紗依と矢斗が二人で共に朝餉を済ませた後。
 今日は祭神としての務めがあるという矢斗を、紗依が見送ろうとしていたときのこと。

「紗依様、矢斗様」
「サトさん」

 老女中の呼びかけに矢斗は足を止め、二人は揃ってサトへ問いを含んだ視線を向ける。
 二つの眼差しを受けた老女中の表情がいつもの温和なものではなく、困ったような、どこか険しいものだったからだ。

「時嗣様が来ていただきたいと。……お客様がいらしたので……」

 紗依を気遣わしげに見つめるサトの様子を怪訝に思いながらも、紗依は矢斗を伺う。
 矢斗もその『客』について特段心当たりと言えるものはないらしく、首を傾げている。
 何があったのか気になりはするが、時嗣がわざわざ紗依と矢斗を呼んでいるということであれば行ってみるしかない。
 あまり待たせるわけにもいかないと、紗依は矢斗と視線を交わして頷き合い、サトの先導で時嗣達が待っているという客間へと向かった。
 赴いた先で、紗依が見たものは。
 うんざりとした様子を何とか隠そうとしているが隠しきれていない時嗣と、それを窘めるように見つめつつ傍らに控える千尋と。
 かつての日常にいた、再び顔を合わせることはあるまいと思っていた者達……玖瑶家の当主夫婦とその娘である異母妹の姿だった……。
 脳裏を駆け抜けるのは、泥のような疲労に倒れそうな身体で寒さに震え、痛い程の空腹を抱えていた日々。
理不尽に叱責され鞭うたれる恐怖と、焼けつくような痛みと残り続けた跡。それを見て泣いた母の涙。
 穏やかで温かな日々に忘れかけていた数多の感覚が、父の、美苑の、そして苑香の顔を見た瞬間、あまりに鮮やかな感覚を伴って蘇る。
 その場によろめきかけた紗依だが、肩に感じた確かな感触が支えてくれた。
 守るように肩を抱いてくれる矢斗は、険しい眼差しを居並ぶ玖瑶家の者達に向けている。
 物言いたげな眼差しを向けたまま沈黙する祭神を制するような響きを以て時嗣が名を呼べば、矢斗は紗依と共に用意された場に座す。
 矢斗に手を添えてもらいながら座る際、紗依は突き刺すような眼差しを感じた。
 視線の源を恐る恐る探れば、それは苑香だった。
 憎悪すら籠った恨めしげな眼差しを紗依に向けていた苑香は、華やかで美々しい着物にて着飾り、一分の隙もなく身を整え。まるで見合いにでも望むような出で立ちである。
 紗依を睨みつけていた苑香と視線がぶつかる。
 意味ありげに毒を含んだ笑みを見せた苑香は、次いで紗依の隣の矢斗へと視線を移す。
 うっとりと見惚れるような熱の籠った眼差しで矢斗を見る苑香を、紗依が唇を噛みしめて見つめていると、時嗣がおもむろに口を開いた。

「……それで。此度の、唐突に過ぎる訪問の目的は一体?」

全く歓迎していないと内に抱いた呆れを隠そうともしていない様子に、傍らの千尋が何か言いたげに時嗣を見たのが分かった。
 何を言いたいのかは大体察している、と言いたげな時嗣の好意的に非ざる表情と声音に、気付いているのか居ないのか。
 父はようやく話を切り出せるとばかりに嬉々として、それを告げた――曰く、差し出した娘に手違いがあったと。
 それを聞いて表情に驚きを現したのは紗依だけだった。
 時嗣は大仰に溜息を吐き出し、千尋は苦い表情のまま慎ましく沈黙を守り。
 矢斗は……いっそ削り落したのではと思うほどに、一切の感情の見えない、今までみたこともない程硬質な表情を浮かべて父を見据えている。
 拒絶の言葉がないことに気を良くしたのか、喜色さえ滲ませて父は尚も言い募る。

