失っていたものが還ってきた紗依の瞳からは、とめどなく涙が溢れ、頬を伝う。
 身体に絡みつく鵺を不快に思うよりも、戻ってきた想いの痛みが勝って。言葉なくただ涙する紗依の耳に、揶揄を含んだ悪意が聞こえた。

「ようやく思い出したか、巫女よ」
「鵺……」

 俯いてしまっていた紗依の表情が険しくなり、宙を睨み据えながら緩やかに顔をあげる。
 先程まではただ自分を捕らえる触手のようなものしか見えなかったが、今なら確かにそこにあるのがわかる。
 紗依に絡みつくようにしてある、数多の獣の集合体のような醜悪な姿が。その中央にある、紗依を嘲笑う猿のような顔が。

「自分に嫉妬して打ちひしがれる様は、実に滑稽だったぞ」

 愉快で堪らないといった様子で呟かれた言葉に、紗依は表情を強ばらせる。
 確かにそうだ。
 矢斗には愛した女性が……弦音がいたことを知って、今もまだ愛される彼女に嫉妬した。
 それ故に、自らに向けられる矢斗の情を憐みだと誤解した。
 けれど、弦音は紗依だった。紗依の先の世の姿であり、紗依自身だった。
 滑稽と笑われても咄嗟に返す言葉が見つからない。懊悩していた自分が滑稽と思えて、羞恥に唇を噛みしめてしまう。
 しかし、次の瞬間躊躇いがちな響きを帯びた言葉が耳に触れ、目を瞬いた。

「紗依……」

 そちらに眼差しを向ければ、期待と恐れを含んだ矢斗の琥珀の双眸がある。
 紗依の名を呼ぶ声が、違う響きを伴って聞こえた気がした。
 弦音、と。矢斗の心が紗依をそう呼んでいるような気がして、紗依の瞳にはまたも透明な雫が盛り上がり、零れる。

「ごめんなさい、矢斗。……ごめんなさい……」

 伝えたい事は心の中で次々込み上がってきて溢れそうなのに。紗依の口から紡がれるのは、ただ謝罪の言の葉ばかり。
 あの時、使命を果たす術としてあの方法しかなかったと思う。
 けれど、それ故にどれ程の痛みを矢斗に強いてしまったのかと思えば、どの言葉も軽く思えてしかたなくて。
 彼があの後どのように時を過ごしていたのか。自らの存在そのものを呪い、否定し。儚き光になり、ただ消えるに任せていたのか知ってしまったから。
 どんな言葉も、その時間に対する償いにはならない。
 涙しながらただ繰り返す紗依を見て、矢斗は暫しの間無言だった。
 事の経緯を見守っていた時嗣達も、誰も言葉を紡げぬ時間が続き。響くのは愉快そうに嗤う鵺の声だけ。
 沈黙したままの矢斗の次なる言葉を待つのが怖くて、俯きかけたその時。

「……それでも、私達はまた会えたのだから。泣かないでおくれ、私の天乙女」

 弾かれたように紗依は顔を上げて、矢斗を見る。
 痛みも哀しみも。裡にある数多の感情も、全てのみ込んで。矢斗は、少しだけ哀しげに。けれど、静かな微笑を湛えて紗依を見つめていた。
 天乙女と呼んで、笑ってくれていた。
 あの庭で二人、過ごした日々のように。
小さな光と友として過ごした日々のような、優しい声音で。
北家に迎えた紗依を守り慈しみ続けてくれた、温かな眼差しを向けて。
 紗依の胸の裡に、熱い感情がこみ上げ満たしていく。止まりかけた涙が再び溢れ、頬を次々と伝う。
 けれど、矢斗の名を呼び縋りたいと願っても、今それは叶わない。
 その元凶とも言える怪異は、二人の様子に沈黙していたかと思えばけたたましく笑った。

