様が施された着物だった。
日頃全く縁のないものであった為に、正確な価値は分かりかねる。
だが、肌ざわりも目に映る絹地の滑らかな光沢も、緻密に描かれた模様も、どれ一つとっても、名のある職人が時間と手間を掛けた上等な品であることだけは分かる。
それこそ、苑香が喜んであれこれと品を変えて纏っていた流行の着物よりも格段であることも。
袋揚げに帯締め、帯留。それに半襟といった小物類に至るまで、触れた事もないようなものばかり。
目まぐるしく変わる状況に理解が追い付かないこともあったが、紗依の裡を埋めつくすのはただただ問いばかりだった。
自分は『神嫁』なる存在として北家に招かれた。
それは、けして玖瑶家が邪推したような、当主の妾を誤魔化すものでは無いとわかった。
ならば、何故に自分は身支度を整えられたのだろうか。
取り繕ったはずだったが、そんなにもみすぼらしかったのか、と眉を寄せてしまった。
そういえばご当主が『あいつが待ちくたびれないように』と言っていたような気がする。
あいつとは、誰のことなのか。この後、誰かに引き合わされるのだろうか。
変わり行く謎だらけの状況と起きている出来事に驚いているはずなのに、鏡の中の自分には不思議な程表情がない。
溜息が出るほどに無表情に見える自分を捉えながら、そういえば自分の姿を鏡に映すなど何年振りだろう、と心に呟く。
自分は、いつもこんな顔をしていたのだろうか。感情の起伏が薄い、人形のような顔を。
少なくとも、母の前では、少しだけでも笑うことができていたと思う。
それが一般的に笑っているという状態であったかどうかは分からない。
ただ、母が微笑んでくれるのを見るだけで、頬のあたりが少しだけ緩むのを感じていた。
でも、それ以外の前で笑ってしまえば。
とりわけ、笑っているのを苑香に見られてしまえば。
紗依がほんの僅かでも楽しそうにしているのを知ると、苑香は苛立って難癖をつけては紗依を痛めつける。
笑うことが辛さに繋がると悟ってから、人のいる場所で笑うことも、感情を露わにすることも控えるようになった。
母以外の前で笑えたのは、あの小さな友の前だけだった。
支度が終わった事を確かめにきたらしい千尋が、まあ綺麗、と微笑んでくれる。
その言葉を聞いて、紗依はもう一度鏡に映る自分の姿を見る。
北家の奥女中達の手腕は見事なもので、紗依は一見して深窓の令嬢に見える姿に仕上がっている。
まるでこの後、将来の伴侶となる相手との見合いに臨むような、素晴らしい出で立ちであると思う。
けれど、と紗依は裡に苦く思う。
いくら美麗な衣で飾ってもらえたとしても、骨のういた、痩せこけた貧相な身体は隠せない。
鞭で打たれた痕が残る、乾いてかさついた艶のない肌も。
苑香の悪戯で焼け焦げたせいで切らざるを得なかった不揃いな髪も。
辛い水仕事を続けて荒れて傷だらけの手も、女中達の目に触れたはずだ。
大切に育てられたはず令嬢としてはおかしい姿に、不審に思われていないだろうか。
北家が求めたのは、玖瑶家において長女と言われているはずの……強い異能を持ち美しいと評判の苑香であるはずだ。
ご当主達が求める姿と、自分はあまりかけ離れているのではないか。
求めに対して返した偽りはいずれ露見する、いや既に露見しているのではないか。
「お疲れでしょうね」
知らずのうちに表情が曇ってしまっていたらしい。
千尋が気遣うように覗き込んでいることに気付いて、慌てて頭を左右に振って否定する。
疲れているのは確かだけれど、裡にある考えを悟られるのが怖くて。
紗依の様子を見て気を取り直したように笑みを浮かべた千尋は、それでは参りましょう、と紗依を導いて歩き出す。
北家の門の前に立った時、紗依は身体が震えそうになった。
何とか見てくれこそは取り繕ったものの、自分のような者がこの家の門を叩くなど許されるのだろうかと。
暫くの間逡巡していたが、紗依は意を決して門番と思しき人影に声をかけた――。
