内側にて、正気か、と漸く鵺の声に焦りが生じる。
そして、目に見えて鵺は弦音の内側にて暴れ始め、やがては弦音を裡から食い尽くそうとし始める。
逃れようともがいているのがわかるけれど、弦音は持てる全てを以てして自らの身体を封じ続けた。
死を持たぬものに、死という終わりを与えるには――それを持つ器に封じて、その器に死を与えるのみ。
そう、封じるだけではだめなのだ。
封じただけでは、鵺はやがて弦音の魂を喰い尽くし。この身体を新たな器として現世に顕現するだけ。
鵺を倒すには、鵺を封じ逃げ場を奪った後に器が……弦音が死なねばならない。
そして弦音が鵺を封じることに全てを費やしている今、それを為せるのはただ一人――。
『私に、貴方を殺せと……。それを、貴方が願うのか……!』
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
目の前にある現実を拒むように、矢斗は頭を激しく左右にふり叫ぶ。
自らの手で共に戦いに望んだ仲間であり、唯一人と想う相手である者を殺せというのかと、愕然とした面もちで。
だが、鵺を解き放つわけにはいかないのだと、矢斗もまた痛い程に知っている。
使命を拒み弦音を選ぶには、彼はあまりにも神として人々を庇護する存在でありすぎた。
弦音は、一筋涙を零しながら矢斗の手による死を希う。
死を願いながら、心の裡にて呟く。
せめて、終わりは愛しい貴方の手でと望んでしまった私を。どうか許して下さいと……。
矢斗はそれ以上何も言わなかった……言えなかった。
激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
遂に矢斗は矢を番え。弦音を己の本体である弓を引き、射抜いた――。
弦が弾かれる澄んだ音が弦音の耳に届いた瞬間、彼女の心臓を弓神の矢は過たず貫いた。
胸に焼けつくような激しい痛みを感じたのと同時に、弦音の中の鵺があげる断末魔の叫びが聞こえた。
内外に生じた奔流と苦痛に、激しく翻弄され、倒れ。気付いた時、弦音は矢斗に抱かれ、身体を抱え起こされていた。
弦音の内側で、悶え苦しむ鵺の気配が徐々に徐々に弱弱しいものに転じている。
破邪の弓の神威によって射抜かれた怪異は、現の器に封じられてしまったが為に逃げられず。器が――弦音が死に瀕しているからこそ、初めて死というものを知ろうとしている。
鵺が弱まりつつあると同時に、弦音の命の灯火も消えつつあった。
弦音は、静かに矢斗を見上げた。
血を流す程に唇を噛みしめながら。弦音を見つめる優しい弓神は、泣いている。
『なかないで、ください……。どうか……』
初めて腕に抱かれたことを何処かで喜んでいる自分を苦く思いながらも、弦音は切れ切れに呟いた。
彼の頬を流れる涙を拭いたいけれど、もう指先一つ動かせない。
そんな顔をさせてしまったことをどれだけ悔いても、もうそれ以上言葉を紡ぐこともできなくて。
薄れゆく意識の中。遠ざかる哀しみに満ちた矢斗へと、弦音はただ願っていた。
伝えたい。せめて、最後に。
どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
だから、どうか……――。
愛しい矢斗の涙が頬に落ちた感触。それが、弦音という娘の生の最期の記憶だった。
鵺は討伐され、都は怪異が齎す脅威から救われた。
だが、それを機に北家は祭神を失った。
矢斗は、愛する女の亡骸を抱いたまま姿を消した。
他を害することの叶う武器であった己の身を呪いながら。弦音の願いを叶える為とはいえ、彼女を射た自分を呪いながら。
矢斗は、ただ弦音を離そうとしなかった。
彼女の身体が朽ちて、塵となり風に消えても。腕から抱くものが消え失せても。
果ては自らが何であったかも無くなり、存在が希薄になっても。
やがて色を失い。そして現に形を失っても。矢斗はただ、その場に在り続けた。
やがては儚き小さな光となり、そのままただ消えゆこうとしていたある日。
ふと、何かを感じた。
おぼろげな感覚の中、誰かが泣いているような気がして、彼はふと声を上げた。
自らの意思を音にするのも随分久しぶりな気がする中で、その手は彼に触れた。
『あたたかい』
彼に触れた少女は、囁くように小さな声で呟く。
その声が、とても愛おしく思えて。泣きたい程に切なく、懐かしく感じて。
彼は……小さき光は、紗依という名の少女の手を温かいと思った。
そして光と少女は、二人しかしらぬ呼び名をもつ、友となった……。
紗依と共に時を過ごすうちに。紗依と心を交わし、想いを重ねるうちに。自らを失っていた小さな光は、己が何であったのかを取り戻していく。
少女との日々が、一つ、また一つと彼に真実を還していく。
彼女が誰であるのかも。かつて自分達の間に何があったのかも、全てを。
だからこそ、彼は花舞う日に約束を残し彼女の前を去った。
今度こそ守りたいと願って。もう二度と、失いたくないという想いを抱いて。
そして北家に戻り来た祭神は、時を越えて再び見出した愛する女を『神嫁』にと望んだ――。
