当主と妻が穏やかとは言えぬ話をした頃から、幾日か経って。紗依は一人自室にて過ごしていた。
あの日矢斗がくれた簪を手にして、茫洋とした眼差しをそれに向けながら。
サトが心配してくれているのを曖昧な理由をあげて遠ざけて、紗依はただぼんやりと灰色の窓外を眺めていた。
書庫でかつての当主の日記を見つけて以来、紗依は理由をつけては自室に籠ることが増えていた。
矢斗もまた、祭神としての務めが忙しくなっていたのもあって、二人が共に過ごす時間は減っている。
しかし、今の紗依にはそれが有難かった。
矢斗と過ごしながら平素の自分を保つことが難しい気がしたからだ。裡の煩悶を彼に悟られない自信がないのだ。
見つけてしまった、矢斗が己を失いかけた理由。彼が小さな光だった訳。
知ってしまった、矢斗が抱く唯一つのこころ……。
思い出す度に心が痛みに苛まれる。けれど、紗依の裡に響くあの声は、事あるごとに思い出させるようにいうのだ。
矢斗が愛するのは、唯一人だと――。
何を勘違いしていたのだろう、と自分を滑稽に思えて仕方ない。
優しい友が自分を神嫁に望んでくれたのは、あの家から救い出す為。不遇な自分を哀れに思った矢斗は、恵まれた暮らしを与え慰める為に自分を呼んでくれただけ。
己の妻に……本当の『神嫁』と本当に願うひとは、もういないから。
矢斗に愛してもらえるだけの何が、今の紗依にあるだろう。
向けてもらった想いを返すことすらできないのに。紗依には、何もないのに。
あまりに穏やかに恵まれ、溢れるほどに幸せに満ちた暮らしに、いつの間にか自分は慣れきってしまっていた。
与えられることを当たり前、得られることが当たり前と、思うようになってはいなかっただろうか。
それが何故であるかも、考えることすら放棄して。何て、情けなく浅ましいのか。
こんな自分を見たら、母は何と言うだろう。
けして卑屈にならぬようにありたいと……。懸命に育ててくれた母に恥じない自分でありたいと願っていたはずなのに。
恐ろしいものから守られることになれてしまって、すっかり弱くなってしまった。
いつも紗依のことを案じてくれていた母は、きっと哀しい顔をするだろう。或いは、厳しい表情で静かに叱るかもしれない。
母の顔を思い浮かべて涙が滲みかけた時、紗依はふとあることに気づいた。
そういえば、母の手紙が届くのが間遠になっている気がする。前はもっと定期的に届いていたのに。
そのことに思い至れば、何か良くないことでもあったのかと気がかりになる。
たまらなく、母に会いたい。病神を北家に持ち込んではならないから訪問は控えるように、と母は手紙に記していたけれど。
会いに行きたい、と思う。怒られたとしても、ただ母の顔を見たい。亘に手紙を出して、訪れる段取りを取ってもらおうか……。
様々な感情や思考が綯交ぜとなっていて、整理がつかない。
唇を噛みしめて俯いたまま、重苦しい沈黙が満ちる部屋にて座り込んでいた紗依は、ふと何かが聞こえた気がして緩やかに顔をあげる。
確かに聞こえる。この声は。
入室の許可を求める声の主は、間違いなくあの優しい弓神だ。
慌てて簪を仕舞った紗依が答えに躊躇っていると、僅かに逡巡した気配の後、静かに襖が開かれる。
そこにいたのは、物憂げな様子の矢斗だった。
「矢斗……? 今日は、時嗣様達と出かけるのではなかったの?」
「ああ。出立前に少し時間をもらってきた」
矢斗は今日、北家当主夫婦と共に大切な用向きがあると聞いていた。それで屋敷を空けると、朝に聞いたばかりだ。
紗依の聞いた話が確かであれば、もう出立して然るべき頃である。
何故と問う眼差しを受けた矢斗は僅かに微笑んで、 少しの躊躇いの後に紗依の傍らに膝をつく。
「紗依の様子がおかしいと……。元気がないようだと聞いたから」
人の心の機微に敏い老女中は、紗依の異変に気付いていたようだ。
自分を覗き込む真摯な眼差しを避けるように、紗依は何とか笑みを作ろうとした。
けれど、それは上手くいかない。
ぎこちない表情になってしまっているだろうことを苦々しく思いながらも、紗依は矢斗から顔を背ける。
「私のことなど、放っておいて。貴方は、貴方のお役目があるのだから」
「紗依……」
そのまま矢斗に背を向けようとしたけれど出来なかった。
矢斗が、咄嗟に紗依の手を取ったからだ。
