夜更けて、紗依を連れて矢斗達は北家の屋敷に帰還した。
 蒼褪めた顔で待っていた千尋達は、紗依の傷ついた姿を見ると涙しながら縋りついた。
 危険な目に合わせた事を嗚咽交じりに詫びる千尋に、無断で抜け出した挙句に心配をかけたことを詫びる紗依もまた涙が止まらなかった。
 紗依は手当を受けながら、あの下女中の女がかどわかしの片棒を担いだとして滅多に使われることのない牢に籠められていることを知る。
 恐らく、今日捕らえられた者達共に然るべき筋に突き出されるだろうということだった。
 美苑と苑香、その手下である男達は一先ず北家に厳重な監視付きで留め置かれている。
 時嗣達は、以前から玖瑶家の……とりわけきな臭い動きをしていた美苑達を探っており、監視をつけていたらしい。
 紗依が姿を消したと聞いてまず二人の関与を疑っていると、母娘が人目を忍ぶようにして屋敷を出たという報告を受けた。
 そして追った向かった先で。紗依が心の裡にて矢斗を呼ぶ声が簪を介して矢斗に伝わり、窮地に間に合ったのだと教えられる。

 玖瑶家に事の次第を説明する使者を送ってまもなくして、慌てに慌て、血相を変えた玖瑶家当主が北家の門を叩いた。
 暫しして。北家の座敷には物々しい雰囲気が漂う中、此度の騒動に関わる者達が集うこととなった。
 千尋とサトが手当してくれたものの、あちこちに包帯が巻かれた傷浅からぬ様子の紗依は、矢斗の隣に座している。
 先程まで紗依を抱き締めて離さなかった矢斗も、険しい表情の時嗣に諭され、悪意の眼差しから庇うような位置に座るに留めていた。
 上座に位置する時嗣の傍らには千尋が、そして彼が鋭い眼差しを向ける先には平伏して震える紗依の父。
 その後方には縄を打たれこそしないものの異能封じの戒めを受け、北家の家人に両脇を固められた美苑と苑香の姿がある。
 父はもはや顔色を無くし冷や汗を流しながら詫び続けているけれど、時嗣の表情には少しの変化もない。
 紗依は傍らの矢斗の表情を伺い見た。
矢斗の顔には感情と思しきものは全く浮かんでいないように見えるが……。
 違う、と紗依は感じた。
 暴発しかねない程の激しい感情を必死に押し隠しているのが、時折陽炎のように揺らめく片鱗から伝わってくる。
 しかし、それに全く気付くこともなく。何を言っても逆効果であることにも気づかず、父は妻と娘に対する情けを請い続けている。

「……まだ続けるのか?」

 それを打ち切らせるように、大仰な溜息交じりに告げたのは時嗣だった。

「下らん口上をいくら並べても、当家の祭神の妻に対してそちらの二人が犯した罪は然るべき形で問う。覆すことはない」

 紗依が強張った表情で見つめる先で、父は縋るように紗依に眼差しを向けてくる。
 口から泡を吹きかねない勢いで、紗依を見ると媚びるような表情と声音で語り始めた。

「さ、紗依……! お前からも何か申し上げろ……! 苑香は、お前にとっては唯一人の妹だろう……!」

 その言葉を聞いた瞬間、心がすっと温度を失ったのを感じる。
 父は、自分が頼めば紗依が苑香達を放免するように取りなしてくれるだろうと思ったのだろうか。
 母を裏切り貶め、紗依と共に不遇に置き続けて。二人がどれだけ美苑達に虐げられていても見て見ぬ振りをしていた人が。
 脳裏に巡る、玖瑶家での日々。そして、誘拐され売られかけ。死を覚悟した先程までの出来事……。
 父はなおも玖瑶家の体面の重要さを説き、自分が玖瑶家から捨て去った紗依にそれを守ることを求めている。
 この人は、痛々しい姿の紗依を見ても。それでも尚も自らの保身と今の妻子のことしか考えていないのだ。

「貴様が。紗依を見捨てた貴様が、それを……!」

 紗依が僅かに目を伏せた瞬間、瞬時に何かが膨れ上がるような気配と共に、怒りに満ちた言葉と何かが空を切るような音が聞こえて。
 気付いた時には、情けない叫び声をあげながら、父は後方へと吹き飛び転げた。
 恐れで凍り付いた表情のまま倒れ伏した父を見て、美苑が悲鳴をあげる。
 視線を傍らに向けたなら、滾る怒りの片鱗を滲ませながる矢斗が、父を睨みつけていた。
 手が何かを薙ぎはらったかのような様子であり、それを見て漸く矢斗が父を払ったのだと気付く。
 そのまま父に掴みかかりかねない勢いだった矢斗を、低く重い時嗣の声が制する。

