矢斗の言葉に、周囲の者達が言葉を失った気配を感じる。
半ばおとぎ話のような遠い存在であったはずのものが、今目の前にある現実を。しかも、紗依の内側から生じている事実を受け入れきれていないのだろう。
それは紗依とて同じことだ。
矢斗が自らの存在を失うほどの思いをした出来事。その元凶とも言える存在が、よりにもよって自分の中にあったなど信じたいわけがない。
何故、怪異は自分の内側にあったのか。裡を問いや様々な感情が鬩ぎ合い続ける紗依の前で、怪異と険しい表情の祭神は対峙している。
「当たり前だろう。我は滅し、この女だけ巡ったとでも思ったのか」
紗依を捉える怪異が実に愉快だと言った様子で言うと、矢斗の顔が見てわかる程に口惜しげに歪む。
やり取りの意味がわからない。
巡るとは一体どういうことで、何故怪異が自分と共にあったのか、全く。
――本当に?
水面に落した一つの雫のように、不意に、その言葉が紗依の中に波紋を呼んだ。
本当に、自分は分からないのか。
鵺が自分の中にあった理由、それは。
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
誰かが叫んでいる。
その叫びは、遠い時の彼方のものであるけれど。不思議な程に近くて……まるで、紗依の裡にあるように感じる。
かつて『私』はその結論に至った。
困難に直面し悩んだ末に。傷つけることになるとわかっていても、それしかないと。
使命と想いの狭間に苦しみながら、決断した……。
「矢斗、あれは……」
「……私が、弦音と共に討伐したはずの、鵺だ……」
呆然とした様子の時嗣が、矢斗に躊躇いがちに声をかける。
その傍らでは、千尋が怪我人や周囲の被害を抑える為の対応を家人に慌ただしく采配している。
矢斗の言葉にやはり、といった様子で苦々しい表情をした時嗣は一つ大きく息を吐いた。
「そうか……。紗依殿は、異能を持って『いなかった』のではなかったのか……」
暫し無言で紗依を見て。何かに気づいたといった風な複雑な面持ちで紡がれた言葉に、紗依の目が見張られる。
異能を持たない呪い子と言われたこの身に異能が備わっていたと。今、時嗣は言った。
それは何故と問いたいけれど、怪異に囚われたままの状態では声をあげることすら侭ならず。戸惑いの表情を浮かべる痛ましげに見つめながら、時嗣は重い声音で続けた。
「おそらく、紗依殿は自分でも知らないうちに、持てる力で鵺を封じていたんだ。封じ続ける為に全ての異能を費やさねばならなかったから、発現できなかっただけだ……」
時嗣の言葉に、紗依はふと自分の中に先程とは違う感覚が生じていることに気付く。
怪異のものとは違う不可思議が自分の身体に満ちているのを感じる。
これが、紗依の異能なのだろうか。
今までこれが発現できなかったのは……感じることすら叶わなかったのは、この強大な怪異を封じ続ける為。
紗依が異能を持たぬと断じられた赤子の頃から、つまりは生まれた時からこの怪異は紗依の内側にあり続けたのだ。
共に巡ったと、怪異は言っていた。
自分は……鵺と共に生まれてきた。いや、生まれる前から、自らの内に鵺を封じ続けていた……?
それは何故。
裡に生じた紗依の問いを読み取ったように、鵺は何処からか生じさせた人の手で紗依の顔を掴み、そして矢斗を嘲笑うように告げる。
「かつて、お前は望んで我を内に招じ入れた。自ら、我を己に封じた」
勿体ぶった様子で、含みのある声音で。怪異はかつてあった出来事を言葉にしていく。
自ら……紗依自身が、鵺を内に招き入れ、自らに封じた?