恐らく左程力は籠っていないだろうけれど、紗依を矢斗に向かせるには充分だった。
驚いて振り向いた紗依と、矢斗の眼差しが真っ直ぐに交錯する。
寄る辺を失くした小さきもののような、哀しげな矢斗の表情が胸を突き刺すように痛い。
呆然と目を見張った紗依の目には、矢斗の様子が何処か過去の痛みに耐えているようにも見えた。
「そのような顔をした紗依を、放ってなどおけない。貴方は、私の大切な……!」
紗依に訴えるように必死に言いかけた矢斗の言葉が、そこで途切れる。
驚きに目を見張った矢斗の前で、紗依の頬をひとつ、透明な雫が伝い落ちていった。
大切な――。
その続きは聞きたくない。聞いてしまえば、ただ哀しいだけ。
もはや抑えようのない胸の痛みに、紗依は気付いた時には叫んでしまっていた。
「……あなたの大切な『神嫁』であるべき人は、もういないのでしょう……⁉」
「それは、どういう……。貴方は、確かにここにいるのに……」
そう、矢斗の愛するべき『神嫁』はもうこの世にはいないのだ。
それでもあくまで紗依をそう扱ってくれようとする矢斗の優しさが、恨めしい程に哀しい。自分のものではないと分かっていながら、縋りついてしまいそうで怖い。
紗依は激しく頭を左右に不利ながら、呆然と呟いた矢斗へと更に叫ぶ。
「あなたの愛する人は……弦音は、もう亡くなってしまっているのに……!」
「……っ! 何故、その名前を……」
矢斗が明らかに顔色を変え、息を飲んだのが分かった。
おそらく、紗依の口から亡き巫女の名が出るとは思いもしなかったのだろう。
弦音の名は矢斗に明確な動揺を齎していた。
紗依の腕を掴む手に籠った力が僅かに緩み、紗依はその隙に矢斗の手を振り払う。
そして、今度こそ矢斗に背を向けると、消え入りそうな声音で告げる。
「私はもう充分だから。もう、充分すぎるぐらい優しくしてもらったから。だから……」
幸せな夢を見せてもらえた。温かで穏やかな日々を送らせてもらえた。
それで充分なのだ。
夢とはいつか冷めるものであり、永久に続く夢は有り得ない。
だから。だから自分が、これ以上を望む前に、どうか――。
背を向けてしまっているから、もう矢斗の顔をみることは出来ない。
けれど、言葉を失いただ躊躇っている様子だけは伝わってくる。
必死に何かを告げようとしているけれど、矢斗の口からは何も紡がれず。紗依と矢斗の間には、痛い程に重苦しい沈黙が流れる。
ややあって、矢斗を呼ぶ声が遠くに聞こえるようになった。
おそらくもう出立するのだろう。
矢斗は行かなければならない。務めを投げ出してまで我を通すようなことを、彼はしないはずだから。
衣擦れの音と共に、矢斗が立ち上がった気配を感じる。
拒絶を纏って背を向けたままの紗依に、矢斗はそれでも何か告げようと逡巡している様子だけが伝わってきて。
やがて。
「私が愛しいと思うのは、誓って貴方だけだ。……それを、信じて欲しい」
絞り出すようにして紡がれた言葉は、多くの逡巡と複雑な感情を帯びていた。
掠れた声で告げられた言の葉が、今の紗依にとってはあまりに哀しい。
信じたいと思うけれど、信じられない自分も。こんな自分を、それでも突き放してくれない矢斗も。ただただ胸が痛く、苦しい。
暫し無言で紗依の背を見つめていた矢斗は、静かな足音と共に部屋から去って行った。
残された紗依は、胸の奥から湧き上がる想いを堪えきれず、涙する。
矢斗は悪くない。矢斗は、ただ優しいだけだ。
分かっている、これは嫉妬だ。亡くなった今でも愛されている巫女への。
そうなってしまう程に、自分は矢斗のことを――。
気付いたとしてももうどうにもならない事実に、紗依は必死に蓋をしようとする。
願いに気づいても、求めたとしても。もう、それは自分のものではない……自分のものにはならないのだ。
それなら、望んではならない。苦しめないためにも、苦しまない為にも。
そう自分に言い聞かせ、必死に自分を落ち着けようとしても。
想いに反して、紗依のこころは雫となり一つ、また一つと落ち続けていった……。
数刻の後、用向きを果たした当主夫妻と祭神は帰還した。
だが、ある決意を定めて帰宅した彼らを出迎えたのは、いつもとは違う慌ただしい雰囲気に包まれた屋敷だった。
忙しなく行き来し、やり取りする人々を見て表情を険しくして事を問う時嗣へ。