そして、目に見えて鵺は弦音の内側にて暴れ始め、やがては弦音を裡から食い尽くそうとし始める。
逃れようともがいているのがわかるけれど、弦音は持てる全てを以てして自らの身体を封じ続けた。
死を持たぬものに、死という終わりを与えるには――それを持つ器に封じて、その器に死を与えるのみ。
そう、封じるだけではだめなのだ。
封じただけでは、鵺はやがて弦音の魂を喰い尽くし。この身体を新たな器として現世に顕現するだけ。
鵺を倒すには、鵺を封じ逃げ場を奪った後に器が……弦音が死なねばならない。
そして弦音が鵺を封じることに全てを費やしている今、それを為せるのはただ一人――。
『私に、貴方を殺せと……。それを、貴方が願うのか……!』
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
目の前にある現実を拒むように、矢斗は頭を激しく左右にふり叫ぶ。
自らの手で共に戦いに望んだ仲間であり、唯一人と想う相手である者を殺せというのかと、愕然とした面もちで。
だが、鵺を解き放つわけにはいかないのだと、矢斗もまた痛い程に知っている。
使命を拒み弦音を選ぶには、彼はあまりにも神として人々を庇護する存在でありすぎた。
弦音は、一筋涙を零しながら矢斗の手による死を希う。
死を願いながら、心の裡にて呟く。
せめて、終わりは愛しい貴方の手でと望んでしまった私を。どうか許して下さいと……。
矢斗はそれ以上何も言わなかった……言えなかった。
激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
遂に矢斗は矢を番え。弦音を己の本体である弓を引き、射抜いた――。
弦が弾かれる澄んだ音が弦音の耳に届いた瞬間、彼女の心臓を弓神の矢は過たず貫いた。
胸に焼けつくような激しい痛みを感じたのと同時に、弦音の中の鵺があげる断末魔の叫びが聞こえた。
内外に生じた奔流と苦痛に、激しく翻弄され、倒れ。気付いた時、弦音は矢斗に抱かれ、身体を抱え起こされていた。
弦音の内側で、悶え苦しむ鵺の気配が徐々に徐々に弱弱しいものに転じている。
破邪の弓の神威によって射抜かれた怪異は、現の器に封じられてしまったが為に逃げられず。器が――弦音が死に瀕しているからこそ、初めて死というものを知ろうとしている。
鵺が弱まりつつあると同時に、弦音の命の灯火も消えつつあった。
弦音は、静かに矢斗を見上げた。
血を流す程に唇を噛みしめながら。弦音を見つめる優しい弓神は、泣いている。
『なかないで、ください……。どうか……』
初めて腕に抱かれたことを何処かで喜んでいる自分を苦く思いながらも、弦音は切れ切れに呟いた。
彼の頬を流れる涙を拭いたいけれど、もう指先一つ動かせない。
そんな顔をさせてしまったことをどれだけ悔いても、もうそれ以上言葉を紡ぐこともできなくて。
薄れゆく意識の中。遠ざかる哀しみに満ちた矢斗へと、弦音はただ願っていた。
伝えたい。せめて、最後に。
どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
だから、どうか……――。
愛しい矢斗の涙が頬に落ちた感触。それが、弦音という娘の生の最期の記憶だった。
鵺は討伐され、都は怪異が齎す脅威から救われた。
だが、それを機に北家は祭神を失った。
矢斗は、愛する女の亡骸を抱いたまま姿を消した。
他を害することの叶う武器であった己の身を呪いながら。弦音の願いを叶える為とはいえ、彼女を射た自分を呪いながら。
矢斗は、ただ弦音を離そうとしなかった。
彼女の身体が朽ちて、塵となり風に消えても。腕から抱くものが消え失せても。
果ては自らが何であったかも無くなり、存在が希薄になっても。
やがて色を失い。そして現に形を失っても。矢斗はただ、その場に在り続けた。
やがては儚き小さな光となり、そのままただ消えゆこうとしていたある日。
ふと、何かを感じた。
おぼろげな感覚の中、誰かが泣いているような気がして、彼はふと声を上げた。
自らの意思を音にするのも随分久しぶりな気がする中で、その手は彼に触れた。
『あたたかい』
彼に触れた少女は、囁くように小さな声で呟く。
その声が、とても愛おしく思えて。泣きたい程に切なく、懐かしく感じて。
彼は……小さき光は、紗依という名の少女の手を温かいと思った。
そして光と少女は、二人しかしらぬ呼び名をもつ、友となった……。
紗依と共に時を過ごすうちに。紗依と心を交わし、想いを重ねるうちに。自らを失っていた小さな光は、己が何であったのかを取り戻していく。
少女との日々が、一つ、また一つと彼に真実を還していく。
彼女が誰であるのかも。かつて自分達の間に何があったのかも、全てを。
だからこそ、彼は花舞う日に約束を残し彼女の前を去った。
今度こそ守りたいと願って。もう二度と、失いたくないという想いを抱いて。
そして北家に戻り来た祭神は、時を越えて再び見出した愛する女を『神嫁』にと望んだ――。