そんな覚えなどない。今に至るまで、紗依は鵺の存在に触れることなく過ごしてきた。
あの悪夢を見るようになるまでは、何かが自分の中にいるなどと思いもせず生きて来たはずだ。
けれど、その言葉に嘘だと告げられない自分がいる。
声を出せない故ではない。怪異の言葉をかつてあった事実として、紗依はどこかで受け入れている。
何故、いったいどうして。
揺れる心で見つめた先には、矢斗が居る。
自分を見つめるあまりに悲痛な眼差しが、ひどく哀しく懐かしい。
そんな顔をさせたくはなかった。けれど、他に選ぶ術を持たなかった。許して欲しいと願いながら、必死に自分は手を伸ばそうとした……。
違う、それは『紗依』の記憶ではない。
自分はどうしてしまったのだろうか。怪異に取り込まれつつあるが故に、錯乱しつつあるのだろうか。
過去と現在が。紗依ではないものと、紗依が。複雑に入り交じり絡みあい、何かに導かれようとしている。
けれど、それを確かめる時間はもう残されていないと紗依は感じた。
鵺は封じられていた紗依の内側から、紗依を浸食しながら徐々に徐々に更に現へと這い出ようとしている。
叶う限りの力を以て抗いたくても、その思いを嘲笑うように怪異は紗依の裡を埋めつくしていく。
世に出たならば恐るべき災いを齎すとされる怪異が、少しずつ紗依を現の器として世に放たれようとしている。
矢斗が自らを呪う程に傷ついた過去が、蘇ってしまう……!
「……私を、ころして」
「……紗依⁉」
それだけは、と思った瞬間。紗依の唇からは掠れた一つの願いが零れ落ちていた。
紗依の呟きを耳にした矢斗の顔からはすっかり色というものが消え失せ、続く言葉が紡げぬ様子であり。
怪異の気配に惹かれて集まってきた悪しきものに対し表情を険しくしていた時嗣も。惑う人々を叱咤し逃げ延びさせていた千尋も、弾かれたように紗依を見た。
それぞれに蒼褪め凍り付いたような表情で、聞いたことが真実であるかと疑うような、愕然とした面もちのまま紗依に揺れる眼差しを向けている。
必死に絞り出すように紡いだ言葉は、紗依にとって、今抱く唯一つの願いだった。
「このままじゃ……。鵺が、私を全て食い尽くしてしまったら……私が、鵺になってしまったら。大変なことになってしまう……!」
封が途切れて異能が身体に戻りきたからか、それとも本能的なものなのか。どちらかはわからないけれど、刻一刻と危機が迫りつつあるのを痛い程に感じる。
この怪異は、解き放たれてはいけないもの。鵺は、けして世に出てはならないもの。
鵺は紗依を内側から食い尽くし、紗依の身体を現世での器に作り変えて、完全に軛から解き放たれようとしている。
そんなことになったら一体どうなるか。想像するだけでも恐ろしくて、血の気が引いていく。
このままでは、駄目なのだ。このままでは、自分は皆に害を為すものとなってしまう。
だから、その前に。鵺が人である紗依の中にある内に。
「矢斗、お願い。……私を撃って……! 私が人であるうちに、私を殺して……!」
もはや自分では指先一つ動かすことができない状態では、自ら命を絶つことは出来ない。
だからこそ、哀しい顔をさせるとわかっていても矢斗に願うしかなかった。
終わるならばせめて矢斗の手で。鼓動を止めるならば矢斗の放つ矢に貫かれて逝きたい。
あれだけ紗依が願いを伝えることを待ってくれていた矢斗に対して、抱けた最初であり最後の願いがその手での死、というのは哀しいけれど。
紗依の身体はまだ人のままだ。そう、心の臓が鼓動を止めれば死を迎える身体の中に、鵺は封じ込められている。
ならばまだ完全に変質してしまう前に。人であるうちに紗依の命を絶つしかない。
完全に作り変えられる前に死を与えられたなら、鵺は封じられたまま、目的を遂げられずに終わるだろう。
そう、世に災いを放たない為には、それしか方法がなかった。
鵺は死というものを持たない怪異。その怪異に死という終わりを与える為の唯一の方法、それは。
そう、あの時だって私はそう思って……。それ以外、課せられた使命を果たす術が。人々を怪異から救う術がなかったから。
――だから『私』は、矢斗に願ったのだ。
唇から紡いだ願いが、閉じられていた魂の奥底を開こうとしていた。
紗依の中に、彼女のものではない、彼女の記憶が蘇ろうとしている。
掠れた呻き声を零しながら、流れ込むようにして戻りつつある古き日々に、紗依は目を見張る。
その時、自分が『何』であったのかが蘇りつつある紗依の耳を、遥かな昔に聞いたのと同じ哀しみの声が打った。
「嫌だ……。同じ事を、繰り返すなど……」
鬩ぎ合う過去と今の狭間にて呆然としていた紗依は、ゆっくりではあるが視線を向ける。
儚い眼差しの向こう側で、矢斗が涙するのではないかと思うほど悲痛な表情で紗依を見つめていた。