蒼褪めたサトは告げたのだ――紗依の姿が見えなくなった、と……。
あの日矢斗がくれた簪を手にして、茫洋とした眼差しをそれに向けながら。
サトが心配してくれているのを曖昧な理由をあげて遠ざけて、紗依はただぼんやりと灰色の窓外を眺めていた。
書庫でかつての当主の日記を見つけて以来、紗依は理由をつけては自室に籠ることが増えていた。
矢斗もまた、祭神としての務めが忙しくなっていたのもあって、二人が共に過ごす時間は減っている。
しかし、今の紗依にはそれが有難かった。
矢斗と過ごしながら平素の自分を保つことが難しい気がしたからだ。裡の煩悶を彼に悟られない自信がないのだ。
見つけてしまった、矢斗が己を失いかけた理由。彼が小さな光だった訳。
知ってしまった、矢斗が抱く唯一つのこころ……。
思い出す度に心が痛みに苛まれる。けれど、紗依の裡に響くあの声は、事あるごとに思い出させるようにいうのだ。
矢斗が愛するのは、唯一人だと――。
何を勘違いしていたのだろう、と自分を滑稽に思えて仕方ない。
優しい友が自分を神嫁に望んでくれたのは、あの家から救い出す為。不遇な自分を哀れに思った矢斗は、恵まれた暮らしを与え慰める為に自分を呼んでくれただけ。
己の妻に……本当の『神嫁』と本当に願うひとは、もういないから。
矢斗に愛してもらえるだけの何が、今の紗依にあるだろう。
向けてもらった想いを返すことすらできないのに。紗依には、何もないのに。
あまりに穏やかに恵まれ、溢れるほどに幸せに満ちた暮らしに、いつの間にか自分は慣れきってしまっていた。
与えられることを当たり前、得られることが当たり前と、思うようになってはいなかっただろうか。
それが何故であるかも、考えることすら放棄して。何て、情けなく浅ましいのか。
こんな自分を見たら、母は何と言うだろう。
けして卑屈にならぬようにありたいと……。懸命に育ててくれた母に恥じない自分でありたいと願っていたはずなのに。
恐ろしいものから守られることになれてしまって、すっかり弱くなってしまった。
いつも紗依のことを案じてくれていた母は、きっと哀しい顔をするだろう。或いは、厳しい表情で静かに叱るかもしれない。
母の顔を思い浮かべて涙が滲みかけた時、紗依はふとあることに気づいた。
そういえば、母の手紙が届くのが間遠になっている気がする。前はもっと定期的に届いていたのに。
そのことに思い至れば、何か良くないことでもあったのかと気がかりになる。
たまらなく、母に会いたい。病神を北家に持ち込んではならないから訪問は控えるように、と母は手紙に記していたけれど。
会いに行きたい、と思う。怒られたとしても、ただ母の顔を見たい。亘に手紙を出して、訪れる段取りを取ってもらおうか……。
様々な感情や思考が綯交ぜとなっていて、整理がつかない。
唇を噛みしめて俯いたまま、重苦しい沈黙が満ちる部屋にて座り込んでいた紗依は、ふと何かが聞こえた気がして緩やかに顔をあげる。
確かに聞こえる。この声は。
入室の許可を求める声の主は、間違いなくあの優しい弓神だ。
慌てて簪を仕舞った紗依が答えに躊躇っていると、僅かに逡巡した気配の後、静かに襖が開かれる。
そこにいたのは、物憂げな様子の矢斗だった。
「矢斗……? 今日は、時嗣様達と出かけるのではなかったの?」
「ああ。出立前に少し時間をもらってきた」
矢斗は今日、北家当主夫婦と共に大切な用向きがあると聞いていた。それで屋敷を空けると、朝に聞いたばかりだ。
紗依の聞いた話が確かであれば、もう出立して然るべき頃である。
何故と問う眼差しを受けた矢斗は僅かに微笑んで、 少しの躊躇いの後に紗依の傍らに膝をつく。
「紗依の様子がおかしいと……。元気がないようだと聞いたから」
人の心の機微に敏い老女中は、紗依の異変に気付いていたようだ。
自分を覗き込む真摯な眼差しを避けるように、紗依は何とか笑みを作ろうとした。
けれど、それは上手くいかない。
ぎこちない表情になってしまっているだろうことを苦々しく思いながらも、紗依は矢斗から顔を背ける。
「私のことなど、放っておいて。貴方は、貴方のお役目があるのだから」
「紗依……」
そのまま矢斗に背を向けようとしたけれど出来なかった。
矢斗が、咄嗟に紗依の手を取ったからだ。
恐らく左程力は籠っていないだろうけれど、紗依を矢斗に向かせるには充分だった。