「それで、我をどうする? 感動の再会の後は、また悲劇の別れを繰り返すのか?」

 鵺の言葉に、紗依と矢斗、そしてその場にいる者達の顔が蒼褪め、険しくなる。
 そう、鵺はまだ紗依の中にいるのだ。
 一部綻びから外に這い出しかけてはいるが、その中枢とも言えるものは紗依の中に留められている。
 鵺は紗依を浸食し内側から食い尽くし、いずれは紗依を器として現世に完全に顕現してしまうだろう。
 それを阻止するには、あの時のように紗依の内に鵺が封じられている間に紗依を殺すしかない。
 けれど、それではまた繰り返す。
 弦音の後悔を。そして、矢斗の苦しみと哀しみを。
 矢斗に尽きぬ悲しみを与えてしまったことを悔いるからこそ、もう二度と繰り返したくない。もう二度と、矢斗に己を呪って欲しくない。
 再び出会えた今、もう二度と……!
 その時、紗依は目を見張る。
 誰に言われたからでもなく、誰かのためでもなく。紗依が自ら抱いた願い。
 漸く矢斗に伝えられる……矢斗でなければ叶えられない、紗依の願い。
 紗依は、自分の中にある強く揺るぎないただ一つの『願い』に気付いた。
 だが、それを叶える為には、ただ願うだけでは駄目なのだ。
 紗依は毅然とした面もちで宙に浮かび笑う鵺の顔を見据えると、身の内に宿る力を集中し、自身を捕える腕のようなものに向ける。
 紗依の意思は光として形をなし、縛するものを打ち据えた。
次の瞬間、鵺の苦痛の呻きと共に、呆気なく思うほどすんなりと紗依を戒めるものは解けた。
 未だ裡から鵺が湧き出ている状態には変わりないが、驚く複数の眼差しの中で、紗依は手足の自由を辛うじて取り戻す。
 紗依自身も驚いていた。そして同時に、気付いてしまった。
 一つの可能性に――鵺はまだ、かつての力を取り戻していない、と……。
 弦音として対峙した往時の鵺のままであったなら、こうして仮初の自由を取り戻すこととて出来なかっただろう。
 けれど、鵺は忌々しげに呻きながらも紗依の動きを封じていた戒めを失った。
 死を持たなかったものが、知らなかった死を知ったことで受けた痛手はそう浅くはなかったのかもしれない。
 或いは、死という概念を得たことにより、存在が何らかの変質を遂げたのかもしれない。
 仮説は幾つでも思い浮かぶ。
 ただ、一つだけ確かなことは、今の鵺にかつて程の力はないということ。
 それならば、と紗依の脳裏に浮かぶ可能性が一つ。
 今ならば……かつてのような大きな封ではなくとも、閉じ込めることができるのではないだろうか。
 あの時は弦音の全ての力を以て、弦音自身を器として封じ込めなければならなかった。
 だが今なら、何か……紗依の身体以外の何かに封じて、自身から怪異を切り離せるのではないかと思ってしまったのだ。
 鵺の放つ禍々しい気は怒り狂い暴れだすけれど、矢斗や時嗣達が決死の思いで紡ぐ守りにて阻まれ。鵺は尚の事苛立ち、咆哮している。
 再び自分を戒めようとする鵺の怒りを裡に感じながら、紗依は考え続けた。
 鵺を自分から切り離し封じる。それならば、何処に? 何に……?
 問いに対する答えを焦る紗依が唇を噛みしめたその時だった。
 紗依の胸元にある何かが不意に熱を帯びたように感じた気がして、紗依は思わず目を瞬いて手をそこにやる。
 そこにはあの日矢斗にもらった、矢斗が紗依の為に祈り、星の光を紡ぎ続けて作り上げた珠の簪があった。
 破邪の弓である彼が想いを込めて祈りを捧げ、浄き天の力を形として凝らせた、祭具にも等しい守りが……。
 目を見張ったまま、紗依は思わず声をあげそうになった。  
 確かに、この簪ならば。そして今の紗依の力と、この場に集った人々の力を借りたなら。
 鵺を解き放つことなく、紗依から鵺を移すことが可能なのではないだろうか。
 せっかく矢斗が紗依を想い、時間をかけて紡いでくれた珠を、鵺を封じる媒介にするのは心苦しい。
けれど、これしか方法がない。
 紗依は今度こそ死ぬわけにいかない。そして、鵺に喰われてしまうわけにもいかない。
 もう二度と、矢斗に哀しみの日々を与えたくないのだから――!
 紗依は、胸元から静かに星の光が凝ったような珠を持つ簪を取り出した。
 僅かに燐光を帯びたそれを目にした矢斗は驚愕に目を見張り、次いで紗依の意図を察した様子である。
 傍らの時嗣に険しい表情で何事か囁き、それを聞いた時嗣達は強張った面持ちで、それでも頷いているのが見える。
 鵺は殊更ゆっくりと、再び紗依を己の戒めに捕らえようとしてくる。
 その様子に苛立ちを覚えながらも抑えて。努めて冷静に紗依は鵺を見据えた。
 悲劇の別れを繰り返す? とんでもない。
 心に強くその言葉を呟きながら、紗依は徐々に強まり行く光を帯びた珠を鵺に向けた。
 そして、心からの願いと、強い決意を以て叫ぶ。

