二人が去った後、紗依は疲労に悲鳴をあげる身体を奮い起こして後始末を終え、台所へ顔を出した。
 下女中達は一瞬申し訳なさそうな顔をしたものの、奥様に命じられているから、と一人分の冷えた汁と飯を載せた盆を渡してくる。
 礼を言って受け取ると、ふらつきそうになるのを耐えながら敷地の外れへと歩く。
 既に日が落ちて辺りは薄暗くなりつつある中、漸く辿り着いたのは古ぼけた小屋だった。
 梁は傾き、壁はあちこちが崩れかけた酷い有様で、捨て置かれた物置のような場所。
 これが、今の紗依達が暮らす『家』だった。

「紗依……お帰りなさい……」

 軋んだ音を立てて戸を開くと、掠れた声が紗依を迎えてくれた。
 紗依がそちらに視線を向けると、明かりの乏しい小屋の奥に人影がある。
 薄い布団を敷いた粗末な床に伏せていたのは、面窶れした青白い顔色の女性だった。
 紗依は静かに盆を置くと、その傍らに膝をつく。

「お母様。ただいま戻りました」

 疲れ果て表情が消えかけていた紗依の顔に、笑みが戻ってくる。
 女性は紗依の母である紗紀子(さきこ)――かつては、玖瑶家当主の妻と呼ばれていた人だった。
紗依を産んだが故に、そして紗依を守ろうとしたが故に、本来受けずとも良かった苦難に生きる事になった人である。
 その表情に心配そうな色が滲んでいるのを見て、紗依は申し訳なさそうに少し目を伏せた後、勤めて明るく告げた。

「遅くなってしまって申し訳ありません。お食事です」

 母が身体を起こす手助けをして、膳を整えて。
 さあ、と勧めてみるけれど、母は箸を取ろうとしない。
 どうしたのだろう、と疑問に思い、紗依が母の表情を伺うと。

「あなたの分は……?」
「私は、台所でもう頂いてきましたから」

 紗紀子は、紗依が整えた食膳が一人分しかないと気付いて表情を曇らせていた。
 起きたことをそのまま伝えるわけにもいかない紗依は、いけない事と分かってはいるけれど事実を覆い隠す言葉を口にした。
 身体は泥のように重いし、痛い程に空腹であるけれど、それを表に出さぬように必死に笑みを取り繕って。
 けれど。

「紗依は、嘘が下手ね」

 優しい苦笑いと共に紡がれた言葉に、紗依は申し訳なさげに俯いてしまう。
 紗依を今の年齢まで育ててきてくれた母である。嘘などお見通しのようだった。
 恐らく何があったのかも、詳細までは分からないまでも察しているだろうと思うと、尚更身の置き所がない。
 理不尽な仕打ちを受けている事には怒りを覚えないが、それにより母が心を痛めているのを思えば、美苑や異母妹に対して憤りを感じる。
 所在なさげな紗依を見て、青白く痩せた、けれど温かな手を娘の手に添えて母は笑う。

「私はいいわ。食欲がないから、貴方がお食べなさい」
「駄目です! お母様は少しでも栄養を摂って下さらないと!」

 母の言葉に、紗依は咄嗟に頭を左右に激しく振って叫んでしまう。
 ここ数年、母は病がちであり床に伏していることが多かった。それまでの無理がたたったのだろうと思う。
 紗依が母の食い扶持まで何とか担ってはいるけれど、満足に医者に診せる事もできずに居るのが悔しくて。
 それなのに紗依と共に居る時、母はけして笑みを絶やさなかった。
 いつも、安心させるように穏やかに微笑み、紗依を気遣ってくれる。
 ここ数日、日中との寒暖差ですっかり調子を崩し気味だった母に食事を抜かせるわけにはいかない。
 ここは譲れない、と黙したまま目で必死に訴え続ける娘に、母は一度息を吐くと困ったように笑う。

「それならば、二人で分けるとしましょう。そうでなければ、私は食べませんよ?」

 頷いてくれないなら食事はあくまで固辞する、と穏やかであっても意思の強い表情で母は告げる。
 母なりの譲歩の案に、紗依は母の優しい笑みにつられるようにこくりと頷いた。
 あくまで紗依を気遣い、紗依が気負わぬように、少しでも負担が軽くなるようにと想ってくれる母。
 粗末な環境であっても、理不尽な仕打ちを受けていても。
 母がこうして自分に向かって笑ってくれる。温かな手で触れて、言葉をかけてくれる。
 ほんの僅かな曙光すら見えぬような暗い境遇にあっても。
 母が生きていてくれる事。母と共に暮らせる事。それだけが今の紗依にとって心の支えだった。