数刻後、紗依は呆然としていた。
門番に声をかけたところまでは記憶が確かだけれど、その後に続いた出来事があまりに衝撃的すぎて今でも現実だったかと疑ってしまっている。
最初は怪訝そうに紗依を見ていた門番は、紗依が名乗ると瞬時に顔色と態度を変えた。
丁重に屋敷の中へと案内されたかと思えば客人を通すような立派な座敷に通され、見るからに身分があると思われる男女の出迎えを受けた。
『ようこそいらっしゃった、玖瑶のご長女殿』
年の頃は三十を少しすぎた辺りだろうか。
闊達に笑うと少年のような雰囲気を覗かせる男性を見た紗依は、周囲の態度と、落ち着いた物腰や確かな質の身支度から相手が『誰か』を察してしまう。
座して手を付いて頭を垂れた紗依に恐縮しなくてもいいと笑う男性は、自らを北家の主と名乗った。
自分は時嗣という名であり、傍らに控える女性は妻の千尋であると。
北家の現当主といえば、異能が弱まり行く家門において久方ぶりに並外れて強い異能を持って生まれたことと、切れ者であることで有名な人物のはずだった。
やはり、という思いに頭を上がられずに居る紗依に、千尋が時嗣の言葉に重ねて楽にするようにと声をかけてくれる。
恐る恐る上体を起こすと、そこには当主夫婦の優しい笑みがあった。
紗依は何とも言えぬ表情になりそうになったのを必死に堪える。
少なくとも、歓迎はされている気がする。この夫婦は、純粋に紗依の存在を受け入れてくれているのを感じるのだ。
二人は紗依が無事北家に到着したことを喜び、緊張を解そうと他愛無い会話を挟みながら、気遣う言葉をかけてくれた。
始めは声が震えかけていたけれど、言葉を交わすうちに少しずつ落ち着いて来る。
それに、分かってきたことがある。
この気さくで朗らかな当主と優しく穏やかに微笑む妻は、とても仲睦まじい。
父達は『神嫁』を当主の妾と邪推していたが、どうみてもこの夫婦には不要だと感じる。
出会ったばかりの紗依にすら分かる程に、互いを想い合う様子が会話の端々に垣間見えるのだ。
子がない懸念故に仕方なく、ということも考えられるが、それならばこれ程に紗依は歓迎されまい。
一体、自分は何故にこの家に望まれたのか。
申し出にあった『神嫁』とは、何なのか。
直接問いかけたいけれど、未だ緊張が解けぬ状態では言葉を発する事もままならない。
何故にここにあるのか、これからどうなるのか。知りたいけれど問えないもどかしさだけが募っていく。
紗依が問いを抱えていることを察したらしい時嗣は、苦笑すると傍らの千尋の方を向く。
『少し話し過ぎたか。千尋、神嫁殿の支度を頼む。あいつが待ちくたびれて暴れないように、なるべく早めに』
『はい、承知致しました』
次は支度が整った後に、と言い置いて時嗣は部屋を後にした。
千尋は女中達を呼び寄せると、見ていて気持ちよいほど手際よく采配し、指示を出していく。
実に目まぐるしい時間が過ぎた。
大きな湯船のある浴室に通された時は、手伝おうとする女中達を出来得る限りの強さで遠慮しようとした。
だが、時間も迫っておりますのでと押し切られ、隅々まで綺麗に磨き上げられてしまう。
熱く温もった湯で湯浴みなどあまりに久しぶりで、やや湯あたりしてしまいもした。
そうかと思えば、次はこれ、その次は、と息をつく間も無い程流れるような行程で、紗依は身支度を整えられていく。
忙しなくてごめんなさいね、と千尋は申し訳なさげにしていたが、紗依はそれよりも自分が変わっていく様に驚愕していた。
髪を整えられ、生まれて初めての化粧を施され。
あれよあれよという間に用意された着物を着付けられて――そして、現在に至る。
奥座敷の部屋に置かれた姿見には、女中達により磨き上げられ飾られた自分の姿が映っている。
すっかり艶など失っていた肩上までの髪は、椿油をつけて念入りに梳かれて見た事もない程に整えられて。