「紗依殿の前で死人を出す気か。あれでも一応、紗依殿にとっては血縁であることに変わりはない」

 鋭い声音で、時嗣は淡々と事実を指摘する。
 激して立ち上がりかけていた矢斗は、怒りと悔しさに顔を歪め。僅かな逡巡の後、唇を噛みしめて元の通りに座した。
 よろめきながら何とか上体を起こした父の顔には、拭い難い恐れが張り付いてしまっている。

「……妹だと、思いたかったです……」

 紗依は、父を哀しみとも憐みともつかない複雑な眼差しで見据えながら、それだけを告げた。
 偽りではない。
 苑香を妹と思いたかったこともあった。世に在る姉妹のように仲良く過ごせたらと、望みを抱いたことだってあった。
 けれどそれは、他でもない苑香の悪意によって粉々に打ち砕かれ、踏みにじられてしまったのだ。
 だからこそ、紗依はそれ以上の言葉を口にできなかった。
 紗依がもはや自分を、そして苑香達を助けるように嘆願する意思がないことを悟った父は、呆然としたまま続く言葉を失ってしまっている。
 そんな父にもはや目をくれず、時嗣は一つ息を吐くと今度は美苑と苑香の母娘に視線を向けた。

「あんな置手紙で誤魔化せると良く思ったな」

 紗依が分不相応な暮らしを申し訳なく思い姿を消した。
 二人は、その旨を紗依が綴った置手紙を偽造したのだが。

「この屋敷で、あんな嘘と悪意が沁みついた代物で騙しとおせると思ったのか」

 手紙を見つけたサトが、まずこれは偽りだと断じた。
 北家の遠縁にあたる老女中は異能こそ弱いものの、良くないものを感じ取ることに長けている。
 これは悪意しか感じない。紗依の書いたものではないと訴える手紙を、次いでみたのは千尋だった。

「……あれは紗依様の字ではありませんでした。偽りを紡ごうとするなら、もう少し似せる努力をするべきでしたね」

 日頃の穏やかさや嫋やかさはどこへ消えたのかという程に、千尋はひどく冷静であり、努めて抑えた声音で告げた。
 紗依の手習いを見守り、時には師として教えていた千尋には、偽の置手紙が紗依の手によるものではないと瞬時にわかったという。
 筆跡を似せるにしても、苑香も美苑も恐らく紗依がどのような字を書くかすら知るまい。
 注がれる感情の失せたような冷たい眼差しに、美苑はもはや顔をあげることすらできずに俯き震え。
 苑香は尚も時嗣達を、矢斗を、そして紗依を。射殺せるのではないかと思うほどに激しい憎悪の籠った眼差しで見据えている。
 そんな苑香の様子にまた一つ溜息を吐いて、時嗣は続ける。

「悪いが、お前たちが何をしたのかについては探らせてもらった。何をどう言われようと、考えを変えるつもりはない」

 その瞬間、破裂するような甲高い笑い声が座敷に響き渡った。
 紗依は一瞬呆然としたものの、すぐにその声の源へと視線巡らせる。
 気が触れたかと思うほどにけたたましい笑い声の主は、黙したままだった苑香だった。
 苑香はおかしくて堪らないと言う風に笑っていたかと思えば、時嗣へと血走った目を向ける。

「ねえ。全てをご存じなら、あの女が『何処』にいるのかご存じなのでしょう⁉ お姉様に教えてさしあげたら⁉」

 悪意に満ちた言の葉を耳にした瞬間、時嗣と千尋が顔を見合わせる。
 二人の顔色が僅かに蒼褪め、険しくなったことに気づかぬ紗依ではない。
 そして、苑香がいう『あの女』が誰であるのかにも。

「……お母様は、療養所に」
「居ないわよ! そう、居ないの! 療養所どころか、この世の何処にもね!」

 その場の雰囲気が、そして居並ぶ者達の表情が、瞬時に凍り付いた。
 紗依は咄嗟に言葉を返したくても、喉から零れるのは掠れた呻き声だけで。意味のある言葉は一つとして紡がれない。
 今、苑香は何と言った?
 紗依の母は、療養所には居ないと言った。
 それどころか、この世の何処にもいないと。それでは……それでは、母が、まるで。
 顔色を無くして言葉を失った紗依を見て美しい顔に醜悪な笑みを浮かべた苑香は、自棄と言える様子で叫んだ。

「何処の診療所にいるのかも知らなかったくせに! もう、とっくの昔に死んでいるのよ! 貴方の母親は!」