震える眼差しと、必死に紗依を見つめていようとする真っ直ぐな眼差しが交差し、結びつく。
その眼差しと、言葉が。紗依の奥底の封印を静かに、緩やかに紐解き。隠されていた真実を浮かび上がらせた。
そう、もしも矢斗が紗依を射たとしたならば、それはかつての刻の繰り返し。
あの日に起きた、哀しい終わりの再現……。
「現世でも貴方を……。貴方を、この手でまた失うなど!」
封の解かれた記憶は緩やかに紗依の中に染みわたり、戸惑いでしかなかった現と過去を静かに一つにしていく。
あの時、自分は随分と酷い願い事をしてしまった。
それしかないと知っていたけれど、この優しい弓神に終わりを願ってしまった。
今のように内に怪異を封じて。死を持たない怪異に終わりを与えるために。使命と想いに揺れながら、この男性の手で命を終える事を願ってしまった。
矢斗の哀しみと苦しみに満ちた表情が、過ぎし日のものと重なる。
自分の最期の願いを叶える為に、遂に己の本体である弓を引いた矢斗。
矢斗が、私の名を呼んでいる。
そう、私の名は。
いえ、私がかつての日々を生きていた時に名乗っていた名は――。
「私は、今度こそ貴方を守ると……。今度こそ、貴方に……弦音に、幸せになって欲しいと願っているのに……!」
血を吐くような矢斗の叫びに、頬を透明な雫が一つ伝って、落ちていく。
矢斗は、紗依を弦音と……彼が愛した女性と伝えられた巫女の名で呼ぶ。
あの日、彼女が震える手を伸ばした先にあった、哀しい表情で。
紗依は戻り来た全てに涙しながら、目を伏せる。
そう、私はかつて弦音と呼ばれていたもの。
北家の祭神である付喪神と共に鵺の討伐を使命とし。身の内に鵺を封じたまま弓神に射抜かれ死んだ、巫女であったもの……。
半ばおとぎ話のような遠い存在であったはずのものが、今目の前にある現実を。しかも、紗依の内側から生じている事実を受け入れきれていないのだろう。
それは紗依とて同じことだ。
矢斗が自らの存在を失うほどの思いをした出来事。その元凶とも言える存在が、よりにもよって自分の中にあったなど信じたいわけがない。
何故、怪異は自分の内側にあったのか。裡を問いや様々な感情が鬩ぎ合い続ける紗依の前で、怪異と険しい表情の祭神は対峙している。
「当たり前だろう。我は滅し、この女だけ巡ったとでも思ったのか」
紗依を捉える怪異が実に愉快だと言った様子で言うと、矢斗の顔が見てわかる程に口惜しげに歪む。
やり取りの意味がわからない。
巡るとは一体どういうことで、何故怪異が自分と共にあったのか、全く。
――本当に?
水面に落した一つの雫のように、不意に、その言葉が紗依の中に波紋を呼んだ。
本当に、自分は分からないのか。
鵺が自分の中にあった理由、それは。
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
誰かが叫んでいる。
その叫びは、遠い時の彼方のものであるけれど。不思議な程に近くて……まるで、紗依の裡にあるように感じる。
かつて『私』はその結論に至った。
困難に直面し悩んだ末に。傷つけることになるとわかっていても、それしかないと。
使命と想いの狭間に苦しみながら、決断した……。
「矢斗、あれは……」
「……私が、弦音と共に討伐したはずの、鵺だ……」
呆然とした様子の時嗣が、矢斗に躊躇いがちに声をかける。
その傍らでは、千尋が怪我人や周囲の被害を抑える為の対応を家人に慌ただしく采配している。
矢斗の言葉にやはり、といった様子で苦々しい表情をした時嗣は一つ大きく息を吐いた。
「そうか……。紗依殿は、異能を持って『いなかった』のではなかったのか……」
暫し無言で紗依を見て。何かに気づいたといった風な複雑な面持ちで紡がれた言葉に、紗依の目が見張られる。
異能を持たない呪い子と言われたこの身に異能が備わっていたと。今、時嗣は言った。
それは何故と問いたいけれど、怪異に囚われたままの状態では声をあげることすら侭ならず。戸惑いの表情を浮かべる痛ましげに見つめながら、時嗣は重い声音で続けた。
「おそらく、紗依殿は自分でも知らないうちに、持てる力で鵺を封じていたんだ。封じ続ける為に全ての異能を費やさねばならなかったから、発現できなかっただけだ……」
時嗣の言葉に、紗依はふと自分の中に先程とは違う感覚が生じていることに気付く。
怪異のものとは違う不可思議が自分の身体に満ちているのを感じる。
これが、紗依の異能なのだろうか。
今までこれが発現できなかったのは……感じることすら叶わなかったのは、この強大な怪異を封じ続ける為。
紗依が異能を持たぬと断じられた赤子の頃から、つまりは生まれた時からこの怪異は紗依の内側にあり続けたのだ。
共に巡ったと、怪異は言っていた。
自分は……鵺と共に生まれてきた。いや、生まれる前から、自らの内に鵺を封じ続けていた……?