「それは、卑しい妾の娘です。偉大な祭神にさしあげるには相応しくありません」
「お、お母様は……!」

 思わず上げかけた声を、紗依は必死で飲み込んだ。
 今この場で会話しているのは、北家の当主である時嗣と玖瑶家の当主である父だ。そこに割って入るわけにはいけないと思うけれど。
 自分が貶められるだけならまだ我慢できる。実際、対外的には死んだとされ、無かったものとされていた身だ。
 けれど、母を卑しい妾とする言葉は許せない。父と母は正式に婚姻した上で紗依をもうけた。その事実を、母というひとを貶めることだけは、どうしても。

「目先の欲につられ、本来差し上げるはずだった娘を陥れてそこにあるのです。そのような卑劣で愚かしい者、早く打ち捨てられた方が宜しいかと」

 紗依が裡に散る火花を必死に抑え続けていると、父の傍らの美苑が眉を潜めて紗依を見た美苑が、殊更媚びるような声音で言う。
 衝撃と怒り、様々な感情が綯交ぜになり混乱していた紗依にも、父達の意図が見えた。
 先に公にされた北家祭神の帰還を受けて、父達は求められた『神嫁』が本来の意味である祭神の妻であることに気付いたのだろう。
 当主の妾だろうと勝手に思い込み、援助という見返りは欲しいが掌中の珠である苑香は差し出したくない、ということで虐げていた紗依を差し出した。
 それが、『神嫁』が真に尊ばれる存在に嫁ぐ栄えある立場であったことを知り、事情が変わる。
 神の妻には愛娘こそ相応しい。地位に目が眩んだ紗依が苑香を陥れて成り代わった、ということにして紗依に全ての非を押し付け、二人を挿げ替えようとしているのだ。
 あまりに身勝手で一方的な申し出に、紗依は呆然と目を見開いた。
 その場に居る自分達以外の人間が、唖然と、或いは呆れを含んだ冷たい眼差しを向けていることにすら気づかず、美苑は傍らにいた苑香を示す。

「こちらが、お求めだった本来の『神嫁』でございます」

 気味が悪い程に甘い声で告げた美苑の言葉に応えるように、苑香が進み出る。
 日頃から名家の娘として躾けられている全てを以て紡ぎ出される見事な所作で、百花繚乱と咲き誇る満開の花のような笑みを矢斗へと向けながら。
 紗依は、あの花は人を死に至らしめる程の毒を含む花だと知っている。 
 けれど、同時に不安も生じる。矢斗は……苑香を見て、どう思うだろうと。
 苑香は誰もが目を奪われる程に美しい。数多の崇拝者を熱狂させて止まない程の華やかな美貌を誇るのだ。
 もしかしたら、矢斗も苑香を美しいと思い心惹かれるかもしれない。そう思うと、苑香を見つめる矢斗の横顔を見ることすら怖い。
 しかし、裡に生じた不安に顔をあげられずにいる紗依の耳に、不意にかつて耳にしたことがない程に冷たく重い言の葉が聞こえてきた。

「近づくな」
「え……」

 声の主は矢斗であり、紡がれたそれは明確なる拒絶だった。
 弾かれたように顔をあげて見つめた先で、矢斗は触れれば切れるのではないかと思うほどに鋭い眼差しで苑香を睨みつけている。
 上目遣いに秋波を送りながら矢斗の元へ進もうとしていたらしい苑香は、言われた言葉が信じられないといった風な呆然とした様子で矢斗を見つめている。
 紗依もまた、かつてない程に険しい矢斗の表情と声音に驚きながら何も言えずに居た。

「私に近づくなといっている。醜さに吐き気がする」

 呆然とした眼差しを受けながら、矢斗は更に表情を険しくし拒絶を重ねる。
 あの誰もが心惑わされる美貌の苑香に向かって『醜い』と言えるなど、と紗依は目を丸くしてしまった。
 最初こそ言われた内容を理解しきれずにいた苑香だったが、それが自身に対する侮蔑であると知ると、瞬時に顔を怒りで赤く染める。