驚いて振り向いた紗依と、矢斗の眼差しが真っ直ぐに交錯する。
寄る辺を失くした小さきもののような、哀しげな矢斗の表情が胸を突き刺すように痛い。
呆然と目を見張った紗依の目には、矢斗の様子が何処か過去の痛みに耐えているようにも見えた。
「そのような顔をした紗依を、放ってなどおけない。貴方は、私の大切な……!」
紗依に訴えるように必死に言いかけた矢斗の言葉が、そこで途切れる。
驚きに目を見張った矢斗の前で、紗依の頬をひとつ、透明な雫が伝い落ちていった。
大切な――。
その続きは聞きたくない。聞いてしまえば、ただ哀しいだけ。
もはや抑えようのない胸の痛みに、紗依は気付いた時には叫んでしまっていた。
「……あなたの大切な『神嫁』であるべき人は、もういないのでしょう……⁉」
「それは、どういう……。貴方は、確かにここにいるのに……」
そう、矢斗の愛するべき『神嫁』はもうこの世にはいないのだ。
それでもあくまで紗依をそう扱ってくれようとする矢斗の優しさが、恨めしい程に哀しい。自分のものではないと分かっていながら、縋りついてしまいそうで怖い。
紗依は激しく頭を左右に不利ながら、呆然と呟いた矢斗へと更に叫ぶ。
「あなたの愛する人は……弦音は、もう亡くなってしまっているのに……!」
「……っ! 何故、その名前を……」
矢斗が明らかに顔色を変え、息を飲んだのが分かった。
おそらく、紗依の口から亡き巫女の名が出るとは思いもしなかったのだろう。
弦音の名は矢斗に明確な動揺を齎していた。
紗依の腕を掴む手に籠った力が僅かに緩み、紗依はその隙に矢斗の手を振り払う。
そして、今度こそ矢斗に背を向けると、消え入りそうな声音で告げる。
「私はもう充分だから。もう、充分すぎるぐらい優しくしてもらったから。だから……」
幸せな夢を見せてもらえた。温かで穏やかな日々を送らせてもらえた。
それで充分なのだ。
夢とはいつか冷めるものであり、永久に続く夢は有り得ない。
だから。だから自分が、これ以上を望む前に、どうか――。
背を向けてしまっているから、もう矢斗の顔をみることは出来ない。
けれど、言葉を失いただ躊躇っている様子だけは伝わってくる。
必死に何かを告げようとしているけれど、矢斗の口からは何も紡がれず。紗依と矢斗の間には、痛い程に重苦しい沈黙が流れる。
ややあって、矢斗を呼ぶ声が遠くに聞こえるようになった。
おそらくもう出立するのだろう。
矢斗は行かなければならない。務めを投げ出してまで我を通すようなことを、彼はしないはずだから。
衣擦れの音と共に、矢斗が立ち上がった気配を感じる。
拒絶を纏って背を向けたままの紗依に、矢斗はそれでも何か告げようと逡巡している様子だけが伝わってきて。
やがて。
「私が愛しいと思うのは、誓って貴方だけだ。……それを、信じて欲しい」
絞り出すようにして紡がれた言葉は、多くの逡巡と複雑な感情を帯びていた。
掠れた声で告げられた言の葉が、今の紗依にとってはあまりに哀しい。
信じたいと思うけれど、信じられない自分も。こんな自分を、それでも突き放してくれない矢斗も。ただただ胸が痛く、苦しい。
暫し無言で紗依の背を見つめていた矢斗は、静かな足音と共に部屋から去って行った。
残された紗依は、胸の奥から湧き上がる想いを堪えきれず、涙する。
矢斗は悪くない。矢斗は、ただ優しいだけだ。
分かっている、これは嫉妬だ。亡くなった今でも愛されている巫女への。
そうなってしまう程に、自分は矢斗のことを――。
気付いたとしてももうどうにもならない事実に、紗依は必死に蓋をしようとする。
願いに気づいても、求めたとしても。もう、それは自分のものではない……自分のものにはならないのだ。
それなら、望んではならない。苦しめないためにも、苦しまない為にも。
そう自分に言い聞かせ、必死に自分を落ち着けようとしても。
想いに反して、紗依のこころは雫となり一つ、また一つと落ち続けていった……。
数刻の後、用向きを果たした当主夫妻と祭神は帰還した。
だが、ある決意を定めて帰宅した彼らを出迎えたのは、いつもとは違う慌ただしい雰囲気に包まれた屋敷だった。
忙しなく行き来し、やり取りする人々を見て表情を険しくして事を問う時嗣へ。
蒼褪めたサトは告げたのだ――紗依の姿が見えなくなった、と……。