紗依と母が再会を果たして、瞬く間に日々は過ぎた。
 母は玖瑶家には戻らず、北家の敷地にある離れにて暮らすことになった。
 亘は正当な血筋である母に戻ってきてほしいと願っていたようだったが、母はそれを丁重に断ったのだ。
 嫌悪故の拒絶ではない。これから亘が玖瑶家を担っていくにあたり、母なりに新しい当主となった亘に対して気を使ったのだろう。
 病がちだったかつてが嘘だったのではと思える程に元気になった母は、千尋達と共に嬉しそうに紗依の婚礼の支度に勤しみ。矢斗はそんな母を『義母君』と呼び敬った。
 母は最初こそ畏れ多いと恐縮していたが、矢斗の真摯な態度と、紗依との仲睦まじい様子を見て次第に受け入れるようになる。
 幸せな慌ただしさに過ぎる日々の中、愛する矢斗と母と共にある紗依の顔には、いつも満ち足りた微笑みがあった。

 やがて、雲一つない晴れ渡った蒼穹が美しいある吉日。
 北家の祭神である矢斗と、その神嫁と求められた紗依との祝言が執り行われた。
 厳かに高砂が歌われ、花燭に照らされた広間に並ぶ大勢の人々は、北家縁の者ばかり。
 他家からも多くの祝福が寄せられていたが、全てを招くとしたらどれ程厳選したとしてもあまりに多すぎる。
 後日披露目の場を別に設けることとして、祝言は北家縁の者だけにしたとのことだった。
 目頭を押さえながら心からの喜びの笑みを見せる母に見守られ。
 温かい眼差しで見つめる時嗣と千尋が媒酌の労をとる中。
 皆が心を砕いて選んでくれた眩いばかりに美しい打掛に身を包んだ紗依は、北家にて祀られる破邪の弓である祭神の、正しく神嫁と呼ばれる伴侶となった。
 威厳ある佇まいにて皆の敬いの眼差しを集める矢斗の横顔を見た紗依は、少しばかり不安めいたものが過ぎったけれど。
 緊張に震えかけていた手に、そっと手が添えられて。温もりから、言葉に依らずとも互いの抱く想いは伝わってきて。
向けられた眼差しはいつもの矢斗の、優しく愛情に満ちたものであって。
紗依は同じく、心に抱く愛情と慈しみを込めた眼差しを返し微笑んだ。
 寄り添う二人が想い合い幸福そうな様子を、居並ぶ全ての人々心から祝い、喜びに見つめていた。
 もどかしいまま哀しく別れ。長い、本当に長い時を経て、再び出会い。
 そして漸く添う事が許された二人は、多くの人々からの祝福のもとに真の夫婦なることが叶ったのだった……。
 

 晴れて真実『神嫁』と呼ばれる者となった紗依の日常は、俄かに慌ただしいものとなる。
 矢斗に祭神としての務めがあるように、紗依にもまたそれを支える神嫁としての務めがある。紗依は時嗣と千尋から必死にそれを学び、夫を支え務めに勤しんだ。
 同時に、取り戻した異能を遣う為の修練も始まった。
 無いと思われていた紗依の異能は、人々が驚く程に強いらしい。
力を持つのならば、使い方を心得ねば周囲に悲劇を及ぼすことになる。
 ある程度は魂にある弦音の記憶を元に使うことができるが、全てが詳らかというわけではなく。靄がかかったように曖昧なところもある。
 また、玖瑶家由来の力が発現していることがわかった為、母の指導の元、紗依は懸命に鍛錬に励み。そんな紗依を、母は厳しくも優しく指導してくれた。
 務めに鍛錬に。それに加えて、祭神の婚姻を祝う様々な使者とのやり取り。
 時嗣達がうまく采配し手助けしてくれるが、嵐のような忙しなさが続いた為、流石に紗依は少しばかり疲弊してしまっていた。
 けれど、辛いとは思わなかった。むしろ、心身共に充実しているようにすら感じる。
 以前は、異能を持たない役立たずとして忌まれ、蔑まれ。そして価値なきものとして虐げられ続けていた。
 願いを抱くこともなく、日々をやり過ごすことに精一杯で。辛いと思っても、ただ耐えることしかできなくて。
 でも、今は違う。
 自らの出来ることを増やしながら、自分にしか出来ない役目を果たすことができている。
 それに大変だと思う時があっても、紗依の周りには多くの人がいる。助けを求めて声をあげたなら、躊躇うことなく手を差し伸べてくれる人々が。
 それに何より、愛しいひとがいてくれる。
 紗依はもう、一人で耐えたりはしない。
 辛いと感じた時は素直にそれを口にして助けを請い。申し訳ないという言葉を、ありがとうに。一人耐えるのではなく、声をあげるようにと変えていく。
 かつてどれ程そうあれと願っても変えられなかった日々を遠く思うほどに、紗依は自らに確かな変化が生じたのを感じることができていた。
 矢斗は、そんな紗依を傍らで守り続けてくれている。
 祭神として公の場にある時は相応の態度であるものの、一度私の場に戻ったなら紗依を片時も離そうとはしなかった。
 事あるごとに慈しみを込めて己の腕に捉えるのだ。まるで、紗依がそこにあることを確かめていたい、とでもいうように。
 時嗣が呆れ顔で窘めることもあったが、大抵の場合千尋に優しく止められていた。
 紗依もまた出来る限りの時を矢斗の側にいること、そして腕の中の囚われ人であることを望んだからだ。
 ……流石に、常に、となると些か気恥ずかしいけれど。
 矢斗の温もりを感じられる時間が……矢斗と再び出会えたこと、そして共にあるのだということを実感できる時間は、愛しくてたまらないと思う。