「な、何故ですか! そのような貧相な……しかも、異能を持たない呪い子などより、正しい玖瑶家の娘であるわたくしのほうがよほど……!」

 苑香が身を乗り出して紗依を指さし、尚も言い募ろうとした次の瞬間だった。
 場の空気が一気に重さを増したかと思えば、息をするほども躊躇うほど緊迫したものと転じる。
 異能を持たない身であっても分かる程に大きな力の奔流がその場に渦巻き始め、居並ぶ者達は顔色を変えた。
 流れの源にある矢斗は紗依を庇うように片腕で抱き寄せながら、重々しく苑香に告げる。

「心根の卑しさや歪んだ性根が隠れることなく表に表れている。誰がお前など求めるものか。……疾く、我が前から消えろ」

 矢斗の腕に抱かれながらも、紗依は背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
 紗依が北家にきてから、矢斗はいつも優しく穏やかで。紗依に対する慈しみを絶やすことなく、いつも温かだった。
 鋭く冷たい声音には滾るような怒りを感じる。これほど激した矢斗を、紗依は知らない。
 呆然としたまま視線を向けた先で、苑香もまた蒼褪めて凍り付いてしまっている。

「落ち着け矢斗。お前が本気で我を忘れてみろ。死人がでかねない」

 誰もが言葉を躊躇う程に場の張り詰めきった空気を僅かに緩和させたのは、深い溜息交じりの時嗣の言葉だった。
 時嗣に制され、剣呑な空気を纏い行動に出ようとしていた矢斗は、紗依の肩を抱いたまま憮然とした面もちで口を閉ざす。
 力の奔流が一先ず落ち着いたことに息を吐いた時嗣は、呆れたように苑香を見た後、首を傾げて玖瑶家当主へ向き直る。

「先代玖瑶家ご当主の一人娘である紗紀子様と貴方は、先代が亡くなるまでは正式なご夫婦でいらっしゃったはずだが?」
「そ、それは……」

 裡を探り暴き出そうとする厳しい眼差しを向けながら問われた言葉に、目に見えて紗依の父は狼狽えた。
 生存をあやふやにしていた紗依の存在については誤魔化すことはできても、広く公にひろめ、正式に祝言をあげた母との婚姻については誤魔化しようがないはずだ。
 当時まだ当主ではなかったとはいえ、時嗣も覚えている時分の話だったろう。

「むしろ、当時妾だったのは別の方だったような気がするが? 俺の記憶違いだろうか?」

 美苑を一瞥しながらの言葉に父は更に言葉に詰まり。美苑の顔色が赤くなり、次いで蒼くなる。
 顔色を忙しく変えながら言葉に窮する二人を見て溜息を吐いた時嗣は、聞えよがしに傍らの妻に問いかける。

「何時から正式な婚姻から生まれた嫡子を、妾の子なんて呼んで虐げるようになったのだろうな?」
「あなた……」

 千尋が、控えめな様子で夫を呼ぶけれど、時嗣は不敵に笑ったまま。そして千尋もまた、強く夫を咎める様子ではない。
 玖瑶家にまつわるきなくさい事情については言われずとも承知している、と朗らかな言葉にて告げる時嗣の様子に、父と美苑は冷や汗をかくばかりだ。
 時嗣の二人を見る目は告げている。お前たちがしてきたことは……紗依や、紗依の母に対する仕打ちも含めて全て知っているのだと。
 彼らは目の前の北家当主を侮り過ぎていた。
斜陽の家門であるからと……家の維持に必死で他家の事情にそこまで通じていないと、高をくくっていたに違いない。
そして、自分達に対しては代々続く玖瑶家の主として、丁重に対してもらえると思っていたのだろう。
 だが、時嗣と千尋も。周囲に控える居並ぶ北家の者達も。紗依を守るようにして抱く矢斗も、彼らをただの迷惑な闖入者としか見ていない。
 彼らの味方となるものは、ここには誰も居ないのだ。