それは何故。
裡に生じた紗依の問いを読み取ったように、鵺は何処からか生じさせた人の手で紗依の顔を掴み、そして矢斗を嘲笑うように告げる。
「かつて、お前は望んで我を内に招じ入れた。自ら、我を己に封じた」
勿体ぶった様子で、含みのある声音で。怪異はかつてあった出来事を言葉にしていく。
自ら……紗依自身が、鵺を内に招き入れ、自らに封じた?
そんな覚えなどない。今に至るまで、紗依は鵺の存在に触れることなく過ごしてきた。
あの悪夢を見るようになるまでは、何かが自分の中にいるなどと思いもせず生きて来たはずだ。
けれど、その言葉に嘘だと告げられない自分がいる。
声を出せない故ではない。怪異の言葉をかつてあった事実として、紗依はどこかで受け入れている。
何故、いったいどうして。
揺れる心で見つめた先には、矢斗が居る。
自分を見つめるあまりに悲痛な眼差しが、ひどく哀しく懐かしい。
そんな顔をさせたくはなかった。けれど、他に選ぶ術を持たなかった。許して欲しいと願いながら、必死に自分は手を伸ばそうとした……。
違う、それは『紗依』の記憶ではない。
自分はどうしてしまったのだろうか。怪異に取り込まれつつあるが故に、錯乱しつつあるのだろうか。
過去と現在が。紗依ではないものと、紗依が。複雑に入り交じり絡みあい、何かに導かれようとしている。
けれど、それを確かめる時間はもう残されていないと紗依は感じた。
鵺は封じられていた紗依の内側から、紗依を浸食しながら徐々に徐々に更に現へと這い出ようとしている。
叶う限りの力を以て抗いたくても、その思いを嘲笑うように怪異は紗依の裡を埋めつくしていく。
世に出たならば恐るべき災いを齎すとされる怪異が、少しずつ紗依を現の器として世に放たれようとしている。
矢斗が自らを呪う程に傷ついた過去が、蘇ってしまう……!