 その日、矢斗と紗依は久方ぶりに休日と呼べる日を過ごしていた。
 今日ばかりは水入らずでゆっくり休め、と時嗣達が采配してくれたからである。
 好意を有り難くうけとり、それならば、と二人は夏の庭をそぞろ歩くことにした。
 穏やかな色彩が美しかった春の庭とは趣の異なる、鮮やかな色彩の対比が見事な盛りの夏庭は二人の目を楽しませてくれる。
 微笑みあいながら一つ一つの花を眺めていた時、矢斗がふと思い出したように呟く。

「貴方は昔から花が好きで。あの時も、蝶のように花の間を行き来しては歌っていたな」
「……それは忘れてといったのに」

 矢斗の言葉を聞いて、紗依はやや気まずそうに顔を背けてしまう。
 過去の生において、花が美しいと童のようにはしゃいでいた姿を目撃された時のことを言っているのだとすぐに気付く。
 あまり見られたくないところだったのを思い出し、思わず不貞腐れたような表情になってしまう。

「忘れられそうにない。貴方はあまりに愛らしかったのだから」

 唇を僅かにとがらせた様子を見て、楽しそうに笑いながら矢斗は言う。
 その微笑みと共に紡がれた、やはり表も裏もない、ただ素直な賛美の言葉に。拗ねた様子だった紗依は、先とは違う意味で顔を背けている。
 頬が熱を帯びているような気がするし、頬どころか耳まで熱い。多分、耳まで赤くなっているのだろう。
 優しい苦笑いと共に、矢斗は機嫌をなおして欲しいと囁きを耳元に落しながら、紗依を優しく腕にとらえる。
 誤魔化されない、と心の中で呟いたけれど、それはあまりにも儚い抵抗だった。そもそも、抗う意思など本当のところありはしないのだから。
 温かで落ち着く場所に抱かれて、ゆるやかな沈黙が流れて。
 ふと、紗依は黙したまま何かを考えていたかと思えば、ふと細い両腕を伸ばし。そのまま矢斗の背に回し、自ら身を寄せた。

「……紗依?」
「私の手には、もうおさまらないわね」

 矢斗の問う声に、紗依の過去を慈しむような、様々な想いのこもった呟きが返る。
 紗依の脳裏に巡るのは、過去の花舞う庭。
 消えかけていた小さな光であった友と、願いを抱くことも誰かに頼ることも出来ずにいた小さくて悲しい自分。
 母を守る為に強く在らねばと気を張り続け、張り詰めた心を唯一許せる相手だった矢斗。
 あの庭で語り合っていた頃、矢斗は紗依の手のひらにおさまる程の小さな光だった。
 けれど、今はこうして、両腕を伸ばしても間に合わない。堂々たる体躯を持つ矢斗は、頼もしく確かな腕で自分を抱いてくれている。

 あの時から、随分歩いてきた気がする。
 多くの出来事があった。哀しいことも、つらいことも。別離も、再会も、様々に。
 すれ違いかけ、心が傷つき、絆が途切れようとした。
 己を責め苛み、呪い。消えかけるまでに辛い思いをさせてしまったことは、今でも悔いが蘇る。
 でも、だからこそ。こうして共にいられる日々が愛おしい。ふとした拍子に目頭が熱くなるほどに幸せだと感じる。

 紗依は、自分を抱く矢斗の手に僅かに力が籠ったのを感じた。
 ゆるやかに見上げた先にあったのは、宵の星のような輝きを持つ琥珀の双眸。
 そこには、紗依を愛しむ光が満ちていた。

「私は、いつまでも貴方の傍にいる。いかなる姿をしていても貴方の夫であり、そして友であり続ける」

 己を見上げる紗依の眼差しを真っ直ぐに受け止めながら、矢斗は言葉の一つ一つを噛みしめるようにして紡ぐ。
 紗依は、矢斗の琥珀の一対の中に自分の姿を見る。
 それを幸せで仕方なくて我知らずのうちに口元に笑みが浮かぶ紗依に、矢斗は願う。

「今度こそ、貴方を守り続ける。だから……どうか笑っていて欲しい。私の大切な天乙女」

 過去から今、そして未来に至るまで特別であり続ける、二人だけの呼び名。
 とびきりの愛しさを込めて呼ばれた名に、紗依は胸に熱いものがこみ上げてきて泣き笑いのような表情になってしまう。
 呼んでくれた名に込められた想いに、同じ想いを返したい。
 想ってくれるからこそ、同じ想いを抱くからこそ、それを返したい。
 紗依は、矢斗を見上げながら一度目を伏せて。そして、再び開いた時。
 表情に花が咲くようなこぼれる笑みを浮かべながら、告げた。

「私の愛しい夕星が、傍で輝いていてくれるなら。……貴方がいてくれるなら、私はずっと笑えるから」

 ――だから、どう私を離さないで欲しい。

 紗依がその言葉を口にした瞬間。一陣の風が吹き、花々を揺らし。美しい花弁がふわりと宙を舞う。
 もう二度と離れたくない。共に在り、共に幸せになりたい。
 神嫁が心から紡ぎ、心から望んだ新たな願いは。
 愛する弓神の応えを宿した唇に触れて、溶け。
 二人の未来を繋ぐ新たな約束は、新たな花舞う庭で静かに結ばれた――。