「もう二度とあの時を繰り返したりはしない。……終わるのは、貴方だけよ……!」

 今までにない程に強き声音で紡がれた紗依の決意に、鵺の動きが僅かの間戸惑った風に止まる。
 その隙を見逃す紗依ではない。
 今の世の身体で、戻ったばかりの異能を使う負荷に身体は悲鳴をあげる。けれど、必死に歯を食いしばって紗依は遠い日の記憶に刻まれた術を紡ぎあげる。
 星の光の珠に、暴れる怪異を封じ込める為に。
 不意を突かれた形となった鵺は咄嗟に紗依に襲い掛かり、簪を奪おうとした。
 怪異の動きと術の完成の差は刹那だった。
 あやうく鵺の手が簪を掠めかけたより先、一瞬早く紗依の術が完成する。
 紗依を再び戒めようと伸ばされていた鵺の腕が、不意に紗依の目前から消失する。
 禍々しい怪異の影は、見る見る内に強気輝きを放つ珠へと吸い込まれるようにして見えなくなっていく。
 体の中から、凄まじい勢いで何かが抜け出ていくのを感じながら、紗依は必死にその場に立ち続けた。
 やがて、その奔流めいた感覚は途切れ。
怨嗟の叫び声をあげながら紗依の内側から図引きずり出された鵺は、抱いた慢心故の油断の所為で、逃れることも叶わず珠を新たな封じの器とさせられた。
 封を破り外に出ようとした鵺を戒めるように、幾重にも紗依のものではない封じの力が被せられていく。

「封じに長けた術者を全て集めろ! 緩めることなく封じの術を紡げ!」

 力の主である時嗣は余裕など殴り捨てた形相で家人に命を叫び。
 強張った面持ちの家人は力を振り絞り封じを施し。或いは指示に従い、更なる封を施せる者を求めて駆けていく。
 鵺は暴れ、咆哮し続ける。
 玩具で遊んでやる程度の気持ちで居たのだろう。
 紗依と矢斗が此度もまた悲劇を繰り返すのかとせせら笑っていたのだろう。
 けれど今、怪異は弓神の想いの結晶とも言える珠に、紗依と、そして数多の人々の力を以て封じられている。
 荒い息のまま、紗依は僅かに目を伏せた。
 だが、まだ終わりではない、と。
 そう。まだ、鵺と紗依は繋がっている。
 紗依の魂と共に転生した鵺は、現には形を持たぬ見えぬ糸のようなもので紗依と魂が結びついている。
 その繋がりを断ち切らない限り、その結びを綻びの媒介として鵺が封を破りかねないのだ。
 紗依は限界を訴えようとする己の身体を叱咤して、今一度ある術を紡ぐ。
 あるものを現実に具現化させる術……紗依の魂と鵺を結びつける『結び目』に現の形を与える術を。
 やがて、糸と糸を結ぶ結び目のように見えるものが、誰の目にも見える姿を以て生じる。
 僅かな安堵を感じその場に膝をつきかけたのを必死でこらえながら、紗依は矢斗を真っ直ぐに見つめた。

「矢斗、お願い。この結び目を撃って」