青白く血の気のない顔も、紅をさされたことで不思議と顔色が良く感じる。
それに何より、鏡の中の自分はあまりにも美しい装束を纏っている。
着付けられたのは、淡い桃色から白へのぼかしの具合が美しい、艶やかな花と吉祥を意匠とした裾模様が施された着物だった。
日頃全く縁のないものであった為に、正確な価値は分かりかねる。
だが、肌ざわりも目に映る絹地の滑らかな光沢も、緻密に描かれた模様も、どれ一つとっても、名のある職人が時間と手間を掛けた上等な品であることだけは分かる。
それこそ、苑香が喜んであれこれと品を変えて纏っていた流行の着物よりも格段であることも。
袋揚げに帯締め、帯留。それに半襟といった小物類に至るまで、触れた事もないようなものばかり。
目まぐるしく変わる状況に理解が追い付かないこともあったが、紗依の裡を埋めつくすのはただただ問いばかりだった。
自分は『神嫁』なる存在として北家に招かれた。
それは、けして玖瑶家が邪推したような、当主の妾を誤魔化すものでは無いとわかった。
ならば、何故に自分は身支度を整えられたのだろうか。
取り繕ったはずだったが、そんなにもみすぼらしかったのか、と眉を寄せてしまった。
そういえばご当主が『あいつが待ちくたびれないように』と言っていたような気がする。
あいつとは、誰のことなのか。この後、誰かに引き合わされるのだろうか。
変わり行く謎だらけの状況と起きている出来事に驚いているはずなのに、鏡の中の自分には不思議な程表情がない。
溜息が出るほどに無表情に見える自分を捉えながら、そういえば自分の姿を鏡に映すなど何年振りだろう、と心に呟く。
自分は、いつもこんな顔をしていたのだろうか。感情の起伏が薄い、人形のような顔を。
少なくとも、母の前では、少しだけでも笑うことができていたと思う。
それが一般的に笑っているという状態であったかどうかは分からない。
ただ、母が微笑んでくれるのを見るだけで、頬のあたりが少しだけ緩むのを感じていた。
でも、それ以外の前で笑ってしまえば。
とりわけ、笑っているのを苑香に見られてしまえば。
紗依がほんの僅かでも楽しそうにしているのを知ると、苑香は苛立って難癖をつけては紗依を痛めつける。
笑うことが辛さに繋がると悟ってから、人のいる場所で笑うことも、感情を露わにすることも控えるようになった。
母以外の前で笑えたのは、あの小さな友の前だけだった。
支度が終わった事を確かめにきたらしい千尋が、まあ綺麗、と微笑んでくれる。
その言葉を聞いて、紗依はもう一度鏡に映る自分の姿を見る。
北家の奥女中達の手腕は見事なもので、紗依は一見して深窓の令嬢に見える姿に仕上がっている。
まるでこの後、将来の伴侶となる相手との見合いに臨むような、素晴らしい出で立ちであると思う。
けれど、と紗依は裡に苦く思う。
いくら美麗な衣で飾ってもらえたとしても、骨のういた、痩せこけた貧相な身体は隠せない。
鞭で打たれた痕が残る、乾いてかさついた艶のない肌も。
苑香の悪戯で焼け焦げたせいで切らざるを得なかった不揃いな髪も。
辛い水仕事を続けて荒れて傷だらけの手も、女中達の目に触れたはずだ。
大切に育てられたはず令嬢としてはおかしい姿に、不審に思われていないだろうか。
北家が求めたのは、玖瑶家において長女と言われているはずの……強い異能を持ち美しいと評判の苑香であるはずだ。
ご当主達が求める姿と、自分はあまりかけ離れているのではないか。
求めに対して返した偽りはいずれ露見する、いや既に露見しているのではないか。
「お疲れでしょうね」
知らずのうちに表情が曇ってしまっていたらしい。
千尋が気遣うように覗き込んでいることに気付いて、慌てて頭を左右に振って否定する。
疲れているのは確かだけれど、裡にある考えを悟られるのが怖くて。
紗依の様子を見て気を取り直したように笑みを浮かべた千尋は、それでは参りましょう、と紗依を導いて歩き出す。