「……私を、ころして」
「……紗依⁉」
それだけは、と思った瞬間。紗依の唇からは掠れた一つの願いが零れ落ちていた。
紗依の呟きを耳にした矢斗の顔からはすっかり色というものが消え失せ、続く言葉が紡げぬ様子であり。
怪異の気配に惹かれて集まってきた悪しきものに対し表情を険しくしていた時嗣も。惑う人々を叱咤し逃げ延びさせていた千尋も、弾かれたように紗依を見た。
それぞれに蒼褪め凍り付いたような表情で、聞いたことが真実であるかと疑うような、愕然とした面もちのまま紗依に揺れる眼差しを向けている。
必死に絞り出すように紡いだ言葉は、紗依にとって、今抱く唯一つの願いだった。
「このままじゃ……。鵺が、私を全て食い尽くしてしまったら……私が、鵺になってしまったら。大変なことになってしまう……!」
封が途切れて異能が身体に戻りきたからか、それとも本能的なものなのか。どちらかはわからないけれど、刻一刻と危機が迫りつつあるのを痛い程に感じる。
この怪異は、解き放たれてはいけないもの。鵺は、けして世に出てはならないもの。
鵺は紗依を内側から食い尽くし、紗依の身体を現世での器に作り変えて、完全に軛から解き放たれようとしている。
そんなことになったら一体どうなるか。想像するだけでも恐ろしくて、血の気が引いていく。
このままでは、駄目なのだ。このままでは、自分は皆に害を為すものとなってしまう。
だから、その前に。鵺が人である紗依の中にある内に。
「矢斗、お願い。……私を撃って……! 私が人であるうちに、私を殺して……!」
もはや自分では指先一つ動かすことができない状態では、自ら命を絶つことは出来ない。
だからこそ、哀しい顔をさせるとわかっていても矢斗に願うしかなかった。
終わるならばせめて矢斗の手で。鼓動を止めるならば矢斗の放つ矢に貫かれて逝きたい。
あれだけ紗依が願いを伝えることを待ってくれていた矢斗に対して、抱けた最初であり最後の願いがその手での死、というのは哀しいけれど。
紗依の身体はまだ人のままだ。そう、心の臓が鼓動を止めれば死を迎える身体の中に、鵺は封じ込められている。
ならばまだ完全に変質してしまう前に。人であるうちに紗依の命を絶つしかない。
完全に作り変えられる前に死を与えられたなら、鵺は封じられたまま、目的を遂げられずに終わるだろう。
そう、世に災いを放たない為には、それしか方法がなかった。
鵺は死というものを持たない怪異。その怪異に死という終わりを与える為の唯一の方法、それは。
そう、あの時だって私はそう思って……。それ以外、課せられた使命を果たす術が。人々を怪異から救う術がなかったから。
――だから『私』は、矢斗に願ったのだ。
唇から紡いだ願いが、閉じられていた魂の奥底を開こうとしていた。
紗依の中に、彼女のものではない、彼女の記憶が蘇ろうとしている。
掠れた呻き声を零しながら、流れ込むようにして戻りつつある古き日々に、紗依は目を見張る。
その時、自分が『何』であったのかが蘇りつつある紗依の耳を、遥かな昔に聞いたのと同じ哀しみの声が打った。
「嫌だ……。同じ事を、繰り返すなど……」
鬩ぎ合う過去と今の狭間にて呆然としていた紗依は、ゆっくりではあるが視線を向ける。
儚い眼差しの向こう側で、矢斗が涙するのではないかと思うほど悲痛な表情で紗依を見つめていた。
震える眼差しと、必死に紗依を見つめていようとする真っ直ぐな眼差しが交差し、結びつく。
その眼差しと、言葉が。紗依の奥底の封印を静かに、緩やかに紐解き。隠されていた真実を浮かび上がらせた。
そう、もしも矢斗が紗依を射たとしたならば、それはかつての刻の繰り返し。
あの日に起きた、哀しい終わりの再現……。
「現世でも貴方を……。貴方を、この手でまた失うなど!」
封の解かれた記憶は緩やかに紗依の中に染みわたり、戸惑いでしかなかった現と過去を静かに一つにしていく。
あの時、自分は随分と酷い願い事をしてしまった。
それしかないと知っていたけれど、この優しい弓神に終わりを願ってしまった。
今のように内に怪異を封じて。死を持たない怪異に終わりを与えるために。使命と想いに揺れながら、この男性の手で命を終える事を願ってしまった。
矢斗の哀しみと苦しみに満ちた表情が、過ぎし日のものと重なる。
自分の最期の願いを叶える為に、遂に己の本体である弓を引いた矢斗。
矢斗が、私の名を呼んでいる。
そう、私の名は。
いえ、私がかつての日々を生きていた時に名乗っていた名は――。
「私は、今度こそ貴方を守ると……。今度こそ、貴方に……弦音に、幸せになって欲しいと願っているのに……!」
血を吐くような矢斗の叫びに、頬を透明な雫が一つ伝って、落ちていく。
矢斗は、紗依を弦音と……彼が愛した女性と伝えられた巫女の名で呼ぶ。
あの日、彼女が震える手を伸ばした先にあった、哀しい表情で。
紗依は戻り来た全てに涙しながら、目を伏せる。
そう、私はかつて弦音と呼ばれていたもの。
北家の祭神である付喪神と共に鵺の討伐を使命とし。身の内に鵺を封じたまま弓神に射抜かれ死んだ、巫女であったもの……。