少し後、紗依は矢斗に伴われて今が盛りの春の庭を歩いていた。
 二人とも何とはなしに沈黙したままで、少し固い空気が流れているような気がする。
 淡い色に濃い色。様々な色合いが絶妙な変化を描くように配置された庭は、ただ見事の一言に尽きる。
 穏やかな日差しのもとで咲き誇る花々の中を、紗依を気遣いながら矢斗は進む。
 歩みを進めるにつれ、先程の出来事に揺れていた心は少しずつ落ち着いてきた気がする。
 しばし双方言葉なく歩いていたが、ふと矢斗が紗依へと問いかけた。

「また、母君からの手紙が届いたそうだな」

 思わぬ言葉に一瞬目を瞬いたけれど、すぐに淡い微笑みを浮かべて紗依は頷いた。

「ええ。療養所の先生や看護婦さんが、とても良くして下さると」

 亘を介しての母から近況を知らせる手紙は、一通目以降も定期的に続いていた。
 時折字が揺れているような気がして不安になることもあるし、言葉の端に違和感のようなものを覚えるときもある。
 だが、概ね診療所での環境がとても落ち着いていることや、周りの人々が親切であること。日々のささやかな出来事が記されていた。
 紗依は届く手紙を見ては、母が元気でいてくれることに安堵する。
 傍に居られないことは寂しくて、顔を見たいと手紙を見る度に思うけれど。何時かまた共に暮らせるようになると信じて、紗依は一生懸命返事を認める。

「だから、私も手紙に書いたの。北家の皆様や矢斗が、どれだけ良くしてくれているか」

 もう完全な復調に近いとはいえ、未だ存在については伏せたままだから矢斗の素性については確かに語れない。
だが、紗依は母への手紙で、出来る限りの範囲で矢斗のことを記した。
そして時嗣や千尋、サトがどれだけ自分に優しく接してくれているか。
今どれだけ穏やかで恵まれた暮らしをさせてもらっているかを、日々のささやかな出来事の一つ一つに触れながら綴った。
 紗依の顔に控えめであれども笑みが戻ったのを見て、矢斗は心底嬉しそうな顔をする。
 それに気付くと、紗依の鼓動はまた少し早くなるのだ。
 紗依は、そっと矢斗を伺うようにして見上げる。
 祀られるものとして相応しい威厳を備えた長身のしっかりとした体躯に、ふとした拍子に思わず目を奪われてしまう程に美しい容貌。
 折に触れて、矢斗は本当に人ならざる偉大な存在なのだと思い知る。
 気安く話してしまっているけれど、そう、相手は北家の尊き祭神である。本来ならばこのように、隣に並ぶ事も、友のように接することなど許されないはず。
 故に一度は改まった接し方をと思ったのだが、される側の矢斗が盛大に拗ねたのだ。
 その拗ね方というのが何ともはや。紗依が元のように話してくれるようになるまで出ない、と自らの部屋に籠ってしまった。
 開かぬ扉に向かって「この駄々っ子!」と怒鳴りながらも深い溜息をつく時嗣に懇願され、紗依は言葉と態度を戻したのである。
 時嗣が以前、矢斗は紗依のことに関しては螺子が飛ぶ、とは言っていたけれど。
 螺子が飛ぶというか、甘え方が激しいというのか。時折困惑するほどの包容力を以て紗依を甘やかしてくると思えば、全身全霊でじゃれつかれているように思う時がある。
 けれど一番紗依が戸惑うのは、そんな矢斗を自然に受け入れつつある自分についてだ。
 翻弄されるのが、けして嫌ではないと思ってしまう。そんな自分に一番戸惑いを覚える。
 紗依は自分を落ち着けるように一つ息を吐いてから、改めて口を開いた。

「お母様が療養所で元気になって下されば……。手紙で近況をお知らせすることで、少しでも安心して頂ければいいけれど」

 母のいる場所に繋がっているであろう空を見上げながら、紗依は母を思って言葉を紡ぐ。
 今は距離の隔たった場所にいるけれど、いつかまた一緒に暮らすことができれば。
 思いを馳せたまま空の蒼に目を細めていた紗依は、ふと手を包み込むような温かな感触を覚える。
 驚いて視線を向けると、矢斗が大きな両の手の平で紗依の手を取っていた。

「矢斗……?」
「……私は、紗依の『夢』を叶えたい」

 戸惑う紗依を真摯な光を宿す琥珀の一対で見つめながら、矢斗は静かに告げた。
 夢、と言われてもと紗依が更に困惑を深めかけた時、矢斗は微かに懐かしむように目を細めながら続ける。

「紗依は母君の願いを叶えたいと……。それが夢だと言っていただろう?」

 考え込みかけて、思わず小さく声をあげかける紗依。
 確かに自分はそう言った。あの庭の片隅で友と寄り添っていた時、密やかに。
 揺れる眼差しで矢斗を見つめるしかできずにいる紗依へと、矢斗は優しく、だがはっきりとした声音で言葉を紡ぐ。

「母君は……紗依を大切にしてくれる者を見つけて、家庭を築いて欲しい幸せになって欲しい。そう、願われていた」

 紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。
 愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。それが、母が折に触れて口にしていたことだった。
 言葉にはしなかったけれど、自身の結婚がけして夢見た幸せな形ではなかった故かもしれない。
 紗依には幸せになって欲しいと願ってくれる心を感じる度に、胸は痛んだ。

「紗依はその母君の願いを叶えたい。母君に心安らかにあってもらうことが出来れば、と言っていた」

 叶うならば、紗依だってその願いを現として母に安心して欲しいと心から思っていた。
 けれど、あの家にある限りそれは無理なことだった。
 父は娘を何処かへ嫁がせる気など全くなかったし、美苑達は紗依を死ぬまで飼い殺しにするつもりだったからだ。
 使用人として虐げられている自分には無理な夢だと思い、諦めていた。
 母の願いを叶えて安心させてあげたい。それが夢だけれど……と小さな友に語ったことがあった。
 苦い思いと共に語った言葉を、矢斗は覚えていたのだ。

「私では、その夢を叶えられないだろうか」
「矢斗……」

 胸の裡に生じた過去の痛みに哀しげに表情を曇らせた紗依の耳を打つのは、あまりに深い想いの籠った矢斗の『願い』だった。
 紗依は咄嗟に答えを返すことが出来ない。
 矢斗の声が真っ直ぐすぎて、優しすぎて。そんな昔のこと、と誤魔化して笑って見せることも出来ない。
 彼の言葉が、とりもなおさず改めての求婚を意味することに気づかない程愚かではない。
 かつて友だった美しい付喪神の言葉を疑うわけではない。紗依の願いを叶えたいという言葉に込められた情は確かなものだと感じる。
 けれど、願いを叶えたいからこそ、彼は紗依の夫となることを望むのだろうか。紗依が伴侶を得ることで母が安心してくれる。その為にだけに?
 何故にそこまで一生懸命になってくれるのか。矢斗自身の心はどこにあるのか。
 戸惑いに心は揺れるけれど、心の裡にあるのは拒絶ではないのに紗依は頷く事ができずに居る。
 言葉を紡げぬままに俯いてしまった紗依は、自分に琥珀の眼差しが変わらぬ優しさを以て注がれているのを感じて、尚の事顔をあげられない。
 風が吹き抜け、様々な彩の花弁を揺らしていく。
 向かい合う二人はそのまま口を閉ざしてしまい、沈黙が満ちること暫し。

「ならば。……紗依がそれを見定めるまでの時間を、私に与えてはくれまいか?」

 沈黙に揺蕩う花の庭に、ややあって穏やかに優しく響いた言葉に紗依は目を瞬く。
言葉を返せぬままでいる紗依へと、矢斗は傍らから取り出した何かを丁寧な手付きで紗依の手に握らせた。

「……これを、紗依に」

 何であろうかと戸惑いながら視線を落とした先にあったのは、一本の簪だった。
 作りとしては簡素なものであったが、足に使われているのは清い輝きを放つ銀であり。その先端にはまるで星の光が凝ったような不可思議で美しい珠がついている。
 矢斗によると、それは北家に帰還してから毎夜紗依を想いながら祈り。空に輝く星の光を僅かずつ集めて為した宝玉だという。

「矢斗……」
「かつて、紗依が簪を願った時には何も贈れなかった。だから、受け取って欲しい」
 矢斗の言葉に一瞬怪訝そうな様子を見せたものの、次の瞬間には思わずと言った風に叫びかけていた。

 二人が友としてあった過ぎし日の、ある日のこと。
 紗依は酷く折檻を受け傷だらけの様子で矢斗の元に行くことになってしまった。
 驚き心配する友に何でもないと笑って見せたかったけれど、優しい声を聞いたら涙が止まらなくなってしまい。紗依は涙まじりに何があったのかを話した。
 切っ掛けは、苑香が美しい簪を挿していたことだった。
 娘に甘い父親が、どう見ても子供には似つかわしくないほどの見事な品を買い与え。苑香はそれを殊更紗依に見せびらかすようにして髪にさした。
 紗依が俯いてそれを必死に見ないようにしながら過ごしていたある日、苑香に部屋の掃除を命じられた時。簪が無造作に鏡台の上に置かれていた。
 紗依とてまだ子供であり、美しいものに憧れる年頃だった。
必死に打ち消しても、打ち消しても。どうしても羨ましいという思いが消えなくて、気が付けば置かれた簪に手を伸ばしていた。
ただ、触ってみたかった。少しの間、髪に挿してみたかっただけなのに。
 それを、まるで待っていたかのように苑香が現れ、泥棒だと大騒ぎを始める。
 恐らく紗依が簪を羨んでいるのを知り、罠にかけて甚振ろうとしていたのだろう。
 苑香の叫びを聞きつけて現れた美苑は、娘から事の次第を聞くと紗依の言葉などまるで聞かずに鞭で打たせ、容赦なく平手を浴びせ、足蹴にし続けた。
 事の次第を黙して聞いていた夕星は、涙する紗依を慰めるように言ったのだ。
 いつか、貴方にあの夜空の星を集めて玉を作って、美しい簪を贈りたいと。
 優しい友の言葉に、慰めと分かっていても紗依は嬉しくて。暫く後に笑顔を見せて、待っていると答えたのだった……。
 矢斗は、あの時のことを覚えていて。北家に戻ってから、未だ完全とは言えぬ身体であっただろうに、紗依との約束を果たすために夜空の星の光を少しずつ集めていたのだ。
 紗依を想い、祈りを捧げながら。いつか、紗依に約束した簪を贈る為に。
 夜空の雫とも言えるような美しい簪を手にして、紗依は僅かに逡巡した。
 あの日の言葉をまた現のものとしてくれた矢斗の気持ちが嬉しくて。そして、その想いに今応えることができないことが悲しくて。
 紗依は少し俯きながら、哀しげな苦笑を浮かべて告げた。

「でも。この髪では、簪は挿せないわ……」

 紗依の髪は、肩上までで切りそろえられている。
 かつて苑香に嫌がらせに炎を向けられたことがあり、その時に焼け焦げてしまって。
その上、苑香は整えてあげるといってわざと不揃いに、焦げていない髪まで切り落としたのだ。
 結うことも儘ならない、女性としてはあるまじき長さの髪を恥じ入るようにして更に俯き、寂しそうに言う紗依。
 けれど、紗依の簪持つ手を包み込むような温かな感触が生じる。

「髪は、いずれ伸びるだろう? いつか挿せるようになった時、見せてほしい。……その日まで、紗依の傍らで見守らせて欲しい」

 己の手に矢斗の手が添えられたのを感じながら、緩やかに顔をあげた紗依が目にしたのは。変わらずに、けしてゆれることなく自分に向けられる温かな眼差しだった。
 矢斗は今ここに求婚の答えを求めていない。いずれ、簪が挿せるようになる日まで……紗依が充分に考え、心を定めるのを待ってくれている。
 現になったあの日の言葉に込められた想いに、裡に熱いものが生じて、胸が苦しい。
 何故そこまで矢斗は自分を想ってくれるのだろうか。自分は、それに値するような存在であるとは言えないのに、何故。
 手に感じる温かさを感じながら、はっきりと拒むことも受け入れることも、どちらもできない自分を情けなく思うけれど。
 それからまた少し俯いていた紗依はやがて顔を上げ、矢斗を見つめながら静かに一度頷